確証

 急に彼女は何を言い出しているんだ。全く彼女の意図がわからないまま、敦はありのままに返答する。


「しないと思うけど……」

「そうなんです。この世界にはそんなランナー、存在しないんですよ……そう、ハヤスギの力を得たカレントを除いてはね」

「まさか……」

「だからこそ私は、長いこと続けてきたマラソンを辞めたんです。私は足が速くて息が切れないランナーだから……普通の人間じゃないから……私が、カレントだって知られるとまずいから」


 今になって藪林が久瑠のことを、元駅伝一位と言っていたのかを理解した。

 彼女は既に、マラソンの道から自らの決断の元に外れていたのだ。それも世間的にまだ浸透していないカレントとして、白い目で見られたくはなかったからが故に


 小学生の女の子がこんなことを考えなければならない現状に、カレントと言う存在の理不尽さを思い知った。

 敦が今なろうとしているカレントとは、必ずしもその者の幸せになるとは限らない。それを身をもって知った彼女だからこそ、その発言が他者の心を動かす重みを持った。


「ご、ごめん久瑠ちゃん……。まさか今の君が、そんなことになってるとは知らんかったわ」


 今更こんなことを言って、彼女の心の傷が治るとも思えない。ましてや気持ちを不快にさせたのなら尚更だ。だがせめて懺悔の気持ちだけでも、敦は久瑠に伝えておきたかった。

 これは小細工ではない。敦一個人としての、謝罪の気持ちだった。言っておかなければ自分の胸の中のモヤも、増えて収まらなかった。


「やのに俺、君に無神経なことを言ってもた……ほんまにごめん」

「そんなに深く考えんでもいいですよ。だいぶ前のことやし、気にしてません」

「ほんまに?」

「はい。ちょっと敦さんを困らせたくなっただけです」


 久瑠はまたしても微笑みかけてきた。しかし今度は、しっかりと口元だけでなく目も笑っている。どうやら今は、向こうも気遣いなどしていないようだ。

 何がちょっと敦さんを困らせたくなった、だよ。かなり心配したくなったではないか。彼女の少しませた言葉は、敦の強張った表情を和らげた。年齢の割に、意外と彼女も言う口だ。


「それに私、このことを藪林先生以外の人に知ってもらって気が楽になりました。だって私がカレントだって知ってる人、周りにほとんどいないんですもん」


 確かにそれは一理ある。話を聞く限りでは、久瑠は藪林にしかカレントであることを、他者に言っていない節があった。流石に家族にどう言っているのかは知らないが、おそらく同様に話していないのだろう。

 大切な秘密を共有している一人。それに自分が選ばれたのは、どこか悪い気がしなかった。


「ハヤスギが出現して、カレントも少しずつですが増えていってます。それも誰かさんみたいに、カレントになりたいって人まで出てきちゃってる程です」

「そ、そりゃあ……」

「でも、それはまだ常識じゃない。私は将来、カレントだけが参加できるオリンピックを開きたいと思ってるんです。やからそのためにも、カレントの存在は多くの人に知られるべきなんです。差別と言う枠組み、それを取り壊すためにも……」


 まさか、彼女はまだ走ることを諦めていないのか。カレントとなってその道が断たれてしまってもなお、そこに生き甲斐を感じる久瑠に驚かされた。

 小学生でここまでの発言ができるとは、どれだけ彼女は精神的に強いのだろう。それも生半可ではない、鋼の精神力と言える程だ。となるとさっきの彼女のからかいにも、彼女の本心は少なからず混じっていたのだろう。


 それからまた、かなりの時間が経った気がした。ふと腕につけていた腕時計を見る久瑠の顔で、それは確信に変わった。


「さっ、休憩も十分とりましたし、ランニングの続きやりますよぉ!」

「お、おう」


 オリンピックを開きたい、か。少しだけ、彼女の心情に触れられたかもしれない敦であった。


 7


 もはや日常となってきたランニングの帰り道、敦はとある家の前に立っていた。

 表札には『小渕おぶち』と記されている。どうやらここで間違いないらしい。言葉を交わしたことのない者と話すのは少し躊躇われるが、それでも敦は迷いを捨てチャイムを押した。


 ピンポーンーー。どこの家庭でもお馴染みの、聞き慣れた音が家の中に鳴り響いた。


「はーい」


 返ってきた声からして、出てくるのは母親だろうか。少し野太いながらも、トーンの高い声からそう予感された。

 本人が出てきてくれれば、まだマシな対応できたかもしれないのだが……。相手は話したことのない者どころか、全く面識のないその彼の母親らしい。つくづく運がないな、思わず敦は溜息を吐いた。


