亡くした一部

 3


 事件当日に警察署で見せてもらった写真では、苦しみながら死んだと思われる、顔いっぱいに皺を寄せた表情の亡き弟が写っていた。死因は窒息死とのことだった。


 どうやら鳩尾みぞおち辺りを鈍器のようなもので強打され、呼吸困難となり死亡したようである。

 当然ながら智也の死は他殺だ。加えて犯人もまだ見つかっていない。敦としては犯人の早期の発見を期待したいのだが、そう思うと自分の無力さを露骨に感じる気がした。


 自分には何もできやしないのか。その考えが、一層敦を追い詰めた。


 智也の通夜は、彼が死んだ三日後に行われた。司法解剖などと色々準備があったのもあるが、母の心の準備ができていなかったことが一番の理由だろう。偶然にもこの日は日曜日と重なっていたものの、そんなに人は来ないだろうと敦は思い込んでいた。


 しかし通夜当日、会場の入り口で参列者の受付を見て驚いた。まだ智也は幼かったにも関わらず、大勢の者が彼の死をいたみに押し寄せていたのだ。

 顔ぶれを見てみると、特に家に遊びに来ていた面々が目立った。今思えば平日に、智也が自宅に友人を招く日が多かったからだろう。勿論中には、敦が小学生の時に何度か顔を合わせている者達もいた。


 ふと視線を横に移すと、それ以外にも多くの小学生らしき者達が見受けられた。

 何やら麗奈の話を聞くに、あの集団は智也のいた五年二組の生徒達らしい。それも一人を除いて全員出席しているそうで、当然その先頭には担任らしき人物も見受けられた。


 大方、担任の入れ知恵だろう。小学生ながらも、落ち着いた雰囲気の生徒達を見て、敦は思った。しかし目に大粒の涙を浮かべ、それを制服の袖で拭っている者も少なくなかった。

 そんな彼らを見ていると、智也もイジメの主犯格とは言え愛されていた存在なのだと、改めて認識させられる。勝手だとは思ったが、つい自分の弟が誇らしく思えた。また平凡と言う人生を歩んできたが故、智也が別の世界の人のようにも思えた。


 ちなみに今日こなかった五年二組の生徒と言うのは、最近まで智也のイジメの対象になっていた例の少女である。

 名を船越光莉と言うらしいのだが、仮にこの通夜に出席していても、敦にはどの人物なのかはわからない。いくら智也との関わりがあったからと言って、敦にはそれが全くなかったからだ。


 おそらく向こうとしても、智也の死に対しては複雑な心情なのだろう。過去に自分をイジメていた人物が、突然何者かによって殺害されたのだ。同じクラス以前に、通夜へ出席するかどうかは相当悩んだに違いない。

 だがもしかすると、彼女にとってそれは喜ばしい話だったのではないか。ふと、自分ながら嫌な考えが脳裏をよぎった。


「この度は誠にご愁傷さまでございます。突然のことでさぞやお力を落とされていることと存じます」


 海斗に向かってお悔やみの言葉を口にした男に、敦は見覚えがあった。日に焼けた赤茶色の肌に、ブルドッグのような垂れた頬。黒服を着ている姿はこれまで見たこともなかったが、高めの身長もあってかよく似合っている。


 彼の名は藪林やぶばやし慶司けいじ。敦が小学六年生の時の担任で、よく世話になった人物である。

 小学生時代、彼はサボり癖のあった敦に、その理解と相反する勉強の大切さを示してくれた。藪林から教わった、適度にサボりながらもやることをこなすと言う考え方は、今も心にしっかりと刻み込まれている。


