帰ってきた彼と

「……光莉」

「おばあちゃん!」


 溢れる涙を堪えながら、レーウェンを押しのけて由美に寄り添った。すると光莉の赤く晴らした顔を、彼女の手は優しくそっと撫でる。

 温もりはなく、ただただ冷たい手だった。おそらく彼女の脈拍が、徐々に薄まってきている証拠だろう。死へのカウントダウンはもうすでに始まっているのだ。


「さっき私らを助けてくれた男の人は……どこへ行ったん?」

「男の人って……スメシンのこと?」

「多分その人やわ……あんたの部屋でよくいてはった人やろ」

「えっ、もしかして知ってたん?」

「そりゃあなぁ……あんな大声で話されちゃあ聞きたくなくても聞こえてまうわ」


 極力外部には聞こえないように心がけていたつもりだったのだが、やはりスメシンの声はよく通ってしまっていたようだ。そもそも薄いドア一枚で、二人の会話が聞こえない方がおかしいか。


「あの人にお礼言うの……忘れてたんよ」

「お……礼?」


 この期に及んで由美は、スメシンに会いたいと言うらしい。


「スメシン、行ける?」光莉は小さな声で、スメシンに問いかけてみる。


〈次で四回目の具現化やで? ただでさえ神眼に負荷がかかっとるって言うのに、これ以上の具現化したら……ほんまに失明すんぞ〉


 確かに今日、スメシンは敦との戦闘の際に二回、藪林の際に一回の、計三回具現化を行なっている。加えて二回目の具現化が長時間だったこともあり、もう光莉の神眼の負担はとっくに限界値を超えていた。

 もしそれすらも超えてスメシンの具現化を行おうものなら、左目を失明させる覚悟が必要になってくるだろう。


 だがそれでも、由美の願いとあれば具現化させないわけにはいかなかった。


「お願いスメシン……おばあちゃんに会ってあげて」

〈……しゃあない。他でもない、婆さんの願いやからな。ワイもうまい具合で具現化したるわ〉

「ありがと、スメシン」


 途端に、光莉の左目に激痛が走った。それも目を思いっきり擦った後ようなひりつく痛みだった。

 そして片目を押さえた光莉の前に、黒い粒子とスメシンの姿が現れる。心なしか、その姿はノイズが走っているようにも見えた。


「あなたが……スメシンさんやったのね」

「改めまして、光莉の体の同居人、スメシンや」

「いえいえこちらこそ、光莉がいつもお世話になってます」


 寧ろこっちが世話してやってんだよ、と言う本音は心の奥にしまっておく。

 しかし同居人と言う言葉に反応していないところを見ると、そこまで由美も知っていたらしい。一緒に暮らしているとどうやら、隠し事などできないようだ。一方の知善も同じような反応をしているところを見ると、二人の間でもスメシンは知れ渡っていたのか。


「この子は人見知りで……あんまり友達と呼べる人はいませんでした」

「知っとるで。何せワイは、コイツが生まれた時から一緒やったからな」


 ぽんと光莉の頭に、スメシンが手を置いた。余計なことは言わなくていいのに。


「でもあなたと初田先生のおかげで……光莉も人と話すのに抵抗がなくなったような気がします……本当に……ありがとう」

「いやいや、それ程でも」


 顔こそ見えないが、だんだんとスメシンの心情もわかるようになってきた。大方今のスメシンは、照れているのだろう。案外彼にも、かわいいところはあるようだ。


「光莉……あんたは私らの大切な孫や……少なくとも私とおじいちゃんの物語では……コメットテールじゃなかったで」


 コメットテールではない……。それはすなわち、邪魔な存在ではないと言うことか。


「ハァ……ハァ……」

「おばあちゃん、しっかり!」


 するとだんだん、由美の呼吸が荒くなってきた。その度に彼女は、思い残すまいと言葉を一言一句捻り出す。


「お父さん……先に待ってるわ……」

「由美!」


 そして最後に、由美は溢れる想いを吐き出すが如くこう呟いた。


「みんな……ありがとう…………」


 救急車のサイレンが聞こえる。一足、いや、二足程遅かったかもしれない。光莉達に見送られながら、由美は幸せそうな顔で息を引き取った。

 左目からは血と涙が混じった雫が流れ落ちる。だが、その痛みを感じる余裕など光莉にはなかった。


 37


 あの日から三日が経った。

 結局藪林とその部下らしき男は死亡し、進化剤の出所などもわからずじまいとなってしまった。敦の復讐は確かに果たされたが、残ったのは恩師を失った虚無感だけ。わかってはいたが、復讐を遂げたとしても生活が良いように変化することはなかった。

