時に力は
6
「敦さーん! おはようございまーす!」
「ああ、おはよう」
待ち合わせ場所の陸上競技場前。敦の姿を見つけや否や、土曜の朝っぱらから元気な声で久瑠が挨拶をしてきた。この前の真面目そうなものとは打って変わって、ランニングウェアに日よけのバイザー、腰には水色のウェストポーチと、かなり様になっている風貌だ。流石は陸上クラブに所属していると言ったところか。それに眼鏡をしているとは言え、顔もよく見るとかなり可愛らしい。
一方の敦はと言うと、半袖Tシャツに長ズボンの体操着、お世辞にもカッコいいとは言えない格好だった。普段から運動をしないので、敦は久瑠のような運動着を持っていない。とは言え、こんな休日に学校の体操服を着るのも嫌だったので、タンスを漁って無理やり部屋着のTシャツを引っ張り出してきた次第であった。だがズボンに関しては寒いため、やむ得ず学校の体操着である長ズボンだ。
ところでなぜ、敦が久瑠と共に朝のランニングをしようとしているのか。それはあの日、藪林とカレント関連の話をした時間まで遡る。
「カレントになるための薬があるんだ」
「えっ」
敦の船越光莉に対しての憎しみ。それを晴らさせるべく藪林は、敦にカレントとなる方法を伝えた。しかし同時に、それが生半可な覚悟では成立しないものだと思い知らせた。
「だがその薬の、人間への使用実験はあまり行なっていなくてな。数少ないデータとしては、服用者がカレントになるか死ぬかのどちらか半々と言ったところなんだよ」
「そう……なんですか」
「それにこの薬の厄介なところが、マウスによる実験ができない点にある。なぜかハヤスギの力は人間にしか対応できなくてね。データが少ないのもそれが一番の原因なんだ」
マウスによる実験が不可能、加えて道徳的に人体実験が難しいことによるデータ不十分。さらに、もし薬を服用したとしても死亡するかもしれないときた。徐々に体の血の気が引いていくのがわかる。言葉では覚悟ができているなどと言ったものの、体は敦の思っている以上に正直だったらしい。
「気は変わったか?」
当然向こうも、敦が見栄を張っていることぐらいお見通しだったようだ。青ざめていく敦の顔を見て、半笑いで藪林が訊ねてきた。
しかし敦も男だ。一度口にした覚悟を崩す程、過度に怖気付いてはいない。
「いいえ」負けじと敦は言い切った。
「そうか」
どこか哀愁を漂わせる表情の藪林。おそらく彼は、どうしても敦の考えを折りたかったのだろう。無理もない、こちらが言える立場でもないが、大切な生徒を殺めてしまうかもしれないことをするのだ。教師、特に藪林からすれば、まさに苦渋の決断だったと言っても過言ではない。それ程までに彼は、情に熱い男なのだ。
「であれば私からも、一つ条件を出そう。薬が届くまで少々時間が掛かる。その間、君にはある程度の体力作りをしてもらいたいんだ」
「体力作り……ですか?」
「体力を作って薬の副作用が和らぐ確証はない。だが何もしないよりかはよっぽど可能性のあることだからな。そうだなぁ、コーチは久瑠さんに頼もうか」
するとまたしても久瑠は、自分の方に話題のスポットが当たって動揺した様子を見せた。どうやら、すっかり自分に話が振られることがないと思い込んでいたらしい。
「ええっ、私も手伝うんですか!?」
「ああ。君は元駅伝一位の実力者だろう? それに敦くんは私の大切な教え子だからな、みっちりと鍛えてやってくれ」
元ってことは今は違うのかーー。話を聞いていてふと思ったが、すぐさまその思考は久瑠の大声にてかき消された。
「もう、それじゃあまるで私のことは大切な教え子じゃないみたいじゃないですか!」
「そんなことはない。久瑠さんも私の大切な教え子だよ」
宥めている様子の藪林だが、その声はどこか適当だ。それに気づいたのか、久瑠も呆れたような表情でそっぽを向く。その様は、年齢相応の子供らしさを持っていた。
「全く、取ってつけたような言い方して」
彼女があんな態度をとるのも無理ないなーー。自分が藪林にはどのように見られているかはわからない。しかし、とりあえずは久瑠の扱いが雑なところは理解できた。とは言えあんな素の態度を見せる藪林も、初めて見た。それはおそらく、彼女には完全に心を開いている証拠なのだろう。
どちらの方が大切なのかーー。少し嫉妬にも似た感情が、胸の奥底で渦巻いた。
すると突然、久瑠が敦の腕を引っ張った。流石は机を真っ二つに割っただけあって、やはり引っ張る力は相当なものだ。このまま彼女の引力に抗ったら、制服が破れるだけでは済まなさそうである。
「痛い痛いっ! 何すんねん急に!」
「行きますよ、グラウンド」
「はぁ?」彼女の言っていることと行動に、全く理解が追い付かない敦。
「私がコーチになるんですから、敦さんがどれ程走れるのか見ておきたくって。そんなわけでとりあえず、グラウンド七周のタイムでも測ってみましょうか」
