疑うは彼女

 敦は足を止めた。それはもはや彼の意思ではなかったのかもしれない。船越光莉ーー。その名前を聞いて、体が勝手に反応したのだ。同時に彼はその名を聞いた途端、妙な知的好奇心を駆り立てられた。

 当然それを誤魔化そうとはした。だが敦の本心はその考えを拒否した。知りたい。その感情から、とある言葉が口から出かかる。


「えっ、今なんて……」


 しかし全てを言い切らずに、何とか口を塞いだ。自分で話を切ったくせに、今更藪林から話を聞こうとする自分に嫌気が差したからだ。


「確かに、この話は今日するべきではなかった」


 気がつくと藪林の両足は、運転席の方へ戻されていた。おそらくこのまま、自宅へと帰るつもりなのだろう。ドアと座席シートから見えた彼の両手は、しっかりとハンドルが握られていた。


「つまらない妄想だろうとは思う。だがもしこの話の続きが気になるのであれば、いつでも美濃小に来なさい。夕方の五時頃なら、私も空いているから」


 最後に藪林はこう呟いた。「不快な思いをさせてしまって申し訳ない」


 彼の車が出口へと向かっていくのを、敦はただただ棒立ちで見ていた。なぜ船越光莉と言う名が、藪林の口から出てきたのかは検討もつかない。だが不思議と、彼の馬鹿げた話を聞いてみたいとも思った。

 また後日、家庭が落ち着いてきたら美濃小へ行こう。両手に握り拳を作って、敦は一人頷いた。


 4


 今日は冬と言うのにも関わらず、鬱陶しいぐらいに暑い日差しだった。これではスーツの上に着ているこの厚手のコートも、暑さを助長する邪魔者にしかならない。

 シートベルトを外した近藤拓海たくみは、車から降りるついでにコートを脱いで、何も置いていない後部座席へと放り投げた。

 地球温暖化もここまで来たのか。聞きかじった知識に、勝手な持論を思い浮かべた。


 バタン、近藤が降りたと同時に隣のドアも閉じる音が鳴り響く。力強く閉まるドアの音からは、彼の性格の雑さがひしひしと感じられた。

 こんな大雑把な性格でもこの仕事が続けられているのは、やはり彼の人柄の良さが大きく関わっている。


「冬なのになんでこんな暑いんやろうな。ほんまかなんわ」

「そうですよね。僕も暑くなってきちゃって、着てたコート脱いじゃいましたもん」


 気さくな声につられて、思わず近藤も口を開いた。彼が口を開くと、例えそれが大した話題でなくとも言葉が出てきてしまう。それはおそらく、彼が聞き込みのプロであるが故に、人から言葉を聞き出すことに長けているからだろう。

 思ったことを言いやすい人は、相対して聞き上手と言う特徴もあるようだ。


「俺なんて最初っから上着を署に置いてっちまってるからな。ははは」


 彼は所轄の刑事である近藤の相方で、名を神崎かんざきと言う。今回の事件で、捜査一課からやって来た男だ。

 年齢は四十代と、近藤よりも幾分か上なのだが、おそらくこの見た目では誰もそうとは思わない。なぜなら、彼は容姿そのものが幼過ぎるからだ。


 何よりも年に似合わないその童顔。加えて背が低いことも合わさって、神崎は見かけだけ見れば高校生のそれだった。若々しさとも言える活力に溢れた様は、最近入ってきた新入りを遥かに凌いでいる。


 しかしそんな見た目に見合わず、近藤の上司からの評判も上々、更には柔道の腕前も本部の中ではトップクラスときていた。

 人は見かけによらないな。初対面では思わず、本人の前で感想を述べそうになってしまった程だ。


 校舎へ入ると、中は幼い声で騒がしかった。

 玄関に置いてある古時計の針は、十二時三十分を指し示している。となると今は昼食時真っ只中と言ったところか。一応は昼食を摂ってここへ来たのだが、どうやら来るのが早すぎたようだ。


 しかし一度来たからには引き返すのも気分が悪い。とりあえず近藤と神崎は、窓口で事務室の者に声を掛けてみることにした。

 ここは俺に任せろと言わんばかりの勢いで、神崎が事務の者に微笑みかけた。「こんにちは」


「昨日連絡させていただいていた、兵庫県警の者です」

「あっ、お勤めご苦労様です。どうぞお入りください」


 窓口を請け負ったのはかなり痩せ型の女性で、挨拶をするやすぐさま、どこかへ走り去っていった。

 おそらく今回の事情聴取する人物、初田紡に近藤達が来たことを伝えにいったのだろう。この時窓口から見える受話器を見て、電話でやり取りすればいいのにと、つい思ってしまった。