 ただ一つ変わったのが、両親が敦を気にかけるようになったことか。そう言った意味では笛口家も、ようやく前に進むことができたのかもしれない。


 病院の一室で、橋本はベッドに横たわる敦を見ながら溜息を吐いた。


「敦、お前何やったんだよぉ。こんなんになっちまってぇ」

「ははは」


 あれから敦は、レーウェンに激しい運動を禁じられた。理由はおそらく、命を削る体内進素の消費を避けさせるためであろう。今や敦の体は、力を入れるだけで体内進素を使ってしまう体となっていた。

 故にもう、敦は走ることはできない。もうあの風を、感じることはできないのである。


「それにしても、まさか走られない体になっちまうとはなぁ」

「全くやで。敦、お前これから体育の授業どうすんだよ」

「学校にはもうそのことは伝えとる。多分、授業の成績は平均ぐらいにしてもらえるやろ。まぁせいぜい見学はしなあかんやろうけどな」

「何と言うか……お疲れやな」


 急に橋本が吹き出した。すると敦も釣られて吹き出してしまった。終いには二人で大声で笑い始め、部屋中に敦達の笑い声が響き渡った。


「コラ! もっと声のボリュームを下げろ!」


 カーテンが急に開いたかと思うと、隣のベッドにいた初老の男性が怒号を浴びせてきた。改めて敦は、ここが学校ではなく病院であることを再認識した。

 橋本が見舞いに来てくれているからと言って、ここが学校の教室になることはないのだ。そろそろ現実を見なければならない。


「すいません」

「気をつけまーす」


 老人の注意を胸に刻みつつも、敦は橋本と顔を見合わせる。彼の顔はどこか、嬉しそうにも見えた。


「どうした?」

「いや、何も」

「何やねん、お前」

「ははは、何にもない」

「どうだか……」


 何気ない言葉の数々、これら全ては敦が幸せ者である証拠だ。こんな日々こそが、自分の求めていたものなのかもしれない。復讐の先に得ようとしていたもの、それはもうすぐ近くにあったのだ。


