第22話

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 日本経済は長く低迷を続けていた。馬鹿な橋本内閣が消費増税前の駆け込み需要を、景気回復と判断を誤って緊縮財政を断行してしまう。経済が良くなっていないということは一般の誰もが実感していたことなのにだ。1997年の11月には三洋証券、北海道拓殖銀行、山一證券が破綻する。その年の初めにニュースステーションで久米宏の隣に座る高成田解説者が、政府の予算案に「これは酷い」と言っていた通りの結果を招く。不良債権という問題が新たにクローズアップされて、もはや日本経済はデフレ・スパイラルという、脱出不可能な泥沼の中だった。

 村山内閣は住専へ6千億円になる公的資金を投入した。その決定に対して、これほど国民が怒るとは思わなかったと後になって談話を残す。

 政治家たちは全く国民のこと、その生活ぶりを理解していない。だから間違った政策しか打ち出せないのだ。『地域振興券』とかいうものを出すらしいが、その効果は期待できそうにない。

 当然だが東証の株価もさえなかった。1万4千円前後をうろうろしていた。伴って君津南中学の教頭を務める高木将人の運用成績も芳しくなかった。ニューヨーク・ダウは1万ドルを突破する勢いなのとは対照的だった。

 こりゃ、まずい。何とかしないと。

 小渕内閣になって大蔵大臣に宮沢喜一が就任したが、その経済政策は従来の公共事業を柱とした目新しいものではなかった。「横浜ベイスターズの佐々木を登板させたのと同じだ」と意気込みを表わしたがインパクトは弱い。その後に、「この国の財政はやや破綻している」と口にした言葉の方は実感があった。これから日経平均株価が上昇していくとは思えない。つまり下げ相場で利益を出さなければならないのだ。カラ売りするほど相場感と勇気もない。株価が下げ過ぎたところのリバウンド狙いで行くしかなさそうだ。

 高木将人は金が必要だった。自分の生活基盤を築くための資金を作って妻と離婚したいと願っていた。

 一生懸命に勉強してきて六大学の一つに現役で合格できた。教員免許を取得して君津市の中学校に勤務する。数年後には、そこの校長の紹介で同じ歳の女性と見合いをした。

 異性と付き合う経験がなかった高木は、相手のふくよかな身体つきに惹かれた。口数は少なくて大人しそうな人だと感じた。この人と結婚したいと思った。

 高木将人の理想の女性像はラクエル・ウェルチだった。中学の時に新宿ピカデリーで見た映画、『恐竜100万年』に出演していた女優だ。ティラノサウルスの迫力ある映像を期待して映画館まで足を運んだ。しかし目に焼きついたのはボロ布を纏っただけのラクエル・ウェルチの肢体だった。なんてセクシーな女性なんだ、と見惚れた。

 それまでのアイドルはハニー・レーヌだ。秋山庄太郎が撮ったヌード写真は部屋の壁に飾られていたが、家に居ない時はその上に映画『イージーライダー』のポスターを縦に貼って見えないように隠した。

 二つのポスターの見ながら、グランド・ファンク・レイルロードの『ハートブレイカー』を聞くのが楽しかった。

 お見合いの席での妻の姿は女らしくて、ラクエル・ウェルチを彷彿させるものがあった。駅前にあるホテル千成のレストランでの会食だった。だが二度目に会った時には、あまりの背の低さに少し失望した。ハイヒールを履いてこなかったからだ。そんなにスタイルは良くなさそうだ。喋り方も、慣れてくるにつれて口調の強さが目立った。会う度に少しづつ幻滅を覚えていく。ところが高木将人の気持ちとは反対に、どんどん結婚の話は進んでいく。紹介してくれた校長からは、「僕の顔を立ててくれて有難う」とまで言われてしまった。自分からは後に引けなくなる。なんとか女の方から断ってくれないかと、それだけを願う。

 性格の弱さを呪った。勢いに流されるような感じで結婚してしまう。婿養子だ。悪夢の始まりだった。妻となった女は年齢を偽っていて、本当は八歳も年上だった。唯一、向こうが譲歩したのが高木という姓を名乗り続けられるということだけだ。

 初夜ではラクエル・ウェルチとまではいかなくても、せめてハニー・レーヌみたいな瑞々しい女体を期待した。しかし考えが甘かった。ただ太っているだけで、どこも女らしいところがないのだ。

 そのくせ、セックスのテクニックには驚くほど詳しい。四つん這いの姿勢で後ろから挿入しろとか、いきなりペニスを口に銜えてきたりと高木を圧倒した。なんとか性交したが、もう二度目は無理だった。性欲はあっても、妻の裸体を見ると急に萎えてしまう。

