第8話

   08 1999年 ノストラダムスが世界の終わりを予言した年 1月 


 へえ、なかなかやるじゃない。英語教師の加納久美子は、職員室で小テストの採点をしていて嬉しい驚きを覚えた。自分が担任を務める二年B組の転校生が満点を取ったのだ。完璧な回答だった。この子は一般動詞とBe動詞の区別を、しっかり理解していると感じた。中学二年生で、これはなかなかだ。

  クラスの副委員長である佐野隼人の点数が今回も悪くて、心配していたところだったので、沈んだ気持ちを少し回復させてくれた。成績が急に落ちていることで佐野隼人とは早急に話をしなければならなかった。

 三時限目は授業がなくて空き時間だ。職員室には加納久美子の他は高木教頭がいるだけだった。何かと話しかけてくる学年主任の西山先生がいなくて幸いだ。

 一月の半ばで天気は良く、窓からの日差しが加納久美子の背中を容赦なく照らしていた。椅子に座った時は心地良い暖かさを感じたのが、今では焼けるように熱かった。

 もう限界。席を立ち、カーテンを閉めようと窓際に近づく。校庭では体育の授業中で二年A組とB組でサッカーの試合が行われていた。加納久美子の頭に、去年のワールド・カップ フランス大会で日本代表が三連敗した苦い記憶が蘇る。アルゼンチンとクロアチア戦は仕方がないとしても、ジャマイカ戦はがっかりさせられた。

 サッカー好きで知られるタレントのジェイ・カビラは、日本代表がアルゼンチンに勝つかもしれないと試合前にニュース・ステーションでコメントしていたが、それには驚いた。ワールド・カップ初戦で、『マイアミの奇跡』の再現か? まさか、それは有り得なかった。

 あら、……まあ。校庭で行われていたのは、あまりにも一方的な試合だった。加納久美子のB組がA組を完璧に翻弄していた。あ、そうか。うちのクラスには4人もサッカー部のレギュラーがいることを思い出す。司令塔の佐野隼人、エース・ストライカーの板垣順平、ミッド・フィルダーの鶴岡正勝と鮎川信也だ。四人の連係プレーは巧みだった。ほとんどA組の生徒はボールを持たせてもらえない。動きも緩慢で、やる気すらなさそうにも見える。4〡0と表示されたスコア・ボードを見て、その理由も分かった。 

 英語の小テストで満点を取った転校生の姿が目に入った。ハーフライン近くにポジションを取っていたが、ゲームに関わるようなプレーはしていなかった。チーム・メイトからボールのパスもなく、もっぱらこぼれ玉を追っている感じだった。勉強の成績はいいけど運動神経の方はイマイチっていうタイプかしらと加納久美子は思った。大きな事故にでも遭ったらしく、額に数センチの傷と左耳には怪我の痕があった。からかわれたりしていないだろうか、と心配もした。

 味方のゴール・キーパーからボールを受けた鶴岡が少し間をためて、敵のフォワード二人が近づいてきたところで鮎川にパスを出した。スペースに余裕が出来てボールをもらった鮎川は逆サイドにいた板垣に精度の高いロング・パスを送る。板垣は早いドリブルで敵陣内へと走り込む。その時、加納久美子の目にも相手ゴール前で待つ佐野隼人の姿が入った。左サイド奥まで切り込んだ板垣はバックスを引き付けると敵ゴール正面にクロスを上げた。フリーになった佐野隼人のヘッディング・シュートに期待したキックだ。しかし相手ゴール・キーパーは大柄で動きも早かった。完全に一対一だ。難しいシュートになりそうだ、と加納久美子は思った。どうなるか、と誰もが動きを止めて見ていた。そこに、いきなりB組の一人が走り込んできた。そしてボールが佐野隼人の頭に届く途中で、ハイジャンプすると強烈なヘッディング・シュートを放った。キーパーは反応できない。皆が呆気に取られた。ボールはゴールの隅に突き刺さり、5点目を決めた生徒はそのままネットに倒れこんだ。

 すごいっ! だれ?

 静寂。驚き過ぎて誰も声を上げない。遅れて体育教師のゴールを告げる笛が鳴った。倒れた生徒が、ゆっくり立ち上がる。小柄だ。え、うそっ。ゴールを決めたのは転校生の黒川拓磨だった。我に返ったB組のチーム・メイトが歓声を上げながら走って彼に詰め寄っていく。加納久美子も校庭へ飛んで行きたい気分になった。でも相手ゴール前で一人、まるで主役の座を降ろされた役者みたいに佐野隼人が佇んでいるのに気づいて気持ちは冷えた。

 「すごいじゃない」

 うわっ、びっくり。いきなり背後から声を掛けられて慌てた。そのハスキーボイスは、美術の安藤紫(ゆかり)先生に違いない。職員室へ入ってきたのは知らなかった。「やだ、驚かさないで」

「あ、ごめん。ごめん」

「見てたの?」相変わらずセクシーな姿の安藤先生だった。華奢な身体つきなのにバストとヒップは女らしく存在感を強調している。肩まで伸びる髪は少しだけウェーブがかかっていて、清楚な顔立ちと共に優しそうな雰囲気を醸し出していた。今日はチャコール・グレイのスカートに、キャメルのジャケットで決めている。中のポロシャツはライムカラーだ。完璧なファッション。どうして、こんな人が教師でいるの? 場違いも甚だしい。もっと華やかな場所で輝いているべき女性だ、と加納久美子は常に思っている。この君津南中学で知り合って、それ以来ずっと仲良しだ。

「見てたわよ。すごいヘッディング・シュートだった」

「見事としか言いようがないわ」

「勉強の成績はどうなの?」安藤先生が訊いた。

「優秀よ。英語に関して言えば先週に行った小テストで一人だけ満点だったわ。ほかの教科の先生たちも、これまでのところ黒川君のことはベタ褒めって感じだもの」

「ふうむ」

「いい転校生が来てくれたと思っている」

「良かったわね」

「……」それだけ? 当然、安藤先生が担当している美術での評価が返ってくるものと思っていた。それじゃ、優秀ではないってことなのかしら。「あなたの教科では?」加納久美子は訊いた。

「……」

「ねえ?」返事を促す。

「……彼って、すごく絵も上手なのよ」

「へえ」やっぱりか。だけど安藤先生が答えをもったいぶるところが腑に落ちなかった。どうしてなのよ、彼女らしくもない。

「中学生とは思えない」

「え」

「上手なんだけど……、すごく暗くて重い絵なのよ」

「どういうこと?」

「今にも嵐がやって来そうな荒れた海を、少女が一人で高台に立って眺めている絵よ。ほとんど色を使わなくて黒を基調にして描かれているの」

「……」加納久美子は黒川拓磨の父親が去年の暮れに亡くなっていることを思い出した。母親が学校に提出した書類を、教頭の高木先生から渡されたとき指摘された。まだ一ヶ月ぐらいしか経っていないと驚いたのだった。きっと心に深い傷を負っているに違いない。

「どう、見たい?」

「え?」

「黒川君が描いた絵を見てみたくない?」

「う、うん」加納久美子は頷いた。「見せて」 

 あと数分で休み時間のチャイムが鳴るところだった。二人は三階の美術室へと急いだ。

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