子供ながらに

「あん時?」


 そうは言われたものの、いまいちピンとこなかった。その様子を見て、光莉が溜息を吐く。


「はぁ……まぁええわ。じゃあな、近藤さん」

「あ、ああ」


 とりあえず晴人と言う明確な手がかりも手に入れたので、そのまま署の方へと帰ることにした。ここにはもう、用はない。

 しかしまた何者かが背中を叩いてきたので、すぐにその足を止めた。叩いてきた感触からして、先程と違い今回はかなり背の高い人物のようだ。

 誰だろう、振り向いて近藤は驚く。その者は近藤よりも背の高い、例の藪林だった。


「あっ……ええっと……」


 動悸が止まない。まさかこんなタイミングで彼と出くわすとは、思いもしなかった。なんと不運なことだろう。

 しかしよくよく考えてみれば彼の担任しているクラスはすぐ隣なので、寧ろ出会わないと考えていた方がおかしかった。光莉と会うのは彼女の自宅にしておけばよかったと、今更ながらに後悔の波が押し寄せてくる。


「失礼ですがどちら様でしょうか?」

「わ、私は……」


 動揺のあまり自分の名前を言いそうになったが、寸前でそれを堪えた。下手に名前を憶えられてしまってはこれから先、彼に命を狙われるかもしれない。そう思ったからだ。事件に関わってしまったばかりに、無念にも殺されてしまった初田と同じ末路は辿りたくなかった。


「ひょ、兵庫県警の者です。いっ……今は事情聴取と言う形で、色んな生徒さんに話を聞いてまわってます」


 自分でも驚く程の舌足らずぶりに、己の動揺の程を痛感する。これには向こうも苦笑いで、場を和まそうとまでしてくれた。全く、敵に同情されてどうするんだ。


「へぇ、それはそれは。いつもお勤めご苦労様です」


 しかし口では笑みを作っていたものの、その目は笑っていなかった。


「事情聴取と言うのは……もしかして立岩久瑠さんの?」


 そう言いながらも彼の表情は、次第に曇りが見え始める。


「ま、まぁその辺は色々と……」


 まずい、続ける言葉がない。


「で、では私は、こ、この辺で失礼します」

「そう……ですか。いえ、お気をつけてお帰り下さい」


 何がお気をつけてお帰り下さいだ、あんたが言うとシャレにならないよ。怯えて引きつってしまった表情を、右手で覆うようにして必死に隠した。

 もしかすると今日は、本当の意味で気をつけて帰らなければならないのかもしれない。安全運転は勿論のこと、久瑠との対峙時に活躍した拳銃ともお友達になっておいた方がいい。


 藪林の顔は決して見上げず、視線を彼の胸部へ保ったまま後ずさりしてその場を去った。この階は二階だ。故に階段を降りる際、息が詰まり過ぎて呼吸が落ち着かず、転げ落ちてしまいそうになった。

 同時に情けなくなる。どれだけ犯人相手に自分は動揺してしまっているのだ、と。こんな性格でよくもまぁここまで刑事としてやっていけたものである。


「もうこの事件から降りてぇなぁ……」


 駐車場を歩いている途中、誰にも聞かれていないことを確認して声を漏らす。それはまさに、近藤の本心だった。


 26


 バスや電車やらをひたすらに乗り換えて、ようやく光莉の乗っている電車はここ、東京渋谷駅へとたどり着いた。ちなみにかかった時間は四、五時間程。付き添いのレーウェンがいなければ今頃、どこかのホームを彷徨っていたことだろう。

 電車が停車したホームには、すでに父の一郎らしき人物が立っていた。年相応の貫禄を得て凛とした佇まいは、おそらく本人が思っている以上に目立つ。人混みの多い駅のホームですら、その姿は一目でわかる程だった。父と言えどもやはり、カッコいいものはかっこいい。


