第7話 激昂 ※グロ注意





 掴んだ肉から汚液が滴らなくなった頃、私はまた歓楽街に戻った。



 幸いというべきか、何というべきかは定かではないが、目的のソープ店はまだ閉まっていなかった。


 まあ、その手の店の営業時間は、基本的に夜が本番だ。昼間でも空いている店はあるが、夜に比べて客入りはよろしくない。だからなのか、件のビルの出入り口前には、キャッチと思わしき男が声を張り上げていた。


 ――キャッチとは、通行人等を特定の店へ勧誘することを目的とした人のことを差し、大まかにはそれら一連の行為をまとめて『キャッチ』という。


 キャバクラや風俗店などの場合は店から少し離れた場所で行うのが通例であり、よほどの激戦区でなければ店の傍では行わない。下手に騒ぎ過ぎて注目を集めれば、そのせいで客が離れ……まあいい。



 私が知りたいのは、キャッチがいるという事実のみ。



 何故なら、キャッチがいるということは責任者か、それに準ずる者が店にいるということ。それはつまり、この肉の関係者を調べるのに好都合だからだ。


 金色に染めた髪をネオンに輝かせている男を横目に、私はさっさとビルの中に入る。「――えっ?」背後で喚いていたその男が静かになったようだが、そのまま奥へ進み……エレベーターの前に立った。


 周りには、3人の男がいる。風貌は、まあ何というか……従業員ではなく、客なのが一目瞭然であった。彼らの視線がじろじろと私へと向けられたので、見返してみればすぐに視線を逸らされた……何だ?


 小首を傾げていると、エレベーターが到着した。開かれたそこには誰も乗ってはおらず、私はさっさと中に入ってボタンを押す。一拍遅れて中に入って来た他の男たちは……何やら驚いた様子で、私を見やっていた。



(……ああ、そうか。そりゃあ、ソープをやっている階のボタンを押せば、驚きもするか)



 この身体になってからかれこれ一年は経っているからなのか、すっかり忘れていた。今の私の見た目は中学生ぐらいの女の子だ。化粧で誤魔化せるような風貌でもない。


 そんな子が、ソープ店に向かうのだと分かれば、そりゃあ動揺もするだろう。(ちなみに、ソープ店とは性的サービスを行う店の一つである)


 そりゃあ、その手の性癖があろうが、その手の性癖がなくとも、だ。仮に私が逆の立場であったなら、気まずさに視ることすら出来なかったかもしれない。


 まあ、こいつらの中には私がソープ嬢(要は、性的サービスを行う女性)として接客する可能性を考えて、股間を固くしている者もいるが……諦めろ、私は違うから。


 そうして十数秒程度の沈黙の後、目当ての階にエレベーターが到着した。ぽーん、と聞き慣れた電子音と共に扉が開かれる。降りた私を出迎えたのは……見慣れぬ、店内の風景であった。


 まず、以前は、エレベーターを降りてすぐの位置から、店内全体(VIPの所は見えない)を見渡すことが出来た。けれども、今は簡易の仕切りが取り付けられていて、通路となっている。


 その通路の壁には、右矢印が印字されたプレートが設置されていた。なので、私は指示に従って右方向へと(ちなみに、左側には非常階段がある)進み……ガラス扉を開ける。



 途端、カラランカララン、と。入店を知らせるブザーが鳴った。



 店内の様子を一言でいえば、待合室であった。だが、ただの待合室ではない。同じ夜の店であるとはいえ、キャバクラとソープでは目的が根本から異なっている。


 だからなのか、まだ待合室の時点で煌びやかな内装であった店内はどこか薄暗く、妖しさが漂っていた。正方形の部屋には等間隔でソファーが設置されていて、既に客が一人いる。受付と思わしき場所に、人の姿はない。


 人の姿……つまり、ボーイ(男性従業員)だ。おそらく、その受付の奥へと続く通路の向こうにいるのだろう。私の腰元まで垂れ下がった暖簾のせいで奥を見ることは出来ないが、気配は感知出来た。


 もう一つの……建物の構造からみて左側は、プレイルームになっているのだろう。そちらからも気配はするが、その人数は多く、何やら睦み合っているというか、絡み合っているような気配であった。



(……分かってはいたけど、やはり、私の知る光景はもう、ここにはないのだな)



 脳裏を過るのは、つい数か月前にはあった……光景。懐かしさと呼べばいいのか、それとも寂しさと呼べばいいのか。自分でも分からない感情に突き動かされるがまま、私は受付の裏へと回り、暖簾を捲って中に入る。


 途端、待合室よりもさらに温かい空気が頬に触れた。待合室もそうであったが、中も合わせて改修工事をしたのだろう。突き当りまで続く廊下の右側に、扉が二つあった。


 奥の突き当りにも扉はあるのだが、それはおそらく外の非常階段だろう。他とは違って、その扉には変化がない。まあ、客が入らない非常階段なんて改修したって……ん?


