第11話

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 放課後、職員室にいる加納久美子のところへ生徒が代わる代わる顔を見せる。部室の鍵を取りに来る水泳部の部員、担任するクラスの掃除が終了したと報告に来る生徒、大学入試レベルの英語で分からないところを訊きに来る優秀な生徒などだ。顧問を務める水泳部のクラブ活動が終了するまでの時間は、明日の授業で使うテキストを整理したりと準備を行う。 

 職員室のドアがノックされた。「失礼します」という声の後に生徒が入って来る。佐野隼人だった。サッカー部のキャプテンをしているだけに、痩せてはいてもアスリートらしい身体つきで、身のこなしには素早さが感じられる。学級日誌を届けに来たのだ。いい機会だ。手遅れになる前に成績のことで話がしたい。

 「何か変わった事ある?」いつも同じ質問をする。

「いえ、別に」いつも同じ答えが返ってきた。

「あ、そう」視線を合わそうとしない。避けている。成績が良かった頃の彼とは大違いだ。

「失礼します」

 「ちょっと、待って」加納久美子は生徒を引き止めた。

「……」

「勉強のことで話がしたいの。一体、どうしたのよ? すごく成績が落ちているじゃない」

「……」生徒が下を向く。

「何があったの?」

「いえ、別に」

「いえ、別に、じゃないでしょう」この言葉ほど嫌いな言葉はなかった。しかし生徒から最も聞かされるのが、この言葉なのだ。「心配しているのよ。どうしたの? 聞かせて」

「……」生徒が顔を上げた。でも言葉はない。

「ちゃんと教会には行っているの」加納久美子は話題を変えようと考えた。佐野隼人はクリスチャンだった。

「はい」

「そう」少し安心した。もし信仰心も無くしたとなれば事態は深刻だった。「何かに悩んでいるの?」このぐらいの歳になれば悩むことが手にあまるほど増えてるはずだった。恋愛、容貌、勉強、進路、親との関係、学校生活など数え上げたらきりが無い。それらに、どう対処して生きていくかが問題なのだ。

「……」顔は上げたままだった。

「ねえ?」加納久美子は促す。

「……先生」

「なに」何か言おうとしている。突破口が開けるかもしれない。

「先生は」

「うん」

「霊感ってありますか?」

「……、はあ?」一体、何の話よ。調子抜けしてしまう。

「……」

「どういうこと?」それと勉強と何の関係があるの?

「そのう……、つまり……、先生には霊的な体験がありますかっていうことです」

「なんで?」

「いえ、……ただ、訊いただけです」

「……」からかっているのか、という思いが頭を過ぎる。いや、そうでもないらしい。生徒は真面目な表情のままだ。ここは相手に付き合うべきだと考え直す。「ないわ。と、いうか良く知らないの」

「じゃあ、先生は金縛りに遭ったことってありますか?」

「寝ていて体が動かなくなったりすることね?」

「そうです」

「いいえ、ないと思う」

「そうですか」がっかりした様子を露骨に見せる。

「あなたは、どうなの?」

「僕ですか? はい、あります。霊の存在を感じることがあるんです」

「そう」それしか言いようがない。それとも、凄いわ、とか言うべきだったのか。

「ええ」

「ねえ、成績のことなんだけど〡〡」話を戻さないといけない。

「先生」言っている途中で言葉を挟んだ。「転校生して来た黒川なんですが」

「え?」

「黒川拓磨のことです」

「どうかしたの、彼が?」

「あいつ、怪しいです」

 いきなり何を言い出すのか。「どういう事、……怪しいって?」

「何て言うか……」

「何かされたの?」

「いいえ」

「じゃあ、どうして、そんな事を言うの?」

「……」

「あなたらしくないわ。理由もなく人のことを悪く言うなんて」

 加納久美子の頭の中で、午前中に見たサッカーのゴール・シーンが蘇る。佐野隼人はシュート・チャンスを転校生の黒川拓磨に横取りされていた。それで腹を立てているのかしら、という考えが浮かぶが直ぐに否定した。そんな狭い了見の子じゃなかった。

「あいつは--」 

 生徒の顔は真剣そのものだ。その迫力に圧されて次の言葉を待つ加納久美子だったが、別の声に名前を呼ばれてしまう。

 「加納先生、一番に電話です」学年主任の西山先生だった。

「……」生徒が口を閉ざす。

「……」どうしていいのか分からず、間ができた。

「加納先生、板垣順平の母親から電話です」返事がないので西山先生が繰り返した。

「はい」加納久美子は佐野隼人の顔を見たまま声を出す。「ごめんなさい。また後で話しを聞くわ」生徒に謝って、右手を躊躇いがちに電話に伸ばした。

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