 高校時代にチューリップの『心の旅』を聞きながら、自分の初体験を期待を込めながらイメージしたものだ。なんか凄く初々しい感じだった。歌詞の『あー、今夜だけは君を抱いていたい』に心を躍らす。髪が長くて痩身の、恥ずかしがる彼女を両手に包み込む自分を想像した。

 ところがだ、現実は全然違った。相手には羞恥心の欠片もなかった。性欲の塊と言っていいくらいの女だった。平気で毛深い股を開く。何度も何度も求めてきた。大食いという形容詞がピッタリ。こっちの体が持たない。少し休ませてくれと頼んだか容赦してくれない。やっと務めを果たしたと思うと、今度は激しいイビキで一睡もさせてくれなかった。幻滅した。

 女を見る目がなかった。恋愛経験がないので、女が化粧とかハイヒールやコルセットで別人になれることを知らなかった。

 夫とは名ばかりで実際は妻の家族の奴隷と同じ。給料が振り込まれる預金通帳は取り上げられて、高木将人が手にできるのは小遣いとして月に一万円だけだった。忘年会とか同僚との付き合いがある時なんかは、頼めば金を出してくれるが渋々だ。へそくりをして自分の貯金を作るしかなかった。悲惨な結婚生活だ。一日でも早く独身に戻りたい。

 婿として入った家は一族の本家で何よりも世間体が大事。絶対に離婚は認めてくれないだろう。高木将人は密かにアパートを借りて夜逃げするしかなかった。少なくとも百万円ぐらいの金を持って姿を消したい。へそくりを株式で上手く運用して増やしていくしかないと考えた。

 『新日本製鉄』の株を百七十円で買って二百五十円で売った。八万円ほど利益を得た。次に六百円で買った『富士重工業』の株を七百円で売って十万円を稼ぐ。

 2戦して2勝、無敗だ。幸先がいい。少ない限られた資金で十八万円も儲けた。もしかして俺って株の天才じゃないのか。そんな思いが頭を過ぎった。自然と夢が膨らむ。

 あの年増のブスとは絶対に別れてやるんだ。アパートを借りて家に帰らなければ嫌でも離婚に応じるしかないだろう。自由を取り戻したい。四十三歳だ。やり直しは利く。今度こそ理想に近い女と一緒になりたい。

 最初の結婚に失敗して憧れの女性はラクウェル・ウェルチから、二人のボンド・ガールズへと変わった。たまたま立ち寄った近所のレンタルビデオ店で、旧作百円キャンペーンをやっていて、何本か007シリーズを借りたのが切っ掛けだ。学生の頃に見たときは、ただ綺麗な女性だなと思っただけだったが、二度目は彼女たちの美しさに心を奪われた。

 一人は『ロシアより愛をこめて』に出演したダニエラ・ビアンキだ。プロポーションよりも清楚で知的な美しさが印象に残った。ライトグリーンのスカートにイエローのブラウス、そして金髪をアップにした姿が醸し出す品の良さ。その格好で床に倒れて拳銃を構えたところなんか、もう最高。

 マット・モンローが歌うサウンドトラックのジャケットは、ショーン・コネリーとのラブ・シーンのカットだった。曲を聴きながらスクリーンでのダニエラ・ビアンキを何度も思い出す。

 ところが、その後は作品に恵まれなかった。この映画でしか彼女に逢えないのだ。願わくは『サンダーボール作戦』でカムバックさせて水着姿を披露して欲しかった。

 もう一人が、『ダイヤモンドは永遠に』のジル・セント・ジョンだった。ビキニのショーツにカセット・テープを入れられてびっくりするシーンは目に焼きつく。彼女はIQが162と高くて十四歳で大学の入学を許された才女だ。しかしセクシーなボディしか注目されなくて、映画に登場するのは多くがお色気シーンだった。

 高木将人は髪の毛が薄く小太りにも関わらず、これらの背が高くてナイス・ボディの女性が好みだ。大金を掴んで理想に近い女と仲良くなりたかった。その思いは強い。

 どう角度を変えて鏡に映った自分の姿を見ても、体形は中年そのものだった。見掛けは良くない。これからどんどん体力も衰えていくだろう。時間は少ない。早く株で成功したかった。

 まだ教師になったばかりの頃に、私立国際高校で自分の教え子だった加納久美子が今は同僚だ。それを考えると歳を取ったなと、つくづく実感させられる。四十五歳までにはなんとかしたい。

