第6話 始動 ※この話よりグロ描写が強くなります
同隆会……以前から何度か、その名を小耳に挟むことはあった。
この世界(要は、ヤクザの世界)における流儀を守らない者たち。
例え日陰者であっても、超えてはならない線を超えて好き勝手を働く者たち。
新参でありながら、畜生にも劣る外道な振る舞いを繰り返し勢力を伸ばしている者たち。
その名に対する反応は様々であったが、私が聞いた限りでは大方そんな感じだったと思う。散々な言い様だと思うが、当時の私は口々に同隆会を罵る彼らを見て……どこか冷めた目を向けていたのを、覚えている。
だって、同隆会がどれだけの屑であったとしても、私からすれば、彼らだって同じ穴のムジナでしかないのだ。
その同じ穴に関わる人の店で働いて報酬を得ている私が言えた事ではないが、でも、彼らはムジナでありヤクザなのだ。
同隆会の人達がいったいどんな悪事を働いているかは知らないが、目くそ鼻くそを笑うとは、まさしくこういうことを言うのだろう……そう、当時の私は考えていた。
いくら彼らが己を自称したとしても、善良(まあ、一般的には)な表の人間を食い物にして、その生き血を啜って生きている日陰者であることには変わりない。
本音を言わせて貰えば、私は顔見知りのヤクザが何人死のうが、正直どうでも良かった。そういう世界で生きているのだからという気持ちがあったから……いや、むしろ、私は心のどこかで彼らを……嫌悪していたのかもしれない。
そう、たぶん、私は彼らを嫌っていた。
何故なら、彼らは悪だからだ。常識が、彼らを悪としていたからだ。それ故に、私は彼らを嫌っていた。私自身が彼らに何かをされたわけではないが、そんなのは私には関係なかった。
表にこそ出さないし、心の中にすら思い浮かべなかったけれども……私は、彼らを無意識の内に嫌悪していた。いや、もしかしたら今も心の何処かでは軽蔑の念を彼らに向けているのかもしれない。
……けれども、同時に。
私は、ママやミキちゃんや銀二さんたちを……憎からず思っていた。いや、むしろ、私は……好意を抱いていたかもしれない……いや、抱いていた。
そうだ、私は確かに、感謝をしていた。嫌悪感を抱く彼らに恩を抱いていた。どうなろうが関係ないとすら思っているこの日陰の世界に、愛着にも似た思いを抱いていた。それは、まごうことなき事実であった。
だからこそ、私は思っていた。受けた恩を返せるのであれば、私の力で返せるのならば、返してやりたい……報いてやりたい。
仕事とは別に、私は確かに彼らに……ママたちに心からの愛嬢を抱いていた。それこそ、犯罪行為でさえなければ無償で色々頑張ってやりたいとすら思うぐらいに……私は、彼らを、ママたちを愛していた。
それだけは確かで、偽りのない私の本音であった。
……。
……。
…………けれども、だ。そう私が願ったところで、現実はそう上手くはいかない。あの事件があって、すぐ。私は、ママにもお姉さま方にも黙って姿を消すことにした。
私を探して聞き込み回るママたちの姿がとても胸を痛めたが、私はそれでもママたちの元に戻ろうとは思わなかった。それ故に、最初の二週間はママたちも精力的に探していたが、二か月と月日が経てば、その回数も激減し……今では、見かけなくなった。
悲しい事だが、ママたちとて暇ではない。私のような馬鹿げた身体を持っていない、普通の人間だ。明日の食事を得る為に、何時までも身元不明の家出少女に構っている余裕はない、ということであった。
……愛していたと言ったその口で、何故黙って姿を消したのかと言われればそれまでだが、私にも相応の理由が二つある。
それは、人が死んだ以上警察が介入しているわけだが、私はそういった公的機関に見つかるわけにはいかなかった。何故かと言えば、今の私には戸籍が存在しない……それが、一つ目の理由。
今更と言えば今更な話だが、戸籍がないというのはかなり面倒なのだ。
戸籍がないということは、同時に、国籍を持っていないということ。国籍を持っていないということは……言うなれば、私は日本人ではない。公的には、日本人に近しい風貌の身元不明のアジア人という扱いになる。
それが、私が私であるという証明が出来ないデメリットである。そんな状態で警察のお世話になろうものなら、あるいはソレ関係で目を付けられれば……もう、面倒で収まる限度を超えてしまう。
だから、私はママたちの元を離れることを選んだ。只でさえ組同士の争いに発展し、何が切っ掛けで銃撃戦(どんぱち)が起こってもおかしくない現状……それが一番いいと思ったからだ。
それに、理由は他にももう一つ。今の私が人間ではなく『鬼』であるということ。それを、私はあの夜に思い知り、それをママたちに知られ、その狂気が向かうのを恐れたから。
そう、私は自分が怖かった。銃口を向けられたことよりも、すぐ傍で親しい人が死んだことよりも、そんなのが当たり前のように起こる世界に身を置いていたということよりも……私は、自分を恐れた。
――身体は人外だとしても、心はあくまで人だ。
