1-2 豪雨を越えてきた人

南北に長い湖の、南の端にしがみつくようにしてある町は、国によって整備された街道に面しているというだけで、これといった特徴はない。城下を支える食糧庫と呼ばれることもあるが、畑ばかりの田舎だと揶揄する気色は拭えなかった。朝早くに収穫した作物を満載し、城を目指して荷馬車が走る。昼前に着いた商人たちは、城下町の、やはり南の閑地に、街道を挟んで市を開いた。


城とは少し離れたその町に、栗鼠の隠れ穴亭はある。


石畳を敷いた街道を、ユーゲンは北へ向かっていた。目深にしたフードは走っている内に脱げた。雨水が染みて冷えてくる爪先を踏ん張って、健脚を駆けさせる。

城下町へは、昔、物売りの手伝いをしていた時以来だった。閑地から覗くそこは、開かれ、行き交うエルフが多く、賑やかな印象だった。店には大きな看板を掲げ、店子の呼び声が喧騒に紛れて聞こえる。それも、この雨ではエルフ一人いないだろうが、看板の一つ、見えないことはない。城までたどり着けば、必ず門番がいる。城下にいる医者の居所くらいわかるだろうと目論んでいた。


少なくとも、ユーゲンのいる南の端に医者はいない。町を出なければ、求めたところで、応えはない。


町の北端には、荷を上げ下ろしするために広場があった。朝は商人、それが過ぎれば町の民が憩うそこは、灰色の雨に打たれて、閑散としている。脇目も振らずに、ユーゲンは走り抜けようとした。


はっとして、足を止めた。無彩色の視界に、鮮やかな緑が横切る。

エルフだ。それも複数。彼らはこちらに気付かないまま、西へ向かっていったが、間もなくまた、鮮明な緑を纏った別のエルフたちが出てきた。光が乏しくとも、彩度を失わないその色は、軍属にのみ許された色だった。

軍がいる。何故、と辺りを見回せば、広場を囲む軒の一つに煌々と灯りが点いていた。戸を大きく開き、時折、エルフが出入りする。吸い寄せられるように、ユーゲンは足を向けた。


中では、出入りする者と、戻ってきたエルフから話を聞いている者とがいた。そのほかにも細々と動く者がいて、バスケットの中に食糧を詰めてはきっちりと蓋をして、仲間に手渡している。皆一様に、軍服を着ていた。

軍の拠点のようなそこを見回せば、大きな机が数台並ぶ奥に、酒瓶を並べるカウンター。それでようやく、普段は安く飯を提供する食堂であることに気づいた。今は、動きやすいようにほとんどの椅子が隅に集められ、灯りを多く置いた机には、いっぱいに地図が広げられている。緑の制服に交じり、墨色のコートを着た男は明らかに場違いだろう。戸口に立ちつくしたユーゲンはすぐに見つかって、しかし追い出されることはなく、むしろ親身な様子で声をかけられた。


「大丈夫か、どうしたんだ」


真っ先に顔をあげた、机を囲む中心にいた男は、すぐさまタオルを持ってくるよう周囲に言いつける。灰に煙る緑色の瞳、橙の明かりに照らされて、金勝ちの髪はますます輝きを増すようだった。雨で濡れたのだろう、後ろへ撫でつけた前髪は崩れていたが、滲み出る品の良さは隠しようもない。

