恩師の恩師

 その日の晩、光莉は初田の通夜のため世田谷区にあるセレモニーホールへと出向いた。駅からはレーウェンも再び同行してくれたので、迷うことなく辿り着くことができた。

 服装は今日のためにと祖母に買ってもらった、黒染めのワンピースと革靴だ。履きなれない革靴での足取りは、中々に重たかった。


 ホールの中は東京とだけあって、かなりの広さがあった。加えて大勢の人が初田の死を憂い来ているところを見ると、やはりここでも彼女の人徳があったことが伺える。


「コメットちゃんは、これが初めてのお通夜だったっけ?」

「うん」


 それぞれに容姿の異なる人達を眺めていると、レーウェンが訊ねてきた。確かに智也の時は欠席していたので、これが光莉にとって初めての通夜と言うことになる。


 今日の電車の中から、レーウェンの光莉の呼び名はコメットに変化していた。おそらく人見知りである光莉の心を、何とかして開かせようとしてのことだろう。その魂胆が見え見えなところが、彼の胡散臭さを引き立てた。

 無論そんなことで心を開ききる程、こちらも安い女ではない。そのため電車、バスの中では総じて、彼の問いには素っ気なく返しておいた。おかげで彼の印象は、病院の時と打って変わって最悪だ。


「そりゃあそうか。おじいちゃんとおばあちゃんも、それにお父さん、みんなまだ若いもんね」

「お母さんはもう死んどるけどな」


 彼の表情が凍りつく。どうせ次の言葉が出ず、内心あたふたとしているに決まっているのだろう。ざまあみろ。


「と、とりあえず、そこで出席の名前を書こう。あとこれ、君の分の香典こうでんだよ。中に一万円入ってる」

「いらん」

「ええッ?」


 だんだんとレーウェンの困った表情を見るのが癖になってきた。


「香典は亡くなった人への気持ちを表すもんやで。そんなん、赤の他人からもらったもん渡せるわけないやん」

「赤の他人……」


 そう言うと光莉は、ワンピースのポケットから香典を取り出した。あまり金額は言いたくないが、それでも自分のお小遣い全ては詰め込んでいる。せめてもの感謝、その最低限の気持ちの現れだった。それに汚いながら、香典の袋の字も自分で書いた。


 受付を済まして香典を手渡した光莉は、同じく受付を済ませたレーウェンと共に会場の中へと入った。入口前に立っている遺族にお悔やみの言葉を向けるのもよかったが、自分のような見ず知らずの子供の言葉など、向こうも聞きたくないだろうと思ったのでやめた。


 初田の遺影は笑っていた。それも心なしか、美濃市にいた時よりも心の底から笑っているような気がした。

 いつ撮ったものなのだろうか。最近のものとは違い、顔が希望に満ち溢れているところを見ると、かなり前のようにも感じられる。


「あの初田先生の写真、いつのものなんだろうね」

「さぁ」


 レーウェンも同じことを思っていたらしい。何だかそれはそれで嫌な気分になった。


 式は思っていたよりもあっさりとした内容だった。初田のこれまでを振り返る映像に、その後の両親の無念のスピーチ。スピーチを聞いた光莉は、自分の弱さ故に初田を守りきれなかったことを改めて悔いた。


 もっと自分に力があれば、もっと彼女に寄り添ってやることができたなら、今頃彼女はどうなっていたことだろうか。そもそも自分が初田と出会わなければよかったのではないだろうか。

 事実、初田は光莉の裏の顔を知ったばかりに久瑠に殺された。自分と出会わなければ彼女も平穏に暮らしていけたと思うのは、至極当然のことだ。


 一郎の後押しは嬉しかったが、それでもやはり、自分には初田を送り出す資格などなかったのかもしれない。


 そして式も終盤に差し掛かり、初田の遺体に手を合わせる場面。とうとう光莉は罪悪感のあまり、初田の遺体から目を背けてしまった。否、それは罪悪感と言うよりかは寧ろ、逃げの感情の方が勝っていたのかもしれない。


「ごめん……先生」


 ポツリとそう呟くと、すぐに席へと戻った。隣にいたレーウェンも、何も言わずにその後に続いた。


「やっぱりアタシ、先生に出会わん方がよかったんかな」


 ポツリと漏れた弱音が、尚一層情けなく思えた。


「そんなことな……」


 途中で口を噤むレーウェン。どうやら一概には、光莉の持論を否定できなかったのだろう。側から見ても、初田の光莉との出会いは不運に見えるようだ。


 式が終わるとこの空間に留まっていることが苦しくて、辛くて、そそくさと会場から飛び出した。それをレーウェンも引き止めようとはしたが、無視。彼が絶対に入ってこれない、唯一のプライベートな空間であるトイレに直行した。