そう、私は思っていた。だが、それは幻想だった。あの夜まで私はまだ、自分をどこか人間のままであると思い込んでいた。でも、それは本当に、ただ思っていただけだったのだということを……思い知らされてしまった。
――あの夜から、身体が疼くのだ。
それは、絶え間なく沸き続ける強烈な性的欲求にも似ていた。だが、性的欲求ではない。似ているが、この欲求は性的というより……暴力。そう、闘争欲求を覚えずにはいられなかった。
最初は――それが、闘争を求める鬼の性質から来るモノだとは気付かなかった。
当初、湧き続ける欲求が何に対してなのかが分からなかった私は、それを性的な欲求だと思っていた。故に、限界に達した私は、この身体になって初めて自慰というものを行った。女の嗜みなど欠片も知らない私は、とにかく体の疼きを止めたかったのだ
両手の指は当然として、棒状のモノは片っ端から試した。キュウリやナスを始めとした食べ物もそうだし、スプレー缶やお菓子のケース、ディルドなどの道具など、とにかく使えそうなモノは後先考えずに股に差し込んでいった。
当たり前といえば当たり前かもしれないが、相応の快感は得られた。
男の時とは根本から異なる、染み出る地下水が如き快感に女として嬌声をあげ、下手なAVよりも開けっぴろげな恰好で穴をすぼすぼした。隠れ家代わりに使っている空き家の一室を性臭で満たし、噴き出した体液がべっとりと床を濡らし、乾いて悪臭を放つまでとにかく励みまくった。
けれども、それでも、欲求は全く治まらなかった。励んでいる最中は、気が紛れる。達した直後は気だるさでソレから目を背けてはいられるが……ものの5分も経てば、何も変わらずソレは私に疼きをもたらした。
例えるなら、そう。男の時の感覚で言い表すのであれば、だ。射精しても射精しても、出したという充足感がほとんどないような感覚が、近しいのかもしれない。
まるで腰の奥に欲求という名の塊がどっしりと鎮座しているかのように、それが出て行ってくれない。
酒を飲んでも、自慰に励んでも、疼きは治まるどころか増すばかり。日を追うごとにどろどろとしたマグマのように質量を増し、熱がこもる身体を……私は、完全に持て余していた。
その私が……それが性的不満から来るものではなく、満たされない闘争本能から来る欲求不満であることに気付けたのは……些細な切っ掛けという名の哀れな犠牲者のおかげであった。
憐れな犠牲者は、サラリーマン風の男であった。
実際に男が何の仕事をしているのかを、私は知らない。その時の私は、数十回目となる強烈な疼きに耐えきれず、恥を忍んで……寂れた公園の片隅にある公衆トイレの、そのまた片隅で自慰に浸っていた。
時刻は、深夜。その公園は歓楽街からも離れ、夜になれば時間と情熱を持て余した若者たちすらたむろしない、そんな場所。そこで、私は……その男に襲われた。
男は、強烈な酒の臭いを漂わせていた。会社で嫌なことがあったのか、それとも酒乱の気があったのか、あるいは別の何かがあったのかもしれないが、襲い掛かるその動きに躊躇はなかった。
反面、私は完全に油断しきっていた。上はシャツ一枚、下は丸出しの恰好で蟹股になっていた私は、あっ、と声を上げた時にはもう、ベルトを外して丸出しにした男に押し倒されていた。
もし、押し倒されたのが普通の少女であったなら……私が、普通の女の子であったなら、成す術もなく男に犯されていただろう。
何故なら、その公園は私自身がそこを選んだだけあって、人が訪れることは滅多にない。そのうえ、多少物音を立てても気付かれない。殴られて声を出せなくされたら、そこで終わっていただろう。
だが――私は、普通ではなかった。
ただ、少し驚いただけ。悲鳴も、あげなかった。ただ、意識の外からいきなり飛び掛かってきた何者かに向かって、反射的に右拳を放った……ただ、それだけのことであった。
でも、それだけで結果は変わった。
反射的にとはいえ、鬼の拳だ。欲望発散を目の前にして無防備になった男の脳天を砕き、脳しょうを撒き散らして即死させるには十分過ぎて……あっ、と思った時にはもう、全ては終わっていた。
――だからこそ、私は気付けてしまった。
あまりに呆気なく人殺しをしてしまった、その瞬間。私は人殺しに対する忌避感よりも先に、体中に渦巻いていた欲求が、スーッと蕩けて消えてゆくのを知覚してしまった。それは、あまりに甘美な一瞬であった。
――と、同時に、私はこの時気づいた……気付いてしまったのだ。
己の中で暴走を続けていたモノが、何であるのかを。そして、私が鬼としての私になった、あの日。『闘争に呑まれるな』という、注意書きの本当の意味に……私は、気付いてしまった。
アレは、この身体の本来の持ち主が残した、せめてもの応援であったのだ。
今になって、それがよく分かる。彼女も苦しんでいたのだろう。彼女の年齢は定かではないが、この本能に目覚めてしまったその時から……ずっと、我慢し続けていたのだろう。
殺してはならぬという理性と、思う存分暴れ回ってしまえという本能とが、絶えずぶつかって、その度に理性の方へと天秤を傾ける……それを、繰り返していたはずだ。
