第10話

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 転校生の黒川拓磨が描いた絵を前にして、安藤紫は美術室に一人だけになってしまった。おのずと過去の苦々しい記憶が蘇ってくる。こんな状態に陥る自分を止められない。

 黒川拓磨の絵に対する加納先生の意見を聞こうとしたが時間の無駄に終わった。絵を見せたいがために、あえて会話をその方向へ持っていったのだ。聡明な女性で芯の強さを持っているから僅かでも期待を抱いていたのだが、やはり彼女には霊的なインスピレーションはなさそうだ。

 きっと描いた絵に父親を亡くした影響が現れているのだろう、と加納先生は思っているに違いなかった。でも、そうじゃない。けっして、そうじゃない。安藤紫は断言できた。

 なぜなら重苦しい絵に描かれた、左肩に傷のある少女は間違いなく中学二年のころの自分だからだ。

 空には黒い雲、風は強く、今にも大雨が振り出しそうだった。夏の蒸し暑い日で、肩の傷が露わになろうが構わずにタンクトップを着ていた。痛々しい痕が残って、その所為で自分は醜い女になってしまったと感じた。自暴自棄だ。誰かに見られて何と思われようが気にしない。もう、どうでもよかった。

 台風の接近で海は大荒れだった。千葉県の富浦にある祖父の家を、こっそり一人で飛び出して海岸までやってきた。死にたかった。これからどうなるのか、という不安に耐え切れなくなっていたのだ。

 物心ついたころから、ずっと母親は父親の女癖に悩んでいた。家庭に諍いは絶えなかった。母親が泣きながら父親に物を投げつける場面を何度も見せられてきた。それでも二人が離婚しなかったのは一人娘の存在だった。

 両親は紫を愛してくれた。父親と母親、どちらも大好きだった。それが故に二人が言い争うのは酷く心が痛んだ。

 父親はスーツが良く似合う細身の体に、白髪交じりで苦み走った鋭い顔をしていた。多くの女性が憧れるのも無理もないと思った。母親は何度も泣かされ、その度に謝罪を受け入れて許してきた。

 会社の上司だった父親の見栄えに一目惚れした事務員の母親だったが、それが彼女の人生を不幸に変えてしまう。

 安藤紫が中学一年の三学期を迎えたころ、クラスに転校生が入ってきた。背が高くて綺麗な子だった。母子家庭で、両親は父親の暴力が原因で離婚したらしい。彼女の母親と安藤紫の母親とは同じ年だった。父母会の役員をしていた母親は色々と相談を受けることになる。すぐに二人は仲良くなり、可哀そうと感じた母親は何かと世話を焼くようになった。親同士が親しいので次第に紫と転校生も仲良くなり、親友と呼べるようにまでなった。二つの家族が自宅で一緒に夕食を食べることも何度かあった。

 転校生の母親と自分の父親が不倫していることが発覚したのは中学二年の一学期だ。学校に来ていた母親の軽自動車のワイパーに誰かがメモを挟んで教えてくれた。これは今までとは違って、紫の母親を徹底的に打ちのめした。とうとう離婚を決意する。最後の話し合いをする為に、三人が自宅に集まった。安藤紫は二階にある自分の部屋にいて待つ。何をする気にもなれない。大好きな父親が家からいなくなる話し合いだ。気まずくて親友とは口を利かなくなっていた。ただ辛くて悲しい。アイワのミニコンポにプリンスの最新アルバムをセットしたが一曲目の『レッツ・ゴー・クレイジー』の途中で止めた。読みかけだった『アンネの日記』を開いてみたが内容が頭に入っていかなかった。

 居間から叫び声がした。人が争っているような物音が続けて聞こえてきた。母親のことが心配になって急いで階段を降りた。

 信じられなかった。母親と転校生の母親が掴みあっている姿が目に飛び込んできた。お互いに血まみれだ。父親は側で横たわり両手で自分の首を押さえている。何がどうなっているのか分からない。でも争っている二人の母親のどちらかの手に包丁が握られているのに気づく。お母さんが殺されてしまう。慌てて二人の母親の間に入って止めようとした。体当たり。三人が食器戸棚にぶつかり床に倒れ込む。安藤紫の肩の傷は、その時に出来たものだ。包丁を振り回していたのは自分の母親の方だった。わが子を切りつけたことを知って、やっと我に返る。父親の方は出血が酷くて意識がなかった。 