 頭の中でフロアの構造を考えていると、がちゃり、と近い方の扉が開かれる。中から出て来たのはホテルのフロントマンを思わせる恰好をした金髪の男であり、そいつは私の姿を見るなり「……は?」ぽかんと大口を開けた。



 まあ、そりゃあそうだ。



 私の見た目が、見た目だ。若々しいなんて言葉どころか、純粋に若いのだ。お姉さん方からは『あんた、中学生どころか小学生にしか見えないよ』と言われたことがあるぐらいの見た目なのだ。


 そんな子が、こんな場所にいたら誰だって面食らうだろう。それは眼前の男も例外ではなかったようで、「え、えっと……?」状況の異様さよりも、疑問が前に出て来てしまっているようだった。



「あんた、こいつに見覚えはある?」



 とはいえ、いちいち説明してやるつもりはない。単刀直入に、私は片手に掴んだ肉を男へと見せた――途端、ギョッと目を見開いた男は仰け反って……尻餅を付いた。


 その顔は、目に見えて真っ青であった。「ほほ、ほほほ、ほんんも、もの……?」よほど驚いたのか、少しでも私から距離を取りたいらしく、かりかりと床を蹴ろうとしていた。


 でも、腰が抜けてしまったようだ。顔中に冷や汗を浮かべているその男は、座り込んだ位置からほとんど動けていない。見た目とは裏腹に、気が弱いのかもしれない。



「見覚えはあるのか、ないのか、どっちだ?」



 まあ、気が弱かろうが何だろうが、私がすることは同じだ。男の眼前に肉を突き出して、尋ねる。「え、あ、あ……」しかし、動揺しているせいで頭が働かないのか、男は唇を震わせるばかりだ。



(……面倒だなあ)



 でも、手掛かりは此処だけ。でも、こいつはあまり知ら無さそう……適当にやれば喉の調子も良くなるだろう。そう判断した私は、震える男の胸元を掴んで持ち上げ、壁に押し付ける。



 そうして初めて、男は我に返ったようだ。



 私としては穏やかに事を済ませたいだけなのに、男はひいいと情けない声と共に拳を放ってくる。とんとんと顔中を殴られて非常にくすぐったい。ていうか、鬱陶しい。


 なので、軽く上下に揺さ振ってやる。がっくんがっくん、男の身体が上下する。シャツが破けたからなのか、何やら泡を吹いて苦しそうだが、まあ、コイツが悪いから仕方ない。


 気絶しかけているようなので、放ってやる。ぐげっ、と死にかけの蛙みたいな声を出して転がったのを横目に、先ほど男が出てきた部屋へと入った――途端。



 こつん、と。額に何かが当たった。



 何だと思った私の視界に映るのは、事務机やソファー等の一通りの用具が置かれた応接室。その、一番奥にてこちらを睨みつける、額に傷痕が目立つスーツ……まあ、スーツの男。


 全体的に服装のセンスが些か疑われるその男は、何やら呆けた様子で私を見ていたが……ハッと我に返ったようで、次いで、私に向かって黒い……銃を向けると、引き金を引いた。



 ぱん、ぱん、ぱん。胸元に一発、頬に一発、扉に一発。



 正直、くすぐったくて仕方がない。扉を閉めた私は、ノブを掴んで、捻るように握り締める。べきり、と、変形して折れ曲がったノブは上手い事内部で引っ掛かってくれた。


 ぱんぱんぱんぱん、かちかちかち。音だけで、弾切れになったのが分かる。振り返った私の前には、目に見えて顔色を悪くした額傷の男が立ち尽くしていた。ぽとり、と、自ら落とした銃の音に、びくんと肩を震わせていた。



