第5話 脈動




 それから、酒を片手に帰ってきた私を待ち受けていたのは、実に散々な話であった。いや、怪我一つ負っていないから、むしろ無事にやり過ごせて良かったと考えるべきなのだろうか……とにかく、散々だったのだ。



 まあ、つまり。



 全身(というより、衣服が)がズタボロの私を見て、血相を変えるママたち。すわ、カチコミかと怒りを露わにする銀二たちに怪我など一切していないことを説明し、かつ転んだのだと納得してもらうのに、私はかなりの労力を費やすはめになってしまったのだ。


 何故かと言えば、いくら本当のことを話しても信じて貰えなかったからだ。まあ、自分で言うのも何だけど、それは仕方ないことだとは思う。


 なんせ、衣服の至る所に靴跡が付いていたりしているし、私の見た目が見た目だ。常識的に考えれば、いくら私が『平気だ』と言ったところでそれを真に受けたりはしないだろう。


 ビールケース一つ抱えることすら難しそうな私の細腕で、大人一人をぶっ飛ばした……まあ、我がことながら、ママたちが信じないのも頷ける。また、転んだ、で納得しかねるのも理解出来るし、もし、私が逆の立場なら嘘だと断じるだろう。



 だが、実際にはそれが真実だし、平気なのだから仕方がない。何故ならば、今の私は『鬼』だ。いくら見た目が華奢な少女だとしても、その肉体に秘められた腕力は人間の限界のはるか彼方だ。



 刃物すら通さない『鬼』の皮膚を、たかが人間の蹴りで傷つけられるわけがない。実際に刃物を通されたことがないけど、何となく分かってしまうのだ。今の私にとっては、刃物なんぞ『その程度』でしかないのだということが。


 よしんば傷つけられたとしても、そんなのはかすり傷にも達しない程度のもの。誇張でも何でもなく、唾でも付けておけば治るという程度のものでしかない。


 なので、そもそも前提が違うのだ。


 ぶっちゃけ彼らは私を袋叩きにしても平気な顔をしている化け物だとでも思ったのだろうが、私としては袋叩きにあったという認識すらない。なんというか爪を出していない子猫のパンチを四方八方から浴びせられたと考えてもらったらいい。


 おそらくは、その辺りの認識がママたちと私との間で致命的なズレを起こしているのだろう。それは理解しているから、私はあえてそれに文句は言わない。この手のことに慣れているからこそ、病院に行くべきか否かの判断が出来るママたちにとって、パッと見ただけの私は『行くべき』状態に見えたのだろうから。



(本当に平気なんだけどなあ……)



 そういう気遣いに慣れていない私としては、まあ……正直、くすぐったい気持ちが無いかと問われれば、そうでもない。


 ただ……病院に行ったら行ったで面倒事になるのは目に見えていたから、私は意地でも病院に行くことだけは避けた。


 そうして、病院に行くか行かないかで言い争い、最終的には『異常が出たら、勤務中であろうと行く』という結論へ強引に着陸させる。そのまま、些か強引に話を有耶無耶にして、翌日。


 顔を会わせてすぐに「眩暈はしないか? 頭痛は? 吐き気は?」矢継ぎ早に尋ねてくるママたちの追及にのらりくらりと答えて、やり過ごす。途中、「ふざけるな!」と怒られたが、まあそれも笑ってやり過ごして翌日。


 同じことを尋ねるママたちを前に、私は同じ返事をする。さすがに、3日、5日、7日と来れば、ママたちもひとまずは大丈夫だと判断したのか、10日を過ぎた辺りで何も言わなくなった。


 そして、そんなドタバタとした一連の出来事が話題に上らなくなるようになって、いくしばらくの時間が流れた頃。一旦は忘れかけていたこの出来事が、フッと私の前に再び立ち塞がったのは、季節はぐるりと巡り、しとしととした湿気が昼夜構わず漂う『梅雨』の時季であった。

 




 ママの仕事場は、表向きはスナックとしつつも、実際はキャバクラみたいなものである。というか、その内容を見る限りではまんまキャバクラである。席はVIPと一般の二つのグループに分かれており、どちらも女(キャバ嬢)がつく。



