友として

 光莉の食べるスピードも落ちて、尚且つストックもだいぶ少なくなってきたので、そろそろ初田は餃子を茹でるのをやめた。

 残った餃子は残り九つ、ちょうど明日の朝食にでも使えるぐらいの量だ。無論餃子にはニンニクも入っているので、朝の歯磨きは入念にだが。


 しかしスメシンが餃子を食べる際、頑なに顔の包帯を全て取らないのには驚かされた。まさか口元の包帯を緩めて、食べられる隙間を作るだけとは、余程彼にも包帯を取りたくない事情があるようだ。もし初田がそんな包帯をつけていれば、心底鬱陶しく思うに違いない。

 ひょっとするとその包帯の下には、かなりの不細工が眠っているのかもしれない。もしくはその逆で美形の塩顔か、はたまた彫りの深い男らしさのある顔か、真相はまさに包帯の中だ。

 いつかはこの人の素顔も見てみたいな。失礼とは思いつつも、ふとそんなことを考えた。


 ようやく光莉は箸を置いた。彼女が食べた餃子の数はゆうに五十個は超えており、結局ほとんどの餃子を食べてしまったこととなった。これにはいくら成長期と言えども、食べ過ぎな部類に入ってしまうだろう。

 今はまだ体型への変化は少ないようだが、こんな食生活を続けていてはいつか絶対に影響が出てくる。何も考えていない子供の行動は、やはり恐ろしい。


 すると今度は突然、光莉が初田の方へと寄りかかってきた。一応初田も腹八分目までにはなっていたので、手に持っていた箸を置いて彼女の行動の真意を訊ねた。


「何、コメットちゃん」

「先生の膝、ちょっと借りてもええかな?」

「どうしたの、急に」


 膝枕を所望してくるとは、餃子の食べ過ぎで横にでもなりたいのだろうか。だが次の光莉の回答は、その予想を斜め上いくものだった。


「いやぁな。もしアタシにお母さんがおったら、膝枕してもらいたいなぁって思っててん」


 それを聞いて初田は、過去に聞かされた彼女の生い立ちについてを思い出した。そう、彼女は母親の温もりを知らずに生きていたのだ。

 光莉は母親を早くに亡くしている。訊くとどうやら、彼女を産んですぐに亡くなったらしい。難産で死亡する母親は少なくないが、おそらく彼女の母親もその内の一人となってしまったのだろう。


 当然新たな命を産み出すには、母体となる者にも相当の負担がかかる。故に命が誕生こと自体が奇跡、本来であればそう考えるのが普通なのだ。その命同士で、さらにはそれもいじめと言った手段で、優劣が決めるなど人間として終わっていると言ってもいい。

 これらのことは当時、いじめを受けて自殺願望まであった光莉にも熱弁した。もしかするとそれを理解してくれたからこそ、光莉は今もこうして生を選んでくれているのかもしれない。


 そんなこともあってか、初田には光莉から母親の面影を重ねられると、正直かなりくるものがあった。ようやく自分にもスクールカウンセラーの言う職業への、誇りができたような気がした。


 これまでの初田の人生は簡潔にまとめると、何不自由ない人生だった。いじめは受けたことはないし、それでいて家も裕福で、さらには両親は今でも健在だ。

 そんな人生で強いて尚不自由をあげるとするならば、やはりスクールカウンセラーになったことだろう。自分でも人の役に立てるのならと選んだこの道は、安易な選択をしてしまったと最近まで後悔をしていた。


 しかし今はそうも思っていない。なぜなら先程の光莉の言葉のおかげで、自分がこの職についた本当の意味を理解したからだ。自分は彼女のような子供を救うためにスクールカウンセラーになったのだろう。

 無論その思想が傲慢なのは承知の上だ。とは言え彼女が自分を頼ってくれていると言うのは、初田にとってはそれ程までに嬉しいことだった。彼女との出会いを授けてくれた運命には、もはや感謝してもしきれない。


「ふふふ、いいわよ。あなたの気がすむまで膝枕してあげるわ」

「ありがと、先生」


 隣で胡座をかいて爪楊枝を加えているスメシンを他所に、初田は光莉の申し出を承諾した。自分の膝の上に光莉の頭が乗る。その時初田はこの光景が、光莉の母親が本当に見たかったものだと確信した。

 しばらくこのままの状態でいると、今度はどこか甘えたような口調で光莉は訊ねてきた。


「先生って、なんで相談室の先生になったん?」

「せやせや、ワイも気になるわ」


 どうやら寝転がっていたスメシンまでも、その話題に興味があるらしい。まさかこのタイミングで自分の過去を話すことになるとは。


「仕方ないわね、じゃあ話してあげるわ」


 そう言いつつも初田は、口元を緩ませる。自分のことを話すことが久しかったので、つい喜びが溢れてしまった。

 地元の東京から引っ越してきて早二年。騒がしい東京から離れたいと思い、静かな場所を求めてここへと越してきた初田。しかしいざ引っ越してみると、そこの環境が自分に合わないことはすぐに悟った。

