偽善なる同情

 だが何を思ったのか、先程の発言とは真逆のことを橋本は重ねた。それには思わず冷水機の噴出口に口を寄せていた敦も、口に入っていた水を吹き出してしまった。当然顔中に飛び散る冷水、喉の奥から変な声が出る。


「うへっ……」


 服の袖で顔に付着した水滴を拭き取った。寒い時期に水を被るのは自殺行為だ。水滴を拭き終えると、すかさず今の発言の意図を問うた。


「どう言うことやねん、それ」

「ちょっと説教じみたこと言うけどな。ランニングなんか、お前のホンマに好きな美術部休んでまですることやない。そんなこと続けたって、お前は過去に向き合えへんってことや」

「はぁ?」


 激しく苛立った。彼の説教はどう聞いても、自分への妬みにしか見えなかった。もしかすると彼よりも足の速い自分を、陸上の世界から遠ざけたいのかもしれない。

 しかし次の彼の言葉に、またも敦は言葉を詰まらせた。


「お前、一体ランニングの先に何が見えとるんや」


 心が見透かされたような気分だった。

 ランニングの先に見えているもの、それはとても橋本には話せないような内容だ。ランニングで体を鍛えてカレントとなり、弟の仇である船越光莉を殺す。こんなこと、平穏な生活をこれからも過ごしていく橋本には言いたくなかった。

 考えた末、敦は無言を貫くことにした。いくら彼を説得したところで、素直に聞くような玉でないことはわかっている。であれば、あえて何も言わない方がこちらとしても都合がよかった。


「そうか、それでも黙り通すんかいな」


 不貞腐れた表情で橋本が呟く。そんな彼の顔を見ていると、次第に胸が痛くなってきた。


「親友の俺でも相談できんようなことなんやから、多分よっぽどの事情があるってことか」


 何も言わず、頷く。


「なら仕方しゃあないな」


 橋本はそう言うと、両腕を頭の後ろに組んで軽く溜息を吐いた。


「俺もな、お前に無理やり事を聞き出そうとは思ってへんわ。でも用事が終わったら、ちゃんと前みたいに部活行けよ?」

「お……おう」


 ようやく橋本が理解を示してくれた瞬間であった。それは敦が何を考えて行動しようとも、見守る立場に橋本が回ったと言うことも意味していた。

 しかしそうすることによって、もしかすると彼が敦へ失望するかもしれない。自分の復讐のために他者を殺す。こんなこと、先に向こうが仕掛けてきたからと言っても、決して許される行為ではないからだ。

 考えたくもないが、こうして橋本と話をするのも、これっきりにしておいた方がよいのかもしれない。


「急に呼び止めてすまんかったな。早く彼女のところへ行ったれ」

「やから彼女ちゃうって」


 その後ちょっとしたふざけ合いをして、敦は橋本の元を後にした。

 これからはあいつと話すのも控えよう。自らの厄介事に巻き込まないために、敦はそう心に決めた。全ては親友の安全のため、そして自分の汚い部分を親友に見せないために。


 陸上競技場に着くと、やはりそこには久瑠の姿があった。アップは学校でしてきたこともあり適度に済ませ、早速久瑠と敦はいつものコースを走り始めた。

 ランニングを始めてから数分後、ふと敦は久瑠に訊ねた。勿論橋本の時とは違うので、かなり疲労は感じていたが。


「ハァ、ハァ、あのさ、久瑠ちゃん」

「何ですか?」

「ハヤスギの力のことってさぁ、なんで他の人に話したらあかんの? ハァ、カレントも毎年ちょっとずつ増えとるんやったら、いずれハヤスギの力も世間にバレるんちゃうの?」


 カレントのことは他人に漏らしてはいけないーー。それはあの日、藪林に言われたことだった。しかし彼らの組織がカレントのことを公にしないのは、前々から敦も不思議に思っていた。いっそのことハヤスギの真実などを公にしてしまえば、久瑠のカレントオリンピックの夢も近くのではないのか、と。

