ハヤスギの研究者

「ところでコメットちゃん、学校での調子はどう? 先生、最近君が相談室に来てくれないから、私不安でしょうがないのよ」

「そんなに心配せんでも大丈夫やって。先生があれこれ言うてくれたおかげでな、もうアイツら何も言うてこんようになったわ」


 そしてついでのように光莉は、ポツリと言葉を漏らした。「それに、智也くんもおらんくなったしな」

 すると突然、初田の脳裏に兵庫県警が聴取をしに来た時の記憶が浮かび上がった。

 あの時の唐突な光莉の話への話題転換。あんなもの、光莉を容疑者の一人として見ているいい証拠だ。まだ幼い光莉を犯人と疑うとは、余程捜査本部も今回の事件にてこずっているのだろうか。


 とは言え実際、初田も光莉のことを疑っていないわけではなかった。光莉は確かに非力だ。普段運動もしていないし、肌の白さがそれをさらに助長している。

 しかし最近彼女の様子がおかしいのは、初田もクラス回りをしていて気がついていた。


 なぜかはわからないが、学校での様子からして光莉は焦っている。それが何か重要なことを知っているからか、はたまたその当事者だからかは定かではない。

 だからこうして、初田はそれを訊ねるためにここを訪れたのだ。今の光莉と顔を合わせて話をできるタイミングなぞ、こちらから行かない限りはやって来なかった。


「コメットちゃん……何か先生に隠してへん?」


 今の言葉で、光莉の表情は露骨に歪んだ。その表情を見て隠し事をしているのを読み取れない程、初田は落ちぶれてはいない。相手が子供なら尚更だ、子供は嘘をつくと表情に出やすい。


「先生には……関係ないから」


 どこからどう見ても黒だな、彼女の目をそらす仕草で確信した。となれば次に彼女が取る行動を予測して、慎重に事を運ばなければならない。

 光莉の表情を見つつ、初田は次の言葉を選ぶ。相手の心理をコントロールするのは、大学時代からの得意分野だった。


「どう言うこと、コメットちゃん」

「やからアタシのことはほっといて!」


 瞬間、光莉はその場から立ち上がった。どうやら、無理やりにでも事を聞き出されるのが怖かったらしい。無論これも計算の内だ。

 逃がさない。すかさず初田は光莉の腕を掴んだ。


「離して!」

「コメットちゃん、先生はあなたを信じたいの!」

「えっ」


 しかしここで、初田はある重大なミスを犯してしまった。刑事から得た情報を、うっかり光莉に漏らしてしまったのである。


「今、警察の人達がコメットちゃんのことを、智也くんを殺した犯人かもしれないって疑ってる。だけどあなたがそんな逃げ腰じゃ、いつまで経っても疑いなんて晴れないよ……はっ!」


 気づいてからではもはや遅かった。先程まで怯えていた光莉の顔も、みるみる内に余裕のあるものへと変わる。おそらく彼女の中ではもう、隠し事に関してのことは吹っ切れているのだろう。


「そうなんや。あのオジサン、まだ余計なことに首突っ込んできとんか。忠告はしたんやけどなぁ」

「ねぇ、どう言うことコメットちゃん。ちゃんと先生にも説明してよ」

「しつこい!」


 次の瞬間、初田の腕に引っ張られるような痛みが走った。そしてそれと同時に光莉も部屋を飛び出す。どうやら彼女は、初田の腕を強引に振り払ったらしい。

 なぜ自分が責められなきゃいないのか。一人残された部屋主のいない空間で、痛む右腕を押さえながら初田が溜息を吐いた。ここまで一人の生徒に振り回されるのは、正直カウンセラーになって以来初めてだ。