 いくら東京の騒がしさが嫌だと言っても、二十五年もそこで暮らしていれば、当然体もそれに順応してしまう。現に自分では低いと思っていた初田のテンションも、ここの教師達からすればすでに空回りしてしまっていた。故にこの美濃市には、真に友と呼べる者はいなかったのである。


 だがこうして今、自分と心が通じ合える友ができた。年こそ離れているが、光莉とその同居人であるスメシン程、初田に親しくしてくれた者はこの美濃市にいない。そんな彼らは初田にとっても、特別な存在だった。彼らなら、自分のことを話してもいいと思える程に。

 無論初田にはそこまでやましい過去がないので、あくまでもこれは気持ちの話だ。


「私ってね、普通の大学に行ってたんだけど、そこで自分が何がしたいのか全然わからなかったんだ。でもそこで出会った私の先生に、こう言われたの。あなたは人の話を聞くのが上手だから、スクールカウンセラーが向いてるかもってね」


 過去のことを話していると、同時に脳裏ではその時の光景が鮮明に浮かび上がってくる。やはりスクールカウンセラーを目指した動機が芽生えた瞬間は、今でも忘れることはできない。恩師であった、相川の言葉は。


「先生の先生に言われたん?」

「そう。その先生には色々と良くしてもらってたからね。この人の言うことなら間違いないだろうって、私はスクールカウンセラーの道を目指したの。それに私なんかが誰かの役に立てるなら、それはそれで嬉しかったしね」

「そんな! もっと先生は自分に自信持ってよ。むっちゃ美人さんやし、何より優しいし」


 光莉は人見知りではあるが、心を許せば時たまこう言うことを言ってくれる。それに彼女は嘘を吐くことが苦手なので、今言ったこともお世辞ではないことぐらいすぐにわかった。

 純粋な心を持った子供と接していると、これまで感じの悪い教頭や同業者と接して荒んでしまっていた心も、洗われるような気がした。


「ふふ、ありがと。でも今思い返せば、スクールカウンセラーになるにも大変だったなぁ。臨床心理士って言う資格を持ってる方が有利だからって、それを取るために大学院にも行ったってけ」

「リンリョウシンリシ? なんかようわからへんけど、大変やったんやな」


 彼女にその苦労がわからないのも無理はない。小学生に臨床心理士の試験内容などを細かく話しても、どうせ理解されないのがオチだ。であれば簡単に話を合わせてくれた方が、話している身としては助かった。


「そそ。まぁコメットちゃんも私と同じ職業に就きたいんだったら、かなり頑張らないとね」

「アタシには先生は向いてへんよ。人と関わるの、あんまり得意じゃないし」

「そんなことないよ。コメットちゃんだって、これから色んな人と関わっていけばいいわけだし。そうしていけばいずれ、人と話すことにも抵抗はなくなってくると思うよ」


「そうかなぁ……」自信なさげな返事をする光莉。


「大丈夫! コメットちゃんも自分に自信持たなきゃね」


 自身を持たなければと先に言ったのは光莉だ。そんなことを言ったからには、自分にも自身を持ってもらわなければ説得力がない。


「そうかもな……そうよな!」

「せやせや、お前はどうも引っ込み思案やからな。やっぱ初田はんは光莉んことようわかっとるわ」


 スメシンはそう言うと体を起こし、初田の膝に頭を置いている光莉を見て言った。


「ほんまな。先生はアタシのことよく見てくれとる」


 今度は光莉も笑みを浮かべて、上目遣いで初田の顔を覗き込む。ここまでじっと見つめられては、次第に初田も恥ずかしくなってきた。

「もう、そんなにじっと見ないでよ」冗談交じりの声は、さらに光莉を顔を綻ばせた。


 光莉やスメシンと話していると、何だか童心に帰ったような気持ちになる。ちょっとしたことでも、小さな笑いが起こる。こんなことを経験したのは、思い返してみても小学生の時だけだった。

 もしかすると彼らと出会ったことで、初田は本来の自分と再会できたのかもしれない。だとすればやはり彼らとの出会いは、初田にとってもよい刺激だった。


「でも先生、スクールカウンセラーになってよかったと思うわ。だってこうして、コメットちゃんと出会えたわけだしね」


 我ながらクサい台詞を吐いたものだ。だがその台詞も、光莉の心を揺さぶるには十分だったらしい。


「……先生ッ!」


 次の瞬間、光莉は膝枕にしていた初田の膝に顔を埋め始めた。同時に膝からは、彼女の泣き声による振動がひしひしと伝わってきた。それにぐりぐりと顔を押さえつけて涙を拭う様も、まだ彼女が子供であることを知らしめてくる。