 ……だったらキャバクラでいいじゃん。



 そう思ったりもしたが、今はキャバクラよりもスナックと言う方が、食いつきが良いらしい。なんじゃそりゃあと思ったが、まあ流行なんてそんなものだろう。


 そして話を戻すが、基本的にVIPと一般ではそこまでの違いはない。まあ、VIPは指名率の高い女が着きやすかったり、中にはVIP専属が居たり、多少の御触りならOKという特典はあるが……まあ、つまり、長々と回りくどかったが、結論は何だと言うとだな。



 ――ケツぐらいなら揉ませてやるから、じゃんじゃかビール呑ませてくれねえかなあ……ってことだ。





 ……。


 ……。


 …………かつん、かつん、かつん、かつん、かつん。


 規則正しく砕かれる氷塊の澄んだ音が、心地よい。ほんの数か月前は気にも留めていなかったが、何て勿体無い事をしていたのだろう、と私は氷を取り分けながら思う。


 ただ、氷が砕けるだけである。そこには特別何かがあるわけでもないし、高い氷を使っているわけでもない。なのに、何故だろう……どうにも、心が安らぐ。どうしてか、聞いているだけで心が氷の冷たさに引き締まるような気さえしてくる。



 ……もしかしたら私はこの延々と続く作業によって、精神的に疲れているのかもしれない。



「――きーにゃん! 呆けてないで手を動かして! 後、氷は持って行くからね! これで当分は大丈夫だから、洗い物を手伝って!」



 うっとりと安らぎの世界をたゆたう私の耳に飛び込んでくる、三人ぐらいの足音と、ぼちゃぼちゃと響く水飛沫の音。ハッと我に返った頃にはその3人の気配は店内に戻っている。言われたことを思い出してそちらを見やれば、山盛りになっていたワインクーラーが無くなっていた。


 代わりに、溶けた氷水が溜まっているクーラーと、その向こうにある水の張った洗い場に浸けられた多種多様の食器の山。後は、所狭しとキッチンテーブルに乗せられた空ボトルと、次々に食器を運ぶ女であった。


 その食器の山と格闘し、テーブルに置かれた使用済みの食器を流しに浸けていく女は、この洗い仕事の為だけに雇われている。地味な出で立ちの彼女は、一目で裏方だと分かる風貌をしていた。


 とりあえず、言われた通りに道具を隅に纏めて洗い場に向かう。ちらり、と視線を向けられたが、先ほどの声は聞こえていたのだろう。彼女は無言のままに顎で食器受けを指し示した……ので、私も無言のままに布巾を片手に食器の水気を取り始める。



 ……最近、景気が良くなってきたおかげで売り上げが上がったという嬉しい悲鳴を、あちらこちらの席で聞くようになった。



 『鬼』になってからあまりそういったことを考えなくなった私だが、以前よりも高いボトルがオーダーされることが多くなってきている辺り、そうなのだろうと思う。


 そのせいというか余波もあって、こういった裏方仕事の需要は日に日に高まって来ている……らしい。景気の最前線に立ったことがないうえに人伝での話だが、まあ、そうだろうなあ……と最近になって私も実感している。


 なにせ、以前は時折ではあるが店内にヘルプとして出ていた私が、完全に裏方作業に徹したうえで、さらに2人を新しく雇ってもなお手が足りないぐらいなのである。今さっきもそうだが、以前は数分ぐらいなら愚痴を聞ける程度には余裕があったのに、今は全くない。


 それはつまり、それだけ客が来て儲かっている……ということなのだろう。お店を経営する側のママさんや、給料に直結するお姉さま方からは苦しくも嬉しい話……なのだろうけれども。



(……酒が飲みてえ)



 ――気付けば、私はため息を零していた。次いで、私は耳を澄まし……飛び込んでくる店内の騒音に、眉根をしかめた。この日だけでも、ため息は既に6度目である。



 『――オーダー入りまーす!』『イッキ! イッキ! イッキ!』『もうーやーだー』『あはははは、でさー』『遅いよーずっと待ってたんだからなー』『――オーダー』『イッキ! イッキ!』『あははははは』