 一番に会場から出てきたこともあり、洋式のトイレの個室は全て空いていた。一番奥のものに光莉は入った。


「うっぐ……アタシのせいで……」

〈光莉……お前のせいやない〉


 スメシンの慰めは、優しさは、今の光莉には刺激が強過ぎた。

 服の袖で涙を拭い、先程の初田の母親のスピーチを思い返す。私は紡を殺した犯人を許しません、震えながらも初田同様芯の通った声は、会場にいた誰もを揺さぶった。無論、光莉もその内の一人だ。母親とは誰もが、こんなに強いのかと思い知った。

 初田を殺した犯人は立岩久瑠。初田の母親にそう言えるものなら言ってやりたかった。だがあくまでもカレントの存在は機密事項、普通の人を巻き込むわけにもいかない。それを隠してしまう自分が、仕方がないにしても許せなかった。


 そうこうしている内にトイレを利用する者も増えてきて、プライベートな空間が騒がしくなってきた。

 そろそろ潮時かな。涙でびしょ濡れになった袖の冷たさに、身震いしながらも個室から出た。手洗い場に映った自分の顔は、涙のせいで目元が腫れ上がっていた。不細工な顔だ。


 女子トイレから出ると、少し離れた壁にレーウェンがもたれかかっていた。腕を組んで視線を下にやっているところを見ると、何か考え事をしていたようだ。

 とは言え先程までの身勝手な自分の行動を思い返すと、彼が悩むのも納得である。いくら我慢しなくてもいいと一郎に言われたからと言って、さすがに迷惑をかけ過ぎた。


「ごめん、レーウェンさん」


 彼の方へ近づくと、素直に先程の非礼を詫びた。


「いいよコメットちゃん。君だって、相当思いつめていた筈だろう。君の気持ちを汲みきれていなかった、僕にも責任はある」


 今のような気の利いたセリフがあるところは、近藤と違う良さか。

「さぁ帰ろうか」そう彼が言った矢先、前からどこか見覚えのある女性がこちらに向かって歩み寄ってきた。

 髪は先程のものと比べると白髪が増えているが、この変わらぬ恵比寿様のようなふっくらとした顔。間違いない。彼女は初田の映像にて大学生活を振り返ったシーンで、初田と共に映っていた女性だ。


「今あなた、コメットとおっしゃいましたか?」

「え、ええ、まぁ……。おや、あなたは確か……」


 どうやらレーウェンも、彼女が何者であるかを察したようだ。


「申し遅れました。私、相川あいかわ由紀ゆきと申します」


 と名乗る女性は、自身の着ている黒いジャケットの胸ポケットから名刺を取り出した。ちらりと見えたその名刺には、どこかの大学の名前が記されている。


「これはどうも。僕はこう言う者です」


 すかさずレーウェンも自分の名刺を上着の裏ポケットから取り出して手渡した。これが俗に言う、名刺交換と言うやつか。


「ほうほう、大学の教員さん……。となるとあなたは、初田紡さんの先生で?」

「はい。初田紡さんは私の教え子です。ところで、そちらの子供さんは……」


 相川は光莉の顔をまじまじと見て首を傾げた。おそらく彼女の関心は、レーウェンではなくこちらにあるらしい。


「この子は船越光莉ちゃん、初田紡さんのカウンセリングを受けていた子です」

「と言うことはやっぱり、あなたがコメットちゃんなのね。聞き間違いじゃなくてよかったわ」


 この人、何で私のこと知ってるんだろう。自分のあだ名まで知っているところを見ると、ただ聞き齧っただけのようにも見えないが。


「あなたが警戒しちゃうのも無理ないかもしれないわね」

「えっ……ア、アタシは何も……」


 こちらの心理を読み取ったと言うのか。さすがは初田の先生なだけある。


「安心してコメットちゃん。あなたのことは少し前に初田ちゃんから聞いてたわ。ちょっと人見知りだけど、頼りになる大切な親友だったってね」

「……」


 大切な親友。それを光莉のいない場所でも、しっかりと初田が言ってくれていたのは嬉しかった。それも彼女の恩師とも呼べる人にまで教えていると言うのだから、正直驚きだ。

 しかしそうなってくると、尚のこと辛くもなった。初田は何も、光莉だけが大切に思っていたわけではない。そのことは今日のスピーチからでもひしひしと伝わっていた。そして彼女の恩師、相川もその一人であったことも当然ながら察している。


