第64話
64
「ごめん、今日は一緒に行けそうにもないわ」土曜日の早朝だった、安藤先生から加納久美子に電話が掛かってきた。いつもと声が違う。
「どうしたの?」
「風邪を引いたらしい。喉が痛くて、頭痛もして少し目眩もするのよ」
「まあ、大丈夫?」
「一日、寝ているしかないみたい」
「わかった。じゃ、一人で行ってくる」久美子はがっかりだ。
「悪いけど、そうして」
「お大事に」
「ねえ」
「なに?」
「望月さんに、あたしの連絡先も教えた方がいいと思わない?」
「……」
「もし加納先生に何かあった場合に備えてよ。あなたの携帯電話が急に壊れてしまうことだって考えられるし。だから話を理解している別の人がいると、彼女に教えておくべきじゃないかしら」
なるほど。「言えてる。わかった、そうする」
「じゃ、気をつけて行ってきて」
「うん、そうする。お大事に」
加納久美子は待ち合わせのファミリー・レストランに、約束の二十分前には到着するつもりで家を出た。国道127号線を館山方向へ、フォルクス・ワーゲンのポロを走らせながら身体が緊張していくのを感じた。いつものドライブとは違う。
え、嘘でしょう。どうして? いつもなら空いて飛ばせる道路が今日に限って渋滞していた。しばらくノロノロ運転を余儀なくされ
た。ある地点まで来ると前に繋がった自動車の先に、二台のパトカーが赤い点滅をさせたまま停車しているのが見えた。
事故だった。これはマズい。約束の時間までに着けるか自信がなくなった。加納久美子はバッグから携帯電話を取り出すと、望月良子の番号を押した。
「あ、加納です。すいません、事故で渋滞なんです。今、竹岡あたりを走っています。少し送れるかもしれません。それでも構いませんか? ああ、良かった。ありがとうございます。でしたら先にファミレスの中に入って、コーヒーでも飲んでいて頂けないでしょうか? ええ、そうして下さい。よろしくお願いします。では後ほど」
マホニーというファミレスの駐車場に着いたのは、約束の時間から十五分ほど送れてだった。スズキの白い軽自動車が目に入って、その横にポロを停めた。
さあ、どの人が望月良子だろう。すぐに見つけられるだろうか。不安な気持ちで店内に入ってレジの前で立ち止まった。客が入店したチャイムに反応してウエイトレスが近づいてくる。その時、窓際の席で久美子に手を振る一人の女性が目に入った。笑っている。きっと、あの人だ。そう直感した。
「お一人ですか?」ウエイトレス訊いてきた。
「いいえ。待ち合わせです」久美子は答えた。「あの人なんです」確信はなかったが、窓際に座る若い女性を指差した。
「望月です。初めまして」半信半疑で久美子がテーブルに近づくと、プリントの白いブラウスに赤いカーディガンを羽織った若い女性が先に口を開いた。座ったままだった。
「加納です。初めまして。今日は本当に有難うございます」
「こちらこそ。こんな所まで来て頂いて感謝しています。で、お連れの方は?」
「あ、すいません。風邪で来られなくなりました」
「そうでしたか」
小柄で笑顔の可愛い女性だった。はっきりとした大きな目が聡明な印象を強くしている。話し易そうな感じだ。良かった。たくさん色々なことを聞けそうな気がした。
向かいの席に腰を下ろしてみると、窓の向こう側に自分のフォルクスワーゲンが停まっているのに気づく。なるほど。彼女は久美子が車から降りるところから見ていたらしい。
「黒川拓磨の母親に会ってきました」さっそく加納久美子は話を切り出す。
「どうでした?」望月良子が応えて訊く。
途中でウエイトレスが注文を取りにきて中断したが、加納久美子は相手に内容を全て話す。
「母親は、とても息子のことを恐れている様子でした」そこを何度も強調した。
「やはり、そうでしたか」望月良子は頷く。「でも息子だけじゃありません。こちらへ母親が連絡してきた時は、夫にも恐れている様子でした」
「え、本当ですか?」
「夫と息子の二人から逃れたくて、こちらに助けを求めてきた感じです。しかし会って話しをしようとした直前でした、夫の方は学校で焼死したんです」
「そうでしたか」久美子は言った。
「黒川拓磨の担任教師と争って、二人とも亡くなったんです」
「まさか、……信じられない」
「教師の方がガソリンを教室に持ち込んだらしくて」
「確かなんですか?」
「いいえ、推量でしかありません。現場検証をして、警察が出した結論です」
「その現場に黒川拓磨はいたんですか?」
