遭遇
「じゃあ先生、食べ終わったらすぐ上来てな。アタシ部屋で待っとるから」
そうこうしているうちにも光莉は、二階の自分の部屋へと上がっていった。どうやら自分の嫌いなものである酢の臭いを、彼女はこれ以上嗅ぎたくなかったようだ。寧ろ今の今まで耐えていられたこと自体が、ある意味奇跡だったのかもしれない。
全く寿司屋の孫として生まれながら、酢の匂いが嫌いとはとんでもない体質を持ったものである。こればっかりは本人の気持ちの問題でもあるので、初田がとやかく言うことはできないが。
目の前に六貫のそれぞれ違った寿司が置かれると、初田は二人に一礼してからその内の一つである、サーモンに醤油をつけて口に入れた。
脂身だがしつこくなく、噛めば噛む程にサーモン特有の風味が口いっぱいに広がる。前回も同じものを食べたが、相変わらず光莉の祖父の作った寿司は美味かった。
ネタの品質や切り方と言い、やはり回転寿司のチェーン店とは格が違う。そもそもあまり回転寿司に行っていない初田でも、舌触りでそれは十分に理解できた。
「やっぱりお父さんの作ったお寿司、とっても美味しいです」
「初田先生にそう言っていただけると、僕も嬉しいですよ。作りがいがあるってもんです」
満更でもないような口調で、彼は言った。そして続ける。初田も箸を止めずに玉子の寿司を摘んだ。
「初田先生と出会ってから光莉は、随分と自分の名前に自信を持つようになった気がします。きっと天国にいるあの子の母も喜んでますよ」
天国にいるあの子の母も喜んでますよーー。今のでその言葉の重みを、改めて痛感した。彼らからすれば光莉の母は、まさしく自分達の娘にあたる。だからこそ今の言葉には、生半可な気持ちでは出てこない程の重さがあった。
口調、表情、それら全てを見て、感じる。今の彼の言葉に、嘘偽りなぞありえない。
「いえいえ、私はあの子にただきっかけを作っただけです。あとは全部、光莉ちゃんの力ですから」
寿司を飲み込んでから、初田はそれが自分だけの力出ないことを伝えた。一応光莉もこの場からいなくなっているので、彼女を指す言葉はコメットから光莉に戻しておいた。
確かにコメットと呼べば光莉は喜んでくれるが、さすがに彼女の祖父母相手にはその愛称も使いづらい。それに自分達がつけた名前を、あたかも侮辱しているのではと思われると互いに気も悪くしてしまう。無論そんなことを言うような二人でもないとは思うが、それでも失礼であることに変わりはなかった。
過去に光莉本人から聞かされた、彼女の名前の由来。それは彼女を産んで瀕死状態に陥っていた母親が、死力を尽くして絞り出した言葉からであった。
私なんかがいなくても、この子があんたらを照らす光になるからなーー。そう言って母は生き絶えたと、幼い頃から光莉は聞かされていたらしい。
ついでに言えば彼女の、母方の祖父の妹に当たる人物にも、光の字が名前に入っていたようだ。名は
こう言った経緯から、彼女の名前は光莉と名付けられた。無論当時の彼らからすれば、その名前が原因でいじめが起こるなど思いもしなかっただろう。幸運を願ったつもりが逆に、不幸を呼び寄せてしまうなどと。
「ところで光莉ちゃんのお母さんって、一体どんな人だったんですか?」
イクラを食べ終わった初田はふと、そのことを疑問に思い訊ねた。何せ彼女は、光莉が生まれてすぐに亡くなった人物だ。当の娘から話を聞こうにも、記憶に残っていないのは当然だった。
「一言で言うと無鉄砲、それでいて人一倍正義感が強かったです。それに昔からあの子は喧嘩っ早くてね。友達が陰口を言われようものなら、とりあえず殴りに行くような性格でした。おかげで僕らも、随分とあの子には振り回されとったなぁ」
「そうそう。その点光莉はまだ、落ち着いている方かもねぇ」
光莉は落ち着いていると言うよりかは、単に本心をおっ広げにするのが下手なだけだろう。だが正義感が強いと言う点においては、その性格はまさしく親譲りなのかもしれない。現に彼女は、漫画のような悪の組織と闘っているのだから。
「最近はあんまり見せんくなってもたけど、たまにあの子が見せとった冷静さは、やっぱりお父さん似やなぁ」
「それってもしかして、光莉ちゃんのお父さんですか? あの単身赴任されてるって言う……」
「ええ」
これまた過去に、光莉から聞かされた話が蘇る。彼女の父は単身赴任で家におらず、現在は東京で暮らしていると。故に光莉は長い間、父の顔を見ていないとのことだった。
だがたまに見せる冷静さとは、一体どのようなものなのだろうか。少し思い返してみると、一つだけそれらしき記憶が浮かび上がってきた。それは久瑠との戦闘で見せていた、普段の光莉らしからぬ判断力だった。
