建前はアフターケアで

 瞬間、敦は背筋がぞくりとした。

 今の小学生は家庭のことまで言ってくるのか。今回ばかりは光莉の方に同情してしまった。これには彼女が怒りを覚えても、仕方がないと思った。


 家庭の事情を題材に、他者を痛めつけるのは重罪である。そんなことはいじめについての学習をしていなくても、道徳的にわかることだ。だが晴人の話を聞く限りでは、未だにその善悪がわからない同級生もいるらしい。

 やはりいじめの問題を解決するには、まだまだ社会的にも相当の時間を要するのかもしれない。


「キレた船越はな、黒板に向かってパンチしてん。そしたらなんか知らんけど、黒板に無茶苦茶おっきい穴が空いたんよ。俺らもうビビってもてな、アイツに何も言い出せんくなった」


 それはおそらく、敦がその場にいても同じ反応をしただろう。自分達が到底辿り着けないような次元の力を、まざまざと一人の少女に見せつけられたのだから致し方ない。敦もある意味でその内の一人なので、彼らの気持ちは痛い程わかった。


「船越はこう言っとった。もうこれ以上アタシにちょっかいかけてくんな、このことを誰かに話すなって。そんでもって最後にこうも付け加えとったわ。もし喋ったんなら、そん時は命はないと思えって」


 その後彼らは震えながらもそれに同意、何も言わずに教室を後にしたらしい。これがあの日、智也達が経験した恐怖の真実だった。


「でもあいつ……ほんまに殺すのはあかんやろっ!」


 話を終えた直後、晴人は目に涙を溜めて嗚咽した。

 今の追憶で彼が思い出したのは、おそらく船越光莉への恐怖だけではない。共に過ごしてきた智也を殺した、船越光莉に対しての怒りもあったのだろう。

 故に敦も、晴人が智也の死を嘆いてくれる一人なんだと改めて実感した。人望だけではない、晴人は智也の、心の支えにもなっていたに違いない。


 彼のためにも、仇は絶対に討たなければ。全てを話してくれた晴人の勇気に触れて、敦は決意がみなぎった。


「ありがとうな、話してくれて」家を出て玄関での別れ際、敦は晴人に対して深々と頭を下げた。

 彼からは船越光莉が犯人であると断定するには、十分すぎる程のことが聞けた。これで敦も、揺らいでいた心が固まったと言うものだ。ようやく迷いも捨て切れた。


「智也の兄ちゃんがこれから何をしようとしとるんかはわからへん。やけど無理だけは、絶対にせんといてな」


 まるでそれは、自分の心が見抜かれているかのようだった。


「お、おう」


 戸惑いながらも、敦は彼に親指を立てた。


 8


 スクールカウンセラーの仕事には、カウンセリングした生徒のアフターケアも含まれている。よって今日の初田は、あくまでも仕事と言う名目で『花江寿司』に来ていた。

 夕陽も沈みかけて暗くなってきている現時刻、午後六時半。握り寿司を食べながらビールを飲むには、さぞかし最高の時間帯と言えよう。


「さぁ、飲むか」


 もはや本来の目的は、彼女の頭から抜け落ちていた。と言うよりかは寧ろ、こちらの方が目的だったと言っても過言ではない。

 光莉の祖父母が寿司屋を営んでいると聞いた時、是非とも立ち寄ってみたいと思っていた。だが回らない寿司屋など、月収の不安定さで質素な食生活を送っていた初田には、届かぬ存在。仕事と言う名目で行かなければ、割り切ることはできなかった。


 我慢は体に毒。たまにはこうして心を満たす食事もしなければ、仕事に対する熱も冷めてきてしまうと言うものである。もっとも、今の初田にスクールカウンセラーへの熱などないに等しいが。


 目の前の暖簾を潜り、初田は外の凍てつく風から遮断された空間に入った。この個人経営の店に入る独特の感覚は、いつどこであっても心地よいものである。


 そしてまず目に飛び込んでくる、寿司ネタの入ったショーケース。回らない寿司屋なぞ、片手で数えられる程しか行ったことがなかった初田には、この光景はかなり新鮮味があった。

 それに今は他の客がいないらしい。いわゆる貸し切り状態であった。


「いらっしゃい……ってまぁ、初田先生じゃないですか!」


 光莉の祖母は初田の姿を見るや否や、口を大きく開けた。どうやら向こうは、一度しか会っていない初田のことを覚えてくれていたらしい。とは言え光莉とのカウンセリングも、ある意味最近のことなので当然と言えば当然か。


「はい! 花江さんのお宅がお寿司屋さんをやってるって聞いてたんで、来ちゃいました」

「そうなんですか、いやぁありがとうございます。お父さんもほら、光莉がお世話になった初田先生よ」


 すると光莉の祖母の隣にいた、光莉の祖父も初田の姿を視線に入れたようだ。その右手に持っているのはシャリだろうか、加えて左手も何かのネタを今、シャリと合わせようとしていた。やはり寿司屋を営んでいるだけあって、寿司を握っている姿は様になっている。

