第63話
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意外だった。加納久美子はフォルクス・ワーゲンのポロを、外壁のトタンが所々に赤く錆びた家々が並ぶ一画の前に停めて唖然とした。低所得者向けの集合住宅だった。
この中に黒川拓磨が母親と二人で住む家がある。何軒かは人が住んでいなくて、もはや廃墟に近い。五十嵐香月が住む家みたいな建物を頭に描いて、住所と地図と頼りに探したのだが当てが外れた。
生徒の学力は家庭の経済力と比例する。収入が高いほど子供の成績はいい。それが定説だった。しかし今、唯一の例外を目の前にしていた。
加納久美子は自動車から出て、道路に面した手前の建物の前に立った。「あれ?」表札がなかった。
その隣の家にも同じようにない。何号とかいう建物の番号すらなかった。
書類に目を落としたが、やっぱり黒川拓磨の住所の欄にも番地までしか書かれていない。母親は何も言ってくれなかった。久美子は午後、お昼休みが終わるとすぐに電話を掛けた。母親は家に居てくれた。
「息子さんの担任教師をしています、君津南中学の加納という者です。失礼ですが、お母さんでいらっしゃいますか?」
「……はい」
「拓磨くんのことで、お話したいことがあります。今から、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「……」
「時間は掛かりません。すぐに終わります」久美子自身も時間がなかった。
「また拓磨が学校で何かやらかしたんですか?」
「……」また、という言葉が久美子の頭に残った。「いいえ、そういう事じゃありません。家庭訪問みたいなものです。こちらに転校されて、まだお会いしていなかったので」
「そうですか」
「何分も掛かりません。すぐに帰ります。今から行ってもよろしいですか?」
「わかりました。お待ちしています」
それだけだった。家が判りづらいとは一言も口にしてくれない。探すしかない。ここまで来て引き返すことはできなかった。加納久美子は勇気を出して、目の前に建つ家のドアを叩く。「ごめんください」
人が住んでいる気配があるのに反応がなかった。間合いを保ってドアを叩き続けた。声は次第に大きくなっていく。家の中から物音が聞こえたので止めた。
鈍い音を立てながら中から引き戸を開けてくれたのは、汚れた白いトレーナーの上下に薄手の黒いジャンパーを羽織った、七十代と思われる痩せた老人だった。
「……」何も言わないで加納久美子を見てるだけだ。
「失礼します。実は黒川さんのお宅を探しています。ご存知ないでしょうか?」
「えっ、なんだって?」耳が遠いらしい。久美子は声を大きくして繰り返した。
「知らねえ」ぶっきらぼうな言い方だった。誰とも関わりたくないという態度が明らか。老人の開いた口の中には歯が数えるほどしかなかった。
「わかりました。失礼しました」久美子は頭を下げて、その場から身を引く。
別の家に当たったみるしかない。どうしよう。ここは近所付き合いが、まったくない場所らしい。辺りを歩き回って自分で探すしか方法はないのか。すごく居心地が悪かった。家から出てきてくれた老人が、そのまま中に戻らずに久美子の様子を眺めていた。まるで不審者を見るような目で。
これは苦労しそうだ。時間の許す限り一軒、一軒を調べるしかないと覚悟した。
「加納先生ですか?」
いきなり後ろから声を掛けられた。ヒヤっとした。振り返ると、ピンクのスエット・シャツに緑のトレーニング・パンツ姿の中年女性がいた。きっと黒川拓磨の母親だ。助かった。
「そうです。拓磨くんのお母さんでいらっしゃいますか?」
「はい」
「初めまして。担任をしています、加納久美子です。よろしく」
「黒川です。こちらへ」
久美子は母親の後ろに付いて行く。通路が狭くてプロパンガスのボンベと何度か接触しそうになった。気をつけないと、無造作に置いてあるバケツや鉢植えに躓きそうだった。黒川拓磨が住む家は最も奥に位置していた。
居間に通された。座布団に腰を下ろすと、壁に掛けられた派手なワインカラーのワンピースに目が引き付けられた。母親は夜の仕事をしている、と理解した。「お構いなく。時間がないので、すぐに帰りますから」母親がお茶を煎れようとしたので遠慮した。
「拓磨くんの家での様子は、どんな感じなんですか?」久美子は訊いた。当たり障りのない質問をしながら、何かを読み取りたかった。
「……」どう答えていいのか母親は分からない様子だ。
「どんな事でも構いません」
「普通じゃないかしら」声が小さい。
「お母さんとは話しをしますか?」もっと具体的に訊くことにした。
「はい。少しは……」
「どんな話をしますか? 例えば」
「え、……そう、天気とか」
「……」これでは埒が明かない。母親は事実を言っていない、と思った。隠したがっている感じだ。「息子さんの学校での成績を知っていますか?」
「い、いいえ」
「どのくらい彼が勉強しているか興味はありますか?」
「はい」
「でも彼と成績のことで話をしたことがないのですか?」久美子は決め付けるように言ってみた。
「……そうかもしれません」
信じられなかった。ここまで親が勉強に無関心なのに、息子の成績はトップクラスだ。
「拓磨くんは、とても勉強ができます」
「そうですか」
「このまま行けば、どこでも高校は入学できると思います」
「はい」息子を褒められても嬉しそうでもない。
「息子さんについて何か困っている事はありますか?」
「ないです」
「……」話が続かない。
「……」母親は目を合わそうとしない。自宅に担任教師が来たのが迷惑らしい。
「わかりました。これで失礼します。お時間を割いて頂いて感謝します」
この母親と話を続けても何も得られるものは無さそうだ、と判断した。自信がなくて、いつも何かに怯えている感じだ。あの自信に満ちた黒川拓磨とは似ても似つかない。座布団から立ち上がろうとしたところだった。
