真実を知るべく
言われてみれば、この部屋に来る途中にも保健室の立て札があるのは見えていた。となると船越光莉には、かなりのサボり癖があるのか。
「保健室ですか?」
「はい。光莉ちゃん、実は運動が不得意なんです。だから体育の時はよく、保健室で休んでいることが多いんですよ。何でも、体育で同じペアになった人に迷惑が掛かるからとか」
「なるほど」神崎は頷いた。そう言った彼女の考えも、いじめの影響からなのだろう。
その後は初田の表情も良くなってきたので、すぐに事情聴取を再開した。とは言え、聴取の内容は前にも聞いたことばかりで、結局は有力な情報も聞けずじまい。むしろ聞き上手だった初田に、捜査の情報を渡してしまっただけとなってしまった。
相手も聞き上手だと、やはり事情聴取はやりにくい。
キーンコーンカーンコーンーー。何かのチャイムが校内に鳴り響いた。腕時計の針を確認すると一時四十五分を指している。そろそろ潮時だろう。
近藤は神崎に、自分の腕時計を見せて耳打ちした。
「神崎さん、そろそろ」
「おっ、もうそんな時間かいな。ほな帰るか」
「では校門までお見送りしますね」
心なしか、初田の声が活き活きとしていたような気がした。それもそうだ。ようやく彼女は質問攻めから解放されたのだから、舞い上がってしまうのも無理もない。
「うっ」相談室を出ると、途端に近藤は尿意に襲われた。
聞き込み先で用を足すのは気が引けるため、普段近藤は警察署で用を足す。しかし今日と言う日はそれを忘れてしまっていたので、今になってそのツケが回ってきた。
「どうした、近藤」
「ごめんなさい神崎さん……ちょっとトイレ行ってきます」
「なんやそう言うことか。さっさと行ってこい」
「ああ、それならそこの保健室の前が、お手洗いになってますよ」
親切に初田は便所の場所を指差した。恩にきります、近藤は頭を下げて便所へと走る。尿意はもうすぐそこまで迫っていた。
用を足し終えて元の廊下に戻ると、近藤はたまたま一人の少女が保健室に入るところへ鉢合わせた。
前髪こそ切り揃えているが、寝癖の目立つ髪。日頃から日光を浴びていないのか、その肌は小学生と思えないぐらいに白い。そしてその少女が例の船越光莉であることは、写真で何度も見たのですぐにわかった。
先程の話でも出ていたため、つい近藤は彼女を凝視してしまった。
タイミング的には、また体育の授業をサボろうとしているところだろうか。流石にジロジロと見過ぎたせいか、向こうもこちらの存在に気がついたようだ。
このままでは気まずい雰囲気になると察した近藤は、取り敢えず彼女に挨拶をしてみることにした。
「こんにちは」
光莉の返事は返ってこなかった。そして近藤の危惧していた通り、気まずい空気が二人の空間を包み込んだ。
「あんた、警察の人やろ」
しかし先に沈黙を破ったのは光莉の方だった。その口から出たタメ口には、まだ彼女が上下関係を知らないことが伺える。
「そうやけど……」
返事はしたものの、再び光莉は黙り込んでしまった。そして挙げ句の果てには、後ろを向いて彼女は去ろうとまでした。
何か警察に知られたくないことでもあるのだろうか。この行動には近藤も、疑いの目を向ける他なかった。
「ちょっと、それがどうしたんよ!」
だがその声を耳にも止めず、とうとう光莉は走り出した。怪しさを確信した近藤は、考える間もなくそれを追いかける。側から見ればこの姿は、小学生を追い掛ける不審者のそれだった。
周りに人が居なくよかったな、走りながら近藤は内心感想を抱く。
校舎を飛び出し、何の迷いもなく光莉は中庭を駆け抜けた。そしてとある木の前に辿り着くと、一呼吸おいてこう呟いた。
「はぁ……。あんたはこの木を見て、何も思わへん?」
彼女は何を言っているのだろうか。目の前の木を見て、近藤は首を傾げる。
