収束

 案の定雨のように降り注ぐ血。勿論口に入らず外へ零れ落ちたものも多くあったが、それ以上に苦しかったのは口へ入った大量の血である。

 溶かした鉄をそのまま放り込んだかのような金臭い味には、当然ながら吐き気を催した。鼻を劈くような刺激臭も、鼻血が出ているせいかと錯覚してしまう。


 吐き出したい。しかしその思いよりも、やはり藪林への復讐心の方が勝った。何としてでも、彼には罪を償ってもらわなければ。そう思うとこんな一瞬の苦しみは、屁でもないように思えた。


「クッ……ハァッ!」


 決意と覚悟の上で、口に入った全ての血液を飲み干した敦。

 襲いくる吐き気をこらえながらも、体内進素を使うべく全身に力を入れる。すると先程まで度々感じられていた、目眩やふらつきなどの感覚は瞬時になくなった。これが体内進素の力か。


「行ける……ッ!」


 敦は立ち上がると、光莉に向かって微笑みを向ける。彼女の方も、頑張ってと言わんばかりの笑みを向けてきた。こうして見ると、やはり光莉はただの子供だ。


「おやおや、敦くん。立てるようになったんだな」


 レーウェンの襟元を掴んでいた手を、藪林が離す。そして今度は敦の方を向いて、普段と同じ悠長な口調で話しかけてきた。

 支えを失ったレーウェンの体は、そのまま骨を抜き取られたかの如く崩れ落ちる。見たところまだ息はしているようなので、何とか間に合ったらしい。


「君のおかげで、私は最強の力を手に入れられた。本当に感謝しているよ」

「先生……あんたは俺が止める」

「この力をコントロールできない君がか? 笑わせないでくれ。初期よりカレントであった私だからこそ、この力をコントロールできているのだよ?」

「だから何やねん!」

「勝てない闘いはやめた方がいい。それに私も、元とは言え教え子を殺したくない」


 その言葉を聞いて、思わず敦は奥歯に力を入れた。ーーふざけるな。


「ならその同情を、なぜ少しでも智也にしてあげなかったんですか!」

「何を言っているんだ。私の教え子では生徒など、興味はないよ。大事なのは私の、手に届く者だけだ」

「先生」


 もう何を言っても無駄か。一度目を瞑った途端怒りのせいか、はたまた藪林への失望のせいか、溜息を吐くように思ったことが飛び出した。


「俺はもう、あんたを恩師だとは思わない。弟の仇、取らせてもらうで」


 怒りの感情と体内進素のおかげか、最初に光莉と戦った時よりも力が湧いたようだった。そして藪林に向かって踏み出した第一歩は、まさに自分でも見違えたと思える程に軽やかであった。

 まずはこの一発、この全身全霊の一発を彼に当てなければ。


「なら私も、君をもう教え子だと思うのはやめよう。死ね、笛口敦ッ!」


 向こうも握り拳を作って、こちらへと歩み寄ってきた。その足は次第に速くなっていく。


「おりゃあッ!」


 先に拳を放ったのは敦だった。だがその攻撃は、藪林の足のつま先立ちターンで、軽く避けられてしまった。氷もないのに、スケート選手のような身のこなしだ。


「君の動きは単調過ぎて、簡単に読める」


 そして気がついた時にはもう、敦の後頭部に彼の回し蹴りが炸裂した。当然カレントの力を上回る威力での回し蹴りだったため、勢いよく敦の顔は一メートル程先まで地面を削り取った。

 破れる上下の黒い服。一応今日のためにと新調していたものだったのだが、これでは着る機会がなくなってしまった。


「君は小学生の時から何も変わらない。考え方も、行動もね」


 うるさい。これでも今の自分は、藪林がいたからこそ存在できているんだ。それを否定するなんて、自分を否定することに等しい。

 口に入った土を吐き出すと、敦は感情に任せて彼を叱責した。


「でも先生は変わっちゃったやんか! いらん力を持ってもて、人も変わってもたやんか! そんなん、変わらん方がよかったわ!」

「ふふ。根本的に言えば、私は何も変わっていないさ」


 下を向いて歯をくいしばる。これ以上藪林の黒い部分は見たくもないし、聞きたくもなかった。何より本人の口から直接聞くのは避けたかった。


「手元に置けないようなものは切り捨てる、それが私のポリシーだから」


 やめろ。だが無慈悲にも藪林の口が、閉まることはなかった。


「君もまた私にとってのコメットテール。邪魔なものは排除しなければならない」

「……黙れ」


 ようやく立ち上がった敦は、その野生動物のような眼光で藪林を睨みつける。だが一方の藪林は余裕綽々と言った表情で、顔を固定させていた。もはやその様は、元より表情が定められた人形のようであった。