「加納先生」
「はい」
「ここに先生が来たことは、息子に言わなくてもいいですか?」
「どちらでも構いません」黒川拓磨に知られても別にいい、と思った。
「そうですか。では内緒にしてくれますか」
「どうしてですか?」興味が湧いた。親子の間で都合が悪いということなのか。
「拓磨には言いたくありません」
「なぜです、お母さん?」
「……」
「お母さん、教えて下さい」
「怒るんです、あたしが勝手な事をすると」
「暴力を振るうとかですか?」
「いいえ、そこまでは……」
「わかりました」久美子は了解した。
「あたし、とにかく拓磨が怖くて……」言いながら一瞬だが、母親は恐怖に体を震わせた。
「お母さん」加納久美子は看過できない何か異常なものを感じた。
「……」
「どうして、そんなに息子さんを怖がるんですか?」
「あ、あの子は……」首を振って何かを否定しようとしていた。
「お母さん、説明して下さい」
「先生。あたし、拓磨から逃げ出したくて」
「……」母親から聞く言葉じゃなかった。驚いて久美子は何も言えない。
「助けて欲しいんです」
「待って下さい。突然そう言われても困ります。事情を詳しく説明してください」
「話せば助けてくれますか?」
「……」聞きたい。しかし助けると安易に約束はできなかった。
「先生」答えを促していた。
「すべて話を聞いてみないと何とも言えません。約束できるのは、お母さんの力になれるように努力するということだけです」
「……」
「話して頂けますか?」久美子は訊いた。
「わかりました、それで結構です。あの子は、最初から自分の子とは思えなかった」
「どういう意味でしょう?」
「あたしが産んだのは事実なんですが、……何か、どうも不思議な気がしてならない」
「なぜ?」
「普通の子供とは違うような気がしました。……どう言えばいいのか、子供なのに何か強い意志と目的を持っているみたいでした」
「……」
「賢くて、あたしの子らしくなかった。すごく悩みました。ところが主人は違います。期待していた通りに、男の子が産まれて非常に喜んでいました。だから相談できなかった」
「そうでしたか」
「それに、あの子は双子で産まれてきたんです」
「えっ」兄弟がいるのか? 今どこに?
「もう一人は殺されました」
「何ですって」
「産まれてすぐです。それも病院の新生児室で」
「信じられない」久美子は思わず手で口を押さえた。「だ、誰が?」
「病院の婦長です」
「ま、……まさか」
「だけど腑に落ちない事ばかりでした」
「聞かせて下さい」
「これは主人の話ですが……」そう言うと母親は視線を逸らす。言いたくない事を、これから口にしなければならないという気持ちが伝わってきた。
「はい」久美子は促した。
「あたしを見舞いに来て新生児室の前を通りかかると、婦長がピンセットで自分の息子に危害を加えているところを見たそうです。急いで中に入りましたが、もう息子は死んでいました。主人はポケットにあった小型カッターを取り出して、怒りから婦長を刺し殺したのです」
「どうして? そんなことを」
「わかりません」
「……」あまりにも悲惨な話で、なんて言葉を掛けていいのか分からない。
「その後が大変です。主人は殺人罪で逮捕されました。少しでも刑を軽くしてもらいたくて、東京の有名な弁護士を雇ったんです。うちの実家は小さくても建設会社を経営していたんですが、多額の出費が続いて倒産しました」
「そうでしたか」
「主人は婿養子です。中学を卒業すると見習いとして入社してきました。期待はしていなかったのですが、ベテランの従業員が次々と辞めていって、それで会社の重要なポストを任されるようになります。あたしは一人娘です。新婚旅行中のことでした、両親が交通事故に遭って亡くなりました。それで主人は会社を継いだんです」
「……」なんか凄い話を聞かされている、そんな気分だった。
「五年で主人は仮釈放になります。知り合いを頼って建設作業員として働き出しました。ただ、不思議なのは……」
「なんです?」
「主人は殺された息子のことを全く悲しみませんでした。墓参りすら行きません。怒りから婦長に襲い掛かったのに、ですよ」
「どうしてでしょう?」理解できない。
「わかりません。理由を訊こうとすると話をはぐらかすんです。今は忙しい、とか言って」
「ご主人は去年の暮れに亡くなられたんですか?」確認するように久美子は言った。できたら、その理由も知りたい。
「そうです」
「ご病気ですか?」
「いいえ」母親は首を振った。
「……」それ以上は言いたくないのか。
「焼死でした」
「……」久美子は息を飲み込んだ。それなら自殺だと思った。
これ以上はプライベート過ぎて訊けないと感じた。カシオのGショックに目をやると、学校へ戻らなければならない時間になっていた。
「すいません、お母さん。授業があるので、もう帰らなければなりません。時間を作って、お話の続きを聞けるようにします。もし何かありましたら、遠慮せずに学校に電話して下さい。今日は、これで失礼します」
玄関を出ようとしたところだ、母親は吐き出すように言った。
「主人は平郡中学で死にました」
「……」加納久美子は凍りつく。「あ……、あとで電話します」それしか言えなかった。
君津南中学へ戻るフォルクス・ワーゲンの中で、ハンドルを握る久美子の手は小刻みに震えていた。なんて悲惨な話だろう。産まれたばかりの赤ん坊が新生児室で殺され、その父親は息子が通う中学校で命を断つ。理解に苦しむことばかりだ。
陸橋を下って君津市役所の交差点を右折したところで気づく。母親は息子の黒川拓磨を恐れる理由を何ひとつ言わなかった。時間がなくて、そこまで話が辿り着かなかったのか。授業が終わったら、電話しようと思った。まだ話は終わっていない。
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