第2話 漂流



 そんなこんなで私は、帰るに帰られなくなった住所不定の無職のホームレスになった。文字にすればお先真っ暗な、世に絶望して身投げでもしてしまうような状況であろうか。



 少なくとも、同じホームレスたちの顔にはあまり笑顔が見られなかった辺り、けっこう大変な(もっとも、半分近くは気楽な様子ではあったが)状況なのかもしれない。


 だがしかし、当の私はというと……意外と平気な顔をしていた。相変わらず昼間は外に出歩けず、寂れた集合団地の空き家にて半日を過ごさなければならなかったが、とにかく私はけっこう気楽であった。


 なぜかと言えば、一つとして私には、私を想って心配してくれている家族や兄弟、友人の存在が無いということが挙げられた。


 とはいっても、別に天涯孤独というわけではない。友人が居ないのは別として、いちおう私には両親と、兄が一人と妹が一人いる。全員が存命で、全員がエリートという何とも逞しい一家なのである。



 では、何故私が心配されていないか、だが、一言でいえば、だ。



 私は、いわゆる『落ちこぼれ』というやつなのだ。世間一般的には決して低い位置ではないのだが、彼ら彼女らからすれば、私は『どうしようもない愚図』でしかない、ということなのである。


 その『どうしようもない愚図』が死んだところで、彼ら彼女らからすれば、だ。せいぜいが、『あ、死んだんだ?』ぐらいの反応が関の山だろう。もしかしたら、『ふーん、で?』といった反応になるのかもしれない。



 それが分かっていたからこそ、私はけっこう気楽な気持ちでいられた。



 それは、鬼の身体を得ていたことも理由の一つだったのだろう。鬼の身体はとにかく頑丈で、独りで生きていくにはあまりに適応能力に優れ、そして……強靭過ぎた。


 熱さ寒さはほとんど堪えないし、汗も掻かず、身体も汚れない。夏の日差しで蒸された室内の中でも平気だし、どれだけ酒を飲もうが排泄の欲求もなく、食事だって取らなくても平気なのである。


 これで、危機感を抱けという方が無理だ。加えて、私には背負う物が無い。重荷になる過去も何もかもがない。実に軽い肩をしていたのも、気楽な精神の一因になっていたのかもしれない。


 だからこそ、私は特に羞恥を気にすることなく自販機下の小銭探しに奔走したり、その金でビールを買ったり、補導してくる警官から逃げ回ったりと、中々サバイバルな日々を過ごし……けっこう自由な毎日を送ることが出来ていた。


 ……そうして家を失ってからしばらくして……宿を貸してくれるという奇特な女が私の前に現れたのは、おおよそ三ヶ月ぐらいが過ぎたころであった。



 ――一夜にして鬼娘に変わり、半日にしてホームレスへと転落し、流浪者へとジョブチェンジを果たした者など、おそらく世界広しといえど私ぐらいなものなのかもしれない。



 ドぎついネオンの輝きと、呼び子の喧しい掛け声。立ち並ぶホステスの媚びた挨拶に、酔っ払いたちの酒臭い怒鳴り声。そして漂ってくる揚げ物の臭いと……微かに香る、酒の匂い。


 こういった世界があるのは耳にしていたが、まさか眼前で拝む日が来るとは、三ヶ月前の私は夢にも思わなかっただろう。


 ヤクザ(崩れのチンピラかもしれない)の罵声を耳にしながら、私は……古びた雑貨ビルの屋上にて、のんびりと眼下を見物していた。もちろん、外から見付けられないように気を付けながら、の話だが。



(うーむ、ついに金が無くなってしまったか……酒が買えなくなるのは、ちと辛いな……いや、違う)



 いや、少し訂正しよう。



(物凄く辛い……あー……酒がのみてぇ……!)