「もう、こうなったらやけ食いしてやる!」


 だんだんとむしゃくしゃとしてきた。財布にいくら入っているのかなどどうでもいい。初田は怒りに任せて、光莉の部屋を後にした。


 9


 ここは森山公園。美濃市にある、緑が多く残る自然保護公園だ。森山公園は近藤が子供の時からある場所で、昔から体を動かすにはここが一番だと相場が決まっていた。

 そして今日は近藤の、久方ぶりの休日でもある。と言うわけで今日は、息子の太樹とキャッチボールをしに来ていた。どうやら同じような考えを持った者は多かったようで、広場には人であふれかえっていた。


「それっ」

「ああっ! もう、お父さんのボールの高いわ!」

「あははは、すまんすまん」

「しっかりしてよぉ……もう」


 太樹が不貞腐れた顔で、近藤の投げたボールを拾いにいく。

 こんなに俺ってキャッチボール下手だったっけなぁ。グローブをはめた左手を握りしめ、近藤は走る太樹の後ろ姿を眺める。するとまたもや、仕事のことが頭に浮かび上がってきた。これで何度目になるだろうか、多過ぎて回数なぞ数えていられない。


 やはり事件が未解決にも関わらず、太樹と遊んでしまったのがいけなかったのかもしれない。フラッシュバックするあの日の会話。せっかくの休日だと言うのに、これでは気が休まる暇もなかった。


 パパ、まだ犯人は捕まえられへんの?ーー。

 心配すんな太樹。犯人は絶対にパパが捕まえたるからなーー。

 ほんまに? 絶対やでーー。

 おう、男の約束やーー。


 安易に約束してしまった男の約束。それは近藤の心の余裕を、これでもかと言う程に奪っていった。このまま犯人が捕まらなければ、太樹に誓った約束は嘘になってしまう。それだけはどうしても避けたかった。

 近藤は今の太樹に、警察官として働く憧れの存在として見ていて欲しかった。


 しかし最近、彼の反応が冷たくなってきているのもまた事実だった。それはおそらく、一向に犯人を捕まえられない父に嫌気が差してきたからであろう。有言実行ができない自分を、彼が情けなく思うのも無理はなかった。

 それでも太樹はこうして、父親と共にキャッチボールをしている。いや、正確にはしてくれていると言った方が正しいのかもしれない。そう考えれば近藤よりも彼の方が、よっぽど精神的に成長していると言えよう。


「捕まえられるなら、とっくの前に捕まえてるよ」色々思い悩んでいると、思わず悲痛の言葉が漏れてしまった。


 唯一の容疑者だった船越光莉は、周辺捜査からシロだと言うことがわかった。彼女は事件当日、家にずっと篭って外出をしていなかったらしい。加えてその日の学校での目撃情報もなし。ここまで来れば共に光莉を犯人かもしれないと疑っていた神崎も、彼女が犯人ではないことをあっさり認めてしまっていた。


「すまんな近藤……。俺が力になれるのはここまでみたいやわ」


 その後捜査本部は、事件が未解決のままにも関わらず縮小した。最近奇妙な事件がもう一件起こったらしいので、おそらくそちらの方に人員を割いたためだろう。相棒としてコンビを組んでいた神崎も、それを機に近藤の元を去ってしまった。


 捜査は大方、所轄に引き継がれることとなった。しかしこの事件は迷宮入り同然の事件だ。今では熱心に捜査しているのも、署内では近藤一人だけである。

 とは言え依然として手掛かりも掴めていないので、捜査は相変わらず難航していた。これではいつ事件が解決するのかと問われても、正しい返答ができる自信はない。


 顔に疲労が出ていることを知ったのは、妻である仁美ひとみの言葉からである。昔から彼女は、近藤のことをよく見てくれていた。そのおかげで今日も、こうして鬱になりかけていた近藤を連れ出し、家族での外出をしているのだ。無論車の運転は彼女が免許を持っていないが故に、癒される方であるはずの近藤だったが。