 今は五年一組の担任をしているそうで、敦の弟と言うこともあり、智也の担任ではないものの関わりはあったらしい。智也本人も、生前そのことはよく話していた。


「敦くん……」


 藪林は敦の前に立つと、歯切れの悪そうな表情で顔を見てきた。もしかするとその表情も、自分がいながら智也を守りきれなかったと言う負い目からかもしれない。

 教師であるが故の責任感ーー。彼にどう言葉をかけていいのかわからず、一礼だけをした。


 すると藪林は突然、敦の左耳まで顔を近づけてこう言った。「大事な話があるんだ」


「えっ」

「これが終わったあと、一人で駐車場に停めてある私の車まで来てくれ」


 言葉の意図がわからず目をぱちくりさせていると、彼は一礼してから式場へと入っていった。


「藪林先生に何か言われたの?」麗奈は不思議そうに訊ねる。


「ううん。励ましの言葉をもらっただけや」


 別に隠す必要もなかったのかもしれないが、今は余計なことは言わないようにしておいた。

 麗奈が突然の出来事に弱いことは、この前の一件でよくわかっている。海斗もいるとは言え麗奈には、今日と言う日だけは取り乱して欲しくなかった。両親共に、智也の死を悼むことに集中してもらいたかった。


「そう」


 当然麗奈が、敦のそんな心情を悟るわけもない。すぐさまお悔やみの言葉を言いにきた女性に、そろそろ見飽きてきた対応をまた始めた。

 大事な話とは一体、何のことなのだろうか。不思議に思いながらも、こちらを向いた見覚えのない女性に一礼する。パターン化した動作、今日だけで何度これをやったかはもう憶えていない。


 通夜はとどこおりなく進んだ。海斗の涙と鼻水を垂れ流した、父としての智也への言葉。麗奈の犯人への憎しみの言葉は、潤んだ声のせいで何を言っているのか聞き取れなかった。だが式場の雰囲気を重苦しくするには十分だったようで、それにつられて涙する者は多かった。

 気がつくと敦も、まぶたが熱くなっているのを感じた。涙こそ出さなかったが、滝のように流れ出てくる鼻水をすすっていた。


 小学五年生ーー年齢で言えば十一歳ーーと、未来ある人生を突如として断たれた智也。彼の一生を小さくまとめた、麗奈が主体となって作ったスライドショーは、さすがの敦も涙を堪えずには目を向けられなかった。涙をき止めていたダムの、決壊である。


 なぜ智也が殺されなければならなかったのか。改めて敦は、犯人に対しての強い怒りを覚えた。


 確かに智也はイジメをしていた。だからと言って、兄弟としての繋がりが切れてしまったわけではない。

 スクリーンに映し出されるずっと幼かった頃の智也の写真。そしてその横には、ほとんどと言っていい程に敦の姿も写り込んでいた。それが何よりの証拠なのだ。


 いつも家に帰れば母がいる。それ以上に、夕食では四人全員が揃っている時の方が多かった。智也がいる当たり前の生活。それが失われた今になって、智也が自分にとってどれ程大きな存在だったかを実感した。


 通夜が終わった午後八時半頃。橋本が敦を見つけて歩み寄ってきた。彼もまた、幼い頃から智也のことを知っている数少ない人物だった。小学校低学年の夏にはよく、三人でセミ捕りをしていたのを憶えている。


 周りが小学生や見知らぬ大人ばかりで息がしにくい空間で、同年代である彼の存在はまさしく、仏のようにも思えた。

「よう敦」彼の発言はいつも通りだが、どこか戸惑っているようにも見える。


「智也くん、まだまだこれからやったのにな……」

「うん。自分でもまだ、この現状を受け入れられてへんわ」


 ここで途切れた二人の会話。智也の死の重さは、仲の良い敦と橋本の会話すら無にした。仏のようにも思えた橋本の存在も、この雰囲気では台無しだ。もはや逆効果と言っても過言ではない。


