決裂
30
「お母さん、行ってくるな」
日が沈み、すっかり暗くなってしまった午後五時。中身がいっぱいになったゴミ袋で埋め尽くされた玄関で、敦の声が悲しく響いた。
当然返答はない。智也が死んでからと言うもの、こんな生活が毎日続いていた。
近所からも賢夫人と評判の良かった麗奈。だが今となってはその面影もない。蹲り、家事全般と言った主婦本来の仕事も放棄している。例えるなら、植物人間と言う言葉がお似合いだ。そんな彼女を見続けた海斗も、日に日に病んでいった。
だから敦には、何かに縋るほかなかった。復讐以外に自分の為せることはない、そう思った。だから死に物狂いで体力作りをし、力を手に入れた。
そしてまた敦は、新たな力を手に入れようとしている。自らの命を天秤にかけて、船越光莉に復讐するために。
「じゃあ……」
家を出て向かった先は、美濃市を一望できる城跡だった。最近ではそこで殺人事件も起こったらしいが、関係ない。とにかく今は、高い場所からこの町を見下ろしてみたかった。
「暗くても、光が灯っていると町はよく見えるなぁ」
一通り町を見下ろした後、敦はひん曲がった時計台近くのベンチに座った。無論、今の景色を忘れないようにするため、風景画として絵に描き起こそうと思ったからだ。
持ってきていた画用紙を挟んだ画板に、敦は鉛筆で下絵を描き始めた。
美濃市、自分が智也や両親と共に生まれ育った町。確かにここは、神戸などに比べると人口も少なく、高いビルやタワーもない。だがそれでも、育った町だからこそ知っている場所や人がいた。
だからこそ忘れたくなかった。自分はこれから死ぬかもしれない。だからこそ、視覚的にも町のことを覚えておきたかった。
「ありゃ」
しかし気がつくと、自分は描いていた風景画の下絵に、思いもよらぬものを描き足していた。下絵故に鉛筆描きではあったものの、その描き慣れたフォルムから何を描いたかを理解する。それは自分がUMAの中で最も好きだった、モンゴリアンデスワームの絵であった。
「やっぱ想像で描いたら変なもん描いてまうなぁ」
敦にはイメージ通りに描くと、頭に浮かんだ余計なものまで描いてしまう癖があった。加えて絵を描く時は軽いトランス状態になってしまうため、まさに無意識下での描画である。
紙はこれ一枚しか持ってきていなかったため、やむなしに続けて下絵の作業を続けた。どうせ消すぐらいならこのまま残しておいた方が、自分らしさがあっていい気がした。
こんな怪物が自分の目の前に現れてくれたら、こんな怪物が自分を殺してくれるなら、どれだけ幸せなことだろうか。最近、そんなネガティブなことを考える時がある。
怪異と言った非現実的な存在に殺された方が、一生を終える最高の幕引きだと敦は考えていた。進化剤を飲んで死ぬぐらいなら、そっちの方がよっぽど愉快だと思う程だ。
だが実際にはそんなことは起こらないこともわかっていた。自分がこの世界の支配者ではないように、たかだか目を瞑っただけで世界は消えないのと同じことなのだ。
「あとは色塗りやな」
しばらくして、町の上空に引き伸ばした腸のようなものが飛んでいると言うカオスな下絵ができた。ともかく、あとは絵の具で色塗りをすれば完成だ。
あともう少し、そう思って持ってきていたデザインセットに手を伸ばしたその時、敦は背後から鋭い視線を感じた。
急いで振り返ると、ほんの少し離れた場所にある小さな木の後ろで、その姿を隠しきれていない少女の顔が覗かせていた。
寝癖の目立つ髪だが前髪だけは綺麗に切り揃えられたぱっつん。日の光を浴びていないのか、あたかも日本人形のような白い肌。服装はポリエステル製らしい半袖半ズボンに黒のインナーで、額から汗が流れているのを見ると、どうやら彼女はついさっき走っていたようだ。
何か自分に用があるのか。おそらく久瑠ぐらいの歳であろう彼女に、声をかけてみる。
「君、何隠れてんの?」
はっとした顔でこちらを見てくる少女。しばらく固まった様子を見せてから、何かを決心したのかこちらへ歩き出した。
よく見るとどこか見覚えのある顔だ。もしかすると敦の小学生時代に何度かすれ違っていたのかもしれない。だとすれば彼女はまだ小学生のそれも高学年、大方智也と同じかそれより一学年上ぐらいだろう。
徐々に浮かび上がってくる白い顔は、恐怖心すら抱かせてきた。それに近づかれてわかったが、どうやら身長は敦よりも高いらしい。年下に身長で負けているのは悔しかった。
「何か用?」
「……いいや」
「あっ……そう」
途切れる二人の会話。あまり女子と会話慣れしていないせいで、歳下相手でもこのザマだ。
しかし近づいてきてくれたおかげで、なぜ彼女がこうも熱心にこちらを見てきていたのかがわかった。彼女は何も敦を見ていたのではない。敦の描いていた絵を見ていたのだ。
「君……もしかしてこれが気になるん?」