衒いなく近づいてきた男に、ユーゲンは目を丸くした。


「ディルク王子……。どうしてこんなところに」


にっと王子は歯を見せる。ともすれば、幼くみえる仕草に、今は何故か、安堵を覚えた。


「城下の安全確認だ。こういうときにこそ、役立たなくてはな」


あっけにとられていると、どうぞ、と低く声を掛けられた。怜悧な面をした男にタオルを渡され、しとどに濡れる顔をぬぐう。


「王子、ここに医師はおられますか」

「医師。誰か病気か?」

「いえ、足を折って。酷いんです」


ひと呼吸あり、王子とタオルを手渡した男は顔を見合わせた。やがて、柳眉を寄せ、臣下が苦々しげに告げる。


「薬は持ってきたのですが、医師は……」


ユーゲンは息を呑んだ。そのまま唇を噛む。

雨が降っている。屋根を打ち、室内には地鳴りのような重々しい音が響いていた。

しかし、と思い直す。もとより城下へ行くつもりだったのだ。落胆する必要もなければ、暇もない。


「馬を貸していただけませんか」

「構わないですが、城下へ?」

「宛はあるのか?」


両側から矢継ぎ早に追い詰められる。たじろいで、表情を険しくする。


「ですが、この町に医者はいないんです」


口に出せば、より一層、焦燥が募った。貸してもらえなければ、自分の脚で走るしかない。そうなると時間が惜しく、踵を返しかけた時だった。

ユーゲンを思案顔で見つめていた王子は、うん、と一人うなずく。


「よし、俺は一度城へ戻って、医者を連れてこよう」

「え?」


唐突な提案に声をあげたのは、二人。宿屋だけでなく、隣のエルフまでもが目を丸くした。


「城へ戻られるので?」

「あぁ。だからエルハルト、後は頼んだぞ」


エルハルトと呼ばれた隣の男はむっつりと黙って、しかし、視線だけは王子を糾弾していた。ディルクはそれを一笑に付す。通りすがった若いエルフに馬の用意と、コートを持ってくるように命じて、ユーゲンに向き直る。


「貴方は栗鼠亭の亭主だな。宿でいいのか?」

「は、はい」


理解が追い付かないままうなずけば、先程のエルフがコートを持って走り寄ってきた。礼を一つ、颯爽と羽織り、入り口に馬の姿を確認すると、もう歩き出す。


「すぐに連れて行く。宿で待っているといい」


そう言い残し、闇にも鮮やかな緑をはためかせながら、王子はあっという間に消え去った。

誰が、医者を連れてきてくれるというのだろう。目を瞬かせ、茫然としている男の肩を、信の厚いエルフが叩いた。


「栗鼠亭さん」


はっと我に返る。


「王子は、城へ?」

「えぇ。彼の仰せの通りです。宿でお待ちなさる方がよいでしょう」


半ば呆れた雰囲気を感じさせるが、助力を求めるユーゲンに対しては、怪我人が心配だろうという配慮に満ちた物言いだった。表情のない男だが、心根までそうでないことを窺わせる。


「恩に着ます」

「それはどうぞ、王子にお伝えください」

「いや、あんたたちに」


雨の多い土地であるが、こうまで長く、しかも強く降る雨はなかった。民衆の安全確認だと言っていたが、確認するエルフとて、あちこち回ればその分危険にさらされるだろう。

切れ長の目元を僅かに緩めた。


「有事に役立つために、我々が居りますから。しかし、ありがとうございます」


かつ。踵を揃え、エルハルトは直立し、胸に手を当てる。その場にいた全員がすぐさま倣った。

ユーゲンはフードを目深に下ろす。背を向けると、お気を付けて、と声がかかった。




行きと同じようにしとどに濡れて戻る。コートを脱ぎ捨てて部屋へ向かうと、雨音にかき消されそうな声で女たちが笑っていた。

それでも、夫を振り返ったリッタは両目いっぱいに心配の情を湛え、そういう様々に気付いているだろう寝台の上からは、虚ろながらも申し訳なさ気な視線が向けられた。


「お医師様は」

「すぐ来る。ちょっと待ってな」


よかったね、と言いかける妻に、女はうなずくが、額にいっぱい汗をかいて、時折、ふっと意識を失いかけるようだった。その度に、ツユリ、他に何を持ってきたの、と問う。すると、麻や絹、それぞれをまた茜や藍で染めて、ある一つには蔓草を縫い取ったと言い、ある一つには格子模様を織ったと、確かな口振りで言う。


「近頃、新しい織物が出てきて、西の地方なんですが、手触りがとってもさらさらしてるんです。夏は汗でべたべたするでしょう、きっと、肌触りがよくて、好きになってもらえます。これは、朽葉色に、それから、松葉色。リッタさんは、みどりがち……だから、」


だから?妻が行商の手を握りしめると、薄靄の向こうから、濁りかけた目を向ける。


「だから……きいろの、ころもに、はっぱのししゅう……」


再び飛び始める意識に、ユーゲンは容赦ない。ばちばち叩いて現へ引っ張り戻す。


「おい、ツユリ。起きろ」

「……いたい」

「そいつは上等。もうちっとだから」


うぅ、と呻いた。ちらりと下肢に目を向ければ、細身のズボンが左足だけはち切れそうになっている。

ユーゲンにも、リッタにも、治すことはおろか、痛みを取り除くことさえできない。苦悶に歪む彼女を励まし、せめて気を保てるように声をかけ続ける以外に、力になれることはなかった。