 ところが質問を受けた久瑠の横顔は、少し困った表情をしているように見えた。


「難しい質問ですね。そりゃあ確かに、このままカレントが増え続ければハヤスギの力は世間に知れ渡ります。やけどまだ公表するには、その発現例が少な過ぎるんですよ。そんな中にいきなりカレントの存在を示してみて下さい。世界は混乱しちゃいますよ?」

「うーん……なるほどなぁ」


 カレントの力を初めて見た時、当然敦は恐怖した。こんなものがこの世界に存在していいものなのかと思った。

 しかし何も、カレントは船越光莉のような過激派ばかりではないことも知っている。おそらくその辺のさじ加減が難しいことが、カレントの存在を公にできない理由となっているのだろう。


 ともかく、敦の思っているよりもカレントの問題は難しいようだ。もっとカレントの理解は深めなあかんな。駆け足をしながら敦は、感想を胸に抱いた。


 11


「久瑠ちゃん、帰り気ぃつけてな。んじゃあまた明日」

「はい。敦さんもお気をつけて」


 いつものランニングコースを走り終えた後、二人は例のベンチの前で解散した。去っていく敦の背を、真剣な眼差しで見つめる久瑠。日を重ねて感じるのは、やはり敦の劇的なスタミナの増加だった。


 変化を感じ始めたのは四日程前。ランニング初日の時はあれ程バテて、久瑠の後ろを何十メートルも離れた場所を走っていた敦が、急にその差を数メートルまでに縮め始めたことがきっかけである。

 始めの方は久瑠も、彼が走ることに慣れてきたんだなとばかり思っていた。しかし次第に、それが単なる慣れではないことに気づいていた。なぜなら走っている時の彼の息が、明らかに以前の乱れを見せていなかったのだ。


 一応久瑠もカレントであると同時に、陸上クラブの元実力者である。それなりに走りのことが詳しいことも自負しているし、自分がカレント抜きにしても足が速いことはわかっていた。

 だが日を追うごとに敦は、その走るスピードにペースを合わせてきている。いくら男子だからとは言え、ここまでくればさすがの久瑠も、疑いの目を向けるほかなかった。


 久瑠は腰につけていたポーチから、親に買ってもらったスマートフォンを取り出す。

 今の時代、スマートフォンを持っていない小学生の方が珍しい。ほんの一昔前はそんなこともなかったらしいが、久瑠は未だにその話が信じられていない。


 掛け慣れた連絡先をタップして、すぐさま耳にスマートフォンを押し当てた。プルルルルーー。電話の掛かる音が耳の中に鳴り響く。しばらくしてその音は鳴り止み、スピーカー部から男の声が聞こえてきた。


『やあ久瑠さん、こんばんは。今日も敦くんとのランニングは楽しかったか?』


 こうして藪林の電話するのは久しぶりだった。にも関わらず、彼の第一声は敦のことで茶化してきている。まさに平常運転と言ったところか。


 いくら敦と一緒にいる時間が長いとは言え、あくまでもそれは仕事上での関係だ。故に彼を異性として見ることなど、久瑠には断じてできなかった。今の彼の発言は、ある種の教え子に対するセクハラだろう。

 児童相談所にでも報告してやろうか。ふと意地の悪い考えが、久瑠の脳裏によぎった。


「ふざけんといて下さい藪林先生。私やって好きでやっとるんとちゃうんやから」

『本当かぁ?』


 今の言い方から察するに、彼が電話の向こうでほくそ笑んでいるのは明確である。あのおっさんめ……。自分を小馬鹿にしたような口調に苛立ちを覚え、久瑠は軽く溜息を吐いた。

 その後も藪林の煽りは、彼の気が収まるまで続いた。


『……で、要件は? もしかして前に学校で言ってた、例の敦くんの件か?』

「はい」


 しばらく経って、ようやく彼は真面目スイッチをオンに切り替えたようだ。スイッチの切り替わりが激しい彼には、毎度振り回されてしまう。いい加減それが鬱陶しいことに、彼にも気がついてもらいたいものである。


