第42話

   42


 お姉ちゃん。

 お姉ちゃんっ。

 お姉ちゃんったら。

 夢の中で誰かが土屋恵子を呼んでいた。だんだん声が大きくなっていく。うるさい。もう黙ってほしい。

 あいつだ。あのバカだ。小学四年の弟に違いなかった。え、夢じゃない。現実だ。あの野郎、ふざけやがって。こっちはいい気持ちで寝ているのに……。もう一度呼びやがったら--。

 「お姉ちゃんっ」

 畜生、もう頭にきた。部屋のドアまで叩き出しやがって。起きるしかない。ぶん殴ってやろう。え? 何かへん。

 あったか過ぎる。熱いぐらいだ。メラメラと何か燃える音が--。ぎゃっ、火事だっ。や、やばいっ。

 「お姉ちゃん、起きてっ」

「わかった。起きた」土屋恵子は大声で返事した。

「早く逃げないと」

「今すぐ行く」

「早くっ」

「すぐ行くから。お前は一人で逃げて。お姉ちゃんも、すぐ逃げるから」

「本当?」

「待ってなくていい。お前は急いで逃げろ」

「わかった。お姉ちゃんも早く来てね」

「そうする」

 煙が凄い。だめだっ。電気が点かない。こうなったら手探りで探すしかない。

 山岸たちバカどもから、ふんだくった金は部屋の三箇所に隠してあった。兄貴と弟に見つかると盗まれるからだ。兄の高志は下着泥棒をして警察に捕まってから、袖ヶ浦で水道工事会社を経営する親戚の家に預けられていたが、ときどき帰って来やがる。

 多くの男が女の着ている衣服が好きなのには呆れるほどだ。恵子は手塚奈々の汗で濡れた体操着を盗むことで、A組の木畑耕介から金を受け取っていた。彼は木畑興業の一人息子で、たんまり小遣いを貰っているらしくて気前がいい。一回につき一万円をくれた。盗んだ翌日には見つからないように元に戻す、という面倒な仕事だったが引き受けた。

 手塚奈々の、あのバカ女の、汗まみれになった体操着を何に使うのか分からないが、そんなことは知りたくもない。どうせ、エッチなことだろう。しっかり金さえ払ってくれたら、それでいい。

 熱いっ。火の粉が舞っていた。こりゃ、やばい。早くしないと。枕の下の財布を掴んで、タンスの中から二万円を取り出すので精一杯だった。漫画本に挟んだ一万五千円は諦めるしかなかった。また理由をつけて山岸たちに請求すればいい。そうだ、見舞金という名目で、たんまり金を出させよう。

 ドアのロックを外して、二階の廊下に出ると黒い煙が充満していた。下から声がした。「恵子っ、大丈夫か?」父親だった。

 「大丈夫」

「早く降りて来いっ」

「今、行くっ」

 土屋恵子は息を止めて、目を閉じた。何年も住んだ家だ、見えなくたって階段を降りて玄関まで行ける。床は熱かったが我慢して進んだ。

 一万五千円が悔しい。燃えて無くなってしまうのだ。あの金でROXYのダウンコートを手に入れようかと迷っていたのだ。買っちまえばよかった。

 裸足のまま外に出た。「お姉ちゃん」、「恵子っ」と声を掛けられて家族に迎えられた。みんな着の身着のままだ。弟のパジャマが所々だけど黒い。焦げたんだ、きっと。大事そうに『少年ジャンプ』を脇に抱えていた。

 バカか、お前は。この状況で、どこで読むんだ、そんなモノ。やっぱり、こいつは救いようがない。そう土屋恵子は思った。

 「何やってたんだ。心配したぞ」父親だ。

「ご免なさい」

「恵子、良かったね」母親が抱いてくれた。泣いている。

 最後の一人娘が助かって家族はホッとした様子だ。だけど危なかった。もう少しで死ぬところだった。さっきまで住んでた家が目の前で激しく燃えている。風が強い。隣にも火が移りつつあった。もう大火事だ。土屋恵子は今になって体がブルブルと震えてきた。目から涙も溢れてくる。怖かった。 

 「ねえ、オバアちゃんはどこ?」

 弟の一言に両親と姉は凍りつく。

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