 すると、またしても泉のように力が湧いてきた。それに今さら気がついたが、先程蹴られた後頭部も全く痛みを感じない。やはり体内進素の効力もそうだが、スメシンの能力も大きく功を奏しているのだろう。


「さぁ、かかってくるといい」

「言われなくてもそのつもりや!」


 光莉の祖母の容体、レーウェンの容体、そして何より、敦自身の寿命。これらの問題を一刻も早く解決させるためにも、ここは出し惜しみなどしていられない。

 またしても敦は藪林に殴りかかった。それも先程と同じようなモーションで。


「ワンパターン過ぎてあくびが出ちゃうぞ」


 そしてまた避けられる。これではいつまで経っても彼を倒すことができない。無論敦もスメシンの硬化能力があるので、二分間は全く同じことが言えるのだが。

 最強と最強の戦い。その終わりは、一体いつ終わりを告げるのだろうか。


 せめて一発、一発を叩き込むチャンスがあれば。そう思った次の瞬間、藪林の背後から黒い棒身が先端を覗かせた。


「かはッ!」


 突然海老反りとなり、足の小指をタンスの角にぶつけたかのような苦痛の表情を浮かべる藪林。その際彼に不意打ちをかました犯人が、してやったりと言わんばかりのドヤ顔でこちらを見てきた。


「アタシやって、やれることはやらな!」


 ディフェンスルーを用いた背後からの不意打ち。もちろんこれには、さすがの藪林にもダメージを与えることができただろう。

 しかし彼もまた、敦と同じ体内進素を扱える者。多少の打ち身であれば、一瞬で治癒をしてしまう回復力を持ち合わせていた。


「クソガキがッ!」


 怒り狂った藪林が、暇を与える間もなく光莉に殴りかかった。幸い、早い段階で防御の体勢をとっていたこともあり、その攻撃はディフェンスルーで防いでいた。

 だが光莉はカレントでない。故にその強い衝撃に、体が耐えられなかったようだ。持っていたディフェンスルーを手放して、彼女は鈍い と音が聞こえる程に強く尻餅をついた。


「痛ッ!」

「まずお前からぶっ殺してやる!」


 すかさず次の藪林の拳が、光莉の真上へと掲げられる。


「まずい……ッ!」


 今の光莉はスメシンの能力で硬化をしていない、まさに生身と言ってもいい状態だった。戦わないとばかり思っていたため、スメシンも触れるのを忘れていたのだ。

 もしあのまま藪林の拳が光莉に振り下ろされようものなら、即死は確実だろう。故に何としても、あの攻撃は止めなければならなかった。


 その時だった。敦は無意識の内に、自分の右手で手刀を作っていた。

 それは自分を認めてくれた人を、守りたい一心だったからかもしれない。


「やめろおおおぉぉぉぉッ!」


 そして敦の手刀は藪林の腹部から切っ先を覗かせた。途端に振り返ってきた藪林の口からは、赤黒い血が湯水の如く湧き出す。彼の瞳は怒りの炎を燃やしており、それを向けられて思わず身震いしてしまった。


「ア……ツ……シ……オマエ……ッ!」


 手から伝わる生暖かさから、ふと敦は藪林の手の温もりを思い出した。感触こそ違えど、やはりこの手から感じられる温もりは藪林のものだ。そう思うと彼と過ごした一年の、大切な記憶が蘇ってきた。

 初めて出会った時の衝撃発言。敦の学力が周りの者と追いつけるようにと、自分の休みまで削って個別夏期講習を開いてくれたことなど……。数えれば数える程、藪林をこの手で殺すことへの罪悪感が芽生えた。