 母親は話し合っているうちに怒りが込み上げてきたらしい。席を立ち、台所から包丁を掴むと愛人へ襲い掛かった。しかし咄嗟に気づいて転校生の母親を守ろうとした父親を刺してしまう。それでも母親は怯まなかった。血を流して床に崩れる夫には目もくれず、愛人の方へ包丁を振りかざしたのだ。

 父親は搬送された病院で息を引き取り、転校生の母親は身体に何ヶ所も切り傷を負う。安藤紫の母親は逮捕された。裁判では過度のストレスによる心神喪失を訴えたが認められなくて服役することになる。安藤紫は祖父の家に引き取られた。一度に二人の親を失った思いだ。何度か刑務所に面会に行ったが母親は人が変わったみたいに何も喋らない。一人娘と目を合わそうともしなかった。拒絶されていると安藤紫は感じた。

 将来に対する夢や希望もなくなり、死にたいという気持ちが日増しに強くなっていく。その思いが、近づく台風の影響で荒れた海を一望できる高台へと安藤紫を歩かせたのだ。

 ジャンプすれば死ねる。ジャンプするだけで死ねるんだ。その考えが頭の中をグルグル回った。背中を押し続ける強い風に身を委ねるタイミングを計っていた。

 え、どこから? 

 子猫の鳴き声に気づいたのは、そんな時だ。 辺りを見回すと足元の側にダンボール箱が置かれていた。ミャー、ミャーという声はそこからだ。急いで歩み寄り、蓋を開けると中には汚れたタオルに包まれた黒い子猫がいた。差し伸べた安藤紫の手に頬を摺り寄せてくる。   

 うわっ、可愛い。きっと誰かが捨てたんだ。こんなところで可哀そう。このままでは飢えて死んでしまう。安藤紫の頭の中にあった『死にたい』という気持ちは『この子猫を助けてあげたい』という思いに変わった。

 子猫を飼いたい、と言うと祖父母は快く承諾してくれた。少しでも孫娘が元気になってくれるなら、という思いからだろう。事実、子猫の世話をすることで新しい生活環境に慣れて物事を前向きに考えられるようになっていく。

 黒川拓磨の絵には、黒い子猫が入れられていたダンボール箱までしっかり描かれていた。背筋がゾクゾクするほど怖い。どうして、そこまで知っているのか? 

 理解できない事はまだあった。美術の授業で生徒たちに絵を描かせるとき、安藤紫は教室内を歩き回って彼らに色々と感想や助言を与え続ける。やる気を促すためにだ。だから生徒たちがどんな絵を描いているのか最初から把握している。ところが黒川拓磨の絵に限っては、回収して一枚一枚に評価を付ける段階まで何も知らなかった。つまり授業中に彼の席を素通りしていたことになる。有り得なかった。どうして? 

 黒川拓磨。一体、お前は何者なの? 会って、直に話しを訊くべきだろうか? いや、怖い。まだ、とてもそんな勇気はなかった。

 あの計画はどうする? 続けていけるだろうか。

 ずっと安藤紫は一人の生徒を探していた。君津南中学二年生の中にいることまでは分かっている。一年八ヶ月前に行われた彼らの入学式で、あの女を見たのだ。校舎から体育館へ行く通路で出くわした。安藤紫が職員室へ戻ろうと逆方向に歩いていたとき、数メートル先で急に立ち止まる父兄に気づいた。不自然な動き。反射的に顔が向く。目が合った。

 背が高くて綺麗という印象は変わりがなかった。さらに磨きがかかっている。色気があって大人の女の魅力に溢れていた。見ただけでは不十分だったろうが、相手の挙動が安藤紫に確信を持たせた。