でなければ、男であったかつての己の身体を奪って死を迎えようとはしなかっただろう。そうまでしないと逃れられないから、彼女がそうしたのだと……私は、今になって思い知っていた。
……さて、だ。鬼であるとはいえ、私の見た目は『素材だけは一級品』の家出少女でしかない。
一人身を潜める私の気など知った事かと言わんばかりに、まるであの時の事件が全ての始まりであったかのように、私が身を寄せていた夜の世界は激変していった。
抗争に次ぐ、抗争。喧嘩やいざこざは当たり前で、毎日のように殺傷沙汰が街の至る所で見られるようになった。最初こそ彼らは、彼らの間だけで争い事を納めていた。
けれども、すぐにそれは口だけとなり、争いは瞬く間に表の世界へと広がり、銃撃戦こそまだ行われることはなかったものの、治安は目に見えて悪化していったのだ。
……そうして、気付けば、あの事件からまたさらに月日が流れていた。
すっかり物騒になった夜の街。その路地裏の暗がりのさらに奥、人の気配どころか子鼠の気配すら感じられない闇の奥で……私は、身体の奥底から昇ってくる欲求に、歯を食いしばって耐えていた。
辺りは、真っ暗であった。まあ、当然だ。時刻が夜遅いのもそうだが、近ごろは物騒だ。いわゆるアウトローもヤクザの抗争に巻き込まれるのを恐れ、不用意に一人にはならないようにしているぐらいだ。
そんな時に、わざわざこんな場所に籠ろうとする頭のおかしいやつなんていない。通行料を取るにも、この路地の奥は袋小路。施錠しっぱなしの鋼鉄の扉があるだけで、万が一にも人が通ることはないだろう……私のような者を除けば、の話だが。
「はあ、はあ、はあ、はあ……はあ、はあ……」
闇の中で、私は蹲っていた。身体が汚れることすら構わず、赤ん坊のように丸まって堪える。今にも理性を突き破って肉体を操作しようとする本能を、必死になって抑え続けていた。
――あの日の夜が、全ての切っ掛けであるのは明白だろう。
これまで、私は幾度となく暴力を受けた。だが、それは第三者から見ればの話であって、私自身はそれを暴力だとも、闘争だとも認識していなかった。だから、大丈夫だった。
――しかし、あの日の夜。ミキちゃんが殺された、あの日。
一方的とはいえ、だ。私は、人が死しているのを始めて間近で見た。鬼になって間もなくではなく、鬼として十二分に馴染んでしまってから、初めて……命の奪い合いの臭いを嗅ぎ取り、その果てに死してしまった者を見てしまった。
アレが、私の中に……いや、鬼が持つ性質の中でも最も厄介な性質が目覚める切っ掛けとなってしまった。そう、私が気付いた時にはもう……全てが、遅すぎた。
(身体が熱い……燃えるように……くそっ、くそっ、くそっ……疼きが治まらない……!)
胎児のように丸めた手足に、渾身の力を込める。ぎちぎちぎち、と全身が軋む。生身の人間が隙間に手を差し込もうものなら、瞬時に圧潰して無残なことになっていただろう……それ程の圧力が掛かっているというのに。
(くそっ、くそっ、くそっ……どんどん酷くなってる……もう、カラスや野鼠ぐらいじゃ抑えられない……!)
ぐつぐつと煮え滾る欲求の前では、何の効果も得られない。大きく、3回深呼吸を繰り返した私は、軽く息を止め……渾身の力を込めて、太ももを抓る。鋭い痛みに、私は……笑みを浮かべた。
頑強過ぎる鬼の身体とはいえ、その鬼の握力で抓れば、痛みを覚えて当然。そして、普段であれば顔をしかめる程の激痛も……今だけは、疼きを和らげてくれる鎮静剤であった。
そう、鎮静剤だ。この疼きを抑える為なら、この程度の痛みなどその程度にしか感じない。それぐらい、この疼きは耐え難く、私を苦しませる忌むべき本能であった。
(よし、よし……やっと波が引いてきた。ちょっと、収まって来た――よしっ)
疼きは、昼も夜も関係なく起こる。けれども、永遠に続くわけではない。疼きは、さしずめ寄せては引く『波』のようなものなのだ。
だから『波』が過ぎれば、しばらくは平気でいられる。今や、私がまともに動けるのは『波』を耐え凌いだ後に訪れる、一時だけであった。
知りたくはなかったが、知らないとまともに身動き出来なくなるから、我慢するしかない。ゆっくりと身体を起こした私は……壁に、背中を預けた。
芯から響く疼きの残照を、溜め息に合わせて身体の外へと吐き出す。自分が吐いたモノとは思えない程に熱のこもったソレに、私は……苦笑すら零せない。
(……私が根っからの女であったなら、今頃は……止めよう)
今になって思うが、男(心)から鬼娘(身体)なのは不幸中の幸いだろう。同性愛者を否定するつもりはないが、疼きに悩ませれるようになってから、それを強く思うようになった。
仮に私が元々女で、そこから鬼娘になっていたら……今頃私は、目に映る男を片っ端に路地裏に引きずり込んでは腰を振りまくる淫魔か何かになっていただろう。
今ですら心の何処かで、『ソレで本能を抑えろ』、と訴えて来るのだ。この衝動が闘争本能から来るモノであることに気付いたとしても……戸惑いこそすれど、身体を開くことには何の忌避感も抱かなかっただろう。
(……どうしたら、いい?)