「……で、あんたはこいつと知り合い?」



 肉を掲げて見せてやれば、男はしばしの間、何も言わなかった。考えているのか、思い出そうとしているのか、右に左に視線をさ迷わせた後……「俺は、知らん」ポツリと、呟いた。





 ……。


 ……。


 …………知らない? はは、こいつ、ここで嘘を付くなんて度胸あるな。



 どん、と。私の手から離れた肉が転がった。瞬間、男はその場を駆け出し――事務机の陰に置かれていた、木刀を取り出した。と、思えば、するりと刃が煌めき……鞘が、ころんと床を転がった。



 ――躊躇は、なかった。



 雄叫びにも似た怒声と共に、駆け出す。腰の辺りに構えた刃をまっすぐ私に向けて、思いっきり私へと突き出された――ので、私も男と同じく、何の躊躇もせずに刃を掴んで止めた。



「――えっ!?」



 心底、意外だったのか。今しがたまで怒りに歪んでいた顔が、阿呆顔になっていた。構わす、掴んだ刃ごと腕を振れば……男の身体は、呆気なく放物線を描いてソファーへとぶつかり、そのまま止まらず床に落ちた。



「さて、と」

「げほ、げほ、て、てめぇ、なに――ぐごっ」

「喋りたくないなら、喋らなくていいよ。こっちで調べるから」



 咳き込む男の身体を放り投げ、天井へとぶつける。落ちてきた身体を再びソファーへと押し付けた後……ふと、傍のテーブルに置かれたガラスの灰皿に目が留まる。



 ……まあ、これは最後でいいか。



 そう思った私は、うつ伏せの体勢になっている男の背中に腰を下ろす。気づいた男が私を跳ね除けようとしたので、仕方なく男の耳を抓んで……引き千切ってやった。


 途端、男は豚みたいな声を出して身体を痙攣させた。そりゃあ痛いよね、と思ってみているが、あんまり煩いので「それ以上喚くと、反対の耳も千切るよ」そう呟いてやると、静かになった。うんうん、素直なのは好きだよ。



「で、あそこで転がっているやつは何者なのかな?」

「てめえ、こんなことして只で済むと――ギッ、いいい!!??」

「そういうの、いいから」



 でも、素直じゃないのは好きじゃない。だから、人差し指を握りつぶしてやった。煩いけど、質問に答えないコイツが悪い。「両手の指の分だけ我慢したいなら、すればいいよ」なので、私は中指をそっと握った。



「それで、あれは?」

「――お、俺らを敵に回して、おんどりゃあ覚悟を――ぐうああ!!??」

「それで、あれは?」

「――な、何が目的な――がああああ!!??」

「それで、あれは?」

「――や、やめ、な、なん――ああああ!!!!」

「それで、あれは……はあ、何か面倒だな」



 いちいち指をやるのは飽きた。なので、手首を握り折ってやる。瞬間的な圧力に皮膚が破け、血飛沫が手首から噴き出した。あ、死んだら駄目か……握り締めてやると、出血が止まった。


 でも、そうすると男が動かなくなった。見ると、青ざめた顔で泡を吹いている。いちいち余計な手間を掛けさせるのに少し腹が立った私は、男の背中に拳を振り下ろした――あ、やっちゃった。


 位置的に、肩甲骨の辺りだろうか。ティッシュに拳を叩き込んだかのような感触と共に、男の背中に拳の跡が残った。「うわ、汚ねえ」一拍遅れて、脱糞やら失禁やらを始めた男から降りて距離を取った私は……さて、と室内を見回した。


 男は、もう駄目だろう。まだ息があるのは感じ取れるが、虫の息だ。放っておけば、5分と経たずに息を引き取る。ならば、私が取れる手段は家探ししかない……と、思ったのだが。



「ふ~ん、やっぱり同隆会が裏に絡んでいるわけか」



 思いのほかあっさり、次への道標が見つかった。具体的には、鍵の掛かった引き出しに入っていた金庫の中に携帯電話やら名刺やらが入っていた。おかげで、手間が省けた。


 ……ちなみに、金庫にも鍵は掛かっていたが、素手でこじ開けた。手提げ金庫なだけあって脆く、少しばかり強めに力を入れただけで変形し、空けることは容易であった……さて、と。



 ――それじゃあ、一番近い所に行くか。



 そう結論を出した私は、部屋の外へと向かう。途中、息絶えている男の姿がったが……まあ、いいか。放っておけば、誰かが処理してくれるだろうし……ねじ曲がるドアに指を突き入れ、無理やり押し開いて外に出た。