 とは言えさすがに、息子との面を合わせたキャッチボールは難題過ぎた。今更家でゴロゴロしたかったとも言いづらいが、この状況をどうにか打破できないものだろうか。


「お……さん! お……うさん! お父さん!」

「ん!?」

「お父さん! もう、せっかくボール取ってったのに無視せんといてよ!」

「あ、ああ、すまん」


 またやってしまった。息子の声すらも耳に入らないと言うのに、キャッチボールなどできるはずもない。

 もっと他に家族で楽しめるものはないものか。このまま続けていても、互いに、さらにはそれを見ている仁美が辛くなってくるだけなのは目に見えていた。


 すると近藤にある考えが思い浮かぶ。だがそれが同時に、自分以外の者でもできる単純であることも察した。

 どうせ自分は食べ物で彼らを釣ることしかできないんだよ。やけくそになりながらも仕方なく太樹と、近くに座っていた仁美に問い掛けた。


「しっかし、そろそろ俺も腹が減ってきたなぁ。そうや、この広場の下にあるレストランにでも食べに行かへん?」

「レストラン!? やったー!」


 無邪気に喜ぶ太樹。その喜び具合から、キャッチボールがどれ程嫌だったのかが伺える。それが終わって近藤も、嬉しいような悲しいような、なんとも言えない複雑な気持ちになった。

 一方の仁美もレストランに行けると聞いて、あからさまに笑みを浮かべた。ワザとらしいと言うかなんというか。その口でよく「息子とキャッチボールをすればいい」と言えたものだ。


 さては初めから、仁美の心の奥底ではレストランが目的だったのではないのか。


「これが松の木で、これがヒノキ!」

「おお太樹、よく知ってるなぁ」

「えへへ。そんなの、ビーバースカウトなんだから当たり前だよ!」


 レストランまでの道の途中、太樹は目に入る木一本一本の名前を言っては上機嫌になっていた。おそらく自分の知識を披露できたことが、彼にとって余程嬉しかったのだろう。それにしてもところどころの木には名前のプレートがあるとは言え、木の名前を覚えているのは大したものだ。

 こんなところで太樹の機嫌をとる方法があったとは。自分がいかに息子との時間が取れていなかったのかを、改めて実感した。


 ちなみにビーバースカウトとは、ボーイスカウトの中の部門の一つだ。ボーイスカウトと言っても主に小学校低学年の子供が分類されているため、どちらかと言えば自然を楽しむ会に近いか。

 そして太樹がなぜあそこまで笛口智也の事件に執着しているのかと言うと、それが何よりの理由であった。


 笛口智也は生前、カブスカウトと言う、これまたボーイスカウトの小学校高学年に当たる部門に所属していた。

 ボーイスカウトは月一のペースで集まりなどをやったりする。そんな時、太樹は智也によくしてもらっていたらしい。人間とは思わぬところで繋がっているものである。まさか被害者と自分の息子にこんな繋がりがあったとは、事件がなければ知らなかった。


「これは多分……ハヤスギ!」

「え?」


 その言葉に、思わず近藤は足を止める。すると同時に太樹と仁美も、不思議そうに近藤を見て足を止めた。


「お父さんどうしたん?」

「あっ……。いやぁな、これがあのハヤスギなんかって思ってな」

「なんや、そう言うことか。お父さんも、ハヤスギのこと興味あるんやな」

「ま、まぁな。あははは……」


 光莉と出会ったあの日の夜、近藤はハヤスギについてインターネットで調べていた。しかし世界中に分布しているスギの一種であることと、三日で成木になること以外は、特に目ぼしい情報は手に入らなかった。

 やはりインターネットに出回る情報と言うのも、世界からすればほんの僅かなものなのかもしれない。


「ハヤスギはね、たった三日で成木になるねんで。すごいよなぁ、人間で言うたら三日で大人になるってことやろ?」

「そうね。でも太樹がその速さで大人になっちゃうと、お母さん達困っちゃうわ」

「よなぁ。僕もまだ子供でおりたいし」


 二人の他愛ない会話を他所に、またも近藤は事件のことを思い出してしまった。ここまで来ればもはや、何かの病気ではないかと疑ってしまう程だ。


「ハヤスギの学名な、最近つけられてんで」

「そうなの? 太樹ったら物知りね」

「えへへ。確か学名は……。あれ、あれ、何やったっけなぁ……」

「なんや憶えてないんか、太樹」

「違うよ、知ってるもん! えっと、えっと……」


 どこかで聞いたのは確かなのだろうが、子供と言うものは背伸びと言うものをしがちである。今の太樹もそうなんだろうな。そうは思いつつも、昔それが自分にもあったのかと思うと、少し近藤は微笑ましく思えた。