「お茶目な人やな、あの人」偶然神崎も、近藤と同じことを感じていたようだ。


 ここは美濃小学校。被害者である笛口智也、彼の遺体が見つかった場所だ。近藤達がここへ来るのはもう四度目となるので、大体の部屋の割り振りなどは理解できてきていた。


 今から向かうのは当然、初田紡のいる相談室だ。

 彼女はスクールカウンセラーをしており、死亡した笛口智也の第一発見者でもある。厳密に言うと遺体を見つけたのは学校の生徒らしいのだが、職員や警察に直接連絡したのは彼女だった。そう言った経緯から、捜査本部では彼女が遺体の第一発見者となっている。


 来賓用の靴箱に靴を入れ、近藤達は無造作に積まれたスリッパの山から各自スリッパを掴んだ。

 こうしてスリッパに履き替えた二人は、そのまま相談室へと向かうべく歩き始める。相談室があるのは、この校舎の一番奥だ。


 近藤の前を歩く神崎。そして彼が廊下の曲がり角で曲がろうとしたその時、突如として彼が誰かとぶつかる音がした。


「きゃっ」それは先程、どこかへと向かっていた事務の女性であった。


 小柄と言えども神崎は男性だ。それも柔道の腕っ節が強い程の屈強さを持っている。彼の進撃をまともに食らった彼女は、大きな音と共に尻餅をついてひっくり返ってしまった。

「だ、大丈夫ですか!?」すかさず神崎が女性に駆け寄る。


「お怪我はありませんか!?」

「はい、大丈夫です」


 腰に手をさすりながらも、女性は精一杯の笑顔で神崎を見た。それはまるで、窓口での彼の笑顔をそっくりそのまま返しているかのようだった。

 彼女は立ち上がると、何事もなかったかのように装って言った。


「それよりどうぞ、相談室まで案内しますね」


 互いに目を合わせる二人。相談室の場所は知っていたのだが、せっかく彼女が案内をしてくれると言っているのだ。その気持ちを無駄にするのは無礼に当たる。

 ここは素直に、気持ちを受け取っておこう。近藤は神崎の目を見て頷いた。

「申し訳ないです」頭を掻きながら、彼も軽く頭を下げた。


 コンコンーー。ドアをノックする音が、乾いた廊下に響き渡った。「初田先生、兵庫県警の方々が来られました」

「どうぞ!」よく通った大きな声が、部屋の中から聴こえてきた。前にも聞き覚えのある、聞き取りやすいハッキリとした声だ。


「どうぞ、お入りください」


 ここまで案内してくれた女性の方を向いて、神崎が礼をする。続けて近藤も一礼した。


 中に入ると、ちょうど初田が入口の方へ向かってくるところであった。


「あ、こんにちは」


 まるでアイドルグループの一員であるかのような顔立ちの彼女は、彼らの顔を見るや微笑んだ。

 キチンと手入れされている茶色い髪は、サラサラと頭を軽く動かすたびになびいている。整った目鼻もさることながら、こんな笑顔を向けられては既婚の近藤もドキリとした。


「お忙しいのに何度もすいません」


 顎を突き出しながら、神崎は軽く会釈する。その声はどこか上がっているようにも聴こえた。

 さてはコイツも浮かれてるな。すぐさま彼の様子を見て察する。


「いえいえ、お気になさらずに。それより立ち話もなんですし、奥の方へどうぞ。今お茶を入れますね」

「いえ、お構いなく」


 神崎はそう言うと、彼女の言われるがままに、奥へと見える座敷に向かって歩き始めた。それについていく形で近藤も、座敷へと足を進めた。


 座布団に座って辺りを見回すと、改めてこの部屋のシンプルさを実感した。

 半開きになった押入れは、外から見る限り何も入っていない。加えて壁にもプリントのたぐいは一切なく、本当に彼女がここに来る時以外は使っていないことが伺えた。


「どうぞ」


 ティーバッグの紐が垂らされているカップを、お盆に置いて初田が持ってきた。匂いからして紅茶を思わせるそのカップの隣には、気の利いた茶菓子まで用意されている。


「ありがとうございます」


 彼女もまた、人の話を聞く仕事をしている人間だな。話しやすい空間作りに長けている初田を見て、近藤は神崎の姿を重ねた。とは言え今の神崎は、浮かれ具合からして完全に彼女に負けている。

「でもまたどうして私に?」自分で入れた紅茶を一口含んで、初田は首を傾げた。


 当然、その質問が飛んでくることは予測できていた。

 何せ公式で発表されている通り、笛口智也を殺害した犯人がまだ見つかっていない。にも関わらず、一度聴取した自分にわざわざもう一度話を聞きたいだなんて、向こうも何か疑うのはおかしくなかった。


「正直捜査が難航してましてね。もう一度最初から事件を見つめ直してみようかと思いまして」


 実は先日、捜査の難航から特別捜査本部は事件の見つめ直しを決定した。

 事件に直接関りないと思われるものや、どんな些細なことでも構わない。そう言った神崎の考えによるもので、満場一致で可決した。

 しかしそれも裏を返せば、このまま何の手掛りも見つからなければ、この事件自体が迷宮入りになってしまうことも意味していた。


 智也くんを殺した犯人、絶対捕まえてねーー。息子の太樹の声が脳裏にこだます。未だその願いが叶うことを彼が信じていると思うと、胸の奥が締め付けられるような感覚に見舞われた。


