仇
少女は右手で口元を押さえながら、露骨に嬉しそうな反応を見せた。
一見、彼女はいかにも真面目そうな少女だった。眼鏡に三つ編みと言った髪型が、それを助長させている。
しかしその見た目からは想像もつかないが、彼女は駅伝と呼ばれる、ロードレースの小学生女子の部にて一位を獲得した程の実力者だった。全校集会にて表彰される姿は、卒業して一年経った今でも記憶に新しい。
とは言え、さすがに他学年の女子ともなれば、敦も名前までははっきりと覚えていなかった。
「敦くん。彼女はタテイワクル、君がここへ来ると言うことで、大至急来てもらった」
「大至急ですか……」
そこまで自分が来たことが、彼女にとって重要なことだったのか。藪林の発言を疑問に思いながらも、まだ続いている彼の言葉に耳を傾けた。
「まぁ彼女の家はここからそう離れていない。走れば徒歩でも五分ぐらいの距離さ」
「はあ……」
いくら彼女が駅伝一位の実力を持っているとは言え、走って来させるとは彼も中々に強引である。それに了承のサインを出した彼女も彼女だ。何が彼女をそこまで動かしたのだろうか。
あれこれ考えている内にクルは、敦の前に立って、更には律儀に一礼までしてから自己紹介を始めた。
「では改めまして敦さん。私、タテイワクルって言います。クラスは五年一組、智也くんとは違うクラスやったけど、一応同級生でした」
「あ、ああ、どうも」
家の育ちがいい女の子だな。敦はすぐに悟った。五年一組と言うことは、彼女も藪林の担任するクラスの生徒らしい。と言うことは、この教室には彼女の、名前の漢字がわかる手がかりがあると言うことだ。
敦は横目で壁に飾られた習字の紙を見ながら、タテイワクルの名前を探してみた。苗字の漢字は大体想像がついていたので、彼女の書いた文字はすぐに見つかった。
『立岩久瑠』、それが読みに当てはまる漢字のようだ。
「でも先生、この子の見てもらいたいものって何ですか?」
「ああ、実はな……」
一拍子置いた藪林は、何か言いにくい様子で口を開いた。
「久瑠さんは前に私が言っていた、ハヤスギの影響を受けて、不思議な力を手に入れた女の子なんだよ」
「ええっ!」
驚きのあまり目を見開いて、大きく口を開けたまま久瑠を見る敦。どうやらそれは彼女も恥ずかしかったようで、モジモジしながら上目遣いを披露した。両手も前の方で組んでしまって、すっかり照れた表情だ。
これがあの、全校生が見つめる中で表彰状を受け取った少女の姿なのだろうか。
「お恥ずかしながら……はい」
だがそれらを差し置いても、とても彼女がそのような存在には見えなかった。
ハヤスギの影響を受けたと言うことは、相当危険な人物になるはずである。それが彼女のような、ごくごく普通の少女の姿をしているとは想像ができなかった。
とは言えそう言った先入観も、船越光莉はどうなんだと言われてしまえばそこで終いなのだが。
無論敦はそのことを藪林に投げ掛けた。
やはり口でどうこう言われるよりかは、実際に証拠を見た方が手っ取り早い。是非ともそのハヤスギの力と言うものを、敦は自分の目で確かめてみたかった。
「でも先生、この子はどう見ても普通の女の子にしか見えないですよ? 僕にはとても、ハヤスギの影響を受けた人間には見えませんが」
すると藪林はそれを見越していたのか、何かの指示をするように、久瑠を見て頷いた。「と、言うことだ」
「はい」
突然、久瑠が廊下側に向かって歩き始めた。そして教卓の前にある、周りより少しだけ古い机の前に立つと、一言こう呟く。
「では失礼します……」
ゴクリと唾を飲む敦。一体これから何が起こるのか、全く予想もつかなかった。
「おりゃああっ!」
じっと熱い視線を送る敦を前に、突如として久瑠が奇声をあげた。
すると次の瞬間、大きな音と共に目の前にあった机の板が、真っ二つに割れた。その割れ目の中心には、手刀を作った久瑠の右手があった。