 拾う言葉を文字にすればこんな感じ。がやがや、ぎゃーぎゃー、擬音にすればそんな感じに賑わう店内の騒音に耳を傾けていた私は……深々とため息を吐いた。



 ――いいなあ、あっちは酒が飲めて。ケツを一揉みさせたら一杯奢ってくれないかなあ……。



 その言葉を乾いた喉に唾ごと流し込む。客が増えたことで、店は大繁盛。連日連夜店の中は笑い声と煙草とアルコールに溢れ、ママはもちろん、お姉さま方も増えた給料にニッコリ……なのだが。



(……酒が飲みてえ。心から飲みてえ)



 私と言えば、青息吐息。ともすれば今にもふて寝したくなるぐらいに心は低空飛行。まあ、それも仕方がない。



 表から聞こえてくるのは、アルコールが奏でる楽しい楽しい享楽の一時。

 片や、こちらは洗剤の泡を見て喉を鳴らしてしまう哀れなアル中が一匹。



 どうして、こうなってしまったのか。


 何故かと問われれば、なんてことはない。とっくの昔に給料をアルコールに変えてしまっただけであり、次の給料日まで一日辺りビール2本で我慢しなければならない事態に陥ってしまっただけであり……要は、自業自得なだけである。



(あの時……あの時、いつものようにビール(500ml缶)を18缶までに抑えておけば……!)



 つい、我慢できずに飲みまくったのがいけなかった。給料増えたし、ちょっとぐらい羽目を外しても……と考えて、いつもより一枚大目に諭吉を取り出したのがいけなかった。


 結果は見るも無残。一度覚えた堕落の味は私の頭からすっかり限度と我慢というやつを奪い去り、一本、また一本と本数は増え……気づけば、この有様だ。


 誰のせいでもなく、全ては自分のせいである。なので、ママに給料の前借も出来ない。ていうか、それをしたら最悪強制断酒されかねないから、口が裂けても言えない。



(ああ、でも……酒が飲みてえ……)



 ふと、目に留まった空ボトルを手に持ち……ため息が出る。景気が回復しているとはいえ、大量に残したまま破棄しちゃう羽振りの良い客はそういない。


 ビールならまだしも、ウイスキーのようなやつはキープしちゃうからお零れにも預かれ……と。



「――あのさ」

「……ん?」



 不意に掛けられた声に、メランコリーしていた私の意識が浮上する。振り返れば、いまの今まで作業に没頭していた女と目があった。



「トイレに行くから、少しの間いい?」

「ああ、どうぞ。ご自由に」



 初めて声を聞いたが、意外とはっきりした声をしているんだな……ていうか、こいつの名前はなんだったっけ?



 そう思いつつ、部屋を出て行く女を見送る。よほど我慢していたのか、その歩調は妙に速いというか駆け足気味で、するりと廊下の左へと姿を消し……って、あれ?



「……あいつ、どこへ行くんだ?」



 ここからトイレには、廊下に出て右側から行くのが早い。いちおう左側からでも従業員専用のトイレがあるが、そっちは非常階段を通って下の階まで降りなければならない。



 小走りになるぐらいに我慢していたのなら右に行けばいいのに、何でまた左に?



 というか、非常階段は普段から鍵が掛かっていているから、通るのはけっこう不便なのだが……まあ、いいか。どうせ、トイレじゃなくて煙草でも吸いに行ったのだろう。


 そう思考を締め括った私は、再び食器を拭ってゆく。どれぐらいで戻るかは分からんが、たんまり食器が溜まっている。のんびり作業を続けていたらそのうち戻って――って、あれ、そういえば。



(……さっきからあいつも見当たらないな)



 今更ながらに思い出した事実に、私はキッチン内を見回す。その女は洗い物作業をしていた女とは別に雇われた、もう一人の新入り従業員。そいつは主に調理系の仕事を専属でやっており、今しがた出て行った女とそう変わらない年頃の女である。



(あいつもトイレか……いやでも、かれこれ5分、10分ぐらい……煙草休憩、トイレ休憩にしても長くね?)



