第5話
05
「ねえ、ちょっと危なくない?」
横を歩く高校三年生の女が訊いてきたので少年は答えた。「心配ない、大丈夫さ。ここには何度も来ているんだ」
四つ年上の女が怖がっているのは当然だった。二人は夜の八時半を過ぎた富津岬の展望台にいた。人から無理やり借りた白いクラウンを駐車場に停めて、展望台の階段まで歩いて来る途中で何台かの若い男たちが乗るスポーツ・カーの前を通り過ぎた。好奇の目を注がれているのを強く感じた。若い女を連れた中学生くらいの男子が無免許で車を運転して来たのは誰の目にも明らかだ。暇を持て余した連中にとっては、ちょっかいを出す格好の獲物に違いなかった。
「帰ろうよ」女が言う。
「どうして? せっかく、ここまで来たんだぜ」
「駐車場にいた連中ったら、あたしたちのことジロジロ見てたわよ」
「それが、どうしたのさ」
「何だか怖いわ」
「平気さ。ここからの夜景は綺麗だぜ。絶対に見て帰るべきだ」
「……」
「しっかりしてくれよ。いつもの潤子さんらくしないぞ」
「……わかった。じゃ、早くしよう」
「そうこなくっちゃ」
高校三年生の潤子と二人だけで会うのは今日が三度目で、少年はモノにする気でいた。ただし今回は、いつもと違うやり方を用いるつもりだった。
初めて潤子を見たのは君津にあるアピタのマクドナルドだ。数人の友人達と一緒にハンバーガーを食べていた。タンクトップにジーパン姿の男が隣にいて、そいつは態度から潤子に好意を持っているのが窺えた。でもボーイフレンドではなさそうだ。
目鼻立ちがハッキリしている潤子はグループの中で特に目立っていた。本人も自覚しているようで、ワンレングスの黒髪を優雅に揺らして誰よりも大きな声で笑い、仲間のフレンチフライを勝手に取って口に運んだり、全く遠慮することがなかった。まさに笑いの中心。頭も良さそうで好みのタイプだ。大人の女になりつつある身体が発散させる初々しい色気にはそそられた。
少年は潤子がアルバイトをしている地元のスーパー・マーケットを探り出して、そこで働くことにした。すぐに仲良くなった。映画に誘うと、ちょっと驚いた様子を見せた。当然だろう。少年は身長が百六十センチしかなくて、潤子よりも五センチも低かった。彼女としては可愛い弟みたいな存在として見ていたのに違いない。だけど中学生にしては自信に満ちた態度と、頭の回転の早さに不思議な魅力を感じていたはずだ。
その日は白いクラウンで彼女の家まで迎えに行く。中学生なのに自動車を運転していることで、助手席に乗ることを最初は躊躇う。「大丈夫だよ。兄貴の免許を借りてきているんだ。警察には捕まるもんか」そう嘘を言って安心させた。映画『ドクター・ドリトル』を見た後はファミリー・レストランへ行ってお喋りを楽しんだ。
私はお姉さんよ、という目上の接し方は少年が優しくエスコートすることで次第に対等な立場に変わった。会話の中で豊富な知識とユーモアを披露すると尊敬を得るまでになる。この子は普通の中学生じゃないという認識を彼女に植え付けた。
そうさ、オレは潤子がこれまでに付き合ったことがない、また想像もしたことがない特別な男なんだぜ。
食事が終わってクラウンに乗り込む時には少年が年上みたいな立場に逆転していた。お互いに楽しいひと時を過ごす。だけど潤子は貞操観念の堅い女で、身体には触れさせようとはしなかった。キスをしようとすると何か話を持ち出して雰囲気を変えた。
ま、いいさ。この次があるんだ。
大抵の女は、少年が赤い目で視線を注ぐだけで簡単にモノにできた。少年は女好きだ。ただ賢い潤子には、この手を使わないことにした。甘い言葉で口説いたりしないで、恐怖心で服従させることにしよう。
しかし特別な女、つまり本命と目星をつけた、優れた女は自分だけの能力だけでは無理だった。仲間を募って全員の意識を集中せさて大きなパワーを得る必要があった。
富津岬の夜景は星が沢山見えて期待通りに綺麗だった。だけど潤子は早く帰りたがっていて十分に楽しんだ様子はない。
「坊や、小学校の帰りに寄り道しちゃダメじゃいか」
案の定だった。駐車所で男連中の前を通り過ぎると後ろから言葉を浴びた。体の大きそうな奴が黒いインプレッサのボンネットに腰掛けていた。キザな野郎だ。長髪で、サングラスを額に掛けて前髪が下りてこないようにしている。そいつの声に違いなかった。合図したように仲間が、ドッと笑う。四人だ。他には誰もいない。連中は夜の富津岬に刺激を求めに来ていて、未成年の男女が展望台から帰ってくるのを首を長くして待っていたのだ。梅雨に入る前の初夏みたいな陽気と適度な湿度は、愚か者が理性を失って取り返しのつかない行動に出るのを後押ししていた。潤子は少年が何も言わずに無視してくれると思っていたはず。なのに気持ちを裏切る言葉が富津岬の夜に響く。
「バカヤロー、うるせいっ」唾を飛ばすような辛辣な言い方だった。相手を怒らせるには十分だろう。
一瞬、静寂が流れた。
連中は期待もしていなかった言葉が返ってきたので虚を突かれた様子だ。横で潤子が身を堅くするが分かった。一番驚いたのは彼女に違いない。恐怖に凍り付いたらしい。
「てめえ。おいっ。今、何て言った?」