 何か話題はないものか。つい昨日のことを思い返しもみたが、今日の通夜の準備をしていた記憶しかなかった。

 もっとも、何か明るい話題があったとしても、この場でそれを言うには気が引ける。橋本だって、敦とは同じ考えの筈だ。


「もし俺に何かできることがあるなら、言ってくれ」


 やっぱりお前は親友だよ。彼の気遣いには、智也と通づるものを感じた。

 思い返せば智也も、誰かが嫌な雰囲気にしてしまった時は、よく場を和ませていた。それもまた、彼をここまでの人気者にした所以ゆえんなのだろう。


「ああ。頼りにしとるわ」


 最後は互いにいつも通りの笑みを作り、橋本は去っていった。


「もし何かできることがあるなら……か」


 脳裏に藪林の言葉が蘇った。


「母さん、ちょっとトイレ行ってくるわ」


 特に便意は感じていなかったが、敦はそれとなく嘘を吐いた。ここを抜けるのは少しの間だけ、長くなっても大きい方だったと言えばいい。そう自分に言い聞かせた。

 麗奈は別に気に留めるわけでもなく、ただわかったと一言口にした。


 外に出ると、小学生らしき子供達がワラワラとしていた。時間的にも子供は家に帰る時間だ。おそらく彼らは、迎えの車を待っているのだろう。ここまで多く集られると、後々帰宅する者達で駐車場の出口は混雑が予想される。

 笛口家は通夜と言うことで、今日は葬儀場に泊まる予定だ。故に敦は、大変だなぁと、他人事のように彼らを見ていた。


 藪林の車を探すべく、敦は駐車場を見回し始めた。彼の乗っていた車は薄いグリーンだったか。藪林が乗っていた車は珍しい色だったので、案外すぐに見つけることができた。

 運転座席の方へ顔をやると、どうやら向こうも気づいたようだ。親指を後部座席へと指したので、敦は後方のドアを開けた。


「待っていたよ。さ、後ろに乗ってくれ」


 言われるがままに後部座席へと乗車した敦。すると藪林は、助手席に両足を置いた。


「最近腰がどうも痛くてね」


 それが彼にとって一番落ち着く姿勢らしい。気にせず敦は、自分を呼び出したわけを訊ねた。


「先生。大事な話って何なんですか?」

「そう焦るな。おそらくこれは、ゆっくりと説明しなければ理解されない。だからまずは内容を受け止めてもらう、それが一番だ」


 彼はそう言うが、麗奈に用を足すからと外に出てきた矢先、あまり長い時間外にいるのは難しい。

 第一明日の告別式の準備もしなければならないため、敦には時間があまり残されていなかった。要件を知れたらすぐに戻ろう、敦はその考えの元でここに来ていたからだ。


「でも先生、俺にも時間ってもんがあるんです。早めに帰らないと母が心配しますし……」


 精一杯の説得だった。藪林も何かあってのことだったのだろうが、今は時期が悪い。むしろまた改めて、とまで言いたかったぐらいだ。

 これには藪林も納得したようで、首を傾けながら頭を掻いた。「なら仕方ない」


「わかった、要件は手短に話そう。だが今から私が言うこと、それをしっかりと受け止めてほしい」

「わかりました」


 どうせ大したことはないだろう。敦は高をくくっていた。しかし次の藪林の言葉に、そんな態度も一変した。


「智也くんは美濃小の生徒に殺された」

「はい?」


 相手は目上だが、関係ない。これには異議を唱える他なかった。

 智也を殺した犯人が、美濃小学校の教師であると言う可能性は低い。それは犯人の捜査状況を説明する中で、コンドウと名乗る刑事が言っていた発言ことだ。


 何より智也の死亡推定時刻には、教師全員にアリバイがあった。故に智也を殺した犯人は、現在部外者による者で捜査が進んでいるらしい。

 もっぱら、小学生が殺人を犯すと言う可能性自体、警察側は視野に入れていないのであろう。


「嘘は吐かんといてくださいよ。いくら犯人に目星がつかないからって、先生は自分の学校の生徒を疑うんですか?」


 しかし捜査が難航しているのもまた事実。そのような部外者の目撃情報が、周辺住民達にないことには勿論その可能性も否定できない。それに加えて子供が殺人を犯す事件も、決してないと言うわけでもなかった。