「い、今からぁ?」
「勿論です。私達に暇なんかないですよ」
学校から直行してきたので、正直敦の格好はとても運動できるようなものではない。加えてこの日は体育もなかったので、制服の下に体操服すら着ていなかった。そんな状態であるにも関わらず、彼女は敦に走れと命じている。当然できるものなら拒否したかった。
しかしそんな気も知らず、久瑠は敦の顔すらも見ずに廊下を目指す。どうやら年上にも関わらず、敦には拒否権がないらしい。
「そんなぁ……」
こう言った経緯から、敦の久瑠による、体力作り月間がスタートした。そして今日は記念すべき第一回目となる、一時間ぶっ通しランニングだ。コースは簡単、陸上競技場と野球場の周りを走る、八の字コースである。無論そのコースすらも、帰宅部所属の敦には辛いのだが。
「敦さーん! 遅いですよぉーっ!」
「久瑠ちゃんが早過ぎるんやって……全く」
開始から十分。すれ違う人達も思わず二度見してしまう程に、敦と久瑠の距離は離れてしまっていた。とは言えこれ以上差が開いては、またしても彼女にコケにされる。故に敦は、息を切らしながらも懸命に足を動かした。寒さで耳が痛み、さらには横腹も運動不足で痛んだ。それでも敦は走り続けた。
三日目のメロスもこんな気持ちだったのかなーー。ふと小学生時代に国語の教科書で見た、『走れメロス』の内容が頭に浮かんだ。
しかしながら、久瑠が駅伝で一位を取ったからと言っても、これ程までに差が出てくるものなのだろうか。敦も特別足が遅いわけではない。なのに彼女との距離は依然として開いたまま、寧ろ時間を重ねるごとにその距離は増していっている。
もしかすると彼女は、無意識の内にハヤスギの力を使っているのかもしれない。だとすれば尚のこと、彼女にランニングで追いつけるはずがなかった。理不尽だと言っても、大多数がその意見に同意を示すだろう。
そしてランニング開始から一時間が経った頃、ふと久瑠は休憩をしようと持ちかけてきた。その言葉を聞いた途端、つい敦は笑みを浮かべてしまった。あまりの疲れで感情のコントロールができなくなっていたのだ。
一昨日のグラウンド七周でもだいぶ息を切らしていたのに、いきなり一時間のぶっ通しマラソンとは、もはや正気の沙汰とは思えない無計画さである。
「もうちょっと頑張って下さいよ、敦さん。ちょっと気合いが足りないんじゃないですか?」
「う……うるさいわぁ」
陸上競技場と野球場の間にある、自販機があるスペース。その近くにあるベンチで、二人は休憩することとなった。やはり彼女の考えは、根性論の要素が強いらしい。それも計画性と言うものがまるで感じられない、滅茶苦茶な根性論だった。今にも敦は、あの日グラウンド七周させた意味を問い詰めたい気持ちだ。ーー何がどれ程走れるかの確認なんだ。
「敦さん、何か飲みたいものでもあります? 私、そこの自販機で買ってきますよ」
「何でもいい」
彼女で言う飴と鞭の飴が出てきたのだろうか。あまりの脱力感でつい適当な返事をしてしまったが、よくよく考えてみると年下に飲み物を奢られるのはおかしい。小学生が中学生に奢るのなら尚更だ。
だが彼女はそのことを一切指摘せず、「そうですか」と言って腰を浮かせた。どうやら今の言葉は本気らしい。
「ちょっ、まってぇな! 年下の女の子に奢らせるわけないやん! ちょっ、俺も行くって!」
「もう、素直じゃないんですから」
結局、自販機へは二人で行った。個々でスポーツ飲料を買って、元のベンチに戻る。そして戻るや否や、敦はキャップを開けて飲み物を喉へ流し込んだ。渇いた喉に命の液体が流れの川を作る。こんな感覚は生まれてこの方味わったことがない。生き返ると言う言葉を使うのに、これ程に適切な場面はないだろう。
するとその様子をじっと見ていた久瑠が、言葉を漏らした。
「やっぱその服はないわ……」
「えっ?」
「敦さん。あなたが今着てる服、よく
「なんや、そう言うことかよ。実は俺、こんな服しか持ってへんのよ」
「ええ、本当ですかぁ?」
「いやマジマジ。俺美術部やし、基本家にばっかりおるからな。その分服も趣味の方に寄ってまうんや」
この話の要因となった敦のTシャツとは、昔大阪の方でやっていたUMA展にて購入したものである。それもUMAの一種であるモンゴリアン・デス・ワームが、デフォルメされてプリントしてある限定Tシャツだ。元より敦はあまり外には出ないので、こう言った服ばかりしか持っていなかった。
寧ろこれでもまだマシな部類だ。押入れの奥をもっと探せば、このTシャツよりももっと凄まじいデザインのTシャツなど、山と言うぐらいに出てくる。イエティTシャツやヒトガタTシャツ、もはや数え始めたらキリがない。
「でも昔、智也くんもそんなこと言ってたっけなぁ」
「智也が?」
