第65話
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「望月良子、……ですか?」
「はい」久美子は頷く。
「さあ、……知らない。初めて耳にする名前だ」
「え、そんなことは……。平郡中学で庶務をしている方ですけど」
「いいえ。その名前は妻の口から聞かされたことがない」しっかりとした口調で桜井氏は否定した。
「……」どうなっているんだろう? 狐につままれた思いで加納久美子は黙るしかなかった。
国道沿いに建つ白いマンションに立ち寄ってみると、幸運にも桜井氏は在宅だった。インターフォンを通して、いきなり訪ねて来た理由を説明した。話している途中だった、加納久美子という名前に気づいてくれたらしい。
「もしかして優子の高校時代に仲良しだった方ですか?」と訊かれた。「そうです」と答えると、すぐにドアが開いて部屋の中に迎えられた。木村優子が夫に学生時代の友達の話をしてくれていたので助かった。
リビングに入ると一気に旧友の面影が蘇る。部屋のコーディネートが彼女そのものだった。パステルカラーで統一されて、所々に観葉植物が飾ってあった。高校時代に彼女の家に遊びに行った時のことが思い出される。それが今ここに再現されているのだ。なんて懐かしい。目の前のドアが開いて、高校生の木村優子が姿を現わしてくれるような気がしてならなかった。と同時に彼女と二度と会えない悲しみが込み上げてきた。胸が痛い。自然に涙が流れた。桜井氏に見られまいと顔を反対の方へ向けた。
疎遠になってしまって御免なさい。あなたとは、ずっと友達でいたかったのに。
同じ職業に就いていたなんて。もし付き合いが続いていたなら、お互いに悩みを打ち明けたり、色々と話し合えただろう。残念でならない。
ううっ。急に罪悪感が込み上げて胸が痛くなった。もし友情が続いていたなら、彼女は死なずに済んだかもしれない。きっと、そうだ。優子は窮地に追い詰められる前に、自分に相談したはずだ。助けを求めたに違いない。そして自分は彼女を助ける為なら何でもしたと思う。優子の死は久美子自身にも責任があるように感じた。
ああ、御免なさい。優子、大好きだったよ。
こうなったら何としても、木村優子が命を落とした理由を突き止めたい。加納久美子は強い使命感を覚えた。
木村優子が夫に選んだ男性は、髪を短くカットした細面の顔で、白いポロシャツにブルージーンズを穿いていた。物静かでスタイリッシュだ。優子が恋に落ちたのも頷ける。似合いのカップルだったに違いない。まず久美子は仏壇に線香を上げさせてもらった。手を合わせながらも、彼女のことは考えまいと意識した。これ以上は悲しみに浸ることは出来ない。わざわざここまで来た理由を見失ってしまう。
リビングのソファに落ち着くと、君津南中学で起きていること、また平郡中学で起きたことを加納久美子は詳しく話した。ところが桜井氏が望月良子という人物は知らない、と言われて唖然としてしまう。どうなっているんだろう。言葉が続かない。
「あそこの教頭には会いましたか?」気まずい沈黙を破って桜井氏が訊いてきた。
「い、……いいえ」久美子は答えた。電話で話をしただけで顔を合わせたことはない。
「あの男は信用できない」
「……」相手の表情に怒りが宿るのが分かった。
「事件を闇に葬ったんだ。それだけじゃない、遺品として警察から返ってきた鏡を渡せと言ってきた」
「えっ、鏡をですか?」
「そうです」
「どうして?」
「黒川拓磨にとって脅威となっているからでしょう。あの安部とかいう教頭は黒川拓磨の言い成りだった」
「今、どこに鏡はあるんですか?」
「自分の実家にあります。木箱に入れて神社で祈祷しました。そうすることで邪悪な存在は手も足も出ない」
「その鏡は、優子さんが高校時代に高木先生から預かったモノですね?」
「そうです。その教師が、どういう経緯で鏡を入手したのかは知りません。でも処分に困っていたのは事実だ。そこで優子が引き取ったのです」
「その話は高校時代に、私は優子さんから聞きました」
「そうでしたか。では妻が異常に霊感が強い女性だったのは知っていますね?」
「ええ」