『波』が完全に過ぎ去ったのを感じ取った私は、ゆっくりと立ち上がる。炎天下でも汗を掻かない私の身体は、シャワーを浴びた直後のように濡れて、全身からカッカと熱気が立ち昇っている。
(もう、野良動物程度じゃあ抑えが利かない……やはり、人間じゃないと?)
……いや、違う。私は、首を横に振った。
人間でないと駄目なのではない。鬼の本能が求めているのは、己を害さんとする相手。己を倒そうとする相手。つまり、自らの闘争本能を満たすに値する……敵だ。
強さなどは、どうでもいい。重要なのは、意思だ。動物では、どうしても本能的に鬼を恐れてしまう。動物よりもはるかに鈍い人間だからこそ……鬼の相手を務めることが出来るのだ。
(だからといって、人間を殺し回れっていうのか?)
路地裏より通りへと出た私を出迎えてくれるのは、相変わらずの喧騒と、ネオンの輝き。何処となく張り詰めた緊張感を人々の顔色から感じ取れはするが、昼にはない騒がしさは前と全く同じであった……と。
人波の隙間に一瞬だけ見えた白い何かに、私の目が吸い寄せられた。
自然と俯いていた顔をあげてそちらを見やれば、少しばかり離れた所に何かが落ちている。何だと思って駆け寄り、それを手に取る……よくあるポケットティッシュには、とある店の広告が挟まっていた。
(……ママの店の名前だ)
それは、懐かしい名であった。時間にすれば半年と経っていないのに、まるで10年も離れていたかのような気分であった。
……そういえば、ママたちはどうしているのだろうか?
あの時は疼きの正体が分からず、万が一ママたちに危害が向かない内にと思って話をせずに飛び出して来てしまったが……今更ながら、心配になってくる。
(死んだのはミキちゃん一人だけど、あの騒動で怪我をした人も何人かいたっけ……)
……同隆会のこともある。顔を合わせるつもりはないけど、様子だけは見ておこう。
特に、やることも思いつかない。そう思った私は、ママの店へと向かう事にした。
……けれども、だ。以前の職場へと向かった私を出迎えたのは、ママたちの顔ぶれ……ではない。「ソープ屋になってるよ……」有ったのは、さして珍しくもない……風俗店であった。
たった数か月の間に、何があったのだろうか。
雑貨ビルの一階入り口に設置されているテナントの看板を見やった私は、想定外の事態を前に呆然とする他なかった。
そりゃあ、あんな事件があったのだ。客足だって遠のくし、イメージも悪くなる。意外と縁起を担ぐママが別の場所に店を開くのだって……まあ、分かる。
けれども、このビルの持ち主は確か、ママだったはずだ。
そういう商売をすること事態はママも気にしていないが、ここでするような性格ではない。どうして、こんな場所で……っと。
「――あれ、きいにゃんじゃん」
懐かしい渾名に振り返った私の目に止まったのは、かつての……お姉さん方であった。あの時と少しばかり雰囲気が異なってはいるが、確かに……みんなであった。
「いきなり行方を眩まして、心配したんだよ。でも、元気そうで良かったよ」
「そうそう、最近色々と物騒だしね。下手に動き回ると、またあいつらに目を付けられるしね」
何処となく元気がなさそうではあるが、あんな事件があったというのに、みんなは相変わらずだった。行き先も言わずに勝手に飛び出したのはこちらだというのに、前と同じく彼女たちは優しかった……ん?
ふと、私の視線がお姉さん方から、テナント表へと移る。次いで、テナント表からお姉さん方へと視線を戻した私は……無言のままに、ソープ屋を指差した。
「……ちょっと、止めてよ。私たち、そういうのはしてないの」
「はい、御免なさい」
途端、怒られてしまった。まあ、怒られて当たり前だが……でも、それならどうして?
「どうしてって、見納めをする為だよ。私たち、田舎に帰るんだ」
「え、田舎に?」
「そうだよ。最近は本当に物騒だし、何時抗争に巻き込まれて死ぬか分からないし……同隆会に目を付けられたら、ここではもうやっていけないしね」
そんな私の視線に気づいたお姉さん方の一人が、説明してくれた。だが、sの説明のおかげで余計に意味が分からなくなった私は、「目を付けられたらって?」続きを尋ねた。
すると、お姉さん方は一斉に互いの顔を見合わせた。こいつ、何言っているんだと言わんばかりのその態度に、私は思わず目を瞬かせた。
「……あんた、知らないの?」
それを見て、察したのだろう。別のお姉さんからの問い掛けに、「知らないって、何が?」私がそう答えれば……お姉さんは言い辛そうに視線をさ迷わせた後……突然、私の手を掴んだ。
「――付いて来て。ここじゃあ目立ち過ぎるから」
言われて、なるほど、と納得する。確かに、視線を横に向ければ……客と思わしき男たちの視線とが交差する。「ほら、早く」グイッと手を引かれた私は、お姉さん方に引っ張られるがまま、その場を離れた。
……。
……。
…………お姉さん方に連れられるがまま、タクシーに乗せられて、幾しばらく。到着したのは、ママの店より時間にして20分ほど離れた場所にある住宅街の、とある一角であった。
街中とは違い、駐禁を警戒する気配が薄い。路駐している車のどれもが放置されて長く、車そのものも趣味の色合いが薄く、どちらかといえばファミリータイプのモノが多いようであった。
直線距離にしてたった十数kmぐらいしか離れていないが、歓楽街とは違ってずいぶんと辺りは静かだ。そして、明かりも少ない。ちらほらと賑わっている飲食店が目に止まるが、どの店も耳を澄まさねば分からない程であった。
……ここに、何が?