見間違いではない。なんと彼女は、手刀で机の板を割って見せたのだ。
一応物を入れる部分こそ鉄製だったので、机全体は折れなかったものの、これで彼女の恐ろしさは十分に伝わったと言っていいだろう。
瓦を素手で割る動画は、敦もテレビでも何度か見たことがある。しかし今の光景は、あのような次元の話ではないことぐらい素人でも理解できた。
「こ、こ、こ、これって……」動揺してしまい、もはやまともに言葉すらも発するのが難しくなっている。
「ああ大丈夫。あの机はだいぶガタがきててね。近々取り替える予定だったんだ」
違う、そうじゃない。こんな光景を見せられた後に、彼の天然を見て気が収まる敦ではなかった。
「そ、そっちの話じゃないですよ先生! 今久瑠ちゃんが見せたのが……」
「そう。あれこそがハヤスギの影響を受けた人間、通称カレントの力さ」
敦がツッコミを入れたからか、藪林の目つきが変わった。話の戻しが急なのは、去年とまるで変わっていない。
ついでに言えばさっきの天然も重ねて、内心敦はホッとした。自分の知っている藪林を、久々に見られたからである。
智也の通夜の日からと言うもの、敦はこれまでとは違う藪林を見てきた。故にもしかすると、これからは元教え子として彼の元を訪れるのは難しいのかもしれない。
ちょっと寂しくなるな。卒業以降、一度も小学校に来ていなかった敦だが、自分勝手な思考を思い浮かべた。
話を戻すと、どうやら藪林はハヤスギの影響を受けた人間をカレントと呼んでいるらしい。
言葉の意味はよくわからないが、不思議とそれは、別世界かどこかの言葉のようにも聞こえた。無論初めて聞いた言葉なので、大方間違ってもいないが。
「まさか……船越光莉もその力を?」
思わず口から言葉が漏れた。ハヤスギの力がどうこう言っていたので、その答えに行き着くのは容易だった。
「はい。でもその前に私、敦さんに謝らなあかんことがあるんです」
「えっ」
呆気に取られる敦。当然だ、急にそのようなことを言われても、一から説明してもらわなければその意図が浮かんでくる筈もない。
しかも敦は、こうして久瑠と面と向かって話をしたのもこれが初めてだ。尚のこと彼女の言っていることが理解できなかった。
「久瑠ちゃんが何か、俺に謝らなあかんこととかあったっけ?」
「実は私、あの事件が起こった時には、まだ学校に残っとったんです。やのに私、智也くんを守りきれんかった。あんなに近くにいたのに……」
すると彼女の話に割り込む形で、藪林が会話へ入ってきた。
「ここからは私が説明しよう」
正直、頭の整理ができていない中で説明されても、全く意味がないように思えた。しかし向こうは向こうでそんな気も知らずに、話を続ける。
「実を言うと、私はカレントに関する組織のメンバーなんだ。その組織と言うのも、主にカレントの保護を目的としていてな。久瑠さんとこうして関わるようになったのも、その力を行使しているところを、私が見たのがきっかけさ」
なるほど、だから彼はハヤスギに関する情報を持っていたのか。わかったようでわからないような説明に、一先ず敦は頷いておいた。
いつの間に彼がそんな立ち位置になっていたのかは定かではないが、そのようなことを掘り返してもキリがない。
それよりも今重要なのは、久瑠がなぜ智也の死と関わりがあったのかである。ここを履き違えるわけにはいかない。
「そしてここ最近、またも私は力を行使するカレントを目撃した。敦くん。君は最近、この小学校で黒板に大穴が空いた事件は知っているかい?」
「ああ、そう言えばそんな事件もありましたね。確かそれが原因でその日、集団下校があったんでしたっけ」
その事件は、当日に通っている中学校にも通達が入ったので覚えている。
二、三週間程前のことか。美濃小学校である教室の黒板に、貫通はしなかったものの大きな穴が開けられると言う事件が発生した。