 立ち止まったのは一瞬で、すぐに女は気を取り直して足早に横を通り過ぎて行く。もちろん挨拶はない。会釈すらしなかった。体育館の方へと向かった。

 その日、あの女の姿を二度と見ることはなかった。つまり入学式が始まる前に帰ったということだ。

 偶然にも再会して、あの女の子供が自分が美術を教える生徒の中にいるという事実を知って安藤紫の心に怒りが蘇った。

 あいつの母親の性衝動が原因で自分の人生は大きく狂った。死にたくなるほど苦しんだ。なのに、あの女は結婚して子供を産んでいる。反対に安藤紫自身は、いい男すら見つけられていない。ずっと幸せな家庭を持つことを夢みているにも関わらずにだ。

 これは不公平だ。いけない。是正されなければならない。これまで安藤紫の肢体で快楽を貪りながら、性欲が満たされた後に不誠実な行動を見せた男達は全員が罰を受けている。あの親子が何事もなく生きていていいはずがない。

 多くの男たちが結婚の話を持ち出した途端に態度を変えた。そして、いつも同じような台詞を聞かされた。

 『今は経済的に難しい』だったらベッドに誘う前に言ってよ、バカ!

『結婚生活を続けていく自信がない』あら、ベッドに入る前は自信満々におっ立たせていたじゃない!

『まだ結婚は早いって、親が反対しているんだ』いきなり親の話を出してきて、あんた小学生だったの!

 腹が立っても頭に浮かんだ言葉は一言も口にしない。『いいわ、わかった。だけど、それでもあなたが好きなの。こんなふうに時々逢ってくれたら、それだけで嬉しい』これが見切りをつけた時の台詞だ。都合のいい尻軽女を演じてやる。男は女の身体だけを目的に連絡してきた。逢うたびに安藤紫はペナルティと名づけた毒薬を男の飲み物に混ぜた。 

 殺しはしない。身体に障害を負わすのが目的だ。死んでしまったら面白くもない。       

 『最近になって急に視力が落ちてきたんだ』

『近ごろ疲れが酷くて』

 それらの言葉が聞かれたら毒薬の効果が出てきた証拠だ。負った障害は決して回復しない。ここで尻軽女の演技は終わる。

 『残念だけど、もう逢えないわ。あなたほど素敵な人じゃないけど、あたしを好いてくれる人がいるの。その人と結婚しようと思っている』これが別れの言葉だ。中には厚かましい男がいて、最後に一発やろうとせがんでくるのがいる。

 『だめよ。だって、お腹に赤ちゃんがいるの』そう言って身体には指一本触れさせない。

 失望させた男は全員が健常者でなくなる。残りの人生を障害を負って生きるのだ。安藤紫は浮気を繰り返す夫を何度も許した母親とは違う。受けた苦痛は何倍にもして相手に返してやる。あの親子にも同じ罰を受けさせてやりたい。ターゲットは奴らの孫であり子供である、この君津南中学に通う生徒だ。

 母親を確認できた生徒の名前を名簿から一人ひとり消していく作業が続いた。あの女の子供だ、きっとそれなりの顔立ちをしているに違いなかった。また、成績が良くない生徒、だらしなさそうな生徒は始めから除外した。一年半ほど掛かったが、その数を十人ぐらいに絞れた。見つけ出したら失明させてやりたい。生徒に罪はないが、これがあの親子に大きな苦しみを与えられる唯一の方法だから仕方がない。愛する孫、愛する子供が障害児になって、そこで美術教師の安藤紫が何かしたんじゃないかと、少しでも疑いを持ってくれたら大成功。だけど安藤紫は逮捕はされない。証拠は何一つ残すものか。怒りに我を忘れて刑務所に入れられた母親みたいな真似はしない。疑わしきは罰せず、だ。奴らには、あたしの恐ろしさを死ぬまで感じて生きてほしい。美術室にある机の引き出しには、その生徒のために用意したペナルティの白い粉末が用意されていた。

 だけど計画は思ったようには捗らず時間は残り少なくなりつつあった。一日でも早く生徒を捜し出して、一緒にインスタント・コーヒーを飲めるぐらいに手懐けないといけないのに、だ。黒川拓磨という転校生が現れたのは、新年を迎えて見直した計画を急いで進めようとしていた矢先だった。

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