小首を傾げていると、「ほら、こっちだよ」タクシー料金を払い終えたお姉さん方から呼ばれた。言われるがまま、お姉さん方の後に続き……とある居酒屋の前で、止まった。
「……俺が先に?」
視線で促されたので、確認を込めて尋ねれば、そうだと頷かれた。いやいや、私の見た目でこんな場所に……と思いつつ、入口の扉を開けて、中へと足を踏み入れた――直後、私は目を瞬かせた。
「……何で?」
「相変わらず、礼儀が成っていないやつだね」
何故なら、店の中に……というより、カウンターの向こうに立っていたのが、ママであったからだ。しかも、恰好があの時とは全く異なっていた。
あの時での服装が高級スナックの女将なら、今は居酒屋の女将といったところだろうか。着物姿であるのは変わりないが、あの時よりもずっと値段が下がっているのが、素人の目からでも分かった。
「ほら、早く入りなよ」
店内には、まだ誰もいなかった。だからなのか、グイッと背中を押された私はそのまま強引にママさんの正面席に座らされた。「――ったく、変わんないねえ、お前は」一拍置いてから私の前に置かれたのは、ほうれん草の胡麻和えであった。
「……で、あんた達。田舎に帰ると聞いていたけど、わざわざこいつを連れて来て時間は大丈夫なのかい?」
「大丈夫だよ、田舎に帰ったってすぐに仕事が見つかるわけじゃないし、一日ぐらいどうってことないよ」
「そうかい、それじゃあ一杯ぐらいはサービスしてやるから、この子の分はお前たちで折半だよ」
「分かっているってば……っていうか、ママ、きいにゃんと会えて実はけっこう嬉しいんでしょ?」
「お馬鹿……全く、年上をからかうんじゃないよ」
想像していなかった光景に目を白黒させる私を他所に、会話を弾ませるお姉さん方。するりと眼前に置かれたジョッキに目をやれば、淡い白煙がゆらゆらとしていた。
……まあ、酒を出されたら飲むのが礼儀だ。
キンキンに冷え切ったジョッキに口づけ、傾ける。喉元を通り越し、胃袋へと流し込まれてゆくビールの味に目を瞑った私は……「――かはぁ、美味い!」どかん、と空になったジョッキをカウンターに置いた。
やはり、酒は良い。心から、私はそう思った。
ここしばらくはずっと鬼の本能に悩まされっぱなしだが、悪い事ばかりじゃない。鬼であるからこそ、酒の美味さがよりはっきりと分かる。五臓六腑へと染み渡ってゆくアルコールに大きく息を吐き……ふと、己へと注がれる視線に目を瞬かせた。
「……なに?」
「いや、相変わらず飲みっぷりだけは良いねと思っただけさ。姿を消した時は心配したけど、元気そうで安心したよ」
そう言うと、ママは私の前にコップと瓶ビールを置いた。「積もる話もある、ゆっくりやりな」頷いた私は栓を指で弾いて外すと、コップにビールを注ぎ、突き出しを一口……ん?
再び注がれる、みんなの視線。「えっと、なに?」変なことをしてしまったのかと思っていると、ママたちは困ったように互いの顔を見合わせ、苦笑した。
「いや、何も。さて、お前たちも何か頼みな。突き出しぐらいはサービスしてあげるから」
「やった、それじゃあ私たちも瓶ビールを……ねえ、きいにゃん」
「ん?」
「テレビで見たんだけどさ、きいにゃんはこれを指で切れる?」
私の隣に座ったお姉さんが、新たに置かれた瓶ビールを私の前に置く。「空手家みたいに、ここをスパッと、ね」注ぎ口傍の細い部分を、とんとん、と指で叩いて示した。
……何でわざわざ私に?