「ところで敦……これからお前はどうするんや?」

「わからん。何せ俺も、こんな体になってもたからなぁ。まともな職に就くなんてこと……」


 するとまたしても敦のベッドの周りを囲っていたカーテンが開いた。

 できるだけ声は小さくしたつもりだったが、老人にはまだ騒がしかったか……。そう思ってカーテンの方に目をやったが、なんとそこにいたのはいつか会った刑事であった。


「確か……近藤さん?」

「やあ敦くん、憶えててくれて嬉しいよ」


 初めはきょとんとした顔をしていた橋本だったが、近藤が敦の知り合いだとわかった途端に会釈した。几帳面なやつである。


「あ、こんにちは」

「こんにちは。ところでこの子は……」


 敦が軽く紹介をしようとしたところ、それよりも早く橋本が口を開いた。


「俺、橋本って言います。敦くんとは、昔からの縁でして」

「そうなんや……なら邪魔したね。また出直すよ」


 そう言うと近藤は、少し申し訳なさそうな顔をしてカーテンを閉めようとした。すると橋本は、急いで彼を呼び止めた。


「近藤さん! 俺ももう帰るんで、敦といっぱい話してやって下さい」

「えっ?」

「じゃあ敦、また明後日ぐらいに来るからな」

「お、おお……」

「では近藤さん、後はよろしく頼みます」


 橋本はどこまで気の利く男なのだろうか。やはり彼は敦にとっての親友、失いたくない者の一人だ。

 そんな橋本に別れを告げつつ、入れ替わる形で近藤が席に座った。服装は初めて会った時と同じようなスーツ。そして表情も、智也の時と同じような真剣味を帯びていた。


「単刀直入に言う。立岩久瑠の意識が戻った」

「ええっ!?」

「静かに。ここ、一応病院だから」


 敦の口に、近藤の人差し指の腹が押し当てられた。一瞬だが、近藤の表情の糸が緩む。


「でも……なんで近藤さんがそれを?」

「俺も色々と調べてるからな。まぁその辺のことはあまり気にせんといてくれ」

「はぁ」

「そんなことよりも、俺は君に訊きたいことがあって来たやわ」

「訊きたいこと……ですか?」

「ああ」


 もしかして藪林の件のことか。しかしその予想は大きく外れた。


「何、簡単なことや。君は立岩久瑠に会いたいか?」

「久瑠ちゃんに……ですか」


 正直、会って話したいことはたくさんあった。智也の死についてのこと、なぜ自分をここまでトレーニングしてくれたこと、そして何より、彼女の夢のこと。これらは全て、直接本人に聞かなければわからないことばかりだった。

 しかし、同時に恐怖もあった。それは彼女の力に対する恐怖ではない。彼女の本心を知ることへの、本能的な恐怖であった。


「……会いたいです」


 だがここで立ち止まっていても、自分の時間は動きださない。だからこそ敦は、息を大きく吸ってから言葉を吐き出した。


「会わせてください。俺を、久瑠ちゃんに」

「わかった」


 二度三度と頷いた近藤は、立ち上がりカーテンを開けた。


「ならちょっと待っといて。準備してくるから」


 しばらくして、車椅子を押した近藤が戻ってきた。敦は車椅子に乗ると、そのまま流されるように近藤とエレベーターの中へと入っていった。


「確かあの子の階は……ここか」


 エレベーターに乗るや否や、近藤は敦の病室よりも二階上の階へのボタンを押した。しかし彼の押した階は関係者以外立ち入り禁止の階、まさかそんな場所に久瑠がいると言うのだろうか。


 ゆっくりと、エレベーターの大きなドアが閉まった。すると少しの間だけだが時間ができたので、今度は敦が近藤に訊ねた。


「近藤さんって、まだ智也の件について追ってくれていたんですね」

「ん?」

「少し前に捜査本部が解散されちゃいましたから、もう事件の解決は無理かと思ってたんです」

「はは、まぁそう思うのも無理はないわな」


 近藤は頭を掻きながら笑みをこぼした。


「実は俺、一度智也くんの件から手を引いてんねん」

「そ、そうなんですか?」

「でもそれじゃダメやと思った。やからこうして、自分のできることをやっていこうって思ってん」

「近藤さん……」


 チンーー。エレベーターのドアが開いた。会話した時間はほんの一瞬であったが、近藤の事件解決への意気込みは十分に伝わった。やはり彼は、第一印象通り真面目な男である。


「おっと、ここからは廊下でのお喋りは控えた方がええぞ。何せここは、厳重な警備体制になっとるからな」

「わかりました」


 彼にも彼なりに頑張ってくれていたんだな。すでに顔の強張りを崩している近藤の顔を見て、つい敦は吹き出してしまった。彼のような警察官がいるからこそ、自分達市民は安心して暮らしていけているのかもしれない。


「何がおかしいんよ」

「いえ、別に」

「何や、それ」

「あっ、でも一つ」

「何やねん」

「ありがとうございました、俺達のために」


 顔にクエスチョンマークを浮かべた近藤は、首を傾げながら敦の乗った車椅子を押し始めた。

 鈍感、それが彼のユニークポイントらしい。


「近藤です。こっちは笛口敦くんです」


 ガラス扉の前に着くと、そこにはフルフェイスのヘルメットに防刃ベストのようなものを着用した、鋭い人相の男二人が立っていた。

 彼らは近藤と敦の姿を目視するや、やたらめったら体を触ってきた。何やら武器になるようなものをつけていないかを確認しているらしい。入院着であるにも関わらず入念なチェックとは、余程こちらを信用していないのか。