「――らあ!」



 瞬間、ごつん、と脳天に何かがぶつかった。何だと思って見やれば、呆気に取られた……誰だろうか。先ほど気絶した男ではない体格の良い男が、握り締めた鉄パイプを私の頭に乗せていた。



 何だコイツ……そう思うと同時に、気付けば私はその男に蹴りを放っていた。



 男であった頃の名残か、無意識に急所を狙った蹴りは、その男の下腹部を砕いて粉々のミンチにした。「あ、死んじゃった……」そう私が呟いた時にはもう、男は悲鳴一つ上げられないまま……仰向けに倒れてしまった。


 ……蘇生処置など、無意味だろう。蹴った感触から、損傷したのは骨盤どころではないのが分かる。太ももの大動脈が千切れてしまっているから、どの道失血死は免れない。



(額傷の男が呼んだ仲間なのかは知らんが、無駄死にご苦労様……んで、お次は、と)



 ちらりと、扉の陰に隠れている気配に目を向ける。位置的には、私からそこを見ることは出来ない。声一つ、吐息一つ、震え一つ漏らさないようにしているのを察した私は……満面の笑みをそこへ向けた。



「鬼を相手に鬼ごっこでもしてみる?」



 ……返事は、返って来なかった。まあ、当然だ。



 けれども……その向こうにいる人物へ見える様に、扉の縁に手を掛ける。途端、息を呑む音が私の耳に届いた。「かくれんぼの方が、好きかい?」ゆっくりと顔を覗かせてやれば……そこには、酷い顔をした男が立っていた。


 顔中に冷や汗を掻き、涙と鼻水で濡れ光る口元を両手で押さえている。すん、と鼻を鳴らせば、嗅ぎ取れるのは強烈なアンモニアの臭い。視線を下ろせば、ズボンの足首までぐっしょりと湿っていた。


 大方、死んだそこのやつを見てしまって、怖気づいたのだろう。まあ、命乞いをしようがしなかろうが、私がすることは何も……と、思っていると、男は震える手を胸元に差し込み……取り出した銃を、ゆっくりと私に突きつけた。



 ――その瞬間、男の口元が僅かに弧を描いたのを私は見た。



 ああ、こいつ、自分の勝利を確信したのか。そう私が認識するのと、衝撃が額を走って……ひしゃげた弾丸が足元に転がるのとは、ほぼ同時であった。

 唖然と……ああ、何度その顔を見ただろうか。


 いいかげん、違う顔ぐらいは見たいなあと思った直後、二発目が私の脳天にぶち当たった。そのまま、3発、4発、5発……かちん、かちん、かちん、弾切れに気付いて……いや、気付きたくないのだろう。


 一度は止まり掛けた男の震えが、目に見えて激しくなっている。突きつけた銃は震え、その銃を持つ腕は震え、その腕を支える身体が震え……がちがちと、歯を鳴らし始めた男を見て、私は……そっと、扉を閉めた。



 ……ただし、それは男に向かって、だ。



 仕切りの壁と扉に挟まれた男が何やら喚いていたが、構わず閉める……いや、開ける、だな。とにかく、本来の向きとは逆方向に開かれた扉の蝶番がべきりと壊れて外れたのを見て……私は、男へと声を掛けた。



「さあ、力比べだ。お前が勝てば見逃してやる」

「――っ!!」



 何やら喚いているが、構わず扉ごと男の身体を押し付ける。「ぐぉぇえ……!」挟まった男の儚い抵抗を感じながら、私はそのまま力を入れる。むにゃむにゃと男は何かを呟き――あっ。


 手応えが変わったと思った瞬間、べきりと男を押し付けている壁が外れた。後から無理やり設置されていただけあって、脆かったようだ……が、構わない。鬼の脚力をもって、そのまま壊れた壁ごと一気に押し退け……そのまま部屋奥の壁へと叩きつけた。


 ぐぴゅう、と。扉と奥壁に挟まれる形となった男の方から、何やら気持ち悪い音がした。まあ、そうもなるだろう。今度のは、コンクリートやら鉄骨やらで固められた、ビルの壁だ。


 先ほどのは脆く簡易なものだったから、押せば押す程少しずつ軋んで圧迫を逃がしてくれた。だが、こっちは違う。多少の力を込めたところで動くこともなく、男の身体はダイレクトに……さあ、何処まで持つかな?



