第31話


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 高木教頭は胃の痛みに苦しんでいた。何度もトイレに駆け込む毎日だ。正露丸も大田胃散も飲んでみたが全く効かない。そりゃ、そうだ。原因はハッキリしている。薬を服用して治る病気なんかじゃなかった。株式投資での損失が精神と体調を蝕んでいた。

 『横河ブリッジ』を損切りして、二部市場の『京葉電気』に乗り換えたのは間違いだったらしい。たかが生徒の言葉を迂闊に信じて行動を起こすべきじゃなかったのだ。

 『横河ブリッジ』は売却した途端に四百円を超えて上昇した。どうしてだ? オレに対する嫌がらせか。持っていれば六万円は儲かっただろう。逆に『京葉電気』は買ったら直ぐに下がりだした。一週間後の火曜日に大きく下落したので、思い切って高木教頭はナンピン買いをしていた。買値の平均単価を安くする為だ。資金は銀行のカード・ローンから借りた。そこから損失は二倍のペースで膨らむことになった。

 今まで稼いだ利益は一気に消えた。苦しい。悲しい。喪失感に身も心もボロボロだ。もう死にたい気分だった。ダニエラ・ビアンキやジル・セント・ジョンの美しさは頭の片隅にもなかった。

 どうしよう? 持っていれば、いずれ上がるんじゃないか。

 根拠のない期待に縋って生きる毎日だった。もはや日本経済新聞を読んで勉強する気も失せた。株式欄を見て『京葉電気』の下落を知るのが辛いのだ。いつか事態は好転する、そう自分に言い聞かせた。

 昨日の昼休みだ。携帯電話を鳴ったので応答すると、相手は中原証券の山口だった。

 「先日に買った『京葉電気』なんですが、午前中にストップ安になりました」という報告だ。大きな石を無理やり飲み込んだように胃が重くなった。「連結子会社の粉飾決算が明るみに出て、地検の家宅捜査が入ったらしく--」その後に説明が続いたが高木教頭は、もはや聞いていられなかった。黙って電話を切ってトイレに駆け込んだ。

 余計なことで電話してきやがって。知りたくなかった。もう仕事もしたくない。このまま一人で便器に座って死にたかった。家にも帰りたくない。あの鬼女房と顔を合わせたくなかった。ああ、つらい。精神的に疲労困憊しているのに、じっとしていられない。ヒリヒリと尻が痛い。トイレット・ペーパーの使い過ぎだった。

 どうして、ストップ安なんだ? 大手証券会社に勤める生徒の父親が推奨したのに。このまま何年も塩漬け状態になってしまうんだろうか。もしかして倒産したりして……。そしたら株券は紙切れ同然だ。買値まで戻ってくれないと、カード・ローンで借りた金の返済ができない。でも利息払いは、ずっと続く。

 不安に駆られて二年B組の教室へ急ぐ。黒川拓磨の姿を見つけると声を掛けた。「きみの父親が推奨した『京葉電気』がストップ安らしいぞ。一体、どうなっているんだ」もはや周りにいる生徒たちに聞かれてしまうことなんか気にしていられなかった。損失の責任を生徒に咎める口調になっていた。

 「……」

「おいっ」何も言わない生徒に腹が立った。(大丈夫ですよ。すぐに上がって行くと思います)と、そんな言葉が返ってくるのを期待していたのに。「きみが野中証券に勤める父親の情報を教えてくれたから、オレは資金の全額を使って--」

 黒川拓磨は急に立ち上がると、高木将人を残して、そのまま教室から出て行ってしまった。そ、そんな態度があるか? 教頭であるオレを前にして。気づくと生徒全員の視線が、何事かと自分に集まっていた。やっぱり、これはマズい。 

 仕方なく職員室へ戻った。階段の上り下りでは特に尻の痛みがヒドい。ドアを開けると加納久美子先生の姿が目に入った。静かに小説を読んでいる。彼女らしい。何年か前は教え子だったのに、今は知的な素晴らしい女性になっていた。なかなか仕事もできた。助けを請うような気持ちで声を掛けた。

 「加納先生」

「はい?」 

「黒川拓磨のことで一つ訊きたい」

「なんでしょう」

「彼の父親の勤め先なんだが、もし加納先生が知って--」いきなり彼女の美しい顔が曇った。どうしてだ? 言葉が続けられなくなった。

「教頭先生」

「なんだい?」オレが何かヘンなことを言ったか?

「父親の勤め先って、どういうことでしょう?」

「いや、ちょっと気になったから訊こうとしただけさ。大したことじゃない」

「ですけど、去年の暮れに亡くなっていますよね?」

「えっ?」

「生徒の書類を渡してくれた時に、教頭先生が教えてくれたんじゃありませんか」

「……」冷たい水を首から背中に流されたような思いだった。

「彼の父親の勤め先が、どうして今になって知りたいんですか?」

「……」苦しい。息ができない。

「教頭先生?」

「い、いや、……何でもない。忘れてくれ」高木将人は言葉を搾り出す。その場を離れて、夢遊病者のように自分の席へと戻った。ゆっくり椅子に腰を下ろす。放心状態。

 そうだった。黒川拓磨が転校してきて、その書類を担任になる加納先生に渡すときに、このオレが指摘したんだ。すっかり忘れていた。理解できない。どうして、そんな大事なことを覚えていないのか。自分らしくない。欲に目が眩んだのかもしれない。

 自分は教頭という立場でありながら、中学二年の黒川拓磨に騙された。このオレが、あんなクソ小僧に手玉に取られた。してやられたんだ。殺してやりたい。

 もう取り返しはつかない。地獄だ。あの鬼女房とその両親に頭を下げて、カード・ローンの借金を説明しなければならない。助けてもらわないと返済は無理だった。ああ、なんて恐ろしい。もうオレは一生、あの家族の奴隷だろう。自由はない。未来もない。

 絶望で奈落の底に落ちた高木将人に一つ確かなのは、もう二度とレンタルビデオを借りて、ダニエラ・ビアンキやジル・セント・ジョンのセクシーな容姿を見ながら、心を躍らせたりしないということだった。

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