 だが、その未練もここで断ち切る。この手に握られた、彼の命と共に。

 荒くなってきた呼吸を止めて、敦は呟いた。


「さようなら……先生」


 右腕に力を込め、天に向かってその手刀を振り上げる。すると藪林の肩から刀身が突き出した瞬間に、引き裂かれた彼の体からは大量の鮮血が噴き出した。

 それは敦が復讐を遂げた瞬間であると同時に、初めて人を殺した瞬間だった。


ーーそう思っていた。


「私は……不滅だぁッ!」


 この手でとどめを刺したはずなのに、全てを終わらせたと思ったはずなのに、藪林はその千切れかかった片腕も動かして、油断していた敦の首を両手で締めた。その手はまるで、藪林とは別の生き物が動いているようだった。


「ぐっ……」

「にいちゃん!」

「進化剤の力で、私の治癒力が高まっていたことを忘れたか!」


 見る見る内に、藪林の腕が胴体へと繋がっていく。まるでこの光景は、逆再生の動画を見ているかのような非現実さだった。

 だがその体を修復し終えた時、藪林は突然敦を掴んでいた両手を離し、今度は自分の首を絞め始めた。この一連の流れのせいで、もう何が起こっているのかわからなくなってくる。


「ど、どうしたんですか、先生!?」

「く、苦しい……なぜだ……身体中から力が抜けていく……」


 まんざらでもないような表情で、藪林が唸る。すると今度は、自分の方にも謎の脱力感らしきものが襲ってきた。と言うよりかは寧ろ、貧血状態と言った方が正しいのかもしれない。

 おそらく敦の体で血の代わりとなっていた、スメシンの具現化が解けたのだろう。全く、消えるなら消えるタイミングを事前に知らせてほしいものである。


 立っているのも辛かったので、とりあえずその場へと腰を下ろした。まだ目の前には、苦しみの表情を晒した藪林が唸っていた。


 36


〈これが、体内進素を使い過ぎた代償や〉


 突然敦が尻餅をついたかと思ったら、今度は頭の中からスメシンの声が聞こえてきた。どうやら神眼の効力も切れ、具現化も解けてしまったらしい。

 となると今の敦は、先程と同様の貧血状態に戻っていると言うことか。無論心配ではあるが、それよりも光莉はスメシンの言い放った言葉の真意が気になった。


「どう言うこと?」

〈さっきワイは、体内で生成された進素を使い過ぎると寿命を縮めるって言うたやろ? 今藪林が治癒させた大怪我で、その底が尽いたんや〉

「じゃあ……藪林はもう」

〈長くはないやろな〉


 光莉とスメシンの会話を、不思議そうに見つめてくる敦。側から見ればスメシンとの会話は、単に光莉が独り言を言っているようにしか見えない。当然、彼のような反応も無理はないだろう。

 一応スメシンから聞いたことは、敦にも伝えておいた。恩師の死を看取るかは、全て本人に委ねることにした。


「そうか……じゃあもう先生は」


 横目で苦しむ藪林の姿を見て、敦が声を漏らす。やはり彼にとっては藪林も、立場が違うとは言え光莉にもっての初田と同じような存在だったのだろう。そうでもなければ、敦が智也を殺した犯人を光莉だと勘違いしなかったはずだ。


「どうして……私が」


 とうとう膝から崩れ落ちた藪林が、敦の方に手を伸ばして言った。それはまるで、助けてくれとでも言わんばかりの風だった。


「これは全て、先生が一時の夢を見た罰です。もう先生の体は、長くありませんよ」

「……」


 皆が敦である場合、そこから先はどのような言葉を続けていただろうか。罵倒か、軽蔑の言葉か、はたまた怒号か、人によってその辺の本質は大きく異なるはずだ。

 しかし当の敦はと言うと、これら全てにも当てはまらない言葉を続けた。それはおそらく、結局彼が藪林のことを憎みきれなかったためだろう。


「でも俺は……やっぱり先生のことが好きです。正直、死んでほしくないんです」

「……?」

「あなたは自分の生徒を、何よりも大切にする先生なんですよね? やったら俺のこの思いも……大切にして下さい」

「……」

「生きて……生きて罪を償って下さい」


 その時、なぜか藪林の瞳からは一雫の涙が零れ落ちた。また、表情も苦痛を表現したものから笑みへと変わっていた。その笑みは普段のような嫌味を感じさせるものではなく、安堵にも似たものを感じさせてきた。

