それでもこの冷えた手が

月波結

みつめてほしい

 いちばん右側の車線に滑り込んで、アクセルをぐんと踏む。車がそれに応える。エンジン音が変わる。

 彼は、わたしを見ない。考え事をしている。思い浮かべているのは……。

 振り向いてほしくてさらにアクセルを踏み込む。ハンドルが取られそうになる。集中しないといけない。彼の思いを、わたしが想像しなくてもいいように。




 ――ずっと頬杖をついてこっちを見ようともしない。




 夜のファミレスは人も多くて騒がしい。そんな場所にいつまでもいたいと思うわけもなく、できればふたりで静かなところに行きたい。甘い、甘い夜を過ごしたい。


 彼の顔が鏡のような窓ガラスに映る。ガラスの向こうは暗闇の中を走る車の列。ヘッドライトが流れて、彼の輪郭も揺れる気がした。


「食べないの?」

愛海まなみはよく食べるよなぁ。そんなに細いのにどこに入るんだよ」

 彼はやっとこっちを向いて小さく笑うと、弱々しく微笑んだ。まるで仕方の無いことのように。

「せっかく食べに来たんだからもったいないじゃない? しゅうちゃん、食べなさすぎ」

「わかった、食べるよ」


 気だるくスプーンを使ってメキシカンピラフに手を出す。スプーンだけでチキンステーキは食べられないんじゃないかなぁと思いながらぼんやり見ている。……食事の味もわからないのかもしれない。あんな、辛くて油っこい料理を頼む人ではないもの。


『後悔してる?』とわたしは聞きたい。でも聞けない。そんなことを聞いてなんの得になると言うんだろう? きっとそれはわたしを不利な状況に追い込む。せっかく秀ちゃんを手に入れたのだから、決して離したりしないんだ。今が踏ん張りどころだ。


 窓ガラスの向こうをスピードを出して走るバイクのテールランプの光がブレる。スピードの出しすぎだと思った。


「送ってもらって悪いな」

「いいよ、秀ちゃんは免許もないヘタレなんだから、免許取るまではわたしが運転する。ついでに禁酒もする」

「ははっ、愛海は強いな」

 全然、強くないよ……そんな言葉はきっと無意味で、彼にとってそう思えるのはあの人のことだけなんだろう。


 サイドブレーキをキックして、シフトをドライブに。アクセルペダルを踏む。

 車の加速