「ほら、どうしたの、早くしないと潰れるぞ」


 ふひぃ、ふひぃ、ふひぃ、ふひぃ。


「腕かな、肋骨かな、腰骨かな、鼻かな、どんどん折れていくのが伝わってくる……ほらほらほらほら、死にたくないんでしょ?」


 ぶぴっ、ぶぴぴぴ、ぺきぺき、ぷぷぷぷ、ばききき、ぼきり。


「はあ、臭いくさい。でも、止まらないよ。ウンコを垂れ流そうが、シッコを垂れ流そうが、僅かも力を緩めてはやらん。潰されたくなければ、足掻け」



 そう発破を掛けてやるが、男の返事はない。床に広がり始める赤色やら茶色やら黄色やらの液体が、交じり合う。酷い臭いだと思うが、何故だろうか……爽快感にも似た感覚が、私の鼓動を早めてゆく。



 ――もっと、もっとだ。



 気付けば、扉越しに感じ取れた男の抵抗が消えている。けれども、構わない。ふんと鼻息荒く興奮した私は、そのまま両腕に力を込め……ぼこん、と、コンクリートの壁ごと、男をビルの外へと押し出した。



 その時、間に挟まれている男がどうなっているかは、分からなかった。



 何故なら、ビルの下へと落ちる寸前、床を蹴って上空へと飛んだ私は、そのまま向かいのビル壁を蹴って上へと飛んで屋上へと着地したからだ。


 どどん、と。色々なモノが落ちた音がしたが、まあいい。何やらギャーギャーと鬱陶しく騒いでいるやつもいるが、それもいい。ただ、運が悪かっただけのことだ。



 そう……運が悪いだけなのだ。結局の所、ここにいたやつらは運が悪かった。



 ここにさえいなければ、死なずに済んだ。同隆会なんぞにいなければ、死なずに済んだ。私に……今の私を怒らせさえしなければ、お前らの上司が余計なことさえしなければ、お前らは死なずに済んだのだ。



 ――でも、悔しがらなくていい。嘆く必要だって、ない。だって……もうすぐ、お前たちの元にいっぱい送ってやるのだから。



(ああ……身体が、熱い……!)



 そう、私は内心にて呟きながら……夜空へと飛ぶ。屋上から、別の屋上へと。貯水槽をへこませ、フェンスを歪ませ、コンクリートを削りながら、私は夜空へと飛ぶ。


 眼下に映る、人の群れ。老若男女の区別なく、夜のネオンに照らされた者たちが行ったり来たり、来たり行ったり。何処へ行くのか、何処から来たのか、彼ら彼女らは歩み続けている。



 ――何故だろうか、とても心地良い。



 まるで身体が羽になったかのように軽く、それでいて力が溢れている。ぐつぐつと、あれだけ煮え滾っていた怒りすら、もう分からない。消えてはいないが、不思議と気にならない。



 ――また、『波』が来ているのだろうか?



 それも、分からない。それに近しい感覚は有るのだが、あれほど私を苦しめた衝動が、ないのだ。だから、今の私に残っているのは、今にもこの夜空の向こうへ溶けてしまいそうなぐらいの……心地よさ、ただそれだけ。



 ――このまま、消えてしまえるのならば。このまま、夜に溶けて私がなくなるのならば……それでいい。いや、そうなってほしい。



 そう思うと同時に私が建物から地面へと降り立ったのは、歓楽街を少しばかり離れた、住宅街の一角。都市部も例外ではなく、人が集まる場所以外は、夜にもなれば人通りなんてあってないようなものだ。


 そのまま、暗闇の道路を走る。靴は途中で脱げてしまっているので裸足だが、構わない。元々、足が汚れないようにする為意外に、私が靴を履く理由などないのだから。



 走る、走る、走る、走る――走る。息は、乱れない。何故なら、いくら走っても苦しくないから。



 ガードレールに足跡を付けて直角に曲がり、街路樹に指の跡を付けて旋回して方向転換し、アスファルトを砕いて家やら何やらを飛び越える。進めば進むだけ、私の身体は熱くなる、熱くなってしまう。