「あっ、お父さんおった」

「それはよかった。早く行ってあげるといい」


 ともかく、こうして一郎の姿を見るのは一年ぶりぐらいだ。すぐにホームへと降りた光莉は、レーウェンを置いて一郎のいる方へと一直線に走った。こちらの存在に気がつくと、彼も満面の笑みで出迎えてくれた。


「おお光莉、久しぶりだなぁ。また見ない間に大きくなって。でも相変わらず頭は寝癖のままか、このめんどくさがり屋さんめ」

「前髪はちゃんとおばあちゃんに切ってもらっとるから大丈夫。それよりお父さんも、体壊してへん?」


 胸を張って断言する一郎。「当然だろう」


「こちとら東京で働いてるんだから、体調管理はしっかりしないとな」

「そりゃあそうよな」


 出会い頭の他愛もない話をしていると、背後から明らかな人の気配がした。同時に一郎も少し身構える様子を見せたので、ここは誤解を解く必要がありそうだ。無論、嘘も交えながらのことではあるが。


「ああ、この人が昨日電話で言うとったレーウェン先生や。ほら、あの英語の先生の」


 その言葉で、一郎の険しい表情はいつもの優しいものへと変化した。


「そう言うことでしたか。いやいやはじめまして、光莉の父です。いつも光莉が、学校でお世話になっております」

「いえいえ、僕も挨拶が遅れてしまいました。改めまして、光莉ちゃんの通っている学校で英語の教師をしております。レーウェン・クロックフォードです」


 ちなみにレーウェンがこうして、嘘をついてまで光莉に同行したのには理由があった。簡潔にまとめると、単身で東京に行く光莉の護衛である。

 光莉はすでに田中や久瑠などの一件から、ツリーフレンズにマークされていた。故にいつ、どのタイミングで組織から命が狙われるのかわかったものではない。そのことから予測される最悪の事態を未然に防ぐため、レーウェンは光莉の東京行きに同行したいと申し出ていたのである。


「では僕もこれで失礼します。じゃあ光莉ちゃん、また今晩」


 だが旅の同行は、初めから一郎と出会うまでとも決めていた。組織が狙ってきているとは言っても、さすがに隠密主義の彼らが大勢の人がいる東京で大胆な行為を働くことはない。加えて、一郎の家は都心部にあるので尚更だった。

 レーウェンはこの後、あるものを入手するために一度本部へと戻るらしい。


「うん。じゃあな」


 光莉もレーウェンに別れを告げ、一郎とホームを降りるエスカレーターを下っていった。

 

 ホームから出ると、そのガラス張りの壁からは美濃市とは全く違う景色が見下ろせた。

 何よりあの高いビル達の存在感には、何度見ても唖然としてしまう。一体どのくらいの高さがあるのだろうか。それに周囲を見渡す限りの人、人、人。彼らはどうしてぶつからずに歩けるのだろうか。


「お、おお……。さすがに東京は広いなぁ」


 普段見ぬ光景につい、興奮を隠しきれなくなった。


「お前は何度来ても同じことを言うなぁ」

「だってしょうがないやん。広いんやもん」


 知善と由美は共に自営業なので、休日どこかに出かけると言うことは少なかった。一応美濃市の近くにも似た景色をした神戸市はあるが、それでもこんなに大きな建物の大群は中々見れるものではない。

 初田も昔は東京で暮らしていたと言う。ならば彼女も、この光景は見慣れたものだったのだろうか。


 ガラスの外の景色ばかりに目をとられていると、一郎が光莉の肩にポンと手を置いた。それは服の上からでもわかる、ずっしりと重たい手だった。


「長旅で腹も減っただろう。お父さん、美味い中華料理屋知ってるんだ。今から行くか」


 軽く鼻呼吸をして、空腹度を確かめる。朝は祖母の作ってくれた握り飯を二つ程食べただけだったので、腹はしっかりと空いていた。


「うん。アタシもちょうどお腹空いとってん」

「決まりだな。そんなに距離も離れてないから、すぐに着くぞ」


 そう言うと一郎は、頭を軽く二度叩いてきて光莉の右手にある方角を指差した。どうやら行き先はそちらの方角らしい。

 ともかく腹は減っているので、光莉は軽く頷いて一郎の後をついていった。


 二人は渋谷駅に繋がっている、渋谷ヒカリエと言う建物へと入った。中にはたくさんの飲食店が並んでいたが、彼は迷わず宣言していた中華料理店へと入店する。それに続く形で、光莉も店の中へと入っていった。

 店は今が昼時だからか、平日にも関わらず恐ろしい程の賑わいを見せていた。これだけ見ても、料理のジャンルは違えど休日の花江屋と大違いであることは一目瞭然だ。運良く二人用のテーブル席が空いていたとのことだったので、予定通り光莉達はそこで昼食をとることにした。


「すいません。あのぅ、これとこれとこれをお願いします。ああ、あとこれも」


 席に着くや、一郎は水を持ってきた店員にメニューに書かれた料理名を指差した。後々メニューを見せてもらったが、書いてある字は全て漢字だった。光莉は全部読めたが、一方の一郎はこの大半が読めないらしい。

 どうりで注文の際、料理名を言わなかったわけだ。これには今の今まで黙り込んでいたスメシンも、頭の中で笑い声を上げた。やかましいことこの上ない。


「光莉……初田先生って、どんな先生だったんだ?」


 料理を待っている間、レモン水に口をつけて堪能していると一郎から話が振られた。


「うーん、どんな先生かぁ……」


 改めて思い返してみるが、やはり彼女は不思議な人物だった。何せ他人とも言える光莉のことを、あれ程までに親身になって支えてくれたのだから。今でも彼女の心情全てを理解していたかと問われると、間違いなくノーと答える。

 だがこれだけはわかっていた。初田は自分にとって、家族以外で初めて大切と思えるような人だった。


「美人で驚きやすい、それに聞き上手でアタシの話を最後まで聞いてくれる、信頼できる人。そして何より、アタシのたった一人の親友やった」


 忘れるはずもない、初田と共に水餃子を作った日。実は光莉にとってそれは、初めて友達の家へ遊びに行った日であった。

 五年生になるまでは話し相手こそいたが、全くそりが合わずにすれ違いが多発していた。そのため自宅に人を呼んだり、逆に呼ばれたりすることが光莉にはなかったのである。


 そんなわけもあり、あの日のことは今でも鮮明に憶えていた。何より、スメシンも交えて初田と作った餃子の味は舌に焼きついている。寧ろ、忘れたくもなかった。


「親友、か……。よっぽどお前にとって、いい先生だったんだな」

「うん。でも……」


 しかし同時に、常々疑問に思っていたこともあった。


「先生が死んだのを知った時、アタシ涙が出んかってん。そんなアタシに今日のお通夜へ行く権利、あるんかな」


 自分の中でも必要な不可欠な存在だった初田。とは言え彼女が久瑠に殺されたことを理解した時、さらにはその後でもまだ、光莉の涙は出る気配を見せなかった。

 確かに初田の仇である久瑠を前にした時は、悲しみよりも怒りの感情の方が強かった。だが今はどうだ。その仇を討って悲しむ機会を得たにも関わらず、涙は一向に出ないではないか。これはもう、自身の心の冷たさを認める他ないと言うことを意味しているのかもしれない。


 すると今度は何を思ったのか、一郎は片手で自分の笑みを隠しながら言った。


「ふっふっふっ……」

「何がおかしいんよ」

「光莉、お前は母さんとおんなじだな」

「はぁ?」


 口を軽く開けて首を傾げる。母……杏子あんずと同じとは、一体どう言う意味なのだろうか。


「いやぁな、お前のお母さんも昔から、何でも一人で抱え込んじゃう癖があったんだ。お前も多分、それと同じなんじゃないか? 自分を偽って、周りに心配をかけさせまいとな」

「自分を……偽っとる?」


 自覚がない説教をされても、いまいちピンとこない。


「お父さんはアタシが我慢してるように見えるん?」

「と言うよりかは、電話越しの声でそれを薄々感じとってて、実際に会って確信を得たって感じだなぁ」


 さすがは杏子の旦那だっただけあると言ったところか。彼女の娘であり、似ていると言われる光莉の心境を感じとる力には長けているようだ。

 ふと、光莉は自分が今どんな顔をしているのかを確かめるため、顔を両手で覆った。まだ知善達とは違い、柔らかく、それでいて適度にハリのある質感だ。しかし顔を鏡ごしに見ているわけではないので、結局自分がどんな顔をしているのかはわからなかった。


「だから初田先生の通夜は絶対に行け。それだけ大切な先生だったんなら尚更だ」

「でも先生を守りきれんかったアタシなんかが行っても……」

〈おい、光莉!〉


 スメシンの声で正気に戻った。彼に久瑠の件を話したところで、理解されるはずもない。思わず視線を下に落として、一郎の顔を見ないようにした。


「……ううん。でもアタシにはやっぱり……」

「いつまでお前は一人で抱え込もうとするんだ!」


 店内に一郎のハリのある声が響き渡った。一瞬で静まり返る店内に、尚も彼の声が轟く。


「悲しいこと、辛いこと、それは絶対に誰もが経験することだ! でもそんな時こそ、身近な人に頼ればいいじゃないか!どうせ今の様子だと、こんな話もおじいちゃんとおばあちゃんにしてないんだろう?」

「……うん」

「本当に辛い時ぐらい、弱音を吐いてもいいんだよ。お前はまだ、我慢していい年齢じゃないんだから」


 言いたいことを言い終えたらしい一郎は、一度立ち上がってから、周りに向けて頭を下げ始めた。店内で叫ぶこと自体普通ではないが、それでも罪悪感を感じている辺り無我夢中だったようだ。

 我慢していい年齢じゃないーー。その言葉のインパクトもさることながら、初めて見る一郎の一面に開いたままの口が塞がらなかった。


「初田先生はお前の大切な人だったんだろう? なら彼女を送り出してやることが、今できる一番の恩返しになるさ」


 再び腰を下ろした彼は、光莉の頭に手を置いた。暖かな体温が、頭皮越しに伝わってきた。


「……お父さん……アタシ……」


 そんな中で震える口を必死に動かし、腹の奥底に眠る本音を引っ張り出す。初田先生のお通夜に行きたい、そう言いたいのは自分でもわかっていた。

 だが次の瞬間、申し訳なさそうな顔をした女性の店員が、何かが入った底の深い皿を持ってきた。


「こちら、水餃子になります。そこの特製ポン酢をかけてお召し上がり下さい。あと他のお客様のご迷惑になりますので、もう少し声のボリュームを落としていただくよう、お願い申し上げます」


 彼女も彼女で損な役回りをさせられたものだ。そそくさと去っていく様が、その思想をさらに助長させた。

 テーブルにポツリと置かれた水餃子。それは初田の家で作ったものとは違って、丸い形をしていた。しかしまじまじとそれを見ていると、次第に初田との餃子作りの光景が脳裏に浮かんできた。


 共に餡を詰めて包んだ餃子。それを電気鍋で茹でて、浮き上がったものを初田よりも多く食べる。その何気ない日常がずっと続いて欲しいと願っていたが、運命は残酷だった。


 そしてとうとう堪えられなくなり、光莉は発狂した。


「う……うああああんッ!」


 ちらりと見えた先程の店員の顔は、もうどうしようもないと言いたげな表情を浮かべていたが、それでも構わず泣いた。それは智也のいじめを初田に話した時以来の、我慢をしない涙であった。

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