競争

 10


 最近敦は美術部に行っていない。無論ランニングによる体作りを優先してのことだが、あれ程興味を持っていた絵から離れるのは、やはり少し寂しかった。

 とは言え、仇討ちを果たすにはこれも仕方がない。一瞬でも火が着いた趣味が持ててよかった。そう思うことでしか、自分を偽る理由が思い浮かばなかった。


「申し訳ないです、こう何度も休んでしまって……」

「いいのよ。気が向いたら、また前みたいにいらっしゃいな」


 優しい顧問の言葉が辛い。もはや部活の欠席報告は、毎日の日課となっていた。あとは帰宅途中にいつもの競技場近くへ行き、そこで待つ久瑠とランニングコースを走るだけ、その繰り返しである。

 最近では久瑠の足の速さにも、バテながらだが追いつけるようになってきていた。これも日々の努力の成果だろうか。ここまで真剣に物事へ取り組んだのも、敦にとっては絵を描くこと以外で初めてのことだった。


「聞いたぜ敦」


 下駄箱にて靴を履き替えていると、背後から聞き慣れた声が耳に入ってきた。振り返るとそこには、相変わらずの姿の橋本が立っていた。彼も陸上部に所属しているので、これから運動場に出るのだろうか。そう言った点では、ある意味敦と目的は同じと言える。


「お前、歳下の彼女ができたらしいな」


 いきなりの話題がそれかよ。さすがの敦も、彼の質問には顔をしかめた。


「馬鹿馬鹿し。マジで誰がその噂流しとうねん」

「そうカリカリすんなよぉ敦くん」


 しかし気が立っているのは図星だ。親友の橋本にまでその話題でからかわれるのは苦痛でしかない。


 久瑠とのランニングを開始して、約三週間が経った現在。例の噂は学年中、もしかすると学校中にまで瞬く間に広がっていた。それは笛口敦は小学生の彼女と、密かにつきあっていると言う噂だった。

 その誰が流したのかもあやふやな噂は、誰も真偽を確かめる術を持っていなかった。なぜなら普段の周囲による敦の扱いは、智也の一件もあり腫れ物に触れるようなものだったからだ。これでは噂を根絶したくても、少し奥手な敦には中々切り出せなかった。


 そう考えてみると、橋本からこの話題を振ってくれたのは吉だったのかもしれない。

 ここ美濃中学校のスクールカーストには、陸上部が上層に君臨している。そのため、陸上部にてトップクラスの実力を持つ橋本であれば、騒ぎを収めることができるかもしれないからだ。やはり持つべきものは親友である。


 だがそんな思いを他所に橋本は、笑いながら敦の肩を叩いて言った。


「にしてもオメェも中々隅に置けねぇやつよなぁ。俺たちよりも下ってことは小学生じゃねぇかよ。このロリコンめ!」


 前言撤回、これでは他の者達とレベルが同じだ。


「誤解やからな! あの子とはそんな関係じゃねぇよ」

「わかってるよぉ敦。それでも俺とお前は親友やからな」


 確実に彼は話の意図を理解してないが、もはやさとすのも不可能なので諦めた。「はいはい、それはありがとな」


「もう話は済んだやろ。じゃあ、また明日な」


 何気ない会話を終えたので、そのまま下駄箱を後にしようとする。しかしそれを橋本が阻んだ。上履きのまま敦の前に立ち塞がったのだ。彼は一体何がしたいのだろうか。


「なんやねん。まだなんかあるんか?」

「ああ」


 橋本の顔が、だんだんと智也の通夜で見た、あの真剣なものへと変化していく。「とっても大事なこと」


「またしょうもないことやったらしばくからな」

「真面目な話やから安心しろ」


 口調からして、次の話が本題らしい。しかしいくら橋本が親友と言えども、約束している相手を待たせるのは気が引けた。ただでさえ久瑠は小学生なので、中学生の敦よりも早く下校していると言うのだ。

 敦が競技場へ着く頃には、決まって久瑠はランニング前の準備運動を済ませていた。故にこうも橋本に呼び止められては、その分彼女を待たせる時間も長くなる。早めに切り上げてほしいな、だがそんな淡い思いも、次の言葉で消え去った。


「最近のお前さ、なんか無理して張り切ってるような気がするんよな」

「どう言うことやねん」

「いやぁな、お前が彼女とランニングを始めたんは知っとるで。やけど、急にそんなこと始めるなんか、前までのお前見てたら考えられへんねん。お前、またなんかあったんとちゃうんか?」

「そ、そりゃあ俺やって……」


 つい言葉を詰まらせてしまった。

 よくよく考えると、橋本が疑問に思うのも無理はないだろう。つい数週間前までは運動と無縁の生活を送っていた敦を、彼はずっと見てきたのだから。それに突然接点が感じられない女子と、それも二人きりでランニングをするなど、首を傾げるに違いない。