「あのな相川さん、アタシな、初田先生を守るって約束しとってん。でも守りきれんかった。そんなアタシに、初田先生の親友を名乗る資格なんかないわ」


 正直な感想を、彼女に伝えた。相川がそれをどう捉えようと構わない。だがそれでも、彼女には真実と自分の思いをボカしてでも伝えなければならないような気がした。自分は嘘つきで、加えてどうしようもないやつだと言うことを。

 それに先程までは疑問だったが、もう確信の域は達している。自分と初田は、出会うべきではなかった。結局今日の通夜も、初田のためと言うよりかは寧ろ、自分のために来たと言った方が正しいのだから。


「それは違う」


 また足しにもならない慰めか。そう思った矢先、続く相川の言葉にハッとした。


「あなたと初田先生の関係を、私も深々とは知らない。でもね、あの子はコメットちゃんのこと、ちゃんと出会えてよかったと思ってるよ」


 二人と人柱で水餃子を作って食べたあの日の夜、初田は今のと同じことを言っていた。だがそれも今思えば、単なる慰めだったのかもしれない。内心では、彼女自身も光莉と出会わなければよかったと思っていたのではないだろうか。


「でもそれは、先生がアタシを安心させるための……」

「違うよ、コメットちゃん」


 光莉の両手を、彼女も両手で強く握りしめてきた。ほんのり暖かく、それでいて赤ちゃんの手を大きくしたような柔らかな手だ。包み込まれると不思議と、安心感が湧いた。


「初田先生はね、本質は受け身な性格の子なの。だから兵庫に移り住んでからは、友達が中々できなかったのよ。まぁ元より、あまり人との密接な接点を持てない仕事をしているからもあったんだけどね。とにかく、あの子は自分から進んで物事を決められるような子じゃなかった」

「でも、あの時先生は……ッ!」


 今の発言で、ある矛盾が出てくる。相川の言っていることが本当なら、初田がアフターケアと言って光莉の家にやってきたのはどう言うことなのだ。それだけではない。思い返せば彼女の積極性の見られる点は、いくらでも出てくる。

 何より彼女が死ぬ間際に電話を切ったあれは、積極性以外の何物でもないだろう。己を犠牲にしてまで、光莉に心配させまいと覚悟を決めていたのだから。


「それはあなたが初田先生にとって、大切な人だったから。あなたが初田先生を、人間的に成長させたのよ」

「アタシが……先生を?」


 その言葉でなぜか、全てが納得できた。もしかすると心のどこかで、それを第三者の言葉で聞きたかったのかもしれない。自問自答するには不安だったから、他の人の引き金がなければ決心ができなかったのである。

 他人を成長させることができても、光莉自身が成長できていなかったのだ。


「そう……なんかな」

「うん。だから明日の告別式は胸を張って行きなよ。今日みたいな感じじゃ、天国の初田先生も困っちゃうからね」


 見られてたんだ……。自分の頬が熱くなってくるのを感じた。おそらく他人から見れば自分の顔は、しっかりと赤面しているのだろう。何と恥ずかしいことか。


「それとコメットちゃん、この後空いてる? もしよかったら初田先生のこと、話してもらいたいんだけど」

「えっ……」


 光莉は大きく首を傾けた。初田のことなら、彼女の方がよく知ってそうなのだが。


「実は初田先生がスクールカウンセラーになって以来、あの子とは連絡をとってなくてね。この前の電話が久しぶりの会話だったの。だからあの子が美濃市でどんな生活をしてたのか、私全然知らなくて」


 なるほど。いくら恩師と言えどもやはり、住む場所が離れていればそれだけ音信不通になってしまうのか。そう言えば初田の母親も、娘とは最近話せてなかったとスピーチで言っていた。

 東京と兵庫、その距離は北海道から沖縄まで程ではないが、それでも十分に離れている。


 現に光莉も、父の一郎とは音信不通のようなものであった。親しい者との再開、会話、それが嬉しいのは誰であっても同じなのだ。無論その年月は、相川達のそれとは大きくかけ離れているが。


「ちょっとぐらいええよなぁ、レーウェンさん」

「勿論さ。君だって初田先生の昔のこと、もっと知りたいだろうしね。でもお父さんにはちゃんと、遅くなるって連絡するんだよ?」

「うん!」

「じゃあ決まりね。近くにファミリーレストランがあるから、ひとまずそこへ行きましょうか」


 かくして三人は、セレモニーホールの近くにあるファミリーレストランへと向かった。そこで聞かされた初田の過去、そして想い。その話を聞いて、改めて光莉はツリーフレンズへの対抗心を燃やすのであった。

 このまま引き下がるわけにはいかない。全てを投げ打ってくれた初田のためにも、彼らの悪行はここで、止めなければならない。

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