 のんびりと、ではなく、けっこう切実な気持ちであった。正直、今なら万引きの一つや二つは罪悪感なくこなせてしまいそうな心境である。以前の私なら、間違ってもそんなことをしようとは思わなかっただろう。


 しかし、今の私は違う。この身体になって三ヶ月が過ぎて、己の身体に付いて色々と知る機会があった。一蹴りで数十メートルを飛び上がれる脚力に、車一台を持ち上げる腕力。鬼の凄さと恐ろしさを肌身で実感したのも記憶に新しい。


 それらを経て理解したことなのだが、『彼女』が残した五つの注意事項は、誇張でも何でもないということ。本当に注意しなければ、『私の身が危ない』という切実な現実であった。


 ぱきん、ぱすん。ぱきん、ぱすん。


 捨て置かれていたレンガで遊び始めて、早三十分。こうしてみて、改めて実感する。鬼の握力は常人のそれではない。軽く触った程度では同じでも、少し意識を込めれば、固いレンガも豆腐と同じ。



「んー……くそ、今日はまた、随分と補導員がうろついている……何かあったのかねえ」



 酒さえあったら、何時間でもこうしていられるのだが……退屈だ。何もすることが出来ないというのは、思っていた以上に退屈であることに気づいたのは、もしかしたら鬼になって初めてなのかもしれない。


 ちなみにこのレンガを見つけたのは、昨日の夜。何かに使えるだろうかと思ったが、所詮はレンガだ。結局は暇潰しにしか使い道はなく、その暇潰しにも飽きてきていた。



(そろそろ指遊びも飽きてきたな……あああ、酒が飲みた――)



 ふと、私は手を止めて振り返る。そこにあるのは、ビル内へと続く入口が一つ。けれども私の意識は、その安っぽいアルミとガラスで出来た扉の奥にある……階段を上ってくる足音を捉えていた。


 ――何かを考えるよりも前に、私は音を立てないようにコンクリートを蹴る。空を舞う黒鳥のようにふわりと夜空に飛んだ私の身体は、音も無く入口の上。初見では絶対に気づかれないであろう場所に、足音一つ立てずに着地した。


 ……この三か月の間に出来るようになったことの一つである。最初は加減が難しくて何度か地面に穴を開けたりしたが、今ではほらこの通り、ルパン顔負けの身のこなし。恥ずかしい失敗もあったが、一端の鬼にはなれているだろう。



 さて、誰が来るだろうか。



 床に耳を近づけたまま、私は心の中で密かに予想を立てる。私はここしばらく前からこの場所を定位置(夜は、いつもここで暇を潰している)にしているので、この場所に来る人が誰なのかはだいたい知っている。


 加えて、この屋上に来る人が限られている(だからこそ、ここを気に入っているのだが)ということも、これまでの日々で把握出来ていた。



(足音から察するに、一人。足音の強さや歩調からして……ふむ、ヒールやブーツといった足音とも違う。音が軽いし小さい……もしや、スナックのママだろうか?)



 私の記憶が正しければ、だ。そいつは確か、すぐ下にあるスナックを経営していた……だったと思う。迫力のある怒鳴り声やら何やらが聞こえることもあるそこの熟女……というには些か皺が多めの、中々に腹黒そうな雰囲気があったのは覚えている。


 何しにここに来たのかは知らないが、おそらく煙草でも吸いに来たのだろう。前にもそんなことがあったのは、私の記憶にも新しい。一人で来る辺りが、さらに私の予想を確信へと後押しした。



(しかし変だな……)



 私だって、この身体になる前は(不思議と今では、そんなに吸いたいとは思わない)一端の煙草呑みだ。独り静かな場所で吸いたくなる気持ちは分かる……だが、今はおそらく営業中ではなかろうか。


 正確な時間は知らんが、来るときは何時も同じ時間で、今よりもずっと後のこと。ママをやっているだけあって、眼下の道路に見られる酔っ払いの数がほとんど見られなくなる辺りでないと、ここには昇って来ない。


 今まではそうだったが、もしかしたらそれは偶々だったのだろうか。だったら用心しなくては……今後のことで私が一人考えていると、きぃ、とアルミと蝶番が擦れる音と共に、一人の女が姿を見せた……やはり、スナックのママだった。



 後ろ手で扉を閉めたママは、そのまま、かしゃりと鍵を閉める。その手には……紙袋?