 故にそれ以上の言葉が出なかった。ハヤスギのこと、カレントのこと、そして智也の死の真実。これらを無関係の橋本に話すことは、親友の立場からしてできないと思った。


「話してくれよ。俺やってできる限りお前の力になりたいんや」


 だが通夜で聞いた、橋本の言葉が今蘇る。

 もし俺に何かできることがあるなら、言ってくれーー。それはおそらく、彼も慰めのつもりで言ったのではない。親友として、自分も敦のためになにかできないものかと、必死で考えた末に行き着いた橋本の答えなのだ。

 今更になってそのことを理解した敦は、同時にその言葉の重みを思い知った。そして、拒絶した。


「お前には関係ない」


 しかし橋本も、すんなりと食い下がってはくれなかった。


「そんなわけにもいかへんわ。俺はお前の親友やで? お前が困ってるのを見過ごすわけないやろ」


 彼が頑固なのは自分が誰よりも知っている。何か良い手はないものか。橋本との口論の決め手を模索していると、唐突に彼は脈絡のない発言を繰り出した。


「じゃあ敦、今から俺と四百メートル走で勝負しろ」


「はぁ?」思わず敦の声のトーンも跳ね上がる。


「なんで俺がお前と競争せなあかんねん」

「なんでもや。さぁ行くぞ」

「ちょっ、お前」


 橋本はその理由を全く話さず、まだ返答をしていない敦の腕を引っ張った。こう言う時の橋本は、自分が納得行くまでとことん相手を連れ回す。ここは普段通り、彼についていく他なかった。久瑠を待たせることになるにも関わらず。


 運動場に着くと、その端の方では陸上部の他にも、サッカー部や野球部などの部員達もアップをしていた。

 アップとは、要するに運動をする前の準備運動のことだ。これを予めしておれば、体への負担を最小まで抑えることができる。加えて体を運動に慣らすことも兼ねているので、こうした練習でも実力を十分に発揮できるのだ。久瑠もランニング前にはよくやっている。


「さっ敦。今日もその下に運動着を着てるのは知ってっからな。観念して早く脱ぎやがれ」

「……へいへい」


 今日は授業に体育があったこともあり、制服の下は体操服だった。普段から着替えるのが面倒だった敦は、体育のある日はこうして体操服を着込んでいる。それも毎日ランニングをするのだから尚更だ。だがまさかその横着さが、このような仇になるとは想像もつかなかった。

 服装を完全に運動モードへ切り替えると、橋本は近くにいた先輩らしき人に声を掛けた。なにやらレーンを使わせてくれと頼んでいるらしい。


 しばらくして、先輩と話し終えた橋本が敦の元へと戻ってきた。


「オッケーやって」


 そう言って彼は親指を立てる。よっぽど敦と競争ができることが嬉しいのだろうか。今の橋本が何を考えているのか、敦にはさっぱりわからなかった。


「あっそ」


 とは言えよくもまぁこんな部外者との競争に、先輩達も大切な部活の時間を割いてくれたものだ。寧ろ突き返してくれた方がよっぽどよかったのに。

 だがそれも、周囲の橋本への信頼があってこそだろう。日頃の行いの報いが、こうも彼の成すこと全てに影響しているに違いない。全くもって彼には驚かされる。


「アップしたらさっさと始めっぞ、競争」

「めんどくせぇな」


 とは言えこちらも久瑠との約束があるので、その意見に関して言えば同感だった。どちらにしろこの競争自体が出来レースなので、勝敗の結果はとうに決まっている。敦が勝てるわけがないのだから。

 前述の通り、橋本は陸上部きっての実力者だ。これまで運動を避けてきた敦と、逆に自分を磨き上げてきた橋本。その壁はいくら地獄のランニングをしているとは言え、簡単に壊せるものでもない。


 アップを終え、自分達の体が十分に動くことを確認した二人は、コースロープで仕切られた枠の中に入った。スタートラインのすぐ隣には、すでに一人の先輩が待機してくれていた。少し細身の体型の、優しそうな男性だった。


「お前ら、準備はいいか?」

「はい」「お願いします」


 返事をする敦と橋本の声は、ほぼ同じタイミングだった。

「じゃあ行くぞ」先輩は左腕を下に落とす。「位置について……」


 突如として予期せぬ緊張が、敦の全身に走った。

 敵う相手でもないことはわかっている。わかってはいるが……。それでもやはり、手を抜くことはできないのが勝負事と言うものだ。

 まずは深呼吸して息を整える。橋本にも何かしらの考えがあることは、内容こそ知り得ないものの察していた。そしてそれが彼なりに敦のことを思ってのことであるとも。であればその行為に手を抜くなど、親友として決して許されるものではない。


「用意……」


 ついでに言うならば単純に、敦は自分の実力を測ろうとも考えていた。あのランニングをしたことで、自分がどれだけ成長できたのかを確認するためだ。

 そしてその時はやって来た。


「……ドンッ!」


 先輩が左腕を上げ、スタートの火蓋が切って落とされる。ズサッーー。研ぎ澄まされた神経の中で、敦の耳に土を踏む音が聴こえた。だがすぐに、それが自分のものではないことを確信する。