 幸いにも、今は酒以外のオーダーはなく落ち着いている。だが、この状況で下手にオーダーが雪崩れ込めば大変なことに……そう判断した私は、ちょっと様子を見に行こうかと手を止め――。



「ん?」



 ――た、瞬間、かちゃん、と扉が……非常扉が開かれる音を、『鬼』の聴覚が拾った。ああ、帰って来たのかと私は安堵のため息を漏らす……直後、おや、と私は首を傾げた。


 足音が多い。それも、一人や二人ではない。正確な数は分からないが5人……いや、6人だろうか。物音を立てないようにしているが、それでも荒々しさを隠しきれない足音が、どんどんこちらへ近づいて――。



「お?」



 ――不意に、廊下から顔を覗かせたのは、一目で堅気ではないことが分かる風貌の、スーツを着た男たちであった。その中でも一番背の高い男が、私の居るキッチンフロアを意味深に見回し……私へと視線を留めた。



(……誰だ?)



 見慣れない男たちだ。銀二の知り合いだろうか。そう思って見ていると、その男だけを残して他の男たちは足早に走り去って行った。あっちは確か店側……と、遠ざかって行く足音へ目を向けた……瞬間。



 ――ゴツっ、と衝撃が脳内を反響した。



 何が起こったのか、分からなかった。痛みこそないものの、突如視界を埋め尽くした何かに押されるがまま私は仰向けに倒れた……辺りで、ようやく私は殴られたことを理解する。



 ……またかよ。



 デジャヴュな気分になりながらも、私は顔をあげ――ようとしたが、その前に男に顔面を蹴りつけられた私は、色々と汚い床へ強かに後頭部を打ちつけた……デジャビュその2だ。


 もしや、殴って倒れたら頭を蹴るという喧嘩マニュアルでも存在しているのだろうか。そんなことを考えている間にも、蹴りは続けられる。小娘の頭をまるでサッカーボールのように蹴りつけるその勢いに、容赦はない。


 いわゆる、ヤクザキック、というやつだろうか。殺すつもりはないが、死んだら死んだで運が悪かった。そう言いたげな攻撃が、何度も私の顔面へと叩き込まれ――たので、私はとりあえず叩き込まれる足を横から殴りつけた。


 ドグン、擬音にすればそんな感じの打突音が響くと同時に、男の足首辺りの骨と筋肉と皮膚が砕ける。「――ガァ!?」男からすれば、それは想定外のことだったのだろう。


 片足が砕ける程の衝撃をまともに受けた男は、身体を支えることも受け身を取ることも出来ずに私へと倒れ込んできた……ので、私はそいつをはね除けて身体を起こした。



「……んで、いきなり誰だお前は?」



 とりあえずは呻き声をあげているそいつに尋ねるが、当然返事はなかった。まあ、仕方がない。加減はしたが、ただの人間がこれほどのダメージを受けて平気なわけがないのだから。


 襲い掛かる激痛に脂汗を掻いている苦悶の顔を覗き込む……やはり、見覚えのない顔……いや、違う。どこかで見たことがあるかもしれない……いや、どうだろう。単に忘れているだけかもしれないが、いきなり殴った挙句蹴りを叩き込んでくるような相手なんて忘れるわけがないし……ん?



 ぱん、ぱん、ぱん。



 その辺りで鼓膜が捉えたのは、思いのほか小さな音。その聞き慣れない異音に、おや、と私は顔をあげた――直後。このビルそのものを揺らすような大声……いや、悲鳴が、私のいるこの場所にまで響いた。



 ――まさか、さっきの男たちが――っ!?



 だが、私がそれらに注意を払えたのはそこまでだった。見れば、痛みに呻いていたそいつは私へと腕を向けていた。その手に握られたのは、黒光りする鋼鉄の武器。「――お?」それが銃であり、その銃口が己へと向けられていることを理解した――と、同時に、たん、と衝撃が私の視界を揺らした。



 ――撃たれた。



 それを理解してすぐに、私は衝撃が走った胸元を見やる。そこにあるのは、ぽつん、と空けられたエプロンの穴。痛みはなかったので、遠慮なく貫通しているシャツの中をまさぐり……取り出せたのは、歪に潰れた塊であった。



「……」

「……」

「……」

「……」



 不思議な……何というか、言葉には出来ない不思議な沈黙が私たちの間を流れて行った。男はたぶん、目の前に起こっている現実を理解出来ないのだろう。ぽかん、と大口を開けて呆けたまま、拳銃と私が持っている弾丸(の、成れの果て)を交互に見つめていた。