「わかりません。しかし教師が彼を焼き殺そうとしたところで、その父親が助けに入ったと考えられます」
「でも証拠はない?」
「その通りです」
「教師が人を殺そうとするなんて……、そんな」
「そうしなければならない状況に追い込まれたんだと思います」
「どうして、ですか? 黒川拓磨の平郡中学での様子を教えてください」さあ、ここからが本題だ。加納久美子は身構える気持ちになった。
「わかりました」そう言うと望月良子は座り直して口を開く。「単刀直入に言わせて頂きます。黒川拓磨は、……あいつは悪魔です」
「……」たじろいで返事ができない。こんな優しそうな女性から、そんな辛らつな言葉が聞かされるとは思ってもみなかった。
「彼に、どれほど学校をメチャクチャにされたか分かりません。今でも精神的に立ち直れない生徒がほとんどです」
「た、たとえば……」具体的に聞かせてほしい。久美子は促した。
「あいつは生徒たちの弱点を探り出して、悪の道、堕落の道へと誘い込んだのです。それは彼らの恋愛感情であったり、金銭欲であったり、虚栄心でもありました。そして誰一人、求めていたものが叶った者はいません。騙されたと気づいた時には手遅れでした。弱みを握られて、もう黒川拓磨の言いなりになるしかありません」
注文したコーヒーを、ウエイトレスが持ってきたので望月良子は黙った。
「……」久美子は視線を相手から動かせない。テーブルの上にコーヒーが置かれても見もしなかった。確証はないが、うちの君津南中でも同じような事が起きていそうな気がしてならないのだ。
「見たかったビデオを黒川拓磨から借りた生徒なんですが、彼の視線の先のテレビには何も映っていませんでした」ウエイトレスが立ち去ると、望月良子は続けた。
「そうですか」うちの板垣順平と同じだ、久美子は思った。
「彼の母親が不審に思って声を掛けると、邪魔をするんじゃないと怒って激しく暴力を振るったそうです。両親は重傷を負って病院へ運ばれます。平和だった家庭が崩壊しました」
「……」
「女子生徒には女優にしてやるとか、その器量ならモデルになれそうだとか、甘い言葉で近づきます。黒川拓磨が君津の中学へ転校して行くと、彼女たちは中絶手術を受けなければなりませんでした」
「……」久美子は視線を望月良子から外した。五十嵐香月を妊娠させたのは、やはり黒川拓磨かもしれない。
「加納さんに、一つ訊きたいことがあります」
「え、はい。何でしょう?」久美子は視線を戻した。
「失礼ですが、お幾つですか?」
「二十八になります」自分の年齢が何かと関係があるのか。
「うちで黒川拓磨の担任をしていた教師は桜井優子といいます」
「え、女性だったんですか?」大胆な行動に出るからには、てっきり男性教師だと思った。
「そうです。それに加納さんと同じ年でもあります」
「えっ」
「彼女の出身は君津市でした」
「……」鳥肌が立ってきた。
「彼女の旧姓は木村でした。もしかして、ご存知ありませんか?」
「……」無意識に目が大きく開く。加納久美子は言葉が見つからない。
木村優子。知っているどころじゃない、高校時代に仲が良かったクラスメイトの一人に同じ名前の女性がいる。「ま、まさか……」
「国際中学と高校を卒業しています」
「ま、待って下さい」もう話さないで。少し休ませて、そういう意味で右の手のひらを前に突き出す。胸が苦しかった。これ以上は一度に受け入れられない。
「……」望月良子は口を閉じた。
「し、知っています。彼女とは親しい仲でした。だけど信じられない、まさか」
「やはり、そうでしたか」
「木村優子さんは卒業と同時に、館山の方へ引っ越されたんです。何度が手紙のやり取りをしましたが、その後は疎遠になってしまいました。でも、あの子が……やはり信じられない」
「桜井先生は霊感の強い女性でした」
「ええ、そうでした。高校のときに、そんなことを聞かされたのを覚えています」
「では彼女が高木という教師から、ある鏡を預かったのは聞いていますか?」
「……」高木教頭のことだ。あっ、……そうだ、思い出した。
「その教師が処分に困っていた--」
「はっきり覚えています」久美子は相手の言葉を遮った。「いつか木村優子は、あるモノを高木先生から引き取って神社へ預けに行くと話してくれました」
「その、あるモノが鏡なんです」
「そうだったんですか?」
「はい。でも、ただの鏡ではありません」
「どんな?」
「黒川拓磨の正体を暴く鏡です。そして彼が最も恐れるモノが、それなんです」
「どういう意味ですか?」
