決死の行動
そうこうしているうちに初田との距離は、すぐそこまで迫っていた。そして近づくにつれて、なぜこうも彼女の足が遅いのかを理解した。
彼女はただ走っていたのではない。スマートフォンを右手に持ち、何かの操作しながら走っていたのだ。斜めから見たのでどんな画面かはわからなかったが、連絡を取っているのは大方光莉であろう。
とりあえずは動きを止めるか。そう判断するやいなや、鋭く尖った刃を彼女の右足首目掛けて斬りつけた。「キャア!」女性らしい甲高い声が、周囲の空間に響き渡った。
突然の痛みで前転した初田は、その拍子に持っていたスマートフォンも地面へと落とした。同時に飛び散るガラス片。彼女のスマートフォンの画面が割れたらしい。おそらくフィルムは貼っていただろうが所詮ガラス、強い衝撃には耐えられなかったようである。
「イッ……イイ……イタイ……」
血が溢れ出す右足首を押さえて、今にも泣き出しそうな表情で初田は痛みを訴える。傷口は赤黒くに染まっており、その深さが見て取れた。とりあえずこれで走って逃げようなどと言う、愚かな考えは浮かばなくなったことだろう。
「逃げんといてよぉ、初田先生。これじゃあ楽に逝けへんで?」
「あ……あなた……自分が何をしてるかわかってるの!?」
「うん。これも全部私のためやからな。仕方ないことやからな」
蹲る初田を横切り、久瑠は彼女の落としたスマートフォンを拾い上げた。画面こそ割れているが、光はまだついている。壊れてはいないようだ。
『船越さん宅』そう記された発信画面から、まだ彼女が光莉の家に連絡を取っていなかったらしい。あれだけ遅く走っていたにも関わらず、まだ連絡すらできていないとは不器用にも程がある。寧ろ既に連絡を終えてくれていた方が、こちらとしてもさぞ楽だった。
今日、久瑠は光莉にリベンジすることも視野に入れていた。そうでなければ持ち運びと言う苦労をしてまで、ディフェンスルーを持ってきた意味がない。
ともかくこの場所にとどまっていては、誰かに見つかってしまう可能性も出てくる。未だ蹲っている初田の首根っこを掴んで、久瑠は彼女にこう告げた。
「ほら、初田先生立って。歩けへんのなら私がおぶったるけど」
「ど、どう言うこと……?」
「ここじゃ人に見つかったら面倒なことになるってこと。とりあえず近くの城跡にでも行こか」
ようやくこちらの言いたいことを察したらしい初田は、よろめきながらも立ち上がった。それと共に足首からは、またも血が滴り落ちた。こう言うことに関してはカレントが、傷の治りが早い性質を持っていてよかったと言える。
久瑠であれば彼女のような怪我、もうすでに止血を終えていた。そう言った意味でもやはり、カレントは人類の進化した姿なのかもしれない。
彼女は途中でもう歩けないと言ったため、城跡までは結局久瑠が背負うこととなった。幸い人とすれ違うこともなかったので、移動以外は難なく城跡へとたどり着けた。彼女の足を引きずらないようにするには骨が折れる。こちらの身長的にも、ギターケースより難題だった。
ひん曲がった時計台はそのままの状態で立っていた。これを見ていると、光莉に負けたあの日のことを思い出してしまった。
もっとも、あれは神の具現化と言う初見殺しをされてしまった故のことなので、できることなら負けにはカウントしたくないのだが。
城跡に着くや久瑠は、初田をベンチへと座らせて自身も腰を下ろす。そろそろ息苦しくもなってきたので、つけていた面をその辺に放り投げた。あれをつけて走るのは中々に辛かった。勿論絵面的な意味でも。
そしてポケットにしまっておいたスマートフォンを取り出し、それを持ち主へと返す。すると彼女は不思議そうな顔をしたので、それなりの理由も付け加えておいた。
「これで早く光莉ちゃんを呼んで。今回はあの子にリベンジするために、これも持ってきとるわけやしな」
再度彼女にはこの、ディフェンスルーの刃を見せつける。軽く悲鳴を上げる様子だともう、これには相当なトラウマを植え付けられているらしい。
「でも妙な動き見せるようやったらこの場で、初田先生をぶっ殺すからな。まぁ初田先生に限って、そんなことはないと思うけど」
彼女のスマートフォンの機種はオーソドックスなものだ。ついでに言えば久瑠も同じものを使っているので、当然電話のかけ方なども熟知していた。彼女が下手な行動を取ろうものなら、それなりの報復もするつもりだ。
恐る恐る震える指で通話の画面まで持っていく初田。そして先程久瑠も確認済みの、光莉の家の電話番号にコールした。ここまでは何の問題もない。
「あっ……コメットちゃん? 私先生、初田先生よ」
向こうの声までは聞き取れなかったが、どうやら電話も無事相手に繋がったらしい。これで彼女が光莉に助けを呼べば、もう目的は達成される。だが次の瞬間、何を思ったのか初田は、思いもよらぬ言葉を口走った。