「確認大丈夫です。では近藤さん、こちらへどうぞ」


 散々触られまくった挙句、いかつい武装をした男の内の一人に案内され、敦達はガラス扉の向こうへと入っていった。


「この人らはカレント対策委員会から派遣された人ららしいで。この人ら自体はカレントじゃないんやけど、カレントにも有効な銃弾を装備しとるっちゅう話や」

「へぇ」

「それに警備は常に三人体制、二時間おきに違う班の人と交代しとるんよ」


 厳重な警備体制。これだけ見ても久瑠が、どれ程厳重に監視されているかが一目でわかる。さすがは要注意人物と言ったところか。


 ガラス扉を少し進んだところで、突き当たりに病室らしき部屋への入り口があった。そこにも監視の男性が一人おり、敦達の姿を見るや一礼した。


「お待ちしておりました。ここが立岩久瑠の病室となります。中にはもうレーウェンと光莉ちゃんが待機しています」

「ありがとうございます」


 一礼して、ガラス扉を警備していた男が定位置へと帰っていった。しかしどうやらレーウェンの他にも、最近退院したと聞いていた光莉も来ているようだ。


 あの日以来、光莉とも顔を合わせていない。病室の番号が少し離れていたのもあるが、それ以上に彼女には負い目があった。

 彼女の祖母も、今回の一件で亡くなってしまったと聞く。故に今の自分には、彼女と会う資格などないと思った。何せ彼女の祖母は藪林に、人質として連れてこられた被害者なのだから。


「じゃあ入ろうか」

「……はい」


 ともあれ光莉とは、またこうして顔を合わせる運命だったらしい。ノックを三回した後、近藤は病室の中にいる者達に立ち入りの許可を求めた。


「近藤です。入ります」

「どうぞ」


 中からはレーウェンの声が聞こえた。失礼しますの一声と共に、敦達もその中へと入っていった。


 久瑠の病室は、壁の隅に備え付けられた四台の監視カメラ以外は普通だった。無論立ち入り禁止区間とは言え、ここも一般病院の病室なのだから当然と言えば当然だが。


「やあ、敦くん」

「こんにちは」

「にいちゃん、久しぶり……でもないか」

「そうやな。まだ言っても、三日しか経ってないしな」


 スーツ姿でビシッと決めたレーウェンはさておき、病室には左目に眼帯をつけた光莉と、起こしたベッドにもたれる久瑠の姿があった。レーウェンと光莉はすでに、椅子を用意して腰を下ろしていた。


 光莉の眼帯顔を見ると、痛々しく見えた。光莉の持つ神眼によるスメシンの具現化には、ある程度の回数制限がある聞く。そのたった一回の制限を超えるだけで、こんなにも負荷がかかってしまうのか。


「コメットちゃん、目、大丈夫なん?」

「うん、平気。まぁ視力はちょっと落ちてもたけどな」

「そう……なんや。でも失明せんくて、ほんまによかったな」


 その時、心なしか久瑠が敵意の視線を向けてきたような気がした。


「まぁな。日常生活にはあんまり支障は出ぇへんし、大丈夫よ」

「ならいいけど……」


 そして敦は、この病室の主である久瑠へと目を移す。何週間も寝たきりの状態が続いていたせいか、肌は以前と違い白く弱々しくなっており、全体的なシルエットも痩せこけていた。


「久瑠ちゃん……」

「敦さん……」


 感動の再会……とは言えないだろう。何せ久瑠は、智也を殺した張本人だ。そんな彼女を、これまでと同じように見るのには無理があった。

 その後も久瑠との会話は続かず、ただただ病室に気まずい空気が漂い始めた。


 そんな中、先に沈黙を破ったのはレーウェンだった。


「じゃあ近藤さん、話してもらえますか?」

「ええ。こうして役者も揃ったわけですしね」


 最後の役者と言うのが自分であることは、すぐに察した。しかしこのメンツが集まって初めて明かされる真実とは、一体何なのだろうか。

 大きく深呼吸をすると近藤は、頑なに彼から視線をそらす久瑠へと向かって歩み出した。


「何ですか、刑事さん」

「久瑠ちゃん、単刀直入に言わせてもらうな」

「どうぞ」

「智也くんに光莉ちゃんをいじめるように指示を出したの、君なんやろ?」


 今のは聞き捨てならなかった。光莉もこれには驚きのあまり、目を丸くして口をパクパクとさせている。本当に今、近藤は智也が自分の意思でいじめをしていたわけではないと言ったのか。


「ふふふ」


 何がおかしいのか急に吹き出した久瑠だったが、すぐにその表情を敵意あるものへと戻して近藤を睨みつける。


「どうしてそれを?」


 まさか、本当なのか……。今の彼女の反応で近藤の言っていたことが、真実だと確信できた。

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