意図が分からずにお姉さんを見やると、期待……というよりは、何だろうか。何とも言い難い視線を向けられた。視線をずらせば、全員が私を見つめていた。
……こういうのはあまりやったことは、ないんだけど。
そう内心にて予防線を張りつつ、私は……細いそこに、弾いた指を打ち当てた。瞬間、ぱん、と音を立てた瓶の口は放物線を描いて……店の隅を転がった。
「これでいい?」
「……うん、いいよ。ありがとう、きいにゃん」
何かを、納得したのだろうか。何やらスッキリした様子でコップにビールを注ぐお姉さん方。まるで意味の分からない状況に、私は小首を傾げてビールを一口……と。
「さて……何から話したら良いか。ひとまず、結論から言おうかね」
全員のコップにビールが注がれた辺りで、ママさんが話を切り出した。
「言ってしまえば、同隆会とお上はグルだったのさ」
「お上?」
「警察だよ。よっぽど札束を積んだのか、それ以外の理由があるのかは知らないけど……ウチらを狙い撃ちさ」
何時の間に用意したのか、ママもビールを片手に持っていた。「依怙贔屓なんてもんじゃないよ」クイッと傾けたママの顔は、苦み以外のモノで苦々しく歪んでいた。
「一時間に一回は通報があったと警察が踏み込んでくる。なのに、向こうの店には何が起こっても来ない。いくら客が慣れているからって、さすがに嫌気が差すもんさ」
「そうそう、暴力を振るったからとかぼったくりをしたとかで一方的にママを留置所に連れていくんだよ。そのくせ、同隆会系列の店で実際にぼったくりが有っても、知らんぷり」
「それだけならまだいいよ。何で、全然関係ない店のぼったくりの関係者としてしょっ引かれるのよ。意味わかんないでしょ? 私ら、その店の名前すら知らないんだよ」
「なのに、警察のやつらは一方的に連れてくんだよ。そんな仕事をしているのが悪いって感じでさ……下っ端の警官は本当に可哀想だよ。いつ来ても、ものすっごく申し訳なさそうだったんだもの」
「仕方ないよ、警察だって上司の命令に逆らえない。やれと命令された、どんんだけ嫌でもやらないとクビになっちゃうもの。あの人たちだって、奥さんとか家族とかいるんだし」
ママの言葉を始まりに、お姉さん方が一斉に愚痴を交えて話し始めた。
断片的なモノではあるが、私がママたちの元を離れてからこれまで何があったのかは、大体わかった。なるほど、警察まで相手に付いているのであれば、どうにもならない。
もう、あそこで商売をするのは無理だと判断したのだろう。商売できない場所のビルを持っていたところで、金食い虫なだけだ。おそらく、この店を開店するに当たっての資金にしたのだろう……店内を見回した私は、そう思った。
でも……いいんじゃないかな、とも私は思った。
煌びやかなあの場所と比べれば地味ではあるが、店内は綺麗だ。突き出しの味だって申し分はなく、人生経験豊富なママのファンはあの店でも多かった。さすがにあの時のような盛況は無理でも、繁盛はするだろう。
「――まあ、こういうのも悪くはないさ」
そんな私の内心に気付いたのか、ママはそう言った。
「切った張ったは、私らの仕事じゃない。同隆会の目指すところが何なのかは知らないけど、私は私で今まで通り勝手にやらせてもらうってだけの話さ」
そう言い終えると、ママはグイッとビールを飲み干し……コップを、置いた。偶然か、それはお姉さん方も同じで……降って湧いた沈黙が、店内に広がった。
……。
……。
…………不思議と、誰も次の言葉を発しなかった。それは、過去を想ってのことか、それとも続くはずだった未来を想ってか……私には、分からなかった。
「……銀二は、死んだよ」
そうして、しばらくの沈黙の後。それを最初に破ったのはママであった。「――は?」と、同時に、その言葉は私を驚愕させるには十分過ぎる内容であった。
「私も、人伝でしか話は聞いていないんだけどね。何でも、ミキの仇を取るんだとか何だとか口走った挙句、鉄砲玉になって……何人か道連れにはしたらしいけど、それだけさ」
鉄砲玉……確かその言葉の意味は、特攻。つまり、自らの命を犠牲にしてでも相手を道連れにする、玉砕覚悟の人間鉄砲。
普通は、組の中でも下っ端の下っ端がやるような仕事だと耳にしていたが……そうか、あの銀二さんが、自ら望んで。
(ミキちゃんと銀二さんは、恋人同士だったのかな?)