「不思議な力を宿しています。その鏡で太陽の光を反射させて黒川拓磨に当てれば、彼は力を失い、枯れ果てて滅びるんです。そして鏡は彼の姿を、我々の目で見ているのとは違う容姿で映します。悪魔の姿です」
「本当ですか?」
「信じられないでしょうけど、これは事実です」
「その鏡は今、どこにあるんですか?」
「桜井先生の御主人が持っています」
「えっ、彼女の御主人が?」
「はい。桜井先生は鏡を手にしたまま焼死しました。検死が終わって、警察は遺品として夫に引き渡したのです」
「その鏡があれば黒川拓磨の正体が分かるんですね?」久美子は期待を込めて訊いた。
「そうです」
「……」その鏡を借りたい、久美子は思った。
「そこで、……私からの提案なんですが」
「はい」
「桜井先生の御主人は、ここから車で数分の所に住んでいます。海沿いに建つ、シーサイドという名前のマンションです。黒川拓磨の正体を暴くために、少しの間だけでも鏡を貸してもらえないか頼んでみたらどうでしょう」
「ぜひ、そうしたい……、ですけど自分は彼女の御主人とは面識がありません。いきなり行って頼んでみても……」
「加納さん、ここは急ぐべきです。手間取れば、それだけ黒川拓磨の影響が大きくなっていくだけだと思います。いきなり訪問することになりますが、事情を説明すれば分かってくれるんじゃないでしょうか」
「実は今度の土曜日に、黒川拓磨は学校で何かを計画しているらしいのです、それが凄く気掛かりで……」久美子は打ち明けた。
「クラスメイトを集めてですか?」
「そうらしいです」
「儀式です」
「え?」
「それは悪魔の儀式です」
「あ、……悪魔の儀式?」
「そうです。生徒たちを集めて、彼らの思考を集中させて大きな悪事を働こうとしているのです。それは絶対に阻止しなければなりません。うちの中学でも同じような出来事があって、取り返しのつかない事態を招いてしまいました」
「……」
「阻止するためには鏡が必要です。鏡があれば黒川拓磨の化けの皮を剥ぐことが出来ます。あいつの正体が明らかになれば、多くの人たちが協力してくれると思いませんか」
「はい」
「折角ここまで来たんです。行って断られたのなら諦めがつきますが、行かないで帰れば後悔するでしょう?」
「おっしゃる通りです」
「ダメで元々じゃないですか。行ってみるべきです」
「そうですね」久美子は同意した。
「簡単ですが、地図を書いておきました。これです。一緒に行ってあげればいいのですが、すいません、体調がイマイチなんです」
「あ、大丈夫です。一人で行けます」久美子は渡されたメモ用紙に書かれた地図を見ながら応えた。そうだ。もし彼女が一緒に行ってくれるなら、話は早いのにと思った。でも仕方がない。
「どうです? 分かりますか」
「……これって、国道沿いに建っていた大きな白いビルですか?」
「そうです」
「リゾート・マンションみたいに目立つ建物ですよね?」久美子は念を押す。
「ええ、それです」
「じゃあ、大丈夫です。分かります」本当だ、ここから近い。
「それで、うちの安部教頭なんですが」望月良子が話を変えた。
「はい」
「あの人は官僚主義というか、これだけの事が学校で起きたのに揉み消すのに一生懸命でした」
「……」わかります、というふうに久美子は首を縦に振る。そんな感じが電話でもしたからだ。
「世間体が悪くなるからと、問題を抱えた生徒たちの親を説得して黙らせました。警察には、不倫した女教師と保護者の一人が別れ話が拗れて焼身自殺を図ったらしいと、嘘の話をして捜査を真相から遠ざけたのです。張本人の黒川拓磨には、すべて不問にするから転校してくれと頼み込みました」
「まあ、……」呆れたと続けて言いたいところを、途中で久美子は言葉を飲み込んだ。
「転校先の中学校が大変なことになると知っていながら、うちの教頭は手続きを強引に進めたんです。君津の借家だって彼が探して手配しました。とにかく自分の経歴に傷がつくような、都合の悪いことは全て隠してしまおうという魂胆でした」
「……」久美子は頷きながら、自身も怒りで熱くなる思いだ。正義感に燃える望月良子に同調していた。
「これが教育者のすることですか? 真相を究明すべきなのに、事件を闇に葬ってしまうなんて。もう情けないやら、悔しくて悔しくて、腹が立って仕方ありませんでした。反対に教頭は何もなかったような顔をして仕事を続けています。信じられますか?」
「……」久美子は反射的に首を横に振った。
「ところがです、……」
「はい」怒りに満ちた相手の口調が急に静かになった。聞き漏らすまいとして久美子は身を僅かに前に屈めた。