見た目はただの杉の木だが、彼女の言い方からしてこの木は、おそらく例のハヤスギだろう。まさか、美濃小学校にもこの木が生えているとは思わなかったが。
過去に近藤は別の事件の聞き込み中、ハヤスギのせいで道が通らないから何とかしてくれと、民間人に言われたことがある。どうやらその道路は普段から使われておらず、それが原因でハヤスギの発見も遅れたとのことだった。
道路のことは国土交通省にで連絡してくれと思ったが、やはり見てしまった以上は見過ごすわけにもいかないので、その後道路緊急ダイヤルに連絡を入れておいた。
それからのことはわからずじまいだが、この時近藤はハヤスギの成長の速さを思い知った。
「この木って……ハヤスギのことかい?」
しかしこれとそれとは話は別だ。例えこの木が特殊な木であるとしても、それを見て近藤は何も感じないし、当然何も思わない。故に彼女の言っていることが、近藤にはさっぱりわからなかった。
「特に何も思わないけど」正直な感想の元、近藤が返事をする。
「話にならへんわ」
その返事を見た光莉は、呆れた表情で呟いた。
いくら子供と言えども、このような態度で話されては誰だって苛立ちを見せる。かく言う近藤も、眉間に皺を寄せて苦虫を噛み潰した。
「どう言うことだい? 何が何なのか、君がはっきり言ってくれないとわからないよ」
「だからぁ! 智也くんの事件、これ以上は関わらん方がええってこと!」
意味がわからない。とは言え彼女の声にはどこか、子供が言い訳する時の必死さが感じられた。この突然の違和感を胸に抱いていると、なぜか何も言い返せなかった。
「じゃあね!」
そう言って光莉は、またさっきのように走りながら来た道を引き返していく。その後ろ姿を見て、ふと悟った。
「あの子……なんかあるな」
おそらく今日美濃小学校に来て、これは一番の収穫だった。怪しいと踏んでいた光莉に、また新たな疑惑材料が出てきたのだ。早速このことは、相棒の神崎に知らせた方がいいだろう。
もしかすると自分がまだ知らないだけで、世界は大きく動き始めているのではないのか。ふとそんなことを近藤は思ったが、どこかクサい言い回しには自分のことながら身震いしてしまった。
「頑張れ!」「追い越せ!」
車に戻る途中、不意に運動場側から子供の叫び声が聞こえてきた。一体何の声かと振り向くと、それは運動場で走っている同級生を応援している生徒の声だった。
時期的にも、今しているのはマラソン大会の練習だろう。彼らの中心で何やらタイムを計っている教師にも、近藤は見覚えがあった。
おそらくあれは、五年二組の加藤である。だとすればあの生徒達も、光莉と同じ五年二組の生徒らしい。
「あっ」五年二組の生徒達が走っている姿を眺めていると、突然脳裏に初田が言っていたことが蘇った。
体育の時はよく、保健室で休んでいることが多いんですよーー。そしてその記憶が蘇ってくると同時に、自然と口からある言葉が漏れ出た。
「日光浴びへんから、あんな生意気な性格になるんだよ」
5
「失礼します。藪林先生はまだいらっしゃいますか?」
午後五時過ぎ。帰宅準備を始めたであろう職員室の空気に、水を差すような形で敦の声が響いた。
せっかく帰れると思ったのに来客か。中にいる多くの者がそう思ったかもしれない。しかし人間と言うのはこう言う時、不思議と嫌な顔を見せないものである。
その例に漏れず、彼らは平然とした顔で藪林の方を見た。藪林はノートパソコンの画面とにらめっこをしていた。
急な静けさと皆の視線で、ようやく意識が戻ってきたらしい藪林は、目線をうろちょろさせた末に敦に気付いた。
「おお、敦くんか。ちょっと外で待っといてくれ。今この書類を終わらせるから」
五時ぐらいは暇をしているとのことだったが、どうやら今日は例外の日だったらしい。とりあえず失礼しましたと一礼し、敦は指示された通り廊下へと出た。
冬に入り始めたので、廊下の寒さもこれまで以上となっていた。指の先が冷たくなってしまうので、すかさずズボンのポケットに両手を突っ込む。
悪い癖だ、奥まで手を突っ込んでしまうと、せっかくのズボンのラインもシワができてしまう。これではわざわざアイロンで整えてくれた麗奈にも申し訳ない。
何気に学生服でここに来たのは初めてのことだった。そもそも小学校に来ること自体、卒業して以来だったので当然と言えば当然か。
意外にも小学生の頃と目線が変わっていないことに、敦は自身の成長期が訪れていないことを実感させられた。
このまま背が伸びないのも嫌だな。身長一五〇センチの頭頂部を、敦はそっと自分で撫でた。
藪林を待つ間、敦の思考は例の件でいっぱいだった。
智也君を殺したのは、美濃小学校の生徒かもしれないーー。ここ最近、船越光莉の名を聞く度、見る度にこの声が脳内で反復されていた。それが原因で、最近寝不足にもなっていた程だ。
だがそれも今日で終わらせる。その思いから、今日は滅多にサボらない部活まで休んでいた。
そうこうしている内に、ドアを開けて藪林が出てきた。その右手には何かの鍵が握られており、二人の会話は誰もいない空間で行われることを示していた。
無論犯人がどうこう言う話を、他者に聞かれるような場所ですること自体おかしな話である。となると話の場所は今は誰もいない場所、つまりどこかの教室だろうか。
「お待たせ。じゃあとりあえず、五年一組の教室にでも行こうか」
今日で全ての真実がわかるかもしれない。優しげな彼の表情に対して顔を強張らせたまま、何も言わず敦は頷いた。
五年一組の教室に入るとそこには、二年前と何一つ変わらない空間が広がっていた。敦も五年生の時は一組だったので、その机の配置や教卓からの景色が変わっていないことぐらいわかる。
さすがに壁に貼ってある習字で書いた紙などは変わっているが、懐かしさの余韻に浸るにはそれも誤差程度にしか感じられなかった。
「どうだい。君の時から変わったことはあったか?」
藪林にもその気持ちは読み取れていたようで、過去の思い出を訊ねてきた。
「いえ。びっくりする程何も変わってないです」
「だろうな。まぁ二年ちょっとじゃあ何も変わらないか」
勿論、当時の敦の担任は藪林ではない。それも今ではどこかへ異動していった教師だ。だがその教師と言うのも、敦の印象としてはあまり良いものではなかった。
価値観の違いとでも言うのだろうか。ともかく彼とはとことん反りが合わなかった。
敦にとって小学五年生とは、最も反抗期が来ていた時期である。
ほぼ毎日続く教師や両親との口論、故にやさぐれて欠席が続く授業。今思えば、なぜそんなつまらないことで言い争っていたのかと、過去の自分に問い掛けたいくらいの些細なことだった。
そう考えてみると、自分には智也のことをとやかく言う資格はなかったのかもしれない。
だがそんな敦を変えたのが、藪林との出会いだった。
彼は敦が進学するやいなや、初めの月でいきなり三者面談なるものを取り計らった。当然敦は拒否したが、一度面と面を向かって話してはくれないかと言い寄られ、泣く泣く折れてしまった。
そして三者面談当日、敦は藪林に学校は楽しくないのか、そう訊ねられた。
返答には迷った。確かに学校で友達と遊ぶのは楽しい。とは言えそれで学校全体が楽しいと問い掛けられれば、イエスとは言いづらくなる。これまでの担任は、自分のエゴを押し付けてくる、典型的な嫌なやつだったからだ。
故に反発した。その意味を理解しない親へも反発した。それが足枷となっていた。
「これまでは楽しくありませんでした。先生なら、それを楽しくしてくれるんですか?」