 目指す場所は、決まっている。あそこから、一番近い事務所だ。でも、一つじゃない。やつらの巣穴が一つなわけないし、幾つかある内の一つしかない。けれども、それが、そこへ行かない理由にはならない。



 走る、走る、走る、走る――走る。通行人たちの横を駆け抜け、道路を飛び越え……ああ、見つけた。



 距離にして、300メートル程先。最後の角を曲がった私の視線の先に、その建物はあった。3階建てのそこは、一見するばかりでは何かの事務所だろうという程度の、よくある建築物の一つであった。


 夜だから閉まっているかもとは思ったが、明かりが見える。遠目からでも、何やら幾人かの男が表に出て騒いでいるのが分かる。


 もしかしたら、先ほどのソープ店での事が伝わっているのだろうか。車が一台、二台と建物の正面入り口より出て行く。そして、三台目が……私がいる方向へと車を走らせ始めた。


 ちょうど、私から車までの道路はまっすぐ一直線。途中で車が右左折をしない限りは、こちらに向かってくるだろう……笑みを浮かべる私の元へと、まっすぐに。



「ふふ、ふふふ……!」



 気付けば、私はさらに両足に力を込めていた。ぐんぐん、と。私自身がはっきり認識出来るぐらいに、私の身体は加速してゆく。


 車は、まだ気づいていない。250メートル、200メートル、150メートル、100メートル……車に乗る彼らが気付いた。


 上向きになった車のライトが、腕を振り上げた私を照らす。驚愕に目を見開く彼らを乗せた車が、急停止する――ああ、遅い。


 そう思った私の拳が、真正面へと放たれる。腹の底まで響く打突音、初めてかもしれない、確かな手ごたえ。車内の男たちがスーパーボールのように跳ね回るのを尻目に、ひしゃげた車は蛙のように横転した。


 おそらく、エンジンを冷やすラジエーター内の液体やら何やらが衝撃で爆散したのだろう。視界一杯を埋め尽くす飛沫に目を細めた私を他所に、割れた窓から……男が一人、這い出てきた。


 男は、酷い有様であった。剥き出しの顔面にはガラスの破片が幾つも突き刺さり、その内の一つは片目を抉り……失明しているのが私にも分かる。


 シートベルトをしていなかったようで、身体中をぶつけたのだろう。ひいひいと臭い息を吐いて伸ばされる指先の半分は歪に折れ曲がっていて、左足も曲がってはいけない方向に曲がっている。


 動きからみて、損傷しているのはそこだけではない。腰もそうだし、肩や手首や頸椎……そうそう、内臓も幾つかやられている。動けているのは、いわゆる火事場のくそ力的なアレのおかげ……ん?



 ……何で、そんなことが分かるんだ?



 思わず、私は小首を傾げた。けれども、理由はすぐに思いついた。定かではないが、何となく分かるのだ。鬼としての本能なのか、目にした相手の負傷具合が手に取るように分かってしまう。



 そのことに、私は嫌悪感なり恐怖感なりは抱かなかった。むしろ、その逆だ。



 それを思いついた瞬間、私は喜んだ。分かってしまうから……どこをどうやれば、まだ死なないのか。どこを傷つけなければ、まだ戦ってくれるのか……それが、分かってしまう。それは、とても嬉しい事だ。



「はい、頑張って脱出できたねご苦労様」

「――おあ、なんらあ、お前は」

「うんうん、痛いよね、苦しいよね、辛いよね」



 だから、私は嬉しかった。血みどろになってもまだ生きている男に、憎悪に満ちた私の中で、愛おしさが生まれた。だから、私は……その男を引きずって持ち上げると。



「それじゃあ、さようなら」



 異常に気付いたこいつらの仲間が、こちらに引き返して来ている。その車へと、ぶん投げた。



 男は、何かを叫んでいた。でも、その声は誰も聞き留めることはなく、放物線を描いた男の脳天が……ものの見事に、フロントガラスを突き破ってくれた。


 甲高い、ブレーキ音。ああ、聞こえる。理解出来ない状況に悲鳴を上げているのが、聞こえる。右に左に揺れる車が、ついには傍のガードレールを削って電柱にぶち当たって止まった。



 肉の砲弾は……死んだか。まあ、それはいいや。



 ――結局の所、運なのだ。今宵、彼らは運が悪かった。ただ、それだけのことなのだ。



 そして、重要なのは、車に乗っている他のやつらが生きているということ。



 傍のコレとは違い、アレは減速して電柱にぶつかっただけだ。その証拠に、エアバックが膨らんでいるのが遠目にも分かる。さすがに無傷ではないようだが、それでも負傷の度合いは低いだろう。



 それさえ分かっていれば、十分だ。



 気付けば、私は歩き出す。向かうのは、止まっている車。その次は、そのまた向こうからこっちに向かって来ている車。その次は、騒がしくなっているあの建物……ああ、忙しな――っ!?