 まさかあの非情な藪林が、こんな表情をするとは。


「はは……その思いは受け止められそうにない」

「先生……」


 何か言葉を続けようとした敦だったが、その直前で藪林は右手のひらを向けて制止した。


「何も言うな。君の言う通り、私は単に夢を見ていたに過ぎない。力を過信し過ぎたあまり、その代償を見極められなかった愚かな男だよ」

「そんなこと……」

「でも君は……そんな愚か者に寄り添ってくれている。心優しい証拠だ」

「それは先生がこれまで……」


 今度は自分の意思で、敦は発言を取りやめた。おそらく今の藪林に、自分の声が届かないことを悟ったからであろう。

 もう藪林の死期は、すぐそこまで迫っていたのだ。


「最後を看取ってくれたのが敦くん……君でよかった」


 とうとう藪林は、事切れたかのように頭をかくんと傾けた。敦はそんな彼を目覚めさせようと必死に体を揺すっていたが、命を失った肉塊はただそのリズムに合わせて揺れただけであった。


「先……生」

「にいちゃん……」

「ごめんコメットちゃん。ちょっと、一人にさせてくれへん?」

「……わかった」


 ここは彼の要望通り、一人にさせておいた方がよさそうだ。何せ今日だけでも、敦は頭がパンクするような経験がてんこ盛りだったのだから。無理もないだろう。


「じゃあアタシ、この先のおばあちゃんのところにおるから。ほら、レーウェンさんも起きて」

「うっ……うう」


 とりあえず近くで倒れていたレーウェンを叩き起こすと、光莉は彼に行き先だけを伝えて由美の元へと走った。


「ほら、あそこに婆さんらがおるわ」

「あ……おばあちゃん!」


 スメシンに案内された場所へ辿り着くと、そこには苦しそうに息を荒くしている由美と、懸命に彼女へ呼びかける知善の姿があった。

 口元から漏れ出ていた赤黒い血が、由美の容体がよくないことを知らしめる。


「おばあちゃん! しっかり!」


 孫の呼びかけで意識が戻ったのか、由美は目を開けて光莉の顔を見るや、辛いにも関わらず引き攣った笑みを浮かべた。


「ひか……り……おばあちゃんは……大丈夫だから」

「そう、大丈夫やで! もうすぐ救急車も来るから、それまでの辛抱や!」

「そうや由美! 気をしっかり持て!」


 大丈夫なはずないのに、由美は光莉を安心させようと無理をする。できることならこんなこと、初田の時でされるのは最後にしたかった。そう思うと、自分があの時と何一つ変わっていないことを痛感した。

 初田は自分の不手際で殺されてしまった。そして今も、守ろうと決意していたはずの由美が瀕死状態にある。時計台をひしゃげるような威力を持つカレントの拳を、生身で受けてしまった彼女はまさに一刻を争う状態だった。


「救急車は呼びました……あと五分もすれば……ここへ着くでしょう」


 ギシギシと壊れかけの機械のような動きをして、レーウェンも遅れながらやってきた。遅い、カレントならさっさと怪我を治癒してきてほしかった。


「レーウェンさん、おばあちゃんはどうなるん?」

「すいませんお父さん、コメットちゃん……ちょっと失礼しますね」


 光莉を東京へと連れていったレーウェンは、知善からもそれなりの信頼を得ていたらしい。何も言わず知善が由美の側から離れたので、光莉もそれに続いて由美から離れた。

 殴られたのは腹部だと伝えると、レーウェンは由美の腹部にそっと手を置いて、容体を確認した。すると深刻そうな表情をして、大きな呼吸をした。


「僕は医者じゃないから詳しいことは言えない。でもおばあちゃんの容体は、とてもいい状態とは言えない。肋骨の骨折、もしくは内臓破裂を起こしている可能性がある」

「でもそれって、病院で治せるやんな!」


 レーウェンの顔は暗いまま変化しなかった。さらには隣の知善までが、顔に影を落として口を結ぶ。

 まさか……そう言うことなのか。察せざる得ない空気に、光莉の胸は張り裂けそうになった。

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