「……」

「……」



 無言のままに、男は再び引き金を引く。さすがに片腕とはいえ、この至近距離だ。無造作に打ち出された弾丸は奇跡的に外れるようなこともなく、薄っぺらな衣服を貫通して私の腹部にちくりと衝撃を与えた……が、それだけであった。


 当たったのは分かる。だが、怪我はない。もしかして痛みに気づいていないだけかと弄ってみるが……やはり、傷はない。それどころか、触れた指先には擦過傷の痕跡すら見つけられない。私は……いや、俺の肉体は……。



(今……俺ってば、撃たれたんだよな?)



 『鬼』の身体が頑丈なのは、知っていた。試したことはないが、車と正面衝突してもどうってことはないだろうという確信めいた予想があった。


 だから、例え銃で撃たれるようなことになっても死にはしないだろう……漠然と、そんなことを思っていた……が!



(お、鬼の身体ってほんとすげー!! 燃費(酒)滅茶苦茶悪いけど、それ差し引いてもすげー!)



 はっきり言おう……私は心の底から安堵した。こうして表面上は冷静に状況を受け入れているように見せているが、驚き過ぎて思考がぶっ飛んでいるだけだ。目の前に私以上に驚愕に思考を忘却している男の姿さえなければ、悲鳴の一つぐらいあげていただろう……そして。



(――って、ママたちは!?)



 安全であると分かれば、自ずと冷静にもなれる。あっという間に平静を取り戻した私は、悲鳴やら怒声やらが聞こえた店内へと戻ろうと立ち上がっ――。



「う、うわ、うわああああ!!!」



 ――た、瞬間。男は我に返ったのだろう。お化けに怯える幼子のように唾を飛ばして悲鳴をあげたかと思ったら、ぱんぱん、と私に向かって連射し始めた。


 だが、構うことはない。私は気にすることなく廊下へ飛び出す。たん、たん、と頬やら脇やらに衝撃を感じるが、それだけだ。


 そして、男の持っている銃も弾が尽きたのだろう。涙と鼻水を垂れ流している男は、かちん、かちん、と空しく撃鉄をスライドさせるばかりで、新たな弾を取り出すような素振りはない。



(――とりあえず、この男は後回しだ)



 そう判断した私は廊下を駆ける。曲がり角を直角に曲がり、すばやく反転。閉じられている扉を蹴破るようにして中に飛び込み……私は、絶句した。


 店内には、おおよそ元気にしている者はいなかった。既に幾人かの客やら従業員は逃げ出したのか、煙たくも静まり返ったその空間に、賑やかさというものはすっかりなくなっていた。


 見れば、ソファーやら机の下に隠れて凶行が過ぎ去るのを待っている人が、幾人か。おそらく、逃げ遅れたのだろう。そして、先ほどの男と同じように銃を構えて辺りを見回している者が私へ銃口を向けたが、すぐに下げた。


 多分、銀二さん関係の者だろう。名前は覚えていないが、一人二人は見たことのある顔がいる。既にここを襲撃した男たちは逃げた後のようで、耳を澄ましても慌ただしく逃げ去っていく足音は探知出来なかった……が。



「――っ!」



 私の目は、捉えた。店内の隅、ソファーの陰から姿を見せた女性……ママの両手が真っ赤に濡れていた。そして……そして、そのソファーの陰からはみ出た、白い両足。だらりと力無く横たわっているその足……その両足に嵌っている見覚えのあるソレは……っ!



(――ああっ!)