 瞬間、光が背筋を焼いた。



 そう、私が認識した時にはもう、とてつもない爆音と共に凄まじい熱気が私を包み込んだ。傍の車が爆発したのだと理解した私の両隣を、爆風が通り過ぎる。



 いや、爆風だけではない。車の破片やら何やらが、火の子に混じってびゅんびゅんと通り過ぎ、かつんかつんと辺りに散らばる。さすがに、私も押し出されてたたらを踏んで……そっと首筋に手をやれば、ひりひりとした感覚を覚えた。



 ……というか、これって燃えていないか?



 なにやら熱いぞと思って見下ろした私は、思わず目を瞬かせた。何故なら、通り過ぎたはずの熱気の一部が私の衣服に燃え移っていたからだ。言い直すのであれば、実に纏っているワンピースがメラメラっとしていた。


 普通なら、跳び上がらんばかりに驚いて、その次は火を消そうと躍起になっていただろう。それこそ、混乱のあまり身体を振り回し、地面を転がったりしていたかもしれない……でも、私は違う。



 私は、『鬼』だ。



 鬼の身体は、この程度の熱気ではどうにもならないらしい。その証拠に衣服はしっかり炎を揺らしているが、私の身体には……欠片の火傷すら負っていない。


 言っておくが、やせ我慢などではない。その証拠に、黒煙が立ち上る車から離れて熱気から遠ざかれば……もう、気にもならない。身体の各所に熱を覚えはするが、その程度の問題でしかなかった。



 ――ざわざわ、と。



 車の横転音に加えて、盛大な爆発音もすれば、さすがに異常に気付く。見やれば、近場の家々から顔を覗かせる近隣住人たちの視線が、燃え盛る炎と、電柱にぶつかっている車へと向けられている。



 その中には、私へと向けられる視線も混じっていた。まあ、無理もない。



 私の見た目は、あくまで女子だ。人ではないが、その見た目はあくまで人間の少女。そのうえ、ママさんたちも太鼓判を押した程度には、客観的な意味で美少女でもある。


 そんな子が、炎に塗れていたらどうなるか。少なくとも、私が第三者の無関係な他人であったなら、動揺する。人が死んでいるという光景も相まって、どうしたらいいか分からなかっただろう……と。


 ばしん、と。顔を何かで叩かれた。視線を向ければ、近所の人だろうか。部屋着と思わしきラフな格好をした男二人が、必死になって私に何かを叩きつけている……タオル、か?


 そう、タオルだ。どうやら、それで私の身体を舐めている炎を消そうとしているようだ。なるほど、最初から見ていないのであれば、私は事故に巻き込まれた不幸な少女だ。



 ……でも、私はそうではない。



 ぎゃあぎゃあと喚いては集まり始める人々を無視して、あいつらがいる建物へと向かう。正直、放って置いてくれればいいのに、私の後を追いかけてはタオルやら何やらをぶつけてくる。


 そのおかげか、炎は無事に消えた。感触というか、感覚からそれが分かる。一気にざわめきが大きくなる中、動いては駄目だと幾人かが声を掛けて来たが……無視する。


 何故なら、怪我などしていないからだ。見なくても、それが分かる。中途半端に焦げて邪魔になったワンピースを脱ぎ捨て、下着も放り投げる。途端、周囲からまたざわめきが広がったが……もう、いいだろう。



 私は、走る。目指す先は、決まっている。



「――あは、あははは、はははははは!!!」



 何故だろう、気付けば笑っている私がいる。何が楽しいのか分からないのに、どうしてか……何もかもが楽しくて仕方がない。だから、私は笑う。



 でも、どうしてだろうか。頬が、冷たい。



 楽しいのに、楽しくて楽しくて楽しくて仕方ないのに……どうしてだろう。涙が、頬を伝う。己が頬を流れる涙の意味が、私には分からなかった。



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