第62話
62
「吉川ひなのとイザムが結婚したけど、すぐに離婚しそうじゃない?」お弁当箱を片付けながら安藤紫が言った。
「言えてる」お茶のカップを口元からテーブルに置くと、加納久美子は応えた。
「誰もが、そう思っていそう」
「そう思っていないのは当事者の二人だけよ」
「あはっ」
加納久美子と安藤紫は、いつも通りに昼食を美術室で取った。話題は、全豪テニスでヒギンズと対決した女ランボーことアメリ・モレスモから始まって、ペンティアムⅡ搭載のノート・パソコンを買おうか迷っている、と様々だった。
安藤先生は黒川拓磨の話に触れようともしない。これからどうするのか知りたいはずなのに、あえて訊いてこなかった。加納久美子の判断に任せようという気らしい。うれしかった。
「波多野刑事に電話するわ」加納久美子は言った。
「うん」安藤先生は大きく頷いて賛成した。
「生徒のプライバシーがあるから詳しく話せない事だらけだけど、大まかに事情を伝えるわ」
「それがいいと思う」
「もし何かがあった時に後悔したくないし」
「言う通りだわ。可能な限り手を打つべきよ」
その時だった、加納久美子のバッグの中からジョン・レノンの叫び声がした。『ミスター・ムーンライト』
「ごめん」苦笑いして久美子はバッグから携帯電話を取り出す。
この着信音は五十嵐香月の家で気まずい思いをしてから、変えなきゃならないと分かっていながら通話が終わると、すっかり忘れてしまう。
「誰かしら」知らない番号だった。「もしもし」
「……」
「もしもし」もう一度。反応がなかった。イタズラかしら。
「もしもし。わたし、望月と申します」女性だ。同じ年ぐらいか。
「は、はい」聞き覚えのある声だった。でも思い出せない。
「平郡中学校で庶務をしています。昨日の電話を最初に--」
「わ、わかります」久美子は相手に最後まで言わせなかった。思い出した。血液中のアドレナリン濃度が一気に上がった。「お電話、ありがとうございます」
もしかしたら突破口になるかもしれない。期待が高まる。目を大きくして安藤先生に驚いた表情をして見せた。会話を一緒に聞いてもらいたいくらいだ。
「うちの安部教頭が昨日は失礼しました」
「いいえ、構いません。こちらこそ突然に電話したりして……」
「今、お話を続けても丈夫ですか?」
「もちろんです」
「黒川拓磨について、お話したいことがあります」
「ぜひ聞かせて下さい」
「うちの学校で大変なことが起こりました。担任教師の死は彼と関係があります。そちらの学校で何が起きているか、想像に難しくありません」
「……」加納久美子の額に汗が浮かんできた。
「すべてを説明するのは電話では無理があります。いつか、どこかで会えないでしょうか」
「わかりました。今週の土曜日では?」最も早い休みが、それだった。すべて予定はキャンセルしよう。
「大丈夫です。ただ自分の体調が不安定で遠くまで行けません。それでも--」
「私が平郡中学校の近くまで行きます。場所と時間は、そちらの都合に合わせますので」
「そうして頂けると助かります」
「どこがいいですか?」
「国道から平郡中学へ向かう県道へ左折する交差点は御存知ですか?」
「わかります」確かではないが、たぶん行けば分かると思った。
「その近くにマホニーというファミリー・レストランがあります。そこの駐車場に午前十時に待ち合わせでは如何でしょうか」
「大丈夫です」
「スズキの白い軽自動車で行きます」
「私の車はフォルクス・ワーゲ--、いえ、2ドアの紺色の自動車です」車種を言っても一般の人には馴染みのない車だった。
お互いにフル・ネームを言い合って通話を終えた。加納久美子は手帳を開いて、三月六日の欄の空白に待ち合わせの時間と望月良子という名前を書いた。そして好奇心に満ちた顔を見せる安藤先生に会話のすべてを教えた。
「あたしも行きたい」安藤先生が言った。
「え、本当?」
「連れて行って」
「待って。望月さんに電話して了解を取るから」
「そうして。いきなり二人で現れるより、事前に話しておいた方がいいわ」
久美子としても安藤先生と一緒に行きたい。携帯電話を取り出して連絡を取ることにした。
「あ、加納久美子です。さっそくで、すいません。土曜日の件なんですが、私の同僚で安藤という女性と一緒に行ってもいいですか?」
「こちらは構いません。ええ、お二人で来られた方がいいと思います」
「ありがとうございます。そうさせて頂きます。それでは--」
「待ってください」
「はい?」
「言い忘れたことがあって、電話しようと思っていたところなんです」
「何でしょう」緊張する。
「黒川拓磨の母親と話をしたことがありますか?」
「い、いいえ」会ったこともないし、電話で言葉を交わしたこともなかった。
「こちらでは、家での黒川拓磨の様子を聞こうと日時まで約束したのですが、あの事件が起きて出来なくなったのです」
「そうでしたか」
「何か強く伝えたい事があるような印象だったのですが……」
「……」
「もし可能でしたら、そちらで--」
「わかりました。彼の母親と連絡を取ってみます」
「もし話ができたら、こちらへ来たときに結果を教えて下さい」
「もちろんです」
「それだけです」
「では、土曜日に」
「はい。失礼します」
加納久美子は携帯電話を畳むと、安藤先生に言った。「黒川拓磨の母親と話をしてみてくれって」
「会ったこと、あるの?」
「ない」
「黒川拓磨の家まで行くつもり?」
「そう。午後は空いているから電話してみる」
「がんばって」
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