体の大きいリーダー格の男が直ぐに近づいてきて、少年の襟首を掴んだ。そのままクラウンに押し付けられて爪先立ちを余儀なくされる。
「謝って、黒--」
「喋るなっ、潤子」少年は女の声を途中で遮った。
「小僧、女の前だからって粋がってんじゃねえぞ。おいっ」男は中学生みたいな子供から罵声を浴びて逆上している。どう落とし前をつけるのか仲間が後ろから見ていた。
「……」
「おい、何とか言えっ」
「……」少年は返事をしない。
「御免なさい。許して下さい」潤子だ。残りの三人もやってきて回りを囲まれていた。絶体絶命の状況。
「黙っていろ」少年が声を出す。
「おい、小僧。よし、オレが目上の人に対する口の利き方を教えてやろうじゃないか」そう言うとリーダー格の男は襟首から手を離して、右手の拳を振りかざした。「むぐっ」
それが狙っていた相手の頬に突き刺さるよりも早く、少年の左拳が脇腹に飛んできた。衝撃で身体が二つ折りになった。顔が歪む。肝臓が痙攣を起こし、苦い胃液が逆流して口の中に溢れているはずだ。呼吸困難。額には冷たい汗が広がる。そのまま腹を抱えて倒れこんだ。「うっ、うう」陸に打ち上げられた魚みたいに全身を波打たせて苦しみ始めた。
「あっ」仲間の一人が声を出す。
「てめえ、ふざけた真似しやがって」他の一人が続いた。
そして残った三人が一斉に少年に襲い掛かった。慎重に考えればリーダー格の男をボディブロー一発で倒されたのだから、目の前の相手は体こそ小さいが相当に喧嘩慣れしていると気づくはずだ。だけど馬鹿ほど理性よりも衝動が先に立つ。少年の思う壺だ。潤子が顔を押さえて震えているのが横目で見えた。今にも泣きそうだ。
少年の動きは早かった。ステップは軽く、上半身を巧みにスイングさせて向かってくる一人ひとりの顔に、両方の人差し指と中指を突き出す。迎撃の全てが一瞬で連中の眼球を砕く。ほぼ同時に三人が顔を手で押さえて、その場に崩れ落ちた。視力を奪われた愚か者たちは途端に戦意を失う。強烈な痛みが追い討ちを掛ける。頭の中では恐怖が生まれているに違いなかった。押さえている手を濡らしているのは生暖かい血だ。これは涙じゃない。もしかしたら目が見えなくなるかもしれない、という。
その通り。軽い気持ちで起こした馬鹿な行為が一生を闇の中で暮らす悲劇を生んだのさ、お前ら。おめでとう。
リーダー格の男は苦しみながらも一部始終を見ていた。仲間全員が両目に手をやってしゃがみ込んでいる。
「おい、江藤。どこにいるんだ?」
「ここだ、井口。目が、……目が見えねえ、助けてくれ」
「だめだ、オレも見えないんだ」
「痛え。すげえ、目が痛え」
びっくりした様子で潤子が佇んでいた。さあ、ここからがショーの始まりだ。
少年はリーダー格の男の前に立った。すると男は腹を抱えながらも地面を這って逃れようとする。そいつの痛がっている腹に横から強烈なキックを見舞ってやった。「ぐえっ」人間のものとは思えないような声が聞こえてきた。動かなくなる。少年は腰を落とすと、恐怖の表情を浮かべて苦痛に喘いでいる男の両目にも二本の指を突き刺した。卵が割れるみたいな感触が指先に伝わる。すぐに真っ赤な血が目があった場所から溢れてきた。「ぐえっ」そいつの片手が脇腹から顔面へと移る。その瞬間、立ち上がった少年が二度目の蹴りを脇腹に入れた。今度は呻き声すらない。意識を失ったか? まだ早いぞ。これで終わりじゃない。オレに牙を剥いた代償だ。無力で無防備の愚か者に向かって容赦なく蹴り続けた。
「死んじゃう。もう止めて、黒川くん」潤子が見るに耐えかねて声を出す。
「黙れっ、喋るんじゃない」少年が叱りつける。名前は言ってほしくなかった。
目が見えなくなったから、こいつらが自力で富津岬から帰ることは無理だ。ここに誰かがやって来るのを待つしかない。きっと救急車を呼ぶことになるだろう。警察が事件として扱うことになるはずだ。そこで何を言うかは知らないが、たまたま夜の駐車場で出合った少年と女子高校生を指差すことは不可能に近い。女が口にした名前は手掛かりになるかもしれないが決定的ではない。それに切っ掛けを作ったのは連中だ。新聞が記事にしないことを期待しよう。自分の父親に知れなければそれでいい。
「よし、帰ろう」少年は言った。
潤子は小さく頷いて従う。不良たちに襲われるという恐怖は今、この子は何をしでかすか分からないという少年への恐怖に変わっているはずだった。このままモーテル『オアシス』へ直行だ。行きたくなくても、怖くて嫌とは言えないだろう。久しぶりに清々しい気持ちでクラウンのハンドルを握れそうだ。うふっ。何度も繰り返して聞かされる父親の小言を思い出す。
「いいか。出来るだけ大人しく、静かにしているんだ。絶対に目立つような振る舞いは止めろ。能力を見せびらかすような行為は、お前自身を滅ぼしかねないんだ」
わかったよ、もう二度としないから。そう答えて父親を黙らせるのが常だった。だけど現実的にそれは無理だ。たまにはこうして愚か者たちに制裁を加えてストレスを発散させないと。上手く誰にも分からない方法でやれば大丈夫なんだから。暴力は大好きで、愚かな連中を苦しめるのは楽しかった。
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