第59話


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 携帯電話を持つ右手が汗ばむ。結局、加納久美子は昼休みに美術室から平郡中学へ電話をすることにした。横には安藤先生がいてくれた。やっぱり心強い。しばらく呼び出し音が鳴り続く。カチッ、と音がして繋がったのが分かった。

 「はい。平郡中学です」女性の声。

「もしもし」加納久美子は喉がカラカラだった。 

「平郡中学です。もしもし」

「加納久美子と申します。君津南中学で教師をしています。実は、そちらから転校してきた男子生徒のことについて、聞きたいことがあるんです」

「……」無言だ。

「もしもし、自分は--」もう一度、繰り返そうと思った。

「うちからそちらの中学へ転校して行った生徒ですか?」

「そうです」よかった。一度で話を理解してもらえた。

「いつの事でしょう?」

「今年です。一月になります。三学期の始めに転校してきた男子生徒です」

「……」また無言。

「彼の名前は--」言う必要がなかった。

「黒川拓磨ですか?」

「そうです」

「どんなことを、知りたいのでしょうか?」相手の声は事務的なままだった。

「は、はい。それは、そちらから送られてきた書類に幾つかの空欄がありまして……。できましたら、彼の担任をしていた先生と話をさせて頂きたいのですが」

「……」また黙った。

「……」加納久美子は返事を待った。安藤先生の方を向く。目が合った。

「お待ち下さい。教頭先生と変わります」

「は、はい」担任だった教師は不在なんだろうか?

 保留のメロディが流れてきた。

 「教頭先生と変わってくれるって」加納久美子は早口で横にいる安藤先生に伝えた。

「どうして、担任教師じゃないの?」

安藤先生の問いに無言で首を振って、わからないと答えた。静かに待つ二人。しばらく保留のメロディが続いた。

「まだなの?」ずいぶん待たすじゃない、と文句を口にする安藤先生。

「……」それに加納久美子は顔をしかめて応えた。

「教頭先生なんかじゃ--」

 手で合図して安藤先生を黙らせた。保留のメロディが止まったのだ。咳をする音が耳に届いた。「もしもし」平郡中学校の教頭先生と思われる相手に声を掛けた。

「教頭の安部です」

「君津南中学の加納と申します。お忙しいところを申し訳ありません」相手の声と話し方から五十代の男性を想像した。

「どういった用件でしょうか?」その声には親しみが感じられなかった。

「そちらから転校してきた黒川拓磨という生徒について聞きたいことがありまして、電話させて頂きました」

「こっちから書類を送ったはずです。それを読んでもらえば、分かることじゃないですか」

「幾つか空欄ありまして、それで--」

「そんなことは珍しくもないでしょう」この電話を明らかに迷惑がっている口調だ。

「そうかもしれません。ですけど黒川拓磨という生徒が、そちらの中学ではどんな生活態度だったのか知りたいのです」

「どうして?」

「……」その問いに加納久美子は答えられなかった。

「普通の生徒ですよ。特に変わったところはなかった」

「そうですか」教頭は嘘をついている、と加納久美子は直感した。この会話を早く終わらせたくて、当たり障りのないことを言ってるだけだ。「では彼が転校した理由は、なにか分かりますか?」

「それは親の仕事の関係とか、いろいろ--」

「彼の父親は、去年の暮れに亡くなっていると書いてありました」久美子は相手の言葉を遮って言った。

「そ、そうだった。私は例えばの話をしただけだ。こちらでは、ハッキリした理由は把握していない」

「彼の担任をしていた教師と話をさせて下さい」

「その必要はないだろう。もう転校して行った生徒なんだから、そちらで好きなように対応したらいい」

「どうしても彼の担任をしていた教師と話がしたいのです」

「……」大きく息を吸って吐く音が聞こえた。

「お願いします」加納久美子は続けた。

「無理だな」

「何故です?」

「死んだよ」そう言うと平郡中学校の教頭は、一方的に電話を切った。

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