 ドンドンと廊下を走る音が聴こえきてた。そして敦が始めの挨拶をどうするかと考える間もなく、家のドアが開いた。

 案の定出てきたのはふっくらとした、家庭感のある母親らしい女性だった。外見だけで言えば、麗奈とはかなり対照的である。


「あっ、君もしかして敦くん?」

「え?」


 予期せぬ言い出しに、敦は言葉を詰まらせた。


「でもこうして顔を合わせたのは初めてか……。いやぁね、君のお母さんから送られてくる年賀状に、いつも敦くんと智也くんは写ってたもんやから。おばちゃん、君のこと知ってるよ」


 なるほどそう言うことか。ようやく内容を理解した敦。

 毎年麗奈は、誰に送っているのかわからない程の大量の年賀状を書いていた。そしてその内の一つを、どうやらこの小渕家の彼女に送っていたらしい。

 どうりで顔も合わせたことがないのに、顔を見ただけで敦のことがわかったわけだ。交流がある者の年賀状に、その写真を貼り付けられていればわかるのも当然である。


「で、今日は一体何の用?」これこそ予期した反応だったが、最初が最初だけに敦は言葉を鈍らせた。


「あの……ちょっと晴人くんに聞きたいことがあって」

「そう言うことね。ちょっと待ってて、今晴人呼んでくるから」


 そう言うと彼女は、笑顔を保ったままドアを閉めた。相手が気さくな人で助かった。もし無言のまま気まずい空気が流れていたなら、おそらく敦はプレッシャーで押しつぶされていたことだろう。


 何よりも、彼女が憐れみの目を向けてこなかったことは一番の救いだった。敦の事情を知る者は、何かと気を使われたりすることが多い。そう言った目を向けられるのは、敦もあまり良い気分のよいものではなかった。


 しばらくすると、目当ての人物が家の中から顔を覗かせた。

 彼に関しては家に遊びに来ていたことがあったので、見覚えはある。子供ながらの幼い顔立ちもさることながら、そのがっしりとした肩幅は、智也と似たインパクトがあった。


 彼の名前は小渕晴人。友好関係が多かった智也の知り合いの中でも、特に存在感を示していた人物だ。

 麗奈の話を聞くに、晴人は智也とは小学校からの付き合いだったらしい。共にボーイスカウト隊に入隊したり、個人的にもかなり気が合っていたことあったりして、まさに親友とも呼べる存在にまでなっていた。敦で例えるなら、橋本と同列の立場と言ったところか。


「智也の兄ちゃん……どうしたん急に」


 晴人は若干不安そうな表情をした。無理もない。亡くなった親友の兄が、何の連絡もなしに突然家へとやって来たのだ。理由が何であろうとも、嫌な予感がするのは誰だって同じである。

 無論、彼の予感も当たっていた。敦の用と言うのも、彼らからすれば到底思い出したくもない出来事であろうことであった。


「うん、ちょっとな。晴人くんに訊きたいことがあんねん」しかしながら、相手が年下だと格段に話しやすい。


「船越光莉ちゃんのこと、話してもらえへんかな」


 瞬間、彼は勢いよく玄関のドアを閉じようとした。今ので敦は確信する、彼は何か知っていると。すかさず敦はドアの間に自分のつま先を挟み込んだ。

「イテッ!」靴を履いているとは言え、勢いが勢いだったため激痛が走った。


「ちょっと、何しとん! その足どけて!」

「待って晴人君! 俺は、本当のこと知りたいだけなんや!」


 この家に来た理由。それは本当に船越光莉が、黒板に大穴を空けた犯人なのかを確かめるためだった。

 あらかじめ断っておくと、別に藪林のことを信用していないわけではない。しかし、これから敦が成そうとしていることは他者の命に関わることだ。慎重にことを運ばなければ、取り返しのつかないことになるやもしれなかった。


 故に敦は、昔から智也との交流があり、尚且なおかつ船越光莉の力を見た人物、その一人である晴人の家に来たのだ。真実に一番近い立ち位置であり、中立的な存在である彼の元へ。

 ちなみに複数人いる中で晴人を選んだ理由は、特に大それたものではない。単に藪林にリストアップしてもらった人物の、一番上に名前があったからだけである。


「だって智也の兄ちゃんがそれを知っとるってことは、それを智也が話したからなんやろ! やからあいつは船越に……」

「どう言うこと? もう少し詳しく教えてくれへん?」

「嫌や! だって俺、まだ死にたくないもん!」


 晴人がどう言った経緯で怯えているのかは知らないが、今の言葉で智也達と船越光莉との間で、何かしらのことがあったのは確かだった。

 智也が誰かに何かを話したから、船越光莉に殺された。だから今、こうして晴人は何かに怯えている。そう位置付けるには、十分な証言だった。


「待って晴人くん!」


 そうとわかれば尚更だ。ここはそれ以上の情報を聞き出すためにも、易々と引き下がるわけにはいかない。彼の心を動かすには、敦も自分の背丈を越える言葉を口にするしかなかった。