 先に足を踏み出していたのは、やはり橋本だった。さすがは陸上部の現役実力者、踏み込みの良さは、明らかに素人のそれを凌駕している。


 しかし敦も負けてはいなかった。スタートダッシュこそ遅れをとったものの、第一曲線を走り終えたすぐ後に、橋本の真横へと並んだのである。

「マジかっ」並んで走っている途中、隣で小声ながらも橋本が呟いた。

 驚いているのは敦も同じだった。まさか三週間近くの特訓が、これ程までに結果として出るとは思っていなかったのだ。そしてそのまま二人は直線をほぼ並んだまま、終盤の第二曲線に差し掛かろうとした。


 しかし、ここで事は大きく動き出す。

 先に気力が落ち出したのは橋本だった。明らかに大きくなっていく息切れの声が、そのことを敦に知らしめた。おそらくスタートダッシュの時から、すでに彼は全力を出していたのだろう。敦に自身の実力を見せつけるために。


 そして迎える終盤戦、第二曲線を先に曲がったのは敦だった。加えてその差は目に見える程に開いている。ここまで来ると、正直言って橋本に抜かされる心配はほとんどなかった。

 曲線で相手を抜かすのは至難の業である。故に敦は、そのままゴールラインへと足を踏み入れた。遅れて橋本も、敦がゴールして二秒程でゴールした。


 唖然とする周囲の反応。それもそのはず、実力者である橋本をこんな、帰宅部同然の敦が競争で打ち負かしたのだから。橋本と同じ陸上部の面子が、こうして驚くのも無理はなかった。

 それに驚いているのは橋本や周囲の者達だけではない。橋本に勝った本人ですら、驚きで今も目を丸めていた。


 まさか橋本に勝つなんて……。しかしそれ以上に驚いたのは、走り終えた後にやって来るあの達成感にも似た脱力感が襲ってこないことだった。走り終えた後にあの感覚がないことなど、久瑠と走っている時には一度もなかった。


「ハァ……ハァ……まさかお前に負けるとは思わへんかったわ……」


 駆け寄って来た橋本が、敦の肩に手を置いて言った。どこか彼の表情には、悔しさなるものが滲み出ていた。


「いやぁ、正直俺も驚いたわ。まさかお前に競争で勝てるなんて」


 これも拷問とも言えるランニングの成果だろうか。ともあれあのランニングの成果は出ていることがわかったので、敦も素直に喜んだ。


「にしてもお前……よう息切れんと走ったな……」

「そんなことないって、これもランニングの成果やって」


 言われてみれば、確かに呼吸の乱れは感じられない。だが久瑠とのランニングは、基本一時間ぶっ通しで行なっていることが多かったのでその成果も出たのだろう。人間、慣れと言うものは恐ろしいものである。


「すげぇなお前! どうや、陸上部に入らへんか?」


 すると突然、先程まで黙り込んでいた、スタートの合図をしてくれた先輩が敦に話しかけてきた。いきなりの部活動勧誘は予期していなかったが、ふと敦は美術部の体験入部にて、初めて絵を描いた時のことを思い出した。デジャブ感とはこのことか。


「あっ、いや……」


 しかし最近部活に行っていないとは言え、敦は美術部員だ。いくら競争であの橋本に勝ったからと言って、すんなり配属部を変える程その意識は弱くない。そのことを伝えようとした敦だったが、それよりも先に橋本が声を上げた。


「すんません先輩、実はコイツ美術部なんすよ。それも絵が無茶苦茶上手いときた、こりゃ引き抜けませんわ」

「そんなんか。残念やな」


 少ししょげた、子供っぽい表情を見せる先輩。しかしすぐに切り替えた様子で、気が向いたら来てくれよ、とだけ言った。やはり年齢が自分よりも上なこともあって、こう言った面では大人びて見える。

 そんな先輩の顔を見ていると、再び橋本が敦の肩に手を置いた。


「冷水機行こうぜ」

「そうやな」


 ナイスタイミング、丁度敦も喉が乾いていたところだった。二人は、渇いた喉を潤すために冷水機へと向かった。


「走ってるとやっぱり、胸の中のムカムカって消えるよな。こんな感覚、ずっと味わっときたいわ」


 冬場だと尚のこと、その冷たさが増す冷水機の水。それを喉に通していると橋本が、そんなことを呟いた。

 今の発言には敦も、何かとくるものがあった。そのため一旦冷水機の噴出口から、口を離して返答する。「確かにそうかもな」


 始めは、と言うよりは今も敦は、嫌々ランニングをしている。しかしそのランニングをしている時はいつも、真剣になって走っていた。

 無我夢中で走る最中、他のことなど考える暇はない。故に敦は、この時だけ笛口家のことや智也のこと、その他の嫌なこと全てを忘れられた。橋本の言葉を借りるとすれば、まさしく胸の中のムカムカが消えるような感覚だった。


 それらが悪い感覚かと問われれば、素直にノーと答えられる。ランニングは今でもめんどくさいとは思うが、それに勝る爽快感が得られる点は認めざるをえなかった。


「でもそれは、結局一時的なものでしかない」

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