「おお、これはこれは」握り終えた寿司を小さな皿に置き、光莉の祖父は軽く会釈した。


「いつも光莉がお世話になってます、光莉の祖父です」

「はじめまして、初田です。堅苦しいのは苦手なんで、いつもの客と思って下さい」

「それもそうですな。立ちっぱなしもなんですからどうぞ、お掛けになって下さい。お母さん、初田先生を席の方へ」

「はいはい。ささっ初田先生、こちらへどうぞ」


 光莉の祖母に案内されるまま、初田は近くのカウンターに座った。面談の時でも思ったが、光莉の祖母は明るくて面倒見の良い女性だ。光莉には母親がいないと聞かされていたが、彼女に育てられているのなら、道徳の面でも問題ないだろう。


「初田先生、何かお飲みになります?」


 そう言いつつも冷蔵庫を開けた彼女の手には、しっかりとビール瓶の先が握られていた。これは頼めと言うことか。


「じゃあ瓶ビールを一つ、お願いします」

「はいよ」


 彼女はビール瓶を持って立ち上がると、近くの棚に置いてあった栓抜きを持ってこちらの方へ向かって来た。どうやら蓋は、初田の目の前で開けるらしい。


「はい先生」

「ありがとうございます」


 初田の前にグラスを置いた彼女は、思った通りビール瓶の蓋を開けた。

 シュコンーー。内容物が空気に触れると共に、心地の良い炭酸の音が聴こえてくる。いっぱいに詰まった瓶を受け取ると、早速初田はグラスにビールを注いだ。やはり瓶ビール、入っているものは同じと言えど、缶ビールとはまた違った雰囲気を醸し出している。


 とりあえず一口飲むか。そろそろ体も喉越しを欲してきてので、初田は口にビールを運んだ。ごくりごくりと喉を通っていく炭酸の刺激。これはいつ味わっても飽きの来ない快感だ。


「プハッ! やっぱ久しぶりの瓶ビールは美味い!」

「そりゃあよかった。先生もいい飲みっぷりですね」

「いやはや、お恥ずかしい限りです」


 しかし初田は、わざわざここへビールを飲みに来たのではない。寿司を食いに来たのだ。

 早速何か頼もうと、ショーケースの中を覗き込んでネタを確認してみた。とは言え、初田は回らない寿司の初心者だ。正直どれを頼めばよいのかがさっぱりわかっていなかった。


 ここは素直に訊ねた方がよさそうだな。そう確信した初田は、光莉の祖父に問い掛けた。


「あのぅすいません、何かオススメのネタとかありますか?」

「そうですねぇ、今日はさばとかサーモンがオススメかなぁ」

「じゃあそれ、全部ください」

「はいよ」


 ひとまず一通りの注文は終えたが、その間何をしようかと考えてみる。そして初田は、ようやく自分の本来の目的を思い出した。そう、自分はここへ光莉の心理状態を探りにきたのだ。こんな肝心なことを忘れているなど、全くもっておかしな話である。

 忘れない内に今思い出したことを訊いておこう、すかさず初田は光莉の祖母に訊ねた。


「ところでコ……光莉ちゃんは今どうしてます?」

「ああ、多分部屋にいると思いますけど、呼んできましょうか?」

「お願いします。今日はあの子の様子を見ることも、目的の一つでしたから」

「そう言うことなら喜んで。ちょっと待っとって下さいねぇ」


 彼女は笑顔で頷いて、台所の奥に通じる部屋の方へ進んだ。そしてまた大きな声が、初田のいるこの部屋にまで響き渡った。


「光莉ぃ! 初田先生が来たでぇ!」


 声の響き方からして、どうやら彼女は二階にいるらしい。まぁ建物の構造上からして、二階に生活空間を作るのは妥当だ。基本的にこう言った類の店も、同じような建物の作りをしているものが多い。


「ところで初田先生、光莉の学校での調子はどないですか? あの子は僕らの前で学校の話をあまりしてくれんでね。気になって仕方ないんです」


 光莉が降りてくるまでは寿司とビールを満喫しておこう。そう思っていた初田に、寿司を握りながら光莉の祖父が訊ねてきた。


「はい、あれからは何のトラブルもなく学校生活を過ごしています。けれどあんなこともありましたから、こちらとしても光莉ちゃんのことは用心して見ています」


 何に用心しているかは様々な意味を含んでいるが、できる限りのことは答えた。


「そうですか……確かにあれは急過ぎましたもんねぇ」


 智也を殺害した犯人は、かなりの日の経った今でも依然として見つかっていない。それもあまりに犯人が見つからないため、捜査本部はあろうかとか光莉を疑い始めている程だった。いくら犯人が見つかっていないとは言え、警察が子供を疑うのは初田もどうかと思ったが。