「君が何に対してそんな怯えとるんかはわからへん。やけど君にもしものことがあったなら、そん時は俺が、君を命がけで守ったる!」


 無論、今の言葉に自信はない。口から出たでまかせだった。

 確かに敦は、近い将来カレントになるかもしれない。だが今は違う。今の敦は、単にカレントのことを知っている中学生に過ぎないのだ。加えてカレントの力を実際に見ているので、彼らが自分の手に負えないこともわかっている。自分一人でカレントに立ち向かうなど、不可能に等しいことも。


 しかしそれでも、この交渉を成立されるには致し方なかった。彼から話を聞く以上、そのリスクも背負うのは当然の義務だ。ましてや彼は智也の親友、ここで死なれては死後も智也に顔向けできない。


「やから話してくれへん? 黒板に大穴が空いたあの日、君らが何を見たんかを」


 さすがに今の言葉が効いたのか、晴人は視線を落として黙り込んでしまった。もしここでノーと言われてしまえば、その情報に縁がなかったと諦めるしかない。おそらく他の者に訊ねても、同じ返答が返ってくるだろう。

 お願いだから話してくれ……。心の中で敦は願掛けした。


「……そこまで言うんやったら」

「えっ?」

「そこまで知りたいんやったら家に入って来て。俺の部屋でなら話すから」


 どうやら、祈りが通じたらしい。


「ありがとう」


 敦は安堵すると共に、感謝の言葉を彼に向けた。


 案内された晴人の部屋は、いかにも男の子と言った部屋だった。

 机の上などは見たところ整理されているものの、所々に流行りの玩具が顔を覗かせている。壁には智也と共に写った写真も飾られており、お服装からしてボーイスカウトでの写真であることが窺えた。やはり晴人と智也の仲は、相当根強いものだったようだ。


 智也の死を知った時、彼は何を思ったのだろうか。答えはもうわかっているにも関わらず、敦はふいに疑問に思った。


「で、智也の兄ちゃんはどこまで知っとるん?」


 部屋を眺めていると、急に晴人が問いかけてきた。おそらく向こうも、敦がこの部屋にいると気まずくなるのだろう。ここは聞きたいことを聞いて、早く家から出るのが得策だ。


「正直、そこまで内容は深く知らへんねん。やから俺としては、一から全部話してもらいたい」

「うーん……わかった」


 嫌そうな表情を見せながらも、こうして彼による追憶が始まった。


「あの日はな、俺らはいつもみたいに早く学校へ行っとってん。俺らはいっつも誰が早く靴箱にれるかってのを勝負しとってな、みんなが揃うまで靴箱を過ぎたところで待機しとくねん」

「へぇ、君らはそんなことをしとったんか。学校が嫌いやった俺からすれば、そんなん考えられへんわ」


 おお、そこから説明するのかよ。まだ精神年齢が低いからか、晴人の話には少しズレている部分があった。とは言えずっと暗い話を持ち込まれても、こちらとしては気が滅入ってしまうので寧ろありがたかった。

 それに彼の話を聞いていると、妙に智也の姿が頭にチラついた。もしやそれは、今自分が智也と同じ景色を見ているからかもしれない。


「一番最初に学校に着いたのは俺やった。でも靴箱にいつもなら見覚えのない靴があってビックリしたわ。それもあの船越の靴やったもんやから、俺らはみんなが集まってすぐに教室に直行した。船越をおちょくりに行くためにな。ほんで教室に入ったら、やっぱりあいつがおった」


 相槌を打ちながら彼の話に耳を傾ける敦。ここからだ、ここから敦が知りたかった部分を知ることができる。


「当然俺らは騒ぎ立てた。そりゃあいじめられっ子の船越が俺らより早く来とるんやからな、当たり前や。やけどその日のあいつは、なんか雰囲気がいつもと違うかった」

「そうなん?」

「うん。いっつも船越はキョドってたんやけどな。その日は妙に落ち着いとるって言うか、なんか変な感じやってん」


 その落ち着きの出所は、おそらくカレントとしての力からだろう。

 彼女はこれまでいじめてきた者達を、力でねじ伏せることができるようになった。故に彼女としても、少しでも気に触るようなことを言われようものなら、その片鱗を見せてやろうと思ったのだ。

 早めに登校してきた理由も、推測するに彼らに上下関係をはっきりされるためだろう。


 あくまでこれらも敦の憶測に過ぎないが、不思議と確信はあった。敦も力を手に入れれば、そんなことをするだろうと思ったからだ。


「色んな罵声を浴びせたわ。確かあだ名のコシヒカリ弄りもしたっけな。それでもあいつは動じんかった。どんどん俺らも腹が立ってきたんやけど、その内の一人が言った言葉でな、とうとうあいつキレてもてん。なんて言うたと思う?」

「さあ……俺には思い浮かばへんな」

「ソイツ、お母さんもおらんくせにって言うてん」

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