急に智也の話題を引っ張ってきたので、少し敦はドキリとした。
普段彼が学校でどのように振舞っていたのか、敦は知らない。智也は学校でのことをよく話していたが、イジメのこともあったので、全て事実を話しているのかはわからなかった。しかしこうして、その同級生と話せる機会ができたのも、ある種の運命なのかもしない。
「はい。私、四年生の時は智也くんと同じクラスだったんですけど、智也くんってたまに敦さんの話もしてたんです。何でも、敦さんがユーマか何かが好きだって」
「あいつ……そんなこと言っとったんかよ」
人の趣味を容易く言いふらすとは、智也も随分と兄を舐めたものだ。
別にバラされて困るような趣味でもないが、敦はUMAーー未確認生物ーーが好きだった。昔からあのいるのかいないのかはっきりしない、あやふやな存在感が堪らなく敦の心を刺激した。とは言えそれを分かち合えるような友人もおらず、黙ってそう言った類のグッズを集めては、ただ一人それを眺めて喜んでいたのだが。
それならツイッターなどのSNSで、そのジャンルを話せる仲間を探せばいいのにと言われるかもしれない。しかしあいにく、笛口家は携帯電話を高校生になってからしか与えない方針のため、それも叶わずじまいとなっていた。現代では珍しい家の掟に、敦は抗うことができなかったのである。
「まぁ私はそのミミズ、あんまり可愛いとは思いませんけどね」
「へっ、久瑠ちゃんみたいなガキンチョにはわからへんやろ。この火を吐く生物の素晴らしさが」
「わかんないです! て言うか何ですかそれ、火も吐くんですか!?」
「おう、火も吐くし電気も出すぜ。それに激痛が走る猛毒まで持っている。こんな生物、存在しないとは言えかなりイカしとるよな」
「わけわかんないです!」
二人はその後も、至って真剣味のない会話を続けた。それも本当に、今日の目的が生死を決めるかもしれない体力作りなのかを疑ってしまう程だ。つい久瑠と話していると、休憩中とは言え仇討ちのことを忘れてしまいそうになった。だが寧ろ、敦にとってそれは気の休まる良い機会だったのかもしれない。
最近、敦は家庭のこともあって気が滅入っていた。そんな中で久瑠とこうした馬鹿話をしたので、ほんの少しだけ気持ちが楽になった。最近は部活にも行けていなかったので、橋本以外の話し相手としても彼女は適任だった。
そして話していて感じたのが、久瑠が他人の話を深くまでズカズカ聞きにくる性格だと言うことだ。彼女と話しているとつい、つまらないことも話してしまう。しかし彼女はそんな話もしっかりと頭に入れて、たちまち笑いの溢れる会話に変化させる。それはまさに、家での智也とまるで同じだった。
真面目そうな見た目のせいで、彼女のことは中身まで真面目かと思っていた。だがそれは違う。寧ろ彼女は、人の前に立っていてもおかしくはない玉だったのだ。クラスでもさぞかし人望があったんだろうなーー。なぜか敦は、智也の学校での生活を想像した。
「でも久瑠ちゃんは凄いよな。俺、正直言って君の足の速さ舐めてたよ。女の子でも、あんなにバテんと走れるもんやねんなぁ」
自分の話ばかりをしていてもつまらないので、敦は先程のランニングで思ったことを呟いてみた。だいぶ自分のことについての話題も尽きてきたので、久瑠についつの話題に変えるタイミングとしてはちょうど良いと思ったからだ。
それに久瑠は、これからも敦と関わっていく重要な人物である。彼女のことを知らないままでは、共に目的を果たす者として得策ではない。
しかしランニングの話題へと変えた途端、久瑠の表情に曇りが見えた。もしかすると彼女に対し、何かまずいことをいってしまったのかもしれない。
何がまずかったんだろうーー。今した発言の中に失言があるか思い返していると、それに気づいたらしい久瑠は笑って見せた。それが愛想笑いであることはすぐにわかった。
「そりゃあそうですよ。だって私、無意識にハヤスギの力を使っちゃってるんですもん。スタミナが切れないのもそのおかげです」
「なるほど、そりゃ便利やなぁ」
ハヤスギは人間を進化させた。どうやらその恩恵は、こんなところにも役立っているようだ。何もハヤスギの力は破壊的、攻撃的なものばかりではないんだなぁーー。カレントの在り方について、敦は少し考えを改めた。
悪い人ばかりではないーー。あの時久瑠が主張した言葉も、そう思えば強ち間違いでもないのだろう。
しかし今した敦の発言こそ、失言と呼ぶに相応しいものだった。
「便利……やっばり普通の人ならそう思っちゃいますよね」
「え?」
「もし敦さんが、まだカレントの存在を知らない、普通の人だったとします。足が速くて、しかも息切れまでしないマラソンランナー、そんな人がこの世界に存在すると思いますか?」
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