 すると奥の部屋から出てきた光莉の祖母が、少し残念そうな表情をこちらに向けてきた。何かあったのだろうか。


「どうしたんですか?」

「初田先生、光莉ったら、今下には降りたくないって言ってるんですよ。お手数なんですけど、二階まで直接行ってあげてもらえますか?」


 なんだそう言うことか。てっきり拒否されたのかと思ったので、初田は少し安堵した。

 それに今の自分の姿を見られては、スクールカウンセラーとしての面目も保てない。こんな酒を飲んで浮かれた自分を見れば、おそらく光莉は失望に近い感情を抱くだろう。それ程までに子供の信頼と言うものは、案外脆いものなのだ。


「はい。私なんかが上がってよろしいんでしたら、是非」

「光莉の部屋はそこ階段を上がって、突き当たりの右の部屋になります」

「わかりました、ありがとうございます。でもその前に、このお寿司食べさせて下さいね」


 そう言って初田は、寿司の入った皿を指差した。そこには先程注文した、鯖とサーモンの握りが置いてある。こんな握りたての寿司を置いて、積もる話をしに行くなど罰当たりもいいとこだ。

「それもそうですね」光莉の祖母もそれは理解したようで、和かな表情を浮かべた。


 初田は寿司を食べ終えると、案内された階段を上がった。そして光莉の祖母に説明された部屋に着くと、光莉の有無を確認するべくドアをノックした。

 コンコンコンーー。ノックの音が、静かな廊下にこだました。


「コメットちゃん。初田先生だけど、ちょっといいかな」


 初田は光莉のことをコメットちゃんと呼んでいる。それは光莉に、自分の名前を好いてもらおうと言う考えからであった。


 光莉に対するいじめの発端は、彼女の名前が原因だ。しかし名前とは親からもらった大切なもの、そう初田は考えている。なのでどうすれば自分の名前を好きになってもらえるのかを、初田はイジメの報告を終えた後で考えてみた。

 そして思い悩んだ末に、あることを思いついた。彼女に対して、もう一つのあだ名をつけてやろうと。


 コシヒカリとは日本人が好む粘りをもっており、尚且つ食味に優れた米として有名だ。調べてみると、コシヒカリとは北陸地方の国々を指す「越の国」と、「光」の字から「越の国に光かがやく」ことを願って付けられた名前らしい。

 だとすると船越光莉の名前を繋げて読むとコシヒカリが現れるのは、ある種の運命なのではないだろうか。そう思った初田は、彼女をお米の使徒、つまり「米徒コメット」と呼ぶことにした。


 初めてそのあだ名で呼んだ時は光莉も、嫌だからやめてくれと言っていた。しかしその時の顔はこれまでのものとは違い、どこか冗談の笑いを含んでいた。

 これはいける。そう確信した初田は事あるごとに、光莉に対してコメットと言うあだ名を使うようになった。すると終いには、このあだ名なら悪い気がしないと言うまでになっていた。それは彼女が、自分の名前に自信を持てた瞬間だった。


「初めて自分の名前に自信が持てた気がする」


 この言葉を聞いた時、思わず初田は光莉に抱きついてしまった。過去には自分の名前が憎いとまで言っていた光莉が、今ではこうして自分の名前に自信を持ってくれている。そのことが、初田には嬉しかった。

 名前とは名付け親が、何かしらの想いを込めてつけるものだ。その意味を、ようやく彼女は理解してくれたのである。


 そうこうしている内に、部屋のドアがガチャリと開いた。ドアの間から顔を覗かせる光莉の顔は、相変わらずの白さだった。いくら運動が嫌いだからと言っても、ここまで陽の光を浴びていないと心配になってくる程だ。

 先程までも彼女が何をやっていたのかは知らないが、積もる話もあるのでここは廊下ではなく部屋の中で話したかった。


「何しに来たん、先生」


 少し睨みつけてくるような表情で、光莉は問い掛けてきた。


「カウンセリングのアフターケア。突然だけどコメットちゃん、部屋の中で話さない? 廊下に立ってると寒くてね」

「先生も大変やな。ええよ、中入ってきて」

「ありがと、コメットちゃん」


 部屋の中に招き入れられた初田は、ベッドの上に置いてあった気味の悪いミミズのぬいぐるみを見て、少し声を上げた。こちらを向いた口には歯が円を描くようにして並んでいるそれは、赤い体色も合わさってかなりグロテスクだ。

 こんなものをベッドの上に置いていて、よくもまぁ眠れるものだなとつい感心してしまった。


「うわっ何これ」

「ああこれ? 昔大阪でやっとった展覧会で買ってん。結構可愛いやろ?」


 どんな展覧会だよ。彼女の理解不能な感性に、初田は内心感想を抱く。


「う、うん……。コメットちゃんが可愛いと思うんなら、それでいいんじゃないの」

「ふん、どうせ先生にはこの可愛さはわからんやろうな」


 わからねぇよ。半笑いの笑みを浮かべた初田は、そっぽを向いた彼女の顔を見た。

 口ではキツイこと言っている光莉ではあるが、その横顔の表情は柔らかい。だいぶ彼女も、笑うことへの抵抗はなくなってきたようだ。このままうまくいけば、以前のように光莉が笑って過ごせる日々もそう遠くはないのかもしれない。

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