 泣きじゃくる光莉の頭を、初田は寝癖を直すようにゆっくりと撫でてやった。


「だからコメットちゃんも無理はしないで。寂しくなったら、いつでもここにいらっしゃい。先生はいつでも待ってるから」

「……うん。そのためにも先生は、絶対アタシが守るから」


 彼女の素の返しには思わず笑ってしまった。子供と大人、これではどちらが守る立場なのかわからない。

 しかし彼女の言葉には義務感は感じられなかった。それは彼女が初田を守ることを、己の使命ではなく願いとして受け入れたからだろうか。真相は彼女のみぞ知る。


「ささっ、みんなお腹いっぱいになったことだし、もうお片付けに取り掛かろうか」


 初田は両手を合わせて、二人に片付けを催促した。

 自分から誘っていてはなんだが、この鍋などを一人で片付けするのは初田も気が進まなかった。なので彼らがいる今のうちに、できるなら片付けを済ませておきたかった。


「そうやね。ほら、スメシンも一緒に片付けやるよ」

「はぁ? なんでワイまで……」


 光莉はすんなりと納得してくれたが、一方のスメシンは無愛想な返事をした。大の大人が、それも人の何倍も生きていそうな神が、子供相手に催促されるとはみっともない。彼にはプライドと言うものがないのだろうか。


「料理は片付けまでがワンセットですからね。じゃあスメシンさんはその鍋を、台所の方までお願いします」


 このままでは拉致があかないので、初田はスメシンに向かって名指しで指示を出した。

「一応ワイ、神様なんやけどなぁ」そうは言いつつもスメシンは、渋々立ち上がって鍋に手をかけた。

 火傷しますよとは言っておこうと思ったが、どうやら彼には温覚がないらしいのでやめた。そもそも温覚がなければ、光莉までも火傷する心配もないからだ。


 それに平然と熱を持った鍋を持っていく様は、悪態を吐きつつも彼の根は素直であることが伺える。


「スメシンってば、素直じゃないんやから」


 素直じゃないのはお互い様だろう。互いの共通点をまだ見つけられていないあたり、彼女達の関係はまだまだこれからと言ったところか。


「でもいいコンビじゃない、あなたたち」


 二人の掛け合いを見ていると、ふとそんなことが口から漏れ出た。


「そう?」

「ええ。スメシンさんが同居人の以上、あなたにはこれからも辛いことがたくさんあるかもしれない。だけどコメットちゃんとスメシンさんの二人なら、きっとその困難すらも乗り越えていける。そんな気がするわ」

「スメシンと二人なら……か」


 すると台所の方から、スメシンの大きな怒鳴り声が聞こえてきた。


「なんでワイだけ動いてんねん! お前らもはよ手伝え!」


 どうやら一向に動こうとしない二人を見て、彼も頭にきたらしい。ここは早いところ、自分達も動いた方が良さそうだ。

 お互いに顔を合わせてみて、同じことを思った様子の光莉を見るとつい笑みがこぼれた。


「言い出しっぺがやらないと、説得力ないものね。じゃあコメットちゃん、そろそろお片付けしよっか」

「うん!」


 そしてようやく初田達も、スメシンに続いて重たい腰を上げた。


 16


「おはよう久瑠ちゃん。今日も学校、お休みする?」


 朝、母のささやくような声で目が覚めた。現在の時刻は午前七時、地区による集団登校の集合時間まであと四十分程だ。もうこうなってくると、二日連続で学校を休んでいることもあって、さらにサボりたい欲も出てきてしまう。

 久瑠は布団に潜り込み、もぞもぞと蠢きながら言った。光莉に負わされた傷はすでに癒えていたが、それでも学校で藪林と顔を合わせるようなことだけは、どうしても避けたかった。あんなことがあった以上、成果を上げない限りは顔合わせなぞできないと思った。


「ごめん、今日もなんか頭が痛いわ。学校、行けそうにない……」

「わかった。じゃあ先生にも、欠席の連絡入れとくな。早よ頭痛、治しなよ。ご飯もお薬も、一緒に下で用意してるから」


 そう言って母は、何も言わずに久瑠の部屋を出ていった。つくづく彼女が、甘い性格で助かった。


 仰向けになっていると必然的に目に映る天井。もうこの天井を今の時間、ましてや平日に見るのは日常となってきてしまった。

 これもあの失態があったせいだ。一昨日にあった事を思い出して、久瑠はまたも唇を噛み締めた。光莉を殺す勢いで臨まなかった自分に、嫌と言う程嫌悪した。


 久瑠は光莉に戦いを挑んで、負けた。その事実は、自身が受け止めずとも変わることがない。となれば久瑠に本来訪れるべきだったものは、他でもない死だった。

 本来久瑠の属しているツリーフレンズには、敗北すれば自害しなければならないと言う掟がある。無論それは、その組織が他者に知られてはならない秘密組織だからだ。カレントの存在がまだ公となっていない以上、その組織の存在はまだ水面下に出てはならなかった。国を乗っ取ると言う計画を国に悟られないためにも、その掟は厳守しなければならないのである。


 しかし久瑠は戦いの最中、敗北を自覚した瞬間に、突如として死への恐怖心が芽生た。最近まで死への恐怖心など、感じたこともなかったにも関わらずである。おそらく、それはこれまでの久瑠が智也の一件もあってか、命そのものを軽んじて見ていたからだろう。

 故に死への恐怖を身近に感じていなかった久瑠は、それを目前としたと同時に理解したのだ。自身の寿命を全うしないことが、生物的に見てもどれ程愚かなのかと言うことを。

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