 何が入っているのだろうか。何時もと違う行動に首を傾げていると、ママはするりするりと屋上の端に移動して明かりを灯したと思ったら……煙草を吸い始めた。



(……まあ、思った通りではあるな)



 少し外れたが、だいたいの予想が的中したことに、私は軽く頷いた。賭けも何もないが、予想が当たるのは中々に楽しい……のだが、じっくりと様子を伺っていた私は、ママに感心の目を向けた。



(熟女というやつには興味など抱いたことは無かったが、なるほど。あれが、美しく齢を取るということか……)



 鬼の目には、本来なら暗がりで隠れて見えなかったはずの姿がよく映る。皺を化粧で隠しながら、それでいて必要以上には消したりしない。老いを受け入れながらも、美しくあろうとするママの姿が、私にははっきりと見えた。


 相変わらず、遠目からでもはっきり分かるぐらいに、乱れ一つ無く自然に着物(高いのかは知らん)を着こなしている。ただ仕事着として着ているだけでなく、普段も着物で生活しているのだろう。それぐらい、自然体であった。


 ……さて、後どれぐらいそうしているだろうか。見た感じ、半分ぐらいまで煙草を吸い終えたようだから、後5分も掛からな――



「――いい加減、姿を見せたらどうだい?」



 瞬間、暗がりの中で振り向いたママの視線が、確かに私を捉えた。



 ――っ!?



 反射的に、私はさらに息を潜めた。



(まさか――)



 私のことがバレている?



(いや、そんなはずはない)



 私は心の中で否定した。今まで、そんな素振りは一度もみられなかった。私自身、ここに来るときはかなり気を使っているし、誰かに見られた覚えは――。



「それとも、無理やり引きずり出されたいのかい?」



 だが、ママの視線は相変わらず私の方へと向けられている。あ、これは確実に気づかれている。それを理解させられた私が迷っていると、ママはため息と共に、ふう、と紫煙を吐き出した。



「まあ、素直に出てくるとは思っちゃあいないよ」



 そう言うと、ママは紙袋の中から取り出したデカいランプ(そんなものを持って来たことに、少し驚く)のスイッチを入れると、それを傍にあった、埃やら何やらで真っ黒に汚れた椅子に置いた。下のネオンには劣るが、中々明るい。



「とりあえず、降りてきな。まずは話をするとしよう。話しにくいのであれば、まあこれでも飲んで口を柔らかくしな」



 次いで、ママが取り出したのは……私が現在求めてやまなかった、ビールであった。






 何故私のことがバレていたのか。一言でいえば、『監視カメラ』の存在だった。今の今まで私は気づかなかったが、どうやら屋上のどこかには巧妙に隠されたカメラが一つ、仕込まれていたらしい。


 ママ曰く「ここらへんは物騒でね」ということらしい。あんまり深く立ち入らない方が良いと判断した私は、素直に出てきた報酬として渡されたビールを、浴びる様に傾けた。


 喉を通る苦味が、ごくりと音を立てる度に下りてゆく。ビールでしか味わえない独特の味わいに、満面の笑みを浮かべてしまう私。それを見ていたママは、大きく紫煙を吐いた後……ポツリと呟いた。



「――なるほど。それじゃあ、角も棍棒も持っていないお前さんは、どこぞの家出娘でも何でもない、正真正銘の鬼だったってわけかい」

「ああ、そうだよ。映像を見たんなら、分かるだろ?」



 私の言葉に、ママはやれやれと大げさに首を横に振った。ちょっと、かちん、と来たのは秘密。



「大した身のこなしだということは、称賛しておくよ。だけど、それだけでお前さんの与太話を信じろ……と?」

「信じるかどうかはあんたの勝手だが、私は正直に話した。それ以上でも以下でもないさ」



 二本目のビールを傾けながら、私は話半分に頷いた。話せば二本目だと言われたので、とりあえずこれまでのことは話したのは、ついさっきのこと。念のため、私が鬼になった経緯はであることは伏せておくことにした……特に深い意味は無い