「産まれた時にベネチアン・ベールを被っていると、それが強くなるらしいです」
「え、ベネチアン・ベール?」
「はい。つまり羊膜のことです」
「そうなんですか」
「優子は黒川拓磨という邪悪な存在が、鏡を破壊しようと画策することを予期していたようです」
「桜井さん」お願いするなら今だ、そう久美子は思った。
「はい?」
「次の土曜日なんですが、黒川拓磨は学校で生徒たちを集めて何かを行おうとしています」
「それはマズい。絶対に止めさせるべきだ」
「そうなんです。それで--」
「あの鏡が必要なんですね?」桜井氏は久美子の言葉を遮って言った。
「その通りです」なんて物分りのいい人だろう。
「……」
「お願いできますか?」
「……」桜井氏は黙ったままだ。
「ダメですか?」久美子は不安になっていく。
「僕の家内は亡くなりました。どういう状況でそういう結果になってまったのか、詳しくは分かりません。真相はうやむやにされてしまった。しかしです、すべての責任は黒川拓磨にあると考えています。あの鏡を持って自分が奴に立ち向かおうかと思ったりもしました。でも私は部外者なんです。味方になってくれそうな人はいません。それに第一、小柄な中学生を退治しようとする大人に、誰も協力しようとする気にはならないでしょう。もし一人で戦えば、優子の二の舞になりそうだ。それで諦めました。しかし鏡は、何があっても絶対に連中に渡さないと決めたんです。もしかしたら、黒川拓磨と対峙しようとする勇敢な人がいつか現れるかもしれない、という僅かな期待もありました」
「……」
「ところが現れたのが、……加納さん、あなただった」
「わたしではダメですか?」
「危険過ぎます。あなた一人では、とても……」
「待って下さい。わたしには協力者がいます。同僚で、安藤紫という者です。今日は体調を崩して一緒に来られませんでしたが」
「その方も女性じゃないですか。無理だ。とてもじゃないが黒川拓磨の悪事を止めるなんてことは出来ない」
「いいえ。男性もいます。警察官です。君津署で刑事をやっています。わたしの生徒の父親なんです」波多野孝行の父親なら、きっと強力な味方になってくれる。
「本当ですか?」
「はい」
「しかし非常に危険なことには間違いないです」
「わかっています」
「鏡を貸すのは構いません。しかし加納さんを危険に晒すのは気が進まない」
「慎重に行動します」
「逐一こちらに報告してくれますか?」
「もちろんです」
「お願いです。もし危険を感じたら直ちに行動を中止して下さい」
「そうします」
「わかりました。木曜日に実家に帰る予定があります。ですから金曜日の夕方ぐらいには取りに来て頂いて構いません」
「ありがとうございます。これは自分と同僚の安藤紫の携帯番号です。もし私と連絡が取れない場合は彼女に電話して下さい」そう言って久美子はメモを渡した。
「自分の携帯の番号を言います。控えて下さい」桜井氏が言った。
久美子はペンを取り出して手帳に走り書きした。
「今日は本当に有難うございました。これで失礼します。いきなり訪問したことを御許し下さい」
「気をつけて、お帰りください」
「金曜日は電話をしてから参ります」
「お待ちしています」
二人はリビングのソファから立ち上がった。桜井氏はエレベーターのところまで一緒に来てボタンを押してくれた。エレベーターが反応して一階から上がってくる。それを待つ間だった。
「加納さん」桜井氏の表情が重い。
「はい」どうしたんだろう。
言い難そうに口を開く。「検死で分かったのですが、……妻は妊娠していました」
「えっ」
「でも自分の子ではありません。確信があります。私たちには計画があって、しっかり避妊はやっていましたから」
「……」じゃ、誰が? でも、それは自分の口からは訊けない。
「双子でした。優子は双子を身篭っていたのです」
加納久美子は冷水を浴びせられたように全身が凍りつく。その事実は聞きたくなかった。これは自分の手に負えないかもしれない、そんな予感がしてきた。桜井氏を見つめるだけで何も言えない。
帰宅を促すように、エレベーターの扉が静かに開いた。
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