脳裏を過るのは、二人の事であった。二人が特別親密にしている姿を見たことはないが、実年齢を除けば何もかもが自分よりも大人の二人だ。
おそらく、秘めた恋だったのだろう。喜劇として終われば誰もが幸せだが、現実は得てして悲劇に終わる。せめて、あの世では二人仲良く成れていたらいいなあ……そう、私は思ってコップに口づけた。
「……あんたは、かたき討ちとかそういうのは考えないのかい?」
すると、それを見計らったかのように、ママが尋ねてきた。視線を向ければ、真剣な眼差しとが交差した。
「どうして、俺にそれを?」
「別に、大した意味じゃないよ。ただ、ミキのやつはけっこうあんたの事を気に掛けていたからね。『鬼』のお前さんなら、やろうと思えばやれるんじゃないのかなって、思ってさ」
「……設定って、言わないの?」
「設定だから、気になったんだよ。思うだけなら億万長者だろうが物乞いだろうが一緒さ……で、どうなんだい?」
みんなの視線が、注がれる。再度、尋ねられた私は……空になったコップに残ったビールを全て注ぎ……そっと、瓶を置いた。
「やろうと思えば、やれると思う。しようとも思ったし、実際に頭の中で計画の真似事ぐらいはした……でも、やらなかった」
「何故だい?」
「だって、結局のところ俺は部外者だもの。部外者の俺が出張ってしまったら……それこそ、泥沼でしょ」
グイッと、喉を通るビールが……不思議と、不味く思えた。
「俺さ、出来ることならそういうの、したくないんだ。そりゃあ、俺は『鬼』だもの。殺そうと思えば何時でも殺せるし、やろうと思えば今すぐやりにいける……でも、嫌なんだ」
「そりゃあ、恨んではいるよ。俺だって、あの場所は気に入っていた。ミキちゃんのことだって、そう。今すぐ言ってぶっ殺してやりたい気持ちはあるけど……でも、同じくらい嫌なんだ」
「ぶっ殺しても全然気にしない気持ちと、ぶっ殺すのが嫌だって気持ちが、半々。自分でも、よく分からない。こんな気持ちでは、動けない。動いた方が良いって分かっているのに、どうしても動けないんだ」
グイッと、残ったビールを一気に歩み干す。「薄情者って言われたらそれまでだけど」最後に、そう言い終えた私は……黙って、ママを見つめた。自然と、お姉さん方の視線もママへと向けられた。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………そうかい、お前さんの気持ちはよく分かったよ」
誰も彼もが押し黙る最中、やはりその沈黙を破ったのは、ママであった。
「あんたの心は今、天秤のように揺れ動いているようだね」
「天秤?」
「そうさ。右に左に芯がブレている。だから、気持ちが定まらない。定まらないから、あんたは何処にも動けないでいる……違うかい?」
「……そうかも、しれない」
「あんたの、その芯のブレは昨日今日の話じゃないね。何時頃からなのかは分からないけど、かなり根深いものだ……違うかい?」
「……そう、なのかな?」
芯が、ブレている。侮辱とも取れる言葉ではあったが、不思議と私の気分を害することはなかった。それはもしかしたら、私自身が心の奥底で思っていたことなのかもしれなかった。
……そうかも、しれない。私は、空になったグラスを見やった。
考えてみれば、私は『鬼』なのだろうか。それとも、『人』なのだろうか。私自身、それが分かっていない。
身体は、『鬼』だ。心は、『人』だ。都合よく考えるのであればどちらでもあるが、しかし、どちらでもない。鬼でもあるが、人でもない。
身体は逆らって、鬼になることを拒否している。同時に、心も逆らって、人になれないのだと訴えてくる。何もかもが、ちぐはぐ……なるほど、天秤だ。
……さしずめ、今の私は『鬼』に傾こうとする天秤を必死に引っ張る、『人』というわけか。
何とも中途半端な存在だろうか。そう思うと同時に、そっと隣からコップが差し出される。「日本酒も、いけたでしょ?」横を向けば、満面の笑みを浮かべるお姉さん方と目が合った。
……我知らず零れそうになる笑みを誤魔化す。どうにも、くすぐったい。四方より向けられるみんなの笑みから逃れるつもりで、私はコップを傾け、あえて音を立てて――。
「――おや、いらっしゃい。一昨日ぶりだね」
――酒を飲んでゆく、その時であった。がらりと音を立てて、己が背後の出入り口が開いた。常連客なのか、傾けた視線の先にいるママは笑みを浮かべて出迎え――直後、その目が大きく見開かれた。
「――っ!」
逃げろ、ママは、そう言いたかったのだろうか。それは、もう分からない。何故なら、私がそう認識した、その瞬間。大きく見開かれたママの胸元に……パッと、赤い飛沫が舞った。
次いで、ぱん、ぱん、ぱん、と。
爆竹を幾らか重くした破裂音がしたかと思えば、お姉さん方がカウンターへと突っ伏すように倒れ込んだ。「――え?」何が起こったのかと思うと同時に、温かい何かが頬を掠めた。
「……え?」
ぬるりとした頬を撫でれば、その指先が真っ赤に染まった。血だと、私の頭がそれを認識した、直後、ごつん、と。後頭部に衝撃が走った……のを感じた私は、左右を見やった。
私の両隣にいたお姉さん方は、笑顔のまま物言わぬ肉体となっていた。頭の横に空いた穴から、脳しょう混じりの鮮血がとくとくと噴き出していて……一目で、絶命しているのが分かる有様であった。
……無言のままに、振り返る。
そこにいたのは、特にパッとしない風貌の男が二人であった。
(……何だ、こいつら?)