穴の開けられた教室のクラスは五年二組。加えて何者が、どうやって穴を開けたのかも不明。報道された情報などで知る限りでも、それ以降に犯人が見つかったと言うのは聞いたことがない。
ただ事件当日の日に帰宅した時、やけに智也が怯えていた。それもまるで、恐怖と言う文字をそのまま顔に写したかのようなわかりやすいものだった。
当時は身の回りであんな事件が起これば仕方のない、そう思っていた。しかし今はどうだ。カレントの存在を知ってしまった以上、その可能性を疑わずにはいられなかった。
「と言うことはまさか、その犯人も……」
「やはり君は察しがいい、その通りだ。私はあの日、朝礼があったから早めに教室へ来ていたんだ。すると突然、五年二組の教室から物凄い音が聴こえてきた。加えて何人かの男子生徒の叫び声までしたものだから、何事かと思って隣の教室を覗きに行ったんだ。そこで見たのは、黒板の大穴に自身の拳をはめ込んだままの船越光莉と、それを怯えた様子で見る智也くん達男子生徒だった」
これで全ての話が繋がった。なぜ彼が、船越光莉をカレントだと言ったのか。それは紛れもない証拠を、藪林自身が持っていたからだ。さらにそれは彼が所属している組織の存在も合わさって、他者に訴えかける説得力までをも持ち合わせていた。
それに伴い、智也があの日怯えた様子を見せたのも、単に自分の教室の黒板に穴が空いたからではなかったことを理解した。
「そう言った経緯から、私はカレントである久瑠さんに、船越光莉の監視を頼んだんだ。いじめの件は私の耳にも入っていたからね。その主犯格である智也くんに船越光莉が恨みを持っているのは明確だった。しかしその監視の目をもすり抜け、彼女は犯行に及んだ」
「それが……智也の死の真実ですか」
「無論これ以上の被害を出させないためにも、我々は策を講じなければならない。一応保護も視野には入れているが、あそこまでいけば殺害してしまう方がいいのかもしれないな」
ようやく久瑠が言った言葉の意味が理解できてきた。
智也くんのこと守りきれんかったーー。そんな言葉、智也のことを気に掛けていなければ出る言葉ではない。彼女は本当に悔やんでいるのだ。それがただの偽善であったとしても、敦には彼女の想いは十分に伝わった。
言われてみれば、最初に智也の遺体を発見したのは同学年の女の子だと聞かされたことがある。となると久瑠が、その女の子だったのか。
今更になって、敦はそのことに気がついた。
「でも!」すると突然、先程まで黙り込んでいた久瑠が声を上げる。
「カレントは何も、悪い人達ばかりではないんです! やからその力を誤った方向に使わせないためにも、私達のような組織は必要なんですよ!」
「あ、ああ……。そうやな」
あまりの熱弁に過剰なまでの温度差を感じ取った敦は、表情を強張らせて笑った。確かに彼女の言っていることも正しい。いくらカレントとしての力を悪用する者がいると言っても、久瑠のような者も少なからず存在はするのだ。
ここだけは履き違えてはいけないな。必死に説得をしてくる彼女を見て、そう確信した。そして同時に、その様子も見て、久瑠もまだ子供なんだと再認識した。
カレントと言えどもまだ久瑠は幼い子供だ。こう言った面も持っていて当然なのだ。
「他に何か君からの質問はないか?」改まったように藪林が言った。「答えられる範囲なら答えよう」
質問、そんなものは言い始めたらキリがない。だがその中でも挙げるとするならば、一つ敦は訊ねておきたいことがあった。
「カレント……それは俺には到底達し得ない存在であることはわかりました」
人間の一つの進化先がカレント。つまりそれは、普通の人間には超えられない壁だと、今の話を聞いてわかった。
「でも俺、どうしても弟の……智也の仇が取りたいんです! だから先生、どうか俺に、智也の仇を取らせてもらえませんかっ!」
智也が死んだあの日から、笛口家はまるで光が消えたかのように陰気になっていた。