「無事家にたどり着いたよ。だから心配しないでね、じゃあ……」
何を言ってるんだこいつは……! 電話を切ろうとする彼女にすかさず立ち上がり、久瑠は持っていたディフェンスルーで斬りかかった。狙うは通話終了の阻止、刃を彼女のスマートフォンを持っていた右手へと向ける。
「うああああああッ!」
足首の比にならない程の血と共に、初田の目の前にはかつて自身の右手だったものが落ちた。ただ打ち所が悪かったのだろうか。本日二度目となる落下で、彼女のスマートフォンの画面は暗転してしまった。
「なんてことを……自業自得やで、それ……」
自分でも今の状況は混乱した。何せ彼女がとった行動はまさに、自殺行為に等しい行動だったからだ。それなのになぜ、彼女がこのような行動に出たのか理解に苦しんだ。
しかし耳をすますと、かすかにスマートフォンからは光莉の声らしきものが聞こえる。どうやら画面が暗転しただけで、電話自体はまだ繋がっているようだ。
『先生……何かあったん!? 先生……先生』
次第に小さくなっていくその声は、とうとう聞こえなくなった。今度こそ本当に壊れてしまったらしい。
しかしとりあえずは向こうに初田の危機も伝わったことだろう。ここはしばらく様子を見てみよう。そう思い久瑠は、また視線を初田の方へと戻した。
「なんで初田先生、こんなことしたんよ」
とうとう涙まで流し始めた初田は、なぜか強気な口調でこう口走った。
「コメットちゃんに……余計な心配は……掛けたくなかったから……」
それはまるで、してやったりとでも言いたそうな風だった。とは言えまさにその通りなのだから、そこは彼女も誇っていい。
しかし他人のために自分の命を投げ打とうなど、久瑠には正気の沙汰と思えなかった。親が子にするならまだしも、人の子に対してなら尚更だ。いくら生徒とスクールカウンセラーの関係と言っても、彼女の場合は度が過ぎている。こればっかりは彼女の存在が身近にある光莉への、嫉妬に近い羨ましさが湧いた。
彼女のような存在が自分にもいてくれたら。そう考えると、これまでの自分の行動が情けなく思えた。いじめ、恫喝、そんなものに頼ってきた自分が惨めに思えた。
「ま、まぁ、電話はちゃんと繋がっとったみたいやし! 光莉ちゃんがここに来るんも時間の問題や! それまではちゃんと生かしとったるわ」
何も言わずに初田は、あいも変わらず右手首を押さえ続けている。右足の血もまだ止まっておらず、下の地面には血溜まりのようなものまでできていた。
本当に世話の焼ける女だ。とは言えそんな彼女を見ていると、不思議と心のそこに眠る善意が呼び覚まされる気がした。邪悪に染まった心と、温もりを取り戻そうとする心。二つの心の戦いは、その狭間にいた久瑠を苦しめた。
散々迷った挙げ句、久瑠は首に巻いていたマフラーを彼女に手渡した。それは心の中の善意が、邪悪に黒星を上げた瞬間だった。
「もう、そんなに痛がんなよ! ほら、これで押さえとけ」
当然、それが気休め程度にしかならないのもわかっている。にも関わらず、彼女はありがたげにそのマフラーを受け取った。そして本来右手のあったはずの断面に、強くそれを押し当てた。そんなもので止血など、できるわけないにも関わらず。
「あ……ありがと……」
初田と出会って早半時間か経過した今でも、光莉がここへ来る気配はなかった。
いくらこの場所がわからないにしても、こんなに来るのが遅いものなのか。やはり距離的にも少し離れた、人気のない城跡を選んでしまったのが間違いだったのかもしれない。思わず久瑠は右手で口元を隠した。
「ね……ねぇ久瑠ちゃん……」
するとようやく落ち着いてきたのか、はたまた疲弊からかは定かではないが、かなり落ち着いた声で初田が話しかけてきた。
「あなたが陸上をやめたってこと……聞いたわ……」
「あっそ」
素っ気ない返事する久瑠。どうせこれから殺してしまう相手と、わざわざ話すことなどなかった。
「多分それって……カレントになっちゃったから……なんだよね?」
「えっ」
思わず初田へ視線を移してしまった。カレントと言う言葉は光莉から聞いたのだろうか。だがそれ以前になぜ、彼女が自分の陸上をやめた理由を知っているのかが気になってしかたなかった。何せこのことは藪林と敦以外には、親でさえ話していなかったからだ。
「なんでそのことを!?」
「私だってスクールカウンセラーの端くれなんだから……それくらい読み取れなきゃやってけないわ……」
スクールカウンセラーだからで片付けられる話ではない。やはり初田の人を観察する目が優れているのは明らかだ。
観察し、疑問に思ったことに仮説を立て、本人に問いかける。こんなこと、ある種の才覚がなければできない。今の初田の発言は、それらを瞬時に理解させる一言だった。
「うっ」またも重ねる形で彼女は、自身の手首を押さえた。やはりマフラー程度で止血など、できるわけがなかったのだ。
「だ、大丈夫なん」