何も言わず、少女が頷く。無愛想な表情で。
「こ、これな、この城跡から見た町の絵やねん。ま、まぁこのミミズみたいなんは……」
「知っとる。モンゴリアンデスワームやろ」
驚いた。まさかこの町で、それも女子でこの分野に興味を持つ者がいるとは。
「嘘、君、UMA知ってるん?」
「まぁそれぐらいは。他も興味はあるけど、あんまりわからへん」
十分だ、寧ろそれくらいの方が教え甲斐があると言うもの。早速敦は彼女を自身の隣に座らせ、画用紙の裏に絵を描き始めた。
「これは、わかる?」
これも割りかし簡単な問題である。赤い大きな目に二足歩行の立ち姿。媒体によっては多少の変化はあるものの、その特徴的なフォルムは基本共通している。
「名前、何やっけなぁ……うーん」
頭を抱え、絵を見つめる少女。だがその口から答えは出ることなく、唸り声で時間だけが過ぎていった。
「はい、時間切れー。正解はチュパカブラでしたー。ちなみにチュパカブラの名前の由来、何やと思う?」
「チュパは吸うって意味で、カブラはヤギって意味やから……大方、ヤギの血を吸う怪物って意味合い?」
明らかに今の答え方は、元々その意味を理解していたわけではない。チュパカブラと言う言葉から、言葉の意味を独自で解釈したのだ。
「正解! 君、もしかしてスペイン語できたりするん?」
だが次の言葉には、さらに度肝を抜かれた。
「まぁ話すのと読むぐらいやったらできるで。もっとも、その言語を話しとる人とのコミュニケーションだけやけどな」
「す、すごいね君」
その歳でスペイン語が理解できる者など、敦の同級生には存在しない。故にこの少女がただ者でないことは、すぐに理解できた。
「なぁなぁにいちゃん、もっと問題出してよ!」
「えっ……今なんて?」
「だから問題、UMAの問題出して!」
厳密に言えば敦が聞き直したかったのは、彼女が今言った敦を指す言葉だ。にいちゃんーー。それは智也が、敦を呼ぶ時に使っていた言葉であった。
なんだか不思議な気分だった。寂しいようで、嬉しいような。まるで新しい弟……いや、妹ができたような気分だった。
「よし、じゃあ次はーー」
その後も問題は出し続け、気がつくと時計の針は七の数字を指していた。画用紙の裏ももう、描ききれないぐらいにUMAで埋め尽くされている。そろそろお開きにするか、そう考えた敦は立ち上がった。
「よし、じゃあもうこんな時間だし、続きはまた今度しよっか」
「ええー」
今のふてくされた表情にはどこか、出会った時とは違う柔らかさがあった。あの無愛想な感じはもうない。となると打ち解けてくれた、そう考えてよいのだろうか。
「わかった。じゃあにいちゃん、また明日、この城跡でな」
「あっ、ちょっと待って!」
後ろを振り返って立ち去ろうとする少女に、声をかける。
「君の名前、まだ聞いてなかったな。何て言うん?」
少し下を向いた彼女だったが、すぐに顔をこちらに向けてこう言った。
「コメット……私の名前はコメット!」
この子……電波だ。
31
レーウェンがカレント対策委員会に救援要請を出して、早くも二日が経った。しかし実動班の準備が完了していないらしく、未だ彼らは美濃市に足を踏み入れていないままだった。
そして昨日聞かされた、近藤が事件から手を引いたと言う話。彼には色々よくしてもらっていたばかりに、今回ばかりはこれまでの非礼を詫びたくなった。だがもう彼と会うことはない。素っ気ない態度ばかりとってきた後悔が、今更になって押し寄せた。
「……船越さん、船越さん、藪林先生が呼んどるで」
「えっ、ああ……ごめんありがと」
休憩時間中にぼぉっと窓の外を眺めていると、同級生の寺内の声に気がつけなかった。
いけない。ただでさえ愛想が悪いと言われているのに、これではさらにそのイメージを定着させてしまう。
だが同時に、彼女の今の言葉に疑問も覚えた。藪林が自分に何か用だって……。嫌な予感は言わずもがな、彼の考えていることには若干の興味も湧いた。
「一体何や……」
教室の前のドアに顔を覗かせている藪林を睨みつけながらも、光莉は静かに立ち上がって彼の方に歩き出した。
「やあ、船越さん」
「黙れ。先生を殺したあんたらの顔なんか見たくもないわ」
「先生……ああ、初田先生のことか。あれは別に私が命令を出したわけじゃないんだけどなぁ」
「ふざけんな、あんたらがアタシに関わらんかったら済んどった話やろ」
「それを言うなら、君が初田先生と関わらなかったら済んでた話、でもあるだろう?」
「ぐっ……」
何も言い返せなかった。確かに彼の言うことは腹が立つが、それでも間違ったことは言っていない。初田と自分が関わってしまったからーー。そんなこと言われては、胸が締め付けられるような感覚に襲われてしまう。
「まぁそんな話は置いといて、用件だけ伝える。君のおばあさんとおじいさんは私の部下が預かった」