あの時の彼女は、久瑠の動きを冷静に分析し、それを活かして次の自分の行動を決定していた。その冷静さこそが、二人の言う父親譲りの冷静さなのかもしれない。
「あの人は立派な人です。何せ光莉を預けてもらってるからってね、この赤字経営の店を一人で支えてくれてるんですよ。正直言ってここまでされると、申し訳ない気持ちでいっぱいです」
やはりそうだったのか。初めてこの店を訪れた時から、薄々とは感じていた寂れ。それを今の発言は、核心へと導いた。
「赤字経営……ですか」
「このことはまだ、光莉にも言ってないんですけどね」
光莉の祖父は、哀愁漂わせる苦笑いを浮かべる。
「光莉が生まれてまだ間もない頃、すでにこの店の経営は傾いていました。世間では寿司と言えば回転寿司のイメージが強かったですし、何せこの辺の過疎化も進んでいましたからね。客となる人そのものが減ってしまったのも向かい風でした。ですからそろそろこの店を畳まんとな、そう思ってたんです」
「でもそこで異を唱えたのが光莉の父、イチロウさんでした。あの人ったらそのことを聞くやいなや、経営費は僕がなんとかします、なんて言い出しちゃったんですよ。それに妻の思い出が詰まったこの店を、どうか畳まないで下さい、なんて。私らもう涙しちゃいました、こんな立派な人がいるやってね」
何度も言うが初田は、付き合ったことすらあるが未婚だ。なので妻や夫が亡くなって、なぜそこまでの感情を抱けるのかはわからない。だがこれだけは理解できた。光莉の父もといイチロウは、それ程までに妻のことを愛していたのだと。
大切な人が過ごしてきた空間を、彼は娘にも残しておいてやりたかったのだろう。心情こそわからないが、彼の意図は今の話で十分に伝わった。
「ですから今、こうして花江屋を営業できているのはイチロウさんのおかげなんです。あの人が東京へ出稼ぎに行ってくれてなかったら、今頃僕らは老体に鞭打ってまで、光莉の養育費を捻り出していたところでしたよ。ほんと、あの人には感謝してもしきれません」
すると突然、台所の奥の生活空間へと通じる入り口から光莉が、少し不機嫌そうな表情を覗かせた。どうやら待ちくたびれて、初田の様子を見にきたようだ。
「先生、まだぁ?」子供らしい地団駄を踏みながら、光莉が言った。
「初田先生、行ってあげて下さい。今のあの子にはあなたが必要なんです」
「えっ、ええ」
合間合間には食べていたが、まだ皿の寿司は三つも残っていた。それに残ったネタはイワシにタイ、そしてマグロと楽しみにとっておいたものばかりだ。
しかし光莉の祖父からも急かされてしまっては、もはや急いで食べるほかないだろう。左手で落ち着きの欠ける彼女を制止しながら、初田は残っていた寿司を、あたかも流れ作業のごとく口の中へと放り込んだ。本音は当然、もっと寿司を味わっていたかった。
「ではごちそうさまでした」味わえなかった申し訳なさも交えつつ、初田は二人に一礼した。
「じゃあコメットちゃん、行こっか」
「もう待ちくたびれたわ。はよ、はよ」
光莉に腕を引っ張られ、奥の生活空間へと進む。その際、ふと見えた光莉の顔は、どこか物悲しさを漂わせていた。
その後は光莉と他愛もない話をした。
スメシンは今回出るのがめんどくさかったらしく、出会うことはなかった。彼も案外めんどくさがりなようである。まぁ気だるそうな外見はしているので、言われてみれば確かにと言ったところか。
そしてそろそろお開きにしようかと言う話が出始めたら時、ふいに光莉から家まで送りたいと言う申し出を受けた。最近久瑠が全く動きを見せてこないので、警戒していたのだろう。そう言った意思は、会話の口調でひしひしと伝わってきた。
しかし今の時間はもう七時を回っている。故に初田はその申し出を断った。
光莉はまだ幼い。こんな時間に外へ連れ出して、もし何かあれば大変だ。何せ世の中にはカレント以外にも、危ないやつは山程いるのだから。
無論スメシンのいる彼女に限って、そんなこともないだろうが。
「それじゃあコメットちゃん。また明後日、学校でね」
次に美濃小学校をスクールカウンセラーとして訪れるのは、明後日なのでそう伝えておいた。向こうも向こうでわかってはいるだろうが、一応念のためだ。
「うん。先生も気ぃつけてな」
まだ自分を一人で帰すことに不安を抱いている光莉に、初田は笑みを浮かべながら肩を叩いた。
「大丈夫よコメットちゃん。それにもし何かあれば、すぐに電話するから」
「わかった。じゃあまた明後日な」
手を振る光莉とその祖父母に別れを告げて、初田は歩き出した。自宅までの距離は歩いて十五分と、そこまで遠いわけではない。多分大丈夫だろう、そんな浮かれた感情すら抱いていた。
だがその者は、そんな帰路の途中で現れた。