この質問は言わば、藪林への試練のつもりだった。この質問を上手く返せないようであれば、また五年の時を繰り返す。薄々とそれを感じ取っていた。
だが逆の立場で同じ質問を投げ掛けらたならば、おそらく敦も答えられなかっただろう。その質問の明確な答えが出ない程に、敦自身も迷っていたのだから。
少し悩んだ様子を見せた藪林だったが、改めて敦の目を見つめてこう言い放った。そしてこの時の返答こそが、敦の人生を変えるきっかけとなった。
「もし、君がついてきてくれるならね」
前の担任からは到底出てこないような言葉だった。
例えるならば、前の担任は生徒を無理矢理にでも引っ張ろうとする人物だったのに対し、藪林はその逆、生徒自らに選ばせる人物だったのである。
これを聞いた敦は、彼に最後の学校生活を預けてみようと思った。今でもその判断は、間違いではなかったと確信している。それ程に小学校生活最後の年は、充実した一年間だった。
そんな先生が近くに居る学校だからこそ、智也のことも安心だと思っていた。あの事件が起こるまでは。
歩き回るのも少し疲れたので、敦は丁度近くにあった椅子に腰掛けようとした。
だがその腰を下ろした次の瞬間、椅子が思っていたよりも小さかったせいで尻餅をついてしまった。どうやら小学校の椅子は、中学校のものよりも少しばかり小さいようだ。
小学校の教室に入ると、敦はつい自分が中学生であることを忘れてしまった。藪林と二人きりの教室は、それぐらいに懐かしく感じられた。
椅子のせいで崩れてしまった体勢を立て直して、再び敦は藪林の方を見る。無論、例の話を聞き出すためだ。
彼もそれは自ずと察したようで、空気を読んで近くの椅子へと腰を下ろしてくれた。
「あの、先生……」一瞬言葉が喉につっかえる。
「教えて下さい。先生が知っていること全てを」
あの日からずっと考えていた。もし藪林の言っていることが全て本当で、ハヤスギに不思議な力があったとすれば、船越光莉が人をも殺める力を持ったら、それがもし、自分の立場だったらどうするのか。
イジメは到底許される行為ではない。それが他人の人生を狂わせたなら尚更だ。
であればその主犯格とも呼べる相手をこの世から消し去ってしまいたい、そう思うのは
心の整理がついた今だから敦もこそわかる。全ての仮説が正しかったとして、流しの犯行以外で容疑者に考えられるのは船越光莉、彼女しか思い浮かばなかった。
「前にあなたの言った通り、犯人はあの船越光莉なんでしょう?」
軽く目を見開いた藪林だったが、すぐに彼は元の表情に戻した。
「その通りだ。こちらとしても、君の理解が早くて助かるよ」
「でもどうして、そんなことを先生が……」
次第に敦は、自分の息が荒くなっていくのを感じた。そしてそれに呼応するかのように速まる、心臓の鼓動。
「それよりまず、君には見てもらいたいものがある」
「見てもらいたいもの……?」
「ああ」
すると藪林は、なぜか教卓に近いドアに向かって声を掛けた。誰かがそのものを用意でもしているのだろうか。
「待たせたね。入って来てくれ」
「はい」
それはまだ若い、少女らしき声だった。
だが藪林の話に出てきている少女と言えば、敦には船越光莉以外に思い浮かばない。故に首を傾げた。もしかすると入ってくるのは船越光莉本人かも、そんな不安すらも抱き始めた。
様々な思考が頭で駆け巡る中、ついにスライド式のドアが開いた。そして現れた少女に、ハッとする。なぜなら彼女は、敦にも見覚えがある人物だったからだ。
「ああっ! 君、確か去年の駅伝で一位とった子やんな?」
「あ、はい! うわぁ、覚えてもらっとって嬉しいなぁ」
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