「それより久瑠ちゃんはどう思ってるのよ……。あなただって本当は陸上を……続けたかったんでしょ?」
ぐさりと心を抉るような問いかけに、思わず口を
「あんなテロ組織を頼るしか……久瑠ちゃんの夢は叶えられないの?」
「当たり前や!」
しかし、今の言葉で彼女への怒りがそれを拒絶させた。彼女は今、言ってはならないことを口にした。
「私にはもうあそこしか、ツリーフレンズにしか頼ることはできへんもん! カレントになってもた以上、近い将来私は……一人ぼっちになるし」
「そんなことないよ!」
痛みでそれどころではないだろうにも関わらず、彼女は前の倍ぐらいの声量で叫んだ。その気迫を例えると、母が説教してくるものと似ている。つまりは気迫と言っても単に弾圧的なものではなく、同時に穏やかさも感じられた。
「コメットちゃんだって……光莉ちゃんだって普通の人とは違う……それに一人ぼっちだった……。でもあの子は……テロ組織なんかに関わらずとも自分の生きる道を歩んでる……。だからあなたもきっと……あの子と同じ選択をできるわよ……」
確かに光莉は、自分と違ってツリーフレンズに張り合っている。それは単に、彼女がバカだからだとばかり思っていた。だが今の話でわかった。彼女が真に戦う理由は、この世界をまだ諦めていないからなのだ。
ツリーフレンズはカレント劣勢の現状を打破して、カレント優位の世界を作ろうとしている。それは彼らが、現状の世界で暮らしていくことを諦めた故だった。
しかし光莉はどうだ。彼女はカレントを超える天生体でありながらも、普通の人間の一人として生きようと抗っている。その抗いを、久瑠はこれまでしてきたのか。答えは否、どうせ無理だろうと現実から逃避しただけだった。誰とも相談せずに陸上をやめたのがいい例だ。
自分達ツリーフレンズがやっていることは、単に自分達を嫌う世界から逃げているだけ。そう思うと次第に、久瑠は自分達ツリーフレンズが情けなく思えた。
カレントはクライドと違い、生物的に優れている。だがそれを過信するあまり、自分達は彼らよりも待遇をよくするべきだと、自惚れた考えを持ち始めていたのだ。
だがそんなつまらない集団でも、過去の自分は認めてもらおうとした。そして同級生である智也を殺め、今も自分を救おうとしてくれている初田に手をかけようとしている。こんな自分にもはや、変われる術などあるのだろうか。
「私はもう、智也くんを殺してもた! それでも初田先生は、私が変われると思ってるん!?」
すると息を大きく吸い込んだ初田は、次にこう述べた。
「犯した罪は消せない……。だけどそれを償うことならできる……良心のあるあなたならきっとね……」
握りしめていたマフラーから手を離し、血まみれの左手を彼女は、久瑠に向けて伸ばした。それはまるで、彼女が救いの手を差し伸べてくれているかのようだった。
「だってあなたは智也くんを殺した後……ちゃんと涙を流してた……。それってあなたが心を偽れきれてなかった……証拠なんじゃないかな」
瞬間、久瑠の中で何か弾けた。そして気がつくと、自身の顔には赤い返り血が飛び散っていた。最初は自分でも何が起こったのかはわからなかったが、ベンチから崩れ落ちる初田の体と、右手に残った包丁でハムを切ったかのような感触で、全てを理解した。
「やっぱり私には……改心なんか無理やってんな」
20
近藤が自宅の玄関を出たのは、初田からの携帯へのメッセージが来たすぐ後だった。まず彼女から届いた文には驚かされた。まさかこんな夜遅くに『殺されそう助けて』と、自身の位置情報を知らせるサイトのURLと共に送られてくるとは。
家を仕事だと言って飛び出した近藤は、車庫に自家用の普通車にエンジンをかける。そしてそれに繋げるような形で、レーウェンにも一つ電話を入れた。
プルルルーー。しかし呼び出し音こそ鳴るものの彼は出ず、留守番電話に『今人がカレントに襲われています。今からメールで送った場所に来て下さい』とだけ伝えて電話を切った。肝心な時に電話に出ないとは、一体彼は何をしているのだろうか。もしかすると単に、もう床に就いているだけなのかもしれないが。
とりあえず初田のピンチは見過ごせないので、一人でも位置情報を示す場所へ行ってみることにした。当然一人でカレントの相手が務まらないことぐらいはわかっているので、一応神崎へもメールは入れておいた。
彼もカレントではないので戦力としては期待できないが、それでも柔道の実力者として見れば近藤よりは遥かに強い。勿論身の危険が迫るようであれば、本署への連絡も考えた方がいいだろう。念には念をだ。
ただ、肝心の位置情報はしばらくして、城跡を最後に途切れてしまった。一体彼女の身に何が起こっているのだろうか。とりあえずは城跡に行かないことには、何も始まらない。
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