雨の音を数えながら、刻一刻と、降り積もる時間に己の無力さを呪う。たったこれだけしかできないのかと、エルフ達は医者の到着を祈り続けた。

待ち望んだ嘶きを、ユーゲンは逃さなかった。

部屋を飛び出す。乱暴に玄関を開ければ、止まぬ豪雨と、馬の背から小柄なエルフを下ろす王子がいた。


「よく来てくれました」


しとどに濡れる二人を招き入れ、万感の思いで絞り出す亭主に、ディルクは広場で見せたのと同じ笑みを浮かべる。


「ああ。連れてきたぞ」


そして、額に貼りついた前髪をかきあげた。片手には大きな医者鞄を提げている。はぁ、と小さくため息を吐いた小柄なエルフは、鬱陶しそうにコートを脱ぎ捨てると、ぞんざいに、傍らの王子に押し付けた。思わず、引き取ろうと手を出すと、それは鋭い眼光で射抜いた。


「患者はどこだ」


地の底を這うような、嗄れた声。半歩下がって立つ王子を弟子のように従え、濡れて、深い緑の髪を煩わしそうに払い除ける。


「あ、あぁ、こっちです」


圧倒されながら指し示せば、翁はすいっと部屋へ向かってしまう。ディルクは黙ってついていき、その姿は正に、真面目な弟子そのものだった。

翁は部屋に入ると、すぐに寝台に横たわる姿を認め、つかつかと歩み寄った。枕辺に寄り添う妻を一睨みで退かせ、まじまじと患者を観察すると、険しい顔に驚きをにじませた。


「人じゃないか」

「人?」


好奇心を顕わにして、覗きこもうとした王子を払い除ける。女の青い頬や、首筋を触り、ぱんぱんに腫れた下肢をちらりと見た。


「聞こえるか」


脂汗でびっしょりと濡れた額を、医者は驚くほど丁寧な手つきで拭う。深く、荒い呼吸の合間から、ツユリはかろうじて青い目を見せた。


「帰りたいか」


唐突な問いに、しかし、迷う間はなかった。


「かえり、ます。……絶対」

「死ぬかもしれんな」


さっと、背に氷水を浴びせられたようだった。薄々、気がついていた事実を突き付けられて震えたのは、ユーゲンだけではない。リッタがじっとりと汗ばんだ手で、部屋へ入ってきた夫の腕をつかんだ。


「どうする、人の子」

「死ぬって、帰れなければ、おなじ」


黙って、顔を見つめていた翁は、ややもあって、低くうなずいた。


「そうか」


身を翻すと、ディルクから鞄を取って、患者隣の寝台に広げた。次々取り出すそれらが、薄暗い中でもわずかな光を反射してきらめき、ユーゲンは眉間に皺を寄せる。


「何を、するの」


目を見開いたまま、同じ疑問を抱いてリッタは問う。


「手術だ」


答えたのは、隣にいたディルクだった。

いよいよ青ざめる妻が、今に気を失いやしないかと腰を支える。そんなことを知るよしもないリッタは緊張に声を嗄らして、ディルクを見上げた。


「手術って、切るんですか」

「そうだな」

「どうして」


はぁー、と大きなため息が割って入る。


「骨をくっつけるんだ。あんた、黙ってらんないなら、出てってくれんかね」

「すまない。こういうことは、あまりないものだから」

「旦那か?あんたは使えるな。嫁を外に出したら、これじゃ足らんから、湯をたくさん沸かして、予備のシーツを持ってきてくれんかね」


頼む体を取るが、そこに拒む余地はなさそうだった。だが、出ていけと言われた妻は夫の腕を抜けて反駁する。


「大切な友人なんです。傍にいます」


緑の合間から、翁の鋭い眼光がじっとリッタを見つめる。細い妻の足が、かすかに震えていた。やがて、医師はふいと視線をはずし、道具へと目を戻した。

良いとも悪いとも言わない。ただ、もう一度、医師の気に障れば、蹴飛ばされ、追い出されることは明白だった。

リッタは寝台に駆け寄る。枕辺に膝をついて、人の手を取った。苦悶する表情を取り繕えないほど、人間は衰弱している。それでも、喘ぐようにこう言う。


「ごめんなさい」

「ばかね」


祈るように、両手で包み込んだ氷のような手を、額に押し当てた。

ユーゲンが湯と、シーツをありったけ抱えて戻ってくると、ディルクは手早くそれを手頃な大きさに裂いて、医者の隣に丁寧に積み上げる。はちきれそうだったズボンは切って除かれており、ユーゲンは思わず、怪我から目を逸らした。