「はぁ!?」
知善と由美が、コイツの部下に捕まっただと。何寝ぼけたことを、
「返して欲しくば今日の午後四時半に、城跡まで一人で来い。誰かに話したら……わかってるな?」
どうやら彼の言っていることに嘘はないらしい。その余裕綽々たる話しぶりが、それを際立てた。
それも城跡って……。ふと、昨日であった彼のことが脳裏に浮かぶ。もしかすると昨日の約束通り、今日も彼は城跡に訪れるのではあるまいか。そうなれば彼の身にも危険が及んでしまう。
「し、城跡はちょっと……」
「あそこは最近じゃあ、殺人事件が起きた場所だと言うことで人が近寄らなくなっている。こんなにも闘いの場としてふさわしい場所はないだろう」
そう言って彼は去っていった。残された光莉は、とりあえずスメシンに話しかけてみる。
「す、スメシン、今の聞いた?」
〈ああ。まさかこんなことになるとはなぁ。ともかく、学校終わったら家に直行しろ。じいさんばあさんが心配や〉
彼の言っていることには激しく同意だ。学校が終わるまでの数時間、光莉は落ち着きが保てなかった。貧乏ゆすりをし続けて、担任にも怒られた。理由を話せば許してもらえるだろうが、とてもじゃないが言えないのは悔しかった。
一人で闘うのはもうへっちゃらとばかり思っていた。でも違った。それは単に、痩せ我慢していただけだったのだ。
授業終了のチャイムが鳴り、帰りの会も終わると、すぐさま光莉は教室を飛び出した。そして自宅へ直行し、玄関のドアを開ける。鍵はなぜか、かかっていなかった。
「おじーちゃーん、おばーちゃーん!」
不安が過ぎりながらも、祖父母の安否確認をする。だが藪林が言っていたように、彼らの返事はなかった。まさにもぬけの殻だ。
知善も由美も、普段から家を留守にすることは少ない。それも二人同時などは尚のことだった。となると間違いない。どうやら藪林は、本気で彼らを連れ去ってしまったらしい。
「クソッ! アタシがおらん内によくも……」
歯軋りをして、いくつもの苦虫を噛み潰す。あれだけ彼らのことを守らなければと念頭に置いていたのに、それを果たせなかった自分が悔しかった。
〈どうするんや、光莉。レーウェンはんには言うんか?〉
「無理に決まっとるやろ! 藪林に釘刺されてもたんやから」
感情の行き場がないばかりに、ついスメシンにキツく当たってしまった。
「……ごめん」
〈別に気にしてへんわ。せやけど、そうなってくると結構厳しいんとちゃうか? 何せ相手は人質持ちやぞ? どんなことされるかわからんで〉
「そう……よな」
だがここでうじうじにしていても、何かが始まるわけでもない。とりあえず光莉は家の冷蔵庫に保存されていた、一昨日の朝市で由美が購入していた白ネギを一本と、店の冷蔵庫のお造り用に保存されていた大葉を十枚、保冷剤をたらふく入れたミニリュックに入れた。
そして自分の部屋から持ってきたのは、他でもないディフェンスルーだ。まさかこんなにも早く使う日が来てしまうとは、中々にレーウェンも用意周到である。
「四時半まであと半時間……そろそろ行かな」
〈おう。ワイらの戦いのシミュレーションはもうバッチリや。自身を持て、光莉〉
「うん」
空き巣が入らないよう、家の玄関を締めて光莉は外へ出た。もう二度と不審者が入ってこないように、施錠の確認は三度した。
城跡に着くや否や、曲がった時計台の針を見る。少し早く着いてしまったらしい。まだ藪林の姿はなかった。
「頼むからにいちゃん、今日はこんといてくれぇ……」
自分が昨日、いらないことを言ったばかりに彼が来てしまうかもしれない。そう考えると、とてつもない罪悪感に見舞われた。また自分と関わってしまった人が危うくなる、それを繰り返すことだけはしたくなかった。
だが願いは届かなかった。時計の針がもうすぐ五時を指そうとしたその時、彼は現れてしまった。
風貌は昨日のものと打って変わって、全身黒い服ズボンを着用していた。それに昨日持っていた画板などの絵の道具は持っておらず、かわりに大きめのギターケースを背負っていた。
「に、にいちゃん!」「コ、コメットちゃん?」
急いで危険を知らせなければ。何と言おうか迷ったが、思ったことをそのまま伝えた。
しかし次の瞬間、
「ここにおったら危ないで!」「今日はもう帰り」
彼と言葉が被った。当然、疑問が浮かぶ。なぜ彼は、この場が危険であることを知っているのか。
「えっ……」
「コメットちゃん……どうしてそれを……」
「どうしてって……えっ?」
まるでわけがわからない。彼とこちらの言葉は、噛み合っていないようだ。
が、先に何かを悟ったらしい彼は、口元を引きつらせながらも問いかけてきた。
「もしかしてコメットちゃん……君の本名って船越光莉なのか?」
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