 というか、今の私はそんなことよりも、目の前の酒を飲むことの方が重要だった……げふ……生き返る。前からビールは好きだったが、鬼の身体になってからは、まるで甘露のようにアルコールが五臓六腑に沁み渡る。命の水とは、まさにこれのことだ。



「……まあいい。お前さんの頭がイカレているかどうかは、今は置いておくとしよう」



 苦い顔で不味そうに紫煙を吐いたママの鋭い視線が、私を貫いた。



「それで、お前さんの目的は?」

「――ああ、私のビールが……」

「まだ、お前の酒じゃない……質問を変えよう。お前さんは、何用でここへ? まさか、ヒットマンとでも言うまいね?」

「鬼の暗殺者とか、追われる方からしたら絶望以外の何者でもないな……ああ、私のビールちゃんが……!」



 三本目へと伸ばした私の手が、寸前のところで止められる。見れば、ママは不機嫌さを隠そうともせずに私を見下ろしていた。むう、私のビール……。



「別に、用事など無いさ。強いて言うなら、ここに居ればタダで酒が飲める時があるから、かな」

「どういう意味だい?」



 私の言葉に、ママは意味が分からないと首を傾げた。「どういう意味って、言葉通りさ」中々可愛らしい仕草だと思ったのは、黙っておこう。



「時折、女連れでここに来る男がいるだろう? ほら、腕に入れ墨を入れているスキンヘッドのやつだ」

「……ああ、あいつか」



 私の言葉に何かを思い出したのか、ママは頭を押さえてため息を吐いた。おや、薄々予想はしていたが、やはりママのスナックの常連客か。



「毎回というわけじゃないが、そいつはけっこうな割合でボトルを片手に持ってきてな……少しすると、決まってそこの暗がりでおっぱじめるんだ」



 ――あの馬鹿……やるなら店の外でやれと行ったが、屋上でやるやつがあるか。しかも、こんな子供の見ている前で。


 そう小さな声で零した愚痴を、私はあえて聞こえなかったフリをした。



「……それって、バレないものなのかい?」

「それが、バレないんだよな。適当な場所に転がしておけば、向こうが勝手に勘違いしてくれるから」



 実際、これまでバレなかったのだ。自分で言うのも何だが、説得力はあると思う。



「ああ、そうか……そりゃあ、私だってそう思うさね」



 皆まで言わずとも、ママも納得してくれたようだ。ついでに言えば、どうやら私のことを咎めるつもりもないようだ。少し安心した私は、早速ビールを傾け……ようとして、ふと、手を止めた。


 ……私の目的を確認する為にここに来た。そして、私がココにいる理由と、敵意が無い事を確認した……だが、理由はそれだけだろうか。本当にそれだけの為に、わざわざ手土産まで持って来たのだろうか。


 安心して気が緩んだからか、それが気になって仕方がない。「ところで、要件はそれだけか?」とりあえず、聞くだけ聞いてみようと思って、尋ねてみた。



「最初は軽く御灸を据えてやるだけのつもりだったが……少し、気が変わったよ」



 そしたら、ママはあっさり答えてくれた。だが、聞き捨てならない言葉があった。「それで?」嫌な予感を覚えながらも尋ねてみると、ママは……にんまりと、意地の悪い笑みを私に向けた。



「お前さん、帰るところは無いんだろ?」

「え……まあ、そうっすけど……それが何か?」

「いや、別に。そうか、帰るところはないんだね……」



 さらに、ママの笑みに黒さが混じる。嫌な予感が背筋をびしばし走る。昔から、こういう嫌な予感程、よく当たる。おそらく、今回も――。



「よし、それじゃあ勝手にここを使った家賃変わりだ。ちょうどこの前一人辞めたやつがいる……お前さん、しばらくうちのところで働きな」

「えっ」



 ――そうなるかもしれない。


 そう思った瞬間、その予感が的中してしまったことを、私は理解した



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