「敦さん、今日は最初の方だけですけど、私のすぐ横を走ってました。今日は私、意識して進素しんそを使ってたんですよ」

『そうか……』


 少しばかり電話の向こうが無言になった。


『初めて敦くんの異変を聞かされた時、もしやとは思ってたんだがな。そこまでの症状が出始めているとなると、やはりカレント化の可能性も、空論だけでは済まなくなってきたと言うわけか』

「そう言うことになりますね」


 敦の急激なスタミナの持続力、加えて身体能力の向上。それは明らかにハヤスギから放出される謎の元素、進素しんその影響によるものだった。


 通常、呼吸にて空気中の進素が取り込まれると、人体はそれを不要なものとして、二酸化炭素や窒素同様に体外へと放出する。

 しかし特異体質なるカレントは逆で、進素を酸素と同じように体内へと取り込む性質があった。結果的にそれがカレントの力の源となり、強靭な肉体や身体能力を生み出していた。


 これらのことから考えられることは一つ、敦はカレントとしての力を目覚めさせかけている。後天性のカレント化は、カレントの中でも珍しくはない。特に普段から運動をしていなかった敦なら、急激な運動により空気中の進素を取り込むことが多かったので、カレントとして目覚める可能性もあった。

 しかしその覚醒も、やはり世界的に見れば事例が少ない。故に彼がカレントとして覚醒すること自体、奇跡とも言えるものだった。


『まぁ彼が天然のカレントなら、色々とできることも増えてくるだろうしな。もう少し、彼の容態を観察してみるか』

「そうですね。下手にこちらが手を加えれば、彼の体に異変が起こることもありますからね」


 ちなみに以前敦に話していたカレントになる薬とは、単純に言うと液体化させた進素をカプセルに入れたものである。それを体内に直接分解させることにより、強引に進素を血中に取り込むと言う代物だった。

 そのため進素に上手く適合できなかった者は、進素に細胞を傷つけられて死に至る。進素とは言わば諸刃の剣、身体能力を劇的に高めると共に、その消耗をも早める代物なのだ。


 当然進素による負担を減らすための機能は、人体に備わっている。

 人間の体は進素のエネルギー許容量を超えると、自然とそれを体外へ放出する。なぜ人間にそのような機能が備わっていたのかは定かではないが、それによりカレントは、こうして生存できているのだ。


 もし許容量を超えた過剰な進素を体内へ取り込んでしまったら、それこそ死を招く可能性だって出てくるだろう。故に藪林は、カレントの可能性がある敦への薬の投与を渋っていた。無論それが得策であることは、久瑠自身も十分に理解していた。


「ああ、それと……」

「どうした?」


 だが久瑠が彼に電話したのには、もう一つ理由があった。それは敦の話をした後では避けられない話題、光莉の一件であった。


「船越さんの件なんですけど、これからどう対応していくつもりですか? うちの人も一人やられちゃったみたいですし、とても無視できる案件ではなくなってきたと思うんですけど」

『うむ、その質問を今するか……』


 藪林が露骨に唸った。おそらくこの件に関しては、長い間久瑠が訊ねてこなかったから尚更のことだろう。

 勿論久瑠の方も、この件に関しては早めに藪林と訊いておきたかった。しかし二人の予定が中々合わず、それも叶わずじまいとなってしまっていたのである。


 ならばこうして、始めから電話をすればよかったのではと思うかもしれない。しかし彼も一件の後処理に忙しかったのか、プライベートでも中々繋がらなかった。

 よっぽど今回の一件により、上の方から叱られていたのだろう。そのためにこうして今日は、学校での予定合わせもあって電話できていた。


 最近、藪林は光莉に対してとある使者を出していた。その目的は建前上の説得、そしてそれが叶わなかった時の強硬手段として、力づくでの保護だった。

 上の方も光莉のことはかなり危険視しているようなので、今思えば焦る気持ちもよくわかる。例えそれが敦の意思に反していることでも、仕方がないと思った。


 そしてその話を聞かされた後、前述した事情から、しばらく久瑠は結果を知ることはなかった。ーー後のニュースで、例の一件が取り上げられるまでは。


『私としても、君までとは言わないが有用な人材を失ったのは心苦しく思っている。それにあれはタイミングを見誤った私の責任だ。同じ傘下であるとは言え、君まで責任を背負う必要はない』