小首を傾げつつ、驚愕に目を見開いている男たちを放って……カウンターへと回る。途中、男たちが黒い何かを取り出して何かをして……その度に、頭や胸元をトントンと押される感触がした。
――ああ、鬱陶しい。
手に取った椅子を、放り投げる。軽く投げたつもりだったが、少々強すぎたようだ。「ぶぺぇ!?」片方の胸部に突き刺さったソレの勢いに押され、男はそのまま扉を打ち破って外に飛び出してしまった。
「――ひっ、ひぃぃぃいいい!!!???」
何を怖がっているのか、頬に破片が突き刺さったもう片方の男は、悲鳴をあげて飛び出していった。いやいや、連れの男を放っておいて大丈夫か……まあ、いいや。
気にすることを止めた私は、そのままカウンターを回り……倒れているママの元へと歩み寄る。真っ赤に濡れた着物からは絶えず新たな赤色が姿を見せており、緩やかではあるが、それは床にも広がっていた。
「……ママさん?」
抱き起したママさんの身体は、ぐったりとしていた。ふわっと立ち昇るママさんの臭いと……血の臭い。ミキちゃんが死んだ時に嗅ぎ取ったそれよりも、はるかに濃かった。
息が、荒い。辛うじて呼吸は止まっていないが、虫の息だ。血の噴き出す場所を押さえてみるも、血が止まる気配はない。鬼の掌を押し上げる鮮血、ママさんの命の温かさ。
「……あんたは、無事なのかい?」
掠れる吐息に混じり、掠れた言葉。鬼の聴力をもってすれば、正確に聞き取ることぐらい、容易であった。
「ママさん……喋っちゃ駄目だ。医者を呼ぶから、頑張ってくれ」
「馬鹿だね……助からない傷だってことぐらい、年寄りの私にも分かるよ……」
「ママさん……!」
「気にしなさんな……私たち以外のやつらも、みんなこうなった。遅かれ早かれ、こうなる運命さ」
こふっ、と。溜め息にも似た咳に、血が紛れていた。
「田舎に帰る、か。そんな場所があれば、誰も私の所には来たりはしないさ……帰る場所が無いから、私の所に来てだんだ」
「…………」
「だから、気にしなさんな。みんな、分かったうえでここに……覚悟、して……」
「……もう、喋っちゃ駄目だ」
「ほんと、馬鹿な子だね。今、喋らなきゃ……いつ、喋れば、いいんだい……」
こふ、こふ。ひと際強い咳が、一つ、二つ。
「……あんたとは短い付き合いだったけど……けっこう、楽しかったよ」
それが、ママさんの最後の言葉であった。
大きく、一度半。深々と息を吸って、深々と息を吐いて……そして、軽く息を吸った後。ママさんは、それっきり……物言わぬ肉体となった。
……。
……。
…………後に残されたのは、一瞬の惨劇の名残と濃厚な血の臭いであった。
けれども、どうしてだろうか。これだけ血の臭いを嗅いで、闘争を感じ取れたのに……興奮しない。ミキちゃんの時は疼きに疼いたというのに、今はそれがない。
私は……そっと、目を開けたままでいるママさんの瞼を閉じてやった。いや、ママさんだけじゃない。笑顔のまま固まっているお姉さん方の瞼を、順に閉じていってやった。
(帰る場所がないから、ママさんたちの所にいた……か)
言われてみれば、そうだ。自分自身、物理的な意味で日の下を出歩けない身で、殺されたミキちゃんもそうだったが、あの店にいた誰もが、脛に傷を抱えていた。
親に様々な虐待を受けていた者。信じていた友人に裏切られ、不信となった者。恋人に騙され借金だけを背負わされた者。綺麗所が集まるあの場所では、誰もが……心に傷を持っていた。
……それを、やつらは壊した。
ほとんど、無意識であった。何気なく掴んだ扉が、べきりと折れた。ああ、壊しちゃ駄目だと慌てて手を離し……外に出る。顔を上げれば、周囲には人だかりが出来ていた。
……今の騒動で、出て来たのだろうか。まあ、すぐ近くに飲食店が何店かあるし、気になって出て来てもしょうがない。
でも、もう終わった事だ。だから、気にせず店に戻ればいいのに……何やら、ぎゃあぎゃあと喧しい。警察だとか、何だとか、五月蠅い。男も女も関係なく、こちらを指差して、鬱陶しい。
……あれ?
ふと、視線を下ろせば。胸から椅子を生やした肉がいた。往生際の悪いやつだ、ひゅうひゅうと生臭い呼吸を繰り返している。踏み潰してやってもいいが……あ、そうだ。
指一本動かせないでいる肉のスーツを破り、ポケットを探る。携帯電話の一つでも持っていれば余計な手間は省けるのだが、それらの道具は何一つ持っていなかった。
有るのは、ポケットティッシュに煙草にライター……か。財布もあるが、中は空っぽで、名刺も何も入っていな……いや、待て、名刺が一枚有った。
財布の中ではなく内ポケットの方だ。おそらく、本人も入っていることを忘れていたのだろう。シワだらけで印字が掠れたそれには、以前のママの店の……少し前にテナント表で目にした、あのソープ店の名が記されていた。
(そっか、あの店の者か)
こんな事をやるぐらいなのだ。あの店の関係者に、こいつが何処の者なのか、知っているやつがいるかもしれない。
そう思った私は、肉の首をぶちりと引き千切る。千切れる寸前、びゃあびゃあと耳障りな声を出していたが、完全に引き千切ってしまえば……いや、周りが煩い。
「……邪魔だから、退け」
本当に、煩い。肉の首を千切っただけなのに、ぷぎぷぎと発情期の豚みたいに喚き立てている。
軽く肉を振りかざしてやれば、そいつらはまだ喧しく騒いで……道を開けた。堪らず零れた溜息と共に、私は……ソープ店へと歩き出した。
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