 つい三ヶ月前に東京で、小学生六年生程の少年による殺人事件が起きていた。カッとしたから両親を殺した、その少年は裁判の際そう発言していたのを記憶している。

 この事件はニュースでも多く取り上げられていたので、今でもたまにインターネットのニュースページではちらほらと、この事件に関する記事が上がっていたりもしていた。


 しかしこんなところで、それと類似した犯行が起こるのか。やはり敦は、首を横に振った。


「それに智也の死因は、鳩尾の強打による呼吸困難が原因やって聞いてます。しかもそれは、バッドや棒のような物で打たれた形跡もないから、そこを局所的に狙ったものだとも……。とてもそのようなことが、子供にできるわけがないと思うんですけど」


「確かに君の言う通りだ」口ではそう言ったが、藪林の表情にはどこか余裕が見られた。「ただの小学生ならな」


「どう言うことですか?」

「笛口くん。君は最近世界中に出現した、ハヤスギを知っているかい?」

「ええ、まぁ」


 急にその話が出てくるとは予想していなかった。

 確かにハヤスギなら敦も知っている。ハヤスギとは成長スピードが他の杉よりも格段に早く、三日程で約三十メートルの高さまで成長する杉の木のことだ。


 半年程前に、突如として世界中のいたるところに出現したハヤスギ。出現当初、それはそれはどの番組でも特集が組まれる程であったが、今では一切その話題は聞かない。確か美濃小学校の中庭にも、一本生えていると智也が言っていた。


「それが何か」

「そのハヤスギに、特別な力があると言ったら」

「は?」


 こらえることは困難だった。もはや話の内容が滑稽過ぎて、笑いまで込み上げてきている。この時敦は、藪林の話を聞きに来たこと自体間違いだったと後悔した。

 だが相手は小学生時代に世話になった恩師とも言える存在。下手に刺激するのは悪いように思えた。何とか彼の妄想を振り払ってやることはできないだろうか。これではどちらが支えてもらう立場なのかわからなくなってきた。


「あはは……特別な力ですか。 先生、それって何かのアニメや漫画の見過ぎですよ。と言うか先生も見るんですね、そう言うの」


「真面目に聞いてほしい」しかし藪林の目は笑っていない。どうやら本気で重症らしい。


「私のよく知る人物から聞いたんだ。あのハヤスギには、人間に特別な力を目覚めさせる力があると。であれば、犯人はその力を用いて智也くんを殺した、そう考えられはしないかい?」

「いい加減にしてください!」


 いつまで経ってもつまらない持論を並べ、挙げ句の果てには漫画じみたことまで言いだした藪林。これにはいくら彼が小学生時代の恩師と言えども、敦は怒りを覚えずにはいられなかった。

 今日が普通の日であれば、敦も彼の冗談に付き合っていたかもしれない。しかし今日は智也の通夜だ。こんな死者を冒涜するような、ましてや弟を巻き添えにした不謹慎極まりない会話は、敦の藪林への失望を加速させた。


「先生、その話か本当なら何故、美濃小の生徒が犯人だと言い切れるんですか? 証拠なんてないのに、そんな憶測なんか立てんといてくださいよ! 今日は大切な弟の……智也の通夜なんです。できることなら今日は、犯人がどうとか以前に、智也のことだけを考えてやりたかったんです! 藪林先生がこんなに常識のない人やとは、思ってへんかったわ……」


 勢いよく敦は車のドアを開けた。無論彼の車から出る為だ。もうこんな奴とは口も聞くもんか。

 歯を食いしばってその一歩を踏み出そうとした次の瞬間、とある言葉が敦の耳に届いた。


「船越光莉だ」

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