第6話

   06 14年後の1998年 ワールド・カップ フランス大会が開催された年 12月 


 期末試験の最終日で午後になると、午前中の喧騒が嘘のように校舎は静かになる。平郡中学を我が物顔に支配しているのはカラスの泣き声だった。

 職員室にいる教員の誰もが校舎に残っている生徒は一人もいないと考えていた。三階にある二年一組の教室で女教師と男子生徒が対峙していることは誰も知らない。その場所だけは空気が張り詰めていた。

 「先生、どうする気だ?」左の耳たぶが欠損している生徒が訊いた。顔には笑みが浮かんでいる。

「もう、あんたの自由にはさせない」二年一組の担任で英語を担当する女教師は答えた。「ここで最後よ」表情は強張っている。

「馬鹿なことを考えるんじゃない。先生の身体には--」

「うるさいっ。黙れ」こいつの言葉は、もう何も聞きたくない。女教師はポケットから、ゆっくり鏡を取り出す。

「……」生徒の顔から笑みが消えた。

「驚いた?」

「それをオレによこせっ」

 生徒が鏡を奪おうと向かってくると咄嗟に身を翻して窓際まで逃れた。パンプスでなくてスニーカーで来たのは素早い動きが出来るようにだった。捕まえようとして失敗した生徒が体勢を整える為に間ができる。その瞬間を逃さない。女教師は反対のポケットから、今度はシャンプーの容器を出して中の液体を生徒に噴射した。教室はガソリンの強い臭いで充満する。

 「うっ、畜生」可燃性の液体を浴びて染みが付いた学生服を見ながら生徒は言った。「オレを焼き殺そうっていう気か?」

「その通り」これからしようとする事を考えると震えが走るほど怖かったが、窓を通して背中に当たる太陽の日差しは暖かかった。

「無理だ、先生には出来ない」

「あら、そうかしら」強気を装った。

 生徒の言う通りだ。出来そうにない。相手は人間の姿をしているのだ。ガソリンをかけて火をつけるなんてことは、とても自分には無理だった。だけど、こいつを滅ぼさないと大変なことになることも分かっていた。

 転校してきてから僅か三ヶ月で、平郡中学の二年一組は崩壊したも同然だった。ほとんどの生徒が何かしらの問題を抱え、また精神的に病んでいた。このままでは学年が、次には学校全体がこいつに支配されてしまう。

 女教師は窓から差し込む太陽の光を鏡で反射させて生徒に当てようと試みた。神主から聞かされた話では、これで邪悪な存在を無力にさせられるらしい。

 「えっ」自分の目を疑う。鏡に映った生徒の姿が、自分の目で見ているのとは大きく違っていたのだ。映っているのは枯れ木のような老人の姿だった。やっぱりだ、こいつは悪魔に違いない。焼き殺さないと大変なことになる。女教師は覚悟を決めた。向かって来ようとする生徒に向けて太陽の光を反射させた。

 「あうっ」いきなり生徒が顔を押さえて苦しみだす。

「……」え、本当? 女教師は反射した光が相手に与える効果に驚く。 

 信じられない。鏡が反射した太陽の光が生徒に届いて、その部分を焼いていた。まさか、……こんな小さな鏡に、それほどの威力があるのか?

 相手の苦しみように怯んで、思わず鏡を持つ手を下げてしまう。光の反射が外れると生徒の苦痛も止まった。

 「ゲウウッ」人間の声ではなかった。獣の唸り声だ。

 生徒が手を顔から退けると、すっかり容姿も変わっていた。髪が真っ白で半分ぐらいが抜け落ちた。皮膚は死を迎える老人みたいに干からびて黒ずむ。女教師を憎しみに満ちた表情で睨むが、その目は赤く光ったと思うと直ぐに消えたりと点滅を繰り返す。弱っているのが明らかだ。

 ここで止めを刺すべきだ、と女教師は気を取り直した。鏡が反射した太陽の光で苦しむのは、相手が人間じゃない証拠だ。こいつは災いをもたらす呪われた存在なのだ。良かった。ガソリンを掛けて焼き殺す必要はなさそうだ。そこまで残酷には、とてもなれなかった。しかし滅ぼさなければならない。鏡で太陽の光を再び当ててやろと身構えた。

 ドスンッ。

 背後に大きな音がして注意を削がれた。教室の大きな窓に黒い布みたいなモノが張り付いている。その回りに飛び散る赤い液体も目に入った。血のようだ。うそっ、信じられない。外からカラスが勢いよく窓に追突したらしい。こんな事って有り得るの? でも急いで振り返った。止めを刺さなくてはいけないのだ。「だっ、誰?」

 目の前に知らない男が立っていた。そいつが両手を伸ばしてきて身体を押さえられた。「い、いやっ。だ、誰なの?」

「……」返事はない。

「は、離して。お願いっ」会ったこともない男だ。生徒に危害を加える女教師に気づいて止めに入ったのか?

 それなら勘違いもはなはだしい。こいつは生徒なんかじゃない。災いをもたらす呪われた〡〡。女教師は恐怖に凍りつく。

 知らない男は床に落ちていたシャンプーの容器を手にしていて、残ったガソリンの全部を女教師に掛けたのだ。

 「拓磨、大丈夫か?」

 男の声を聞いたとき、絶望感に襲われた。父親だ。間違いない。

「ガウッ」

「ここは任せろ。お前は逃げるんだ」

「……」躊躇を見せる。

「いいから早く。とっとと出て行けっ」 

 生徒は頷くと意を決したように足を引き摺りながら教室を後にした。逃げられた。もうダメだ。女教師の身体から力が抜けていく。

 男がポケットから何かを取り出すと同時にマイルド・セブンの箱が床に転がった。手にしたのはライターだ。親指がレバーに掛かるのが見えた。今度は逆に自分が焼き殺されてしまう。そう思った女教師は反射的に男の手首に噛みつく。「あうっ」悲鳴が男の口から漏れる。思い切り顎に力を入れた。こいつの手首を噛み切ってやろうという気持ちだ。

 「うっ、畜生。このくそアマっ」女教師は怯まない。自分の歯が相手の肉に深く食い込んでいくのが分かった。大量の血が溢れてきた。全身が返り血で真っ赤になっていく。

 苦しい。

 女教師の身体が酸素を求めていた。口から呼吸したくて、顎の力を緩めるしかなかった。男はチャンスを逃さない。相手の手首に力が入るのが顎を通して伝わってきた。あっ、大変。ライターが点火する音が耳に届く。

 女教師は激しい爆発の衝撃で身体を吹き飛ばされた。机の角で背中を打ち、床に叩きつけられた。男から解放されて自由の身だ。逃げられる。しかし炎が自身を包んでいた。熱くて目が開けていられない。全身をナイフの刃で切り刻まれるみたいに酷く痛い。髪が皮膚が肉が焼かれる強烈な臭いが鼻を突く。息も出来ない。燃え上がる炎が回りの酸素を全て奪っているのだった。


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