「ディルク、腰と脚押さえろ」

「ああ」

「旦那は肩と胴。……あんたもそこに居るなら、せいぜい、役に立つんだな」


ツユリに布を噛ませた。医師の持つ、ナイフが冷たく閃く。

悲鳴は豪雨を劈き、数時間にわたって聞こえていた。

リッタは涙で顔をしとどに濡らし、男二人は全身を汗でじっとりとさせていた。さしもの老エルフも額を拭い、包帯を巻いた脚に布団をかける。

気をやった友人の涙を拭くエルフの隣に膝をつく。骨張った手が伸び、妻の細い手首をつかんだ。


「お疲れさん」


真っ白な甲に、血が幾筋も引いていた。激痛に絶叫し、暴れた大切な友人が、力加減を知らずに握りしめた痕だったが、リッタは決して、その手を離しはしなかった。

老エルフは傷に触らないよう、慎重に指や手のひらを確かめる。


「折れちゃいないようだな」


そう診断して、軟膏を塗り、彼女にもまた、包帯を巻いた。

泣き腫らした両目を再び潤ませて、深々と頭を下げた。


「ありがとうございます」

「看ててやんな」

「はい」


ディルクは広げた器具のうち、使わなかったものを丁寧に鞄へしまっている。ユーゲンは血液のついたシーツの残骸を集めていたが、重たげに体を引きずって出ていこうとする医者を追いかけた。


「本当に、ありがとうございました、ツユリも、リッタも」

「……ああ」


漫然と返事をして、翁は窓を見上げた。煙る闇が色を濃くし、雨はまだ、続いていた。


「悪いが、湯かなんかもらえるかね」

「ええ、ええ、それはもう、すぐに」

「それからその布だが、出来るだけ早く、みんな焼いてしまいなさい」

「はい」


大儀そうに、食堂の長椅子に腰を下ろした。


「手もよく洗って」

「はい」


ユーゲンが踵を返すと同時に、ディルクが部屋から出てきた。静かに扉を閉める、そのわずかな隙間から、妻のしなやかな背が垣間見えた。


「王子。本当に、ありがとうございました」

「俺は連れてきただけだぞ」


すると、食堂から早く行け、と老いているくせによく通る声で急かされる。ちらりと目をやって、ディルクは鷹揚に笑った。


「ハイドリヒを怒らせると後が大変なんだ。気にせず行ってくれ」


深く頭を下げる。そして、足を急がせた。勝手口の近くにまとめて布を置き、手をよく洗って茶を淹れる。食堂へ戻ると、ディルクとハイドリヒが並んで座って、亭主を待ち構えていた。


「へぇ、珍しい茶だなぁ」


湯気を立ち上らせる茶器を、王子は興味深げに覗き込む。白い茶器に佇む緑は、エルフの飲むものとは違っていた。


「ツユリ、さっきの人間に、いつも頼んでるんです」

「なるほど。あちらではこういうのを飲むのか」

「妻が気に入って」

「その、人間だがな」


老エルフは目を伏せる。


「この雨で斜面を落ちたんだろう。しかも、ここに来るまでも降られ通しで、だいぶ衰弱しとる」


突然の説明に、ユーゲンは再び背筋が強張るのを感じた。


「帰りたいと言うから切った。あのまま放っといたら、骨が着いたとしても歩けるようにはならんかっただろう。だが、おかげでさらに弱らせてしまったのも事実だ」

「ツユリを助けたんじゃなかったんですか」

「わしは助けた。起きれるようになったら、あれはちゃんと、自分の国へ帰れる。それも、起きれたら、の話だが」

「そんな」


言葉を失う。すると、ディルクが口を挟んだ。


「ハイドリヒは徒に患者を死なせるような医者じゃないぞ。俺が保証する」


ディルク。老エルフが咎めるように声を出すが、彼は気にも留めない。


「本当に見込みがなかったら、やらないからな」

「期待されても困る」

「俺は信じてるぞ」


期待などではなく、確信をもって断言するディルクに深々とため息をつくと、一気に茶を飲み干した。


「帰る」

「そんな。もう真っ暗だ、泊まってください」


ユーゲンは機嫌を損ねたかと顔を青くしたが、ハイドリヒが不機嫌に言う。


「人の薬は城に戻らんとわからん」

「人のための薬があるのですか」


さっさと歩きだす医者を走って追い越し、扉を開く。変わらない、濡れた風が吹き込んだ。

大人しく待っていた馬に、ハイドリヒを乗せて、自身は軽々と、その後ろに飛び乗った。


「医術をエルフに教えたのは、人間だからな」

「じゃあ、また来るぞ」


老人に鞄を抱かせて、王子は馬を蹴る。

もう見えなくなりそうな背中に、声を張り上げた。


「お気をつけて!」


雨をくぐり抜け、心配無用!と聞こえた気がした。

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