「探したで、初田先生」
よく縁日などで売っている、仮面ヒーローものの面をつけた少女だった。服装はマフラーにコートと冬の装いだが、なぜか背には不釣り合いなギターケースが背負われいる。素の状態で引きずっていることから、どうやら歩く時に相当苦労したようだ。
そして声や身長からして彼女が、立岩久瑠であることはすぐに理解できた。どうやら死亡フラグと言うものを、知らず知らずのうちに立ててしまっていたらしい。先程まで浮かれていた自分を、つい殴り倒したくなった。
19
暗い夜道に、チカチカと点滅しながら明るい電灯が灯る。その下で立ち尽くす初田は、体を震わせながらこちらを見つめてきた。焦燥、恐怖。彼女の目はそんな感情を映していた。
向こうもまさかこのタイミングで自分と出くわすなど、思ってもみなかったのだろう。
久瑠も初めは彼女の家へ向かっていたのだが、すでに家には誰もいなかった。どうやら外出中だったらしい。故にこれでようやく、と言った再会だ。
「その声は……久瑠さん?」
彼女の言葉にはあえて何も答えず、背負っていた身の丈に合わないギターケースを地に降ろす。そして中から日本刀に酷似した形状の、対カレント武器であるディフェンスルーを取り出した。当然彼女を脅すためだった。
初田はカレントではない普通の人間だが、構わずその刃を彼女へと向けた。月光で黒光りする特殊合金の刃は、恐怖で歪んだ顔を妖しく映す。
「これから私がすること、わかっとるやんな」
ごくり、唾を飲み込む様子を見せる初田。
自分の手に彼女の命があると思うと、なぜか優越感のようなものが湧き上がってきた。もはや自分でもこの歪み様は、異常であると確信できてしまう程である。ここまでくればもう、過去の純粋だった自分に戻ることはできないだろう。
「私を殺す……だよね?」
「ご名答。まぁ私も鬼じゃないからな。痛みは一瞬でーー」
すると突然、初田は背を向けて走り出した。どうやら人目の多い交差点へと出て、この状況を切り抜けようと言う魂胆らしい。彼女も彼女で、大胆な行動に出たものだ。
今のような時間帯であれば、通行人に殺害現場を目撃させられる可能性も高い。もしそうなれば、久瑠が力を行使することを躊躇するはず。そう言った考えが初田を突き動かしたのだろう。
「まぁそうなるわな」
無論その行動は予測済みだった。
それに野次馬があろうとなかろうと、今の久瑠には関係はない。何せそのために今日は、クローゼットに眠っていた何世代も前の、ヒーローものの面を引っ張り出してきたのだから。
これがいつどこで買ったものなのかすらも覚えていないが、とりあえずこれがあったのは幸いだった。
「元駅伝一位の私に、追いかけっこで勝てるわけないのになぁ」
ついため息混じりの言葉が、口から漏れ出る。
一応素人相手にはなるので、手加減程度にスタートは五秒遅らせてやることにした。これで逃しては元も子もないが、不思議と彼女にはその猶予を与えるべきだと思った。それはある種の同情から、だったのかもしれない。
偶然初田は、光莉と久瑠との戦闘に居合わせてしまった。故にその遭遇は、彼女にとって望まぬものだった。そう考えると今の状況の理不尽さは、当事者の久瑠でさえ同情してしまった。
だがその同情も、単なる感情論だけでしかない。彼女を殺さなければ、それこそ組織を裏切ることになる。
もしそうなれば自分の命はない。他人の命と自分の命、天秤にかけて前者を選ぶ者の気が知れなかった。
久瑠は右手にディフェンスルーを固く握りしめ、クラウチングスタートの姿勢をとった。初田との距離はまだ、彼女を目視できるぐらいに近い。どうやらカレントである以前に、彼女は走ることがあまり得意ではないようだ。
あれぐらいの速さであれば、冗談抜きに競歩でも追いついてしまう。もう少し時間を与えてやってもよかったかな……。またも同情に似た感情が湧いてきた。
しかし久瑠は走り出した。これ以上待っていては、いつまでたっても
足を動かすと共に久瑠は、進素のエネルギーを使うために闘志をたぎらせた。
進素のエネルギーは使用者の感情に影響を受けやすい。特に負けてたまるか、絶対に追いついてみせる、そう言った心意気を持つことで、進素は絶大な力を発揮する。そのハタ迷惑な作用のおかげで久瑠は、得意だった陸上をやめざるを得なくなってしまった。
つくづくカレントとは、不便な生き物である。一応自分程のベテランともなれば進素のコントロールもできなくはないが、それでも完全なコントロールとなれば難しい。持て余す力、これ程無意味なものはないだろう。
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