「いえ、そうではなくてですね」


 無論、久瑠は藪林の責任を引き受けるつもりなど毛頭ない。ただそれにより光莉の危険性が増したこと、そして、本当に敦を彼女と闘わせてよいのだろうかと言う思いはあった。

 当然ながら、久瑠は敦に対する情は自分にないと思っている。故に彼がこれからどうなろうと、知ったことではなかった。


 しかしこれまで彼と共にランニングを続けてきた以上、半端な状態で戦わせたくもないのも事実だった。どうせやるなら万全な状態で臨んだ方がいい、そう思っていた。


『私としても、敦くんの気持ちは尊重してあげたい。だが返り討ちにあった田中くんも、未熟とは言え大事な戦力だった。彼を失った以上、上は彼女に対する危機感を募らせている。だからこそ、次の失敗は絶対に許されないんだ』

「じゃあそれってもしかして……」

「ああ。おそらく次の使者は、私の傘下で一番強い君ってことになるだろう。同級生である君の言葉なら、彼女も説得に応じてくれるかもしれないしな』

「ちょっと待って下さい! なら私の努力は、敦さんの努力は、どうなるんですか!」


 つい言葉が走らせてしまった。どうやら久瑠は、自分の思っている以上に敦のことを気にかけていたらしい。そのことになぜか、久瑠は無性に腹が立った。どうせ叶うはずのない復讐なのに、自分がそれを応援してどうするんだと。


 日を重ねたカレントの方が理論上強いのは、カレント研究会にて証明されている。それは長くカレントのとして生きていると、その分カレントの力の源である進素の、絶対許容量が多くなるからだった。

 進素は一日に摂取できる量こそが決まってはいるが、日を重ねることでその許容量を上げることができる。その原理は骨折から治癒した後に、骨が丈夫になったと言う話とよく似た原理が、カレントの体内で行われているかららしい。


 とは言え進素の許容量が大きいからと言って、体内での進素のコントロールが可能かどうかを問われれば、それはまた話も違ってくる。

 本来ならば進素は、人間の体内に取り込まれないものだ。それを無理矢理コントロールしようなどと、いくらカレントとして日が経っていようともそれは難しい。無論久瑠ぐらいになってくればある程度のコントロールは可能だが、完璧なコントロールとまではいかないのが現実だ。


 空気中の元素の一つと言っても、やはり進素とは人間にとって過ぎたものなのかもしれない。


『君の言いたいこともわかる。だが生半可な戦力で勝てる程、彼女も甘くない。であれば可能な限りの手を尽くす、それが我々の組織のやり方だろう?』


 確かに彼の言う通りだった。カレントの保護、それはあくまでも可能な場合でのみの対応である。彼女の危険性がここまできてしまった以上、被害を抑えるためにも早めの対策が必要だった。こうして久瑠が、意地を張っている場合ではないのである。


「そうですね、私が間違ってました……」


 血が上った頭を冷やし、素直に詫びた。


「私を出す時は、その前日ぐらいには言っといて下さい。一応私にも、準備ってのがありますから」

『ああ。その時は事前に連絡を入れるさ。それより、要件はこれで終わりか?』

「はい。ではこれで」


 そう言って久瑠は電話を切った。それと同時にまた、大きな溜息が出た。


 もし敦の想いが届かず、このまま久瑠が光莉のことを殺してしまったら、彼はどんな反応をするのだろうか。復讐のはけ口を失ってしまった彼は、これからどう生きていくつもりなのだろうか。

 様々な思考が、久瑠の頭の中で駆け巡る。例え自分にそんな感情を抱く資格はないとしても、彼の努力が報われないのは哀れで仕方なかった。どうにかしてやりたい、そう思っている自分もいた。


「結局私、敦さんに同情しちゃってるやん」


 すでに空は、日が沈んで暗くなっていた。

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