 思わず、喉が鳴った。急いで、駆け寄る。血の臭いとか、漂う硝煙の臭いとか、この時ばかりは私の頭から消えていた。フッと、脳裏を埋め尽くす感情。気づけば私は、倒れている女の……ドレスを真っ赤に染めているミキちゃんを前に、呆然と立ち尽くす他出来なかった。



 ――死んでいる。



 その言葉が脳裏を過った瞬間、私は反射的に唇を噛み締めた。まだ赤みのあるミキちゃんの頬を見て、私は直感する。


 『鬼』の身体がそう悟らせるのか、あるいは別の何かがそう思わせるのかは分からない。だが、確かに……私の中の何かが、眼下で横たわる女が、確かに息絶えていることを教えてくれていた。



「……同隆会(どうりゅうかい)のやつらさ」



 何も、言葉が出てこない。けれども、それは恐怖からではない。こみ上げてくる熱に唇を噛み締めて……そんな私に静かに語りかけたのは……ママだった。



「……ミキは、銀二のところの女だ。おそらく、宣戦布告のつもりなんだろうね」



 その言葉に、私は振り返る。私の目に映ったのは、涙を堪える姿でも無ければ、無常な現実に悲痛な顔でもない。起こってしまった事態を見て、冷静に解説する……観察者のような顔であった。



「目的は何であれやつらは点けてはならない導火線に火を灯しちまった。こりゃあ、下手すれば戦争になるよ。それも、長い……泥沼みたいな戦争さ」

「……どうして」

「あん?」

「どうして……そんなに平気な顔をしていられるんだ?」



 そう言った瞬間、ばちん、と衝撃が静まり返った室内に響いた。周囲からの視線が一気に己へと向けられる中、「――相変わらず、あんたの身体は頑丈だね」痛そうに手を振っているママはそう言ってため息を吐いた……後、「平気なわけ、ないだろ」静かに私を見つめた。



「私もこの世界に足を踏み入れて長くてね。言っては何だけど……覚悟は出来ているのさ。そして、ミキも……それを承知で、こういう世界の女になったんだ」

「…………」

「まあ、お前もそうなれとは言わないよ。ただ、こうなってしまったら、当分は店も休業だ」



 そうママが言い終えてすぐに、私が出てきた廊下の向こうが騒がしくなる。多分、さっき私が足を破壊した男を誰かが見つけたのだろう。険しい顔でそちらに駆けていく男たちの背中を見やりながら……私は、両手で顔を隠してその場に蹲った。



「……今は好きなだけ泣くがいいさ。でも、今後をどうするかはお前の判断で決めな。私で出来る範囲だけど、仕事先の一つか二つぐらいは口利きしてやれるから」



 そんな私の姿を見て、ママは泣いているとでも判断したのだろう。「――落ち着いたら、後で私の所にきな」私にその言葉を残すと、さっさとどこかへ行ってしまった……のを、私は冷静に確認しながら。



(――どうしてだ)



 私は、その両手で隠した世界の中で……震えていた。けれどもそれは、悲しみから来るものでもなければ、怒りから来るものでもなく、間違っても安堵から来るものでもない。



(――どうして、俺は……)



 とっさに、私は隠した。それがどれだけ異常なことであることが分かっていたからこそ、私は隠した。静かに、誰にも気付かれないようにしながら……私は、隠し続けていた。



(――こんな状況なのに……良くしてくれた人が死んだっていうのに、こんなに怒りを覚えているのに、どうして、こんなにも……)



 弧を描く頬を、浮かべてしまいそうになる笑みを。



(――抑えろ、抑えろ、抑えろ、抑えるんだ。呑まれるな、俺はまだ、心は俺なんだ。俺は、まだ、俺なんだ!)



 漂ってくる濃厚な血の臭い。

 闘争の名残にざわめく胸の鼓動。

 湧き上がってくる興奮。

 下腹部から突き上げてくる疼き。

 体内の血液が沸騰したと錯覚するほどの怒り。

 そして、それらを凌駕して爆発的にこみ上げてくる……快感。



(誰だ……誰が、殺した? 同隆会の誰が、殺した? 何故、殺した? ミキちゃんが、お前たちに迷惑を掛けたのか?)



 思い返すのは、ミキちゃんの笑み。客の呑み残しをこっそり私の所へ持って来たり、勝手が分からない私を辛抱強く面倒みてくれる、その後ろ姿。全てが、もう見ることが出来ない……それを理解し、膨れ上がる憎悪を理解し……同じぐらいに湧き起こる、確かな感覚。



(――声を……出すな……耐えろ、耐えるんだ)



 それはまるで、オーガズムにも似た断続的な悦楽であった。私は、両手の中でそれを必死に隠しながら唇を噛み締めることで……零れてしまいそうな嬌声を、必死に堪え続けた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る