 しかしだ、三百四十円で買った『横河ブリッジ』の株が期待に反して上昇しなかった。買値を下回ったままの辛い毎日が続く。

 ビギナーズ・ラックで調子に乗って、安易な気持ちで『横河ブリッジ』の株に手を出したのが拙かったのだ。

 真剣に株のことを勉強しなければいけないと思う。日本経済新聞を学校に配達してもらうことにした。株式欄を表にして常に持ち歩く。暇があれば目を通して知識を得ようとした。

 「教頭先生は株をやっているんですか?」 

 廊下を歩いて二年B組の横を通り過ぎようとした時のことだ。一人の男子生徒から声を掛けられた。転校生の黒川拓磨だった。

 「いいや、やっていない。世の中の出来事を知りたくて読んでるだけなんだ」やっているなんて勤め先の中学校で正直に言えるわけないだろう。

「そうですか」

「君は株に興味があるのかい?」

「あります。父親が証券会社に勤めていて色々な情報を聞かされますから」

「何だって?」聞き捨てならない。

「貯金があるので投資してみようかなって思っています」

「どこの証券会社に、お父さんは勤めているんだい?」

「野中証券です」

「……」業界で最大手だ。なんてこった。こんな身近に情報源があったとは。

「先週だけど『宇部興産』がいいなんて薦めてました。連結での純利益が急回復してるそうです」

「え、どこだって?」

「化学の『宇部興産』です」

「……そ、そうか」やっと口から言葉を搾り出す。頭に生徒が口にした会社名を焼き付けた。急いで職員室へ戻って会社四季報で調べたかった。高木将人は足早に転校生の前から姿を消した。

 『宇部興産』の株価は、三年前に四百五十二円という高値を付けた後は一貫して下げ続けた。今年になって百四十円から百七十一円まで上昇したが、その後は百五十円前後まで値を戻す。会社四季報には増益と書かれていたが、これから更に再び上がって行くんだろうか。高木将人は半信半疑だった。証券会社に勤める父親が漏らした言葉を、たまたま生徒から又聞きした情報だ。迂闊に信じて大切な自己資金を投じるわけにはいかない。しばらくの間は様子を見ることにした。

 すぐに『宇部興産』の株価が再び百七十三円まで上がると、高木将人は百四十円が底値だったと確信する。しかしどこまで上昇するのか分からない。今から買えば高値掴みになる恐れがあった。

 その判断が間違いだったと思い知らされたのは株価が二百円を超えた時だ。買っとけば良かった。やはり野中証券の社員が言う言葉は信頼できる。

 「おはよう、黒川くん。あの会社の株が上がったじゃないか。さすが野中証券に勤めるお父さんの情報だけはあるな」朝、高木将人は転校生の姿を見つけると言葉を掛けた。

「そうなんです。僕も十万円ほど儲けました」

「えっ。あの株を買ったのか、きみは?」

「はい」

「……」なんてこった。中学生の小僧に出し抜かれた思いだ。悔しい。「よく、そんな勇気があったなあ」

「株は決断ですよ、教頭先生」

「……」ちっ。今度は説教か、こんなガキから。

「昨日ですが父親が僕に次の株を薦めてくれました」

「本当か」思わず心が躍る。「その会社を先生にも教えてくれないかな」

「いいですよ」

「頼む」

「二部上場の『京葉電気』です」

「え、二部上場だって?」

「はい」

「大丈夫なのか?」

「ええ。発行株式数が少ないですから値動きは激しいと思います。でも上がり出したら一気に行くっていう感じですよ」

「ふうむ、……そうか分かった。調べてみよう。どうも有難う」

「どういたしまして」

 二部上場と聞いて高木将人は怯む。馴染みがなくて、これまでは素人が手を出すような健全なマーケットじゃないと考えていた。生徒の言った通りで、値動きの激しいギャンブルに近い投資になりそうだった。ただ一つだけ期待できるのは、市場に出回っている株式数が少ないので動けば一気に上昇するところだ。

 そして『京葉電気』を買うには、持ち株の『横河ブリッジ』を損切りして資金を作らなければならなかった。一円でも金は失いたくない。だけど『京葉電気』で一儲けしたかった。その儲けが『横河ブリッジ』で出る損をカバーしてくれることを願うだけだ。

 どうしよう。悩んだ。「株は決断ですよ」と言った生徒の言葉が頭に過ぎった。同時にダニエラ・ビアンキとジル・セント・ジョンの二人がセクシーに微笑む姿が目に浮かんだ。

 次の休み時間、高木将人は職員室から出ると、人気のない駐車場から携帯電話で中原証券の担当を呼び出した。「山口さんを、お願いします。高木です」

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