「まわりの教師たちはどんな思いでいるのか、わたしは探りを入れてみたんです。そしたら驚いたことに、教頭先生と同じ態度の人たちが少なくありませんでした。後で知ったのですが、彼らは生徒たちと同じように黒川拓磨に唆されて弱みを握られ、人生をズタズタにされていたんです。胃潰瘍に苦しむ教師には必ず治る漢方薬を知っているとか、賭け事で借金ができた教師には買えば絶対に儲かる株があるとか言って、その気にさせました。夫に不満を持っていた中年の女教師には、きれいに別れられる方法があるとか言って近づいたんです。つまり黒川拓磨によって、学校全体がメチャクチャされていました。もう私一人が声を上げても何も変わらない状態だったのです。我慢して黙るしかありませんでした。もし行動を起こせば教頭に睨まれて職場に居られなくされるのは明らかです。この不景気に仕事を失うわけにはいきません」
「そうでしたか」久美子は同情した。
「でも加納さんからの電話を受けた時、すぐに黒川拓磨の件だと分かりました。やっぱり、という感じです。うちの教頭とのやり取りを横で聞いていました。なかなか引き下がらない強い女性だな、と感心しました。もしかしたら、この人なら黒川拓磨の正体を暴いて公にしてくれるんじゃないかと直感したんです。それで電話をして全てをお話しようと決心しました」
「ありがとうございます」
「加納さん」
「はい」
「黒川拓磨は怪物です。正真正銘の悪魔です。正体を暴くのは簡単ではありません。鏡は絶対に必要です」
「これから桜井氏のマンションへ行ってみます」
「そうして下さい。ちゃんと説明すれば桜井氏は理解してくれると思います。でも、もし借りられたとしても、それだけで十分とは言えません。誰か協力してくれる人はいますか?」
「はい。一緒に来る予定だった--そうだ、彼女の携帯の番号を言っておきます。もし自分の携帯電話がバッテリー切れになったり、何か不測の事態が起きた場合に備えて」
「言えてます。教えて下さい。これから何回か、お互いに連絡を取り合うことになるでしょうから」
「よろしくお願いします」
加納久美子は手帳の一ページを切り取ると、安藤紫の名前と携帯電話の番号を書いて渡した。ああ、良かった。もう少しで忘れてしまうところだった。
「わかりました。もし加納さんと連絡が取れない場合は、この方に電話します」
「そうして下さい。彼女は同僚で美術教師です。ずっと親しくしています」
「では、その方にも私の携帯の番号を伝えて下さい」
「そうします。ありがとうございます」
望月良子は無言で頷くと、コーヒーを手に取って口をつけた。その顔からは憤りの表情は消えていた。すべてを話し終えた感じが伝わってきた。
「今日は来て良かったです」久美子は言った。
「そう言って頂けると嬉しいです」
「さっそく、これから桜井氏に会いに行きます」
「上手く行くことを願っています」
「結果は夕方にでも電話で報告させて下さい」
「待っています」
「じゃあ、これで失礼します。あっ、待って。ここは私に払わせて下さい」望月良子が白い伝票に手を伸ばしてきたので、久美子は素早く横取りした。
「いいえ、そんなこと出来ません。こちらまで来て頂いたんですから」
「いいえ、払わせてください。話して下さったことに本当に感謝しているんです」
「では、せめて割り勘にしましょう」
「いいえ、私に払わせて下さい。お願いします」久美子は頑として譲らなかった。結局、相手を承諾させてテーブルを立ち上がった。
「あらっ」
「はい。そうなんです、実は」
「いつですか、予定日は?」望月良子の腹部が大きかった。
「来月です」母親になる喜びを満面の笑顔で表して答えた。
「まあ。すいませんでした。こんな大事な時に、わざわざ会って頂いて」体調が不安定なのも当然だ。
「いいえ、とんでもありません」
立ち上がってみると、身長は久美子の方が高かった。相手を先にしてレジへ向かう。その途中で望月良子は足を止めて振り返った。顔は笑顔のままだ。大きな腹部に手を当てながら、何か言い残したことでもあるように口を開く。
「うふっ、双子なんです」
「……」その言葉を聞いて、加納久美子の顔から一瞬で笑みが消えた。数日前、五十嵐香月の口から同じ台詞を耳にしていた。黒川拓磨も双子で産まれてきたらしい。偶然の一致なんかじゃない、そんな気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます