第44話


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 古賀千秋は一階に降りると走るのを止めた。すぐに出口へは向かわないで店内を歩いて、買い物客の中に紛れ込んだ。慌てて逃げ出すほどバカじゃないさ。

 これで安心。上手く逃げられた。しかしヤバかったな。危うく優等生という評判にキズがつくところだった。

 今回は小池和美のお陰だ。間違いない。あいつが、あそこで警備員の女に飛び蹴りを食らわせてくれたから助かったのだ。

 その瞬間は見れなかったが、あの音と気絶した警備員の姿からして、相当な破壊力だったに違いない。あの子、なかなか使えそう。これからは、もう少し優しく接してやろうかと考え直した。パシリ卒業だ、おめでとう。

 危機が去って落ち着くと、お腹が空いてきた。食料品売り場の商品を目にして食欲をそそられたらしい。家に帰って何か食べようと考えた。

 小池和美がどうなったか気になったが、あの女のことだから心配ないだろうと、すぐに忘れた。

 カトーヨーカ堂の出口へと向かう。すっかり自信を取り戻していた。あたしは不死身だ。どんな時でも間一髪で窮地から脱出してみせる。女ジェームズ・ボンドと言えるかもしれない。この危機を乗り越えたことで自分が以前よりも賢くなったような気がする。これからはもっと用心して仕事しよう。

 出口の近くで女が一人、誰かを待っている様子で腕時計に目をやって時間を確認しているのが見えた。どことなく美術の安藤先生に似ているなと思った。しかし邪魔な奴だな、そんな所に立っているんじゃねえよ。そう思いながら横を通り過ぎようとしたところだった、突然、その女に片方の腕を力強く掴まれた。えっ、どういうこと? もしかして痴漢? あたしって魅力あるから。

 「自分がした事が分かっているでしょう? これから事務所へ行くから大人しくしなさい。あなた達は店に入ってきた時から目を付けられていたのよ。初めてじゃないことも、こっちは知っているから覚悟した方がいいわ」

 女の言葉に、古賀千秋は息が止まった。この女、店の警備員だ。

私服の警備員。あたしを待ち伏せしていたんだ。え、そんなのって反則じゃない? 天国から地獄。顔から血が引く。全身から力が抜けていく。大人しくしろと言われても、こっちは立っているだけで精一杯だ。捕まった。この、……あたしが捕まった。呆然。

 女は慣れた手つきで腰のホルダーから無線機を取り出すと、喋り始めた。「チーフ、聞こえますか? はい、村上です。今、もう一人の身柄を押さえました。これから事務所へ向かいます。え? 第二事務所ですか。分かりました、そちらへ連れて行きます」

 声が冷たい。何の温かみも感じられなかった。少しは親しみっていうのを示してくれてもいいのに。こっちは万引きで捕まって気が動転しているんだから。

 「身体は大丈夫なの? どこか怪我はしていない?」とか「怖かった?」、それとか「すぐに終わるから安心しなさい」、なんて優しい言葉を掛けて欲しかった。これじゃ、まるで凶悪犯罪者扱いだ。悲しくなってくる。人を殺したわけじゃないのに。

 小さな倉庫みたいな所へ連れて行かれた。空き箱みたいなのが積まれていて、散らかっている。ここが第二事務所っていう場所らしい。中では若い男が一人、机の向こうに腰を下ろしていた。三十歳前後か。もしかして、こいつがチーフ? ちょっと若過ぎない? それに少しだけど、イケメン。

 「そこに座って、盗んだ商品を机の上に出しなさい」すごく事務的な言い方。自己紹介もない。

 古賀千秋は警備員の女が手を離してくれると、言われた通りにした。左のポケットに入っていた安価の靴下を取り出して置く。右のポケットにあったワコールのパンティは、値が張るので隠したままにした。

 「それだけか? すべて出しなさい」

「これで全部です」ウソをついた。身体検査をされたら万事休すだけど。

「そうか」

 あれ、信じてくれちゃった。ラッキー。

 「チーフ、高橋さんの容態はどうなんですか?」女が心配そうに訊いた。

「救急車を呼んだ。意識は戻ったが朦朧としている。自分の名前さえ言えないくらいだ」

「まあ、大変。家族に知らせますか?」

「そうだな、そうしてくれるか」

「わかりました」

「あ、それと、第一事務所へ行ってほしい」

「わたしが、ですか?」

「そうなんだ。何も喋ろうとしない。ときどき笑ったりする。ふてぶてしいにもほどがある。田中が手を焼いているんだ。こっちはオレ一人で何とかするから」

「わかりました」

「頼む」

 殺風景な事務所に三十歳前後のチーフと二人だけになった。連中が話していたのは小池和美のことだと分かった。あの子も捕まったんだ。だけど黙秘しているらしい。

 自分は安い靴下一足を万引きしただけだけど、和美の方は警備員に重傷を負わせたようだ。

 「どうして、こんな事をしたんだ。悪いことだって分かっているだろう?」

「……」古賀千秋は考えに集中して言葉が出せなかった。この状況を、様々な角度から計算していた。なんとか少しでも自分に有利な方向へ持っていけないだろうか、と。 

「黙っていると、きみの立場はどんどん悪くなるぞ」

「あ、……あたし、脅されていたんです」古賀千秋の優秀な頭脳が最良と思える答えを出すのに、それほど時間は掛からなかった。

「え?」

「あの子に、その靴下を盗めって強要されました」

「何だって?」

「あたしは学校で学級委員長をしています。自分から万引きなんてするわけがありません」激しく首を振ってみせた。

「それは本当なのか?」

「あの子は書記なんです。でも体が大きくて腕力が強いから、いつも威張っています。何か気に入らないことがあると、あたしを殴ったり蹴ったりするんです。もう怖くて、怖くて学校へ行けない日は何度もありました」涙を拭いているように手で目を擦った。 

「それはひどいな」

「はい」鼻を啜ることだって忘れない。

「学校の先生には相談したのか?」

「そんなこと、とても出来ません。だって、もしバレたら……、どんな仕打ちをされるか怖くて」手応えを感じた。

「……」若い男は考えている様子だった。

 So far、so good・

 ここで畳み掛けるしかない、と古賀千秋は判断した。椅子から立ち上がるとチーフの男に抱きついた。

 「お願いです、あたしを助けて下さい。あの子に暴力を振るわれるのはもう嫌です」怯えているふうに体を震わせた。そして胸の膨らみを男の肩に押し付けてやった。

 良かった、拒否しない。うふっ。まんざらでもないらしい。男ってホモじゃない限り、若い女の肉体には弱いんだから。

 「わかった、わかったから。落ち着きなさい」

「あたしを助けてくれますか?」胸の膨らみが効いたらしい。

「何とかしよう」

「ありがとうごさいます」やったあ。バンカーからの見事なリカバリー・ショットだ。セベ・バレステロスだって、ここまでは出来まい。父親のゴルフ雑誌で見つけた憧れの人だった。このチーフ、ちょっと似ているところがあって、それで思い出した。

 若い男を手玉に取るのは、テレクラ遊びから習得した技術だ。スケベな男達をあしらうのは巧くなったと思う。

 連中をその気にさせて焦らしたり翻弄するのは、それなりのテクニックが必要だ。中学一年の夏ごろから始めたテレクラ遊びで身についた。やっていて本当に良かった。こんなところで役に立つとは思わなかった。

 テレクラ遊びは古賀千秋にとって、英語や数学と同じくらい大切な知識になった。すべての女の子が生きていく上で身につけておくべきだと思う。中学の必修科目にしてもいいくらいじゃないかしら? もし自分が文部大臣だったら高校入試に『テレクラ』を加えよう。大蔵省ご用達のノーパンしゃぶしゃぶがあったんだから、文部省が推薦するテレクラがあっても別に悪くないし。

 嘘を信じてくれて、この若いチーフには感謝しかない。『何とかしよう』と言ってくれた、その言葉を確実にさせる為に処女を差し出してもいいかも。

 「女の身体っていうのは、いつか出会う素敵な男性の為に大切にしておくモノなのよ」が、母親の言葉だった。しかし古賀千秋は「男の人って寝てみないと分からない」、と言った女優の杉本彩の言葉を信じていた。だったら処女なんて、そんなに価値があるもんじゃない。この若い肉体が取引のカードに使えるなら利用しない手はないだろう。

 これで何とかダメージは最小限に抑えられたと思う。でも万引きで捕まったのは事実だ。家に帰ってから、どれほど叱られるか想像がつく。きっと母親はヒステリックに取り乱すはず。

 「なんて事をしてくれたのよ」

「もう破滅だ。もう生きていけない」

「これまでの努力が、あんたの所為で全て水の泡だわ」

「どれほど母親を苦しめれば気が済むのよ」

「あんたなんか産むんじゃなかった」

 それらの言葉を繰り返し、繰り返し、延々と聞かされるのだ。うんざりするほど。くど過ぎて母親の説教は反省するどころか、反感しか覚えない。そうだ。だったら叱られる前に、こっちから一発かましてやろうか。

 「お母さん。あたし、もう処女じゃないんだ。木更津のセントラルに映画を見に行った帰りにナンパされて、名前も知らない中年のオジさんと公園のベンチでヤっちゃったのよ」

 こりゃ、いい。警備員のチーフに抱かれたと正直に言うよりも、こっちの方がインパクトが強い。うふっ。母親の失望する顔を想像すると古賀千秋は愉快で堪らなかった。あんたが「子育てに失敗した」って言うんだから、その通りに生きてやろうじゃないか。

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