 しかし次の瞬間、聞き覚えのない声が近藤の背後から聴こえてきた。


「クリプトメリア・プローモウェー。ハヤスギの学名です」


 すぐさま振り向くと、そこには長身で金に近い茶髪の青年が立っていた。目はあおく鼻も高いことから、見たところ海外の者なのだろう。とは言え今の違和感を感じさせない日本語から、彼が日本に住んでそれなりに経っていることも伺えた。


「そうやそれや! クリプトメリア・プローモウェー! 確かクリプトメリアが杉の木を言うとんやんな?」

「正解! 君もハヤスギのことに詳しいね」

「そう言うお兄ちゃんこそ、ハヤスギのこと知っとうやん」

「ふふふ。こう見えて僕、ハヤスギの博士なんだ」

「凄い! ハヤスギ博士!」


 それは思わぬ出会いだった。ハヤスギ博士を自称するぐらいなら、もしかすればそれが持つ性質についても詳しいかもしれない。となれば近藤が求めていたハヤスギの情報も、何か掴めると思ったからだ。

 このタイミングを逃すわけにはいかない。すかさず近藤は彼に、素性の開示を求めた。


「あの、失礼かもしれませんがあなたは?」

「ああ。そりゃあ突然、見知らぬ男が話しかけてくるなんてびっくりしますよね。僕はレーウェン、レーウェン・クロックフォードと言います。今はこの森山公園で、ハヤスギについての調査をしてるんです」

「凄い! ハヤスギの調査なんかやっとる人初めて見た!」


 太樹が驚くのも無理はない。半年程前に出現したハヤスギ、その存在は確かに異質ではあったが、それを題材に研究を行う者は少ないと聞いていたからだ。

 ある日を境にパッタリと止んだハヤスギブームは、その終わりと共に情報もメディアからシャットアウトとされてしまった。だから今更ハヤスギのことを調べている者など、変わり者の他に当てはまる言葉はなかった。


「ハヤスギは奥が深くてね。調査してもわからない部分がたくさんあるんだ。どうだい、中々調査しがいがあるだろう?」

「うん! レーウェン先生、もっとハヤスギのことについて教えてぇな!」

「そうだね、他に何か面白い話があったかな……」


 するとレーウェンは両目に右手を添えて、何か考え込む仕草をした。しかしそれを見た仁美は、少し不機嫌そうな顔になって太樹の肩に手を置く。一体どうしたのだろうか。


「だめよ、レーウェンさんだって困ってるじゃない。ほら、レストランだってもうそろそろいっぱいになるんじゃないの?」


 普段は気の利く彼女だが、やはり食欲にはそれは敵わないらしい。レーウェンが困っていると言うのはあくまでも建前で、本音はレストランに行きたいと言うことは丸わかりだ。これ程欲に正直なのも、困りものである。


「あはは、それは急がないといけませんね。ハヤスギの話がもっと気になるようでしたら、ぜひ森の木センターに訪れてみて下さい。仕事の関係上、当分僕もそこにいるので」

「色々とありがとうございます。ほら太樹、ちゃんとレーウェンさんにお礼言いなさい」

「うん。ありがとう、お兄ちゃん!」


 手を振るレーウェンに別れを告げ、三人は再びレストランへの道を歩き始めた。この時近藤は、また別の日にレーウェンの元を訪ねに来ようと思った。勿論、太樹は抜きにして。

 事件関連のことを、太樹の耳に入れたくなかった。何より太樹が、笛口智也によるいじめを知ると、気分を悪くすることはわかっていた。

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