これまでなら家に帰ると温かく出迎えてくれていた麗奈も、今では毎日のように智也の仏壇の前で泣いている。一家の大黒柱である海斗ですら、未だ息子の死から立ち直れずにいる。
これらのことから認めたくはなかったが、智也が家族の中心人物だったことは一目瞭然だった。
いつも智也の行動、言動を中心に両親が動く。そんな家の要である彼を、敦もまた愛していた。
いじめをしていたことなど、正直家族には関係ない。智也しか、笛口家を繋ぎとめてくれる存在がいなかったからだ。
しかしもう智也は帰ってこない。なら自分は何をすべきなのか、真実を知った自分が何をすべきなのかーー。それは自分が弟の仇を討つことだ、その答えに敦は行き着いた。
「君はそれが……何を意味しているかを理解しているのか?」
「はい」
藪林の言葉の意味も、漠然とだが理解している。仇を討つことがどれ程人間として罪深いことなのかを。
やられたらやり返す。それはつまり、先に手を出した者と同等に成り下がることを意味している。
さらに言うなら、仇討ちなどしたところで、智也が帰ってこないこともわかっていた。仇討ちなどしたところで、家族の内状が変わらないこともわかっていた。だがそれではこの胸の中の靄が、晴れないこともわかっていた。
「カレントを保護する……。それが先生達組織の役割やってのはわかりました。せやけどそれじゃあ、俺の気は晴れません! 智也を殺したヤツがのうのうとこの世界に生きている……。それ自体が、俺には許せないんです!」
言いたいことは全て言い切った。とは言え、こんな子供じみた意見、通るとも思えなかった。向こうも向こうでプロだ。敦のような青臭いガキに任せられる仕事ではないことぐらい、お見通しなはずである。
だがここまで吐き出せれば、もう終わってもいい気がした。仮にこれでダメだと言われても、仕方がないと思った。
「やらせて下さい、弟の仇打ちを!」
「藪林先生、どうしますか?」
久瑠が藪林の顔を見つめる。それはあたかも、藪林の不賛成を煽るような口調であった。
しかし一方の藪林は、敦の言葉に何か思うところがあったらしい。少し唸った彼は、しばらくの間黙り込んでしまった。
そして教室での沈黙が続いた後、ようやく藪林が口を開いた。
「君が頑固なのは、私も十分知っているからな」
「そ、それじゃあ……」
「ああ。一つだけ、ハヤスギの力を取り込めない人間……つまりクライドでも、カレントになる手段がある」
「でも藪林先生!」だがそこで割って入ったのは久瑠だった。
「あれを敦さんに使うなんて、とても……」
「確かに、あれは人間の道徳に反する代物だ。何せ人間に対する実験データは不十分、故に人間への使用自体が人体実験に等しい行為でもあるからな」
人徳に反する、人体実験に等しい。いかにも不穏なワードが敦の耳に入ってきた。これらのワードを聞いて、恐怖心を抱かないわけほど敦も馬鹿ではない。
怖い。背筋にぞくりと
「しかし……。それ以外に敦くんが船越光莉を倒す方法は、私には思いつかない」
だが同時に、それは普通の人間にもカレントになる方法が実在することも意味していた。
藪林は敦の願いのため、わざわざ提案をしてくれている。敦としては久瑠の心配も嬉しいが、やはり力を得るには、それ相応の対価は支払うべきものなのだ。例えそれが自身の身を危険に晒すことだとしても、致し方なかった。
何より、覚悟などとうにできている。
「先生。俺、何だってやりますよ。それで、弟の仇がとれるなら!」
どうやら久瑠にも敦の決意は伝わったようで、これ以上は口を挟まなかった。
「わかった。だが話を聞いて、もし恐怖心が出てきたのならやめても構わない。いいね?」
「はい」
くどいな。尊敬する恩師ながらつい、そんなことを思ってしまった。
「実はーー」
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