「なるほど、そう言うことでしたか」それを聞いて、納得した口振りで彼女が頷く。


「わかりました。そう言うことでしたら、私もできる限り協力します」

「ありがとうございます」


 妙に納得が早いなと感じながらも、神崎の方はそれを特に気にした様子も見せずに話を進めた。


「では改めて伺いますね。初田さんが智也くんを見つけたその日、何をしておられましたか?」


 実はこう言った同じ質問をすることには、もう一つの理由があった。それは笛口智也に関係していた全員を再聴取することによる、犯人の炙り出しである。

 もし犯人が彼らの中にいる場合、可能性としてボロを出すこともありえる。その僅かな可能性に、神崎は賭けたのだ。


 言わずもがな、今聴取をしている初田もその内の一人だった。

 あまりにも犯人像が浮かび上がってこないことから、流しの犯行ではないかとも言われているこの事件。どんな人物でも犯人の可能性があるのなら、探りを入れる他なかった。


 しかしそんな淡い期待も他所に、初田はあの時と変わらぬ雰囲気で当時の状況を語り出した。


「私はその日、七時半頃に出勤しました。そして十時頃まではこの部屋で相談室便りを作成していました。そこからはいじめの件もありましたし、念入りに各教室の様子をチェックしていきました。その時は教頭の徳岡先生と一緒に回っていたので、証言があるかと思います。昼食を摂ってから三時過ぎまでは、一年一組の城島先生や四年二組の原田先生の相談を受けたりしてました。まぁほとんど雑談みたいなものでしたけどね。その後は作りかけの相談室便りを作っていて、五時の定時上がりをしようとした矢先……あの事件が起きました」


 すると初田は今の話で記憶を掘り返してしまったからか、眉間に皺を寄せて表情に曇りを見せた。無理もない。まだ幼い子供の遺体のことを思い出すのは、気分が良いものではないのだから当然だろう。


 ここは口直しと言ってはなんだが、話題を変える必要があるらしい。そう考えてはみたものの、あまり良い話題と言うものは浮かび上がってこなかった。部屋の雰囲気が重苦しくなるのは、誰であっても気持ちが沈む。

 そこで声を上げたのは、我らが神崎だった。


「最近、船越光莉ちゃんの調子はどうですか? 何でも、最近まで智也くんにいじめられていた女の子らしいですが」

「えっ……ああ、船越光莉ちゃんですか?」


 過去に笛口智也からいじめを受けていたと言う船越光莉。担任から聞いた話なのだが、いじめが発覚したのは、船越光莉本人による自白によるものだったらしい。ちなみにSNSなどの履歴から見ても、その証拠ははっきりと残っていた。


 今の時代ではSNSによる集団いじめも増えてきており、児童相談所も根を上げていた。更にはインターネットの掲示板などで、勝手に住所を晒される事例もあると聞いている。

 ここまで来れば、もはや最近のいじめの域は犯罪レベルに達していると言えよう。


 いっそのこと中学生までは、スマートフォンなどのツールを持たせないようにしてしまった方がいいのかもしれない。今年で小学二年生になった太樹を思い浮かべて、近藤は少しやるせない気持ちになった。


「以前はよく他愛もない話をしに来てたんですが、智也くんが亡くなってからは一度もここへ来てないんですよ」

「そうなんですか……」

「お力になれず、すいません」


 今口にした発言でわかった。彼女は捜査本部側が船越光莉を疑っていることに気づいている。少し話をずらしただけで、その意図を彼女は易々と読み取ってしまったのだ。

 さすがはスクールカウンセラー、理解の速さは飛び抜けている。


 船越光莉が事件に関与しているのではないか。この話が出たのはつい昨日のことだ。それは神崎と二人きりの時、あまりに浮かばない犯人像から近藤が漏らした言葉だった。


「ここまで犯人がわからないと、あの子のことも疑っちゃいますよ」

「あの子って誰やねん」

「ほら、あの子ですよ。笛口智也にいじめられてたって言う女の子です。確か名前は……船越光莉でしたっけ」

「待てよ……その可能性はあり得るかもしれへん」


 いくら捜査が難航しているとは言え子供を疑うのは、言い出しっぺの近藤でも気が引けた。しかし神崎はその説をしきりに押し出し、今日その証拠も探ってみようと言う話になった。

 この話は他の捜査本部のメンバーには話していない。もっとも話したところで、馬鹿馬鹿しいと一蹴されるのがオチだろう。だがそれよりも、自分達が白い目で見られるかもしれないと言う方が、話していない理由としては大きかった。


「でも」初田は何か思い出したのか、天井を見上げながら言った。


「この相談室の隣に保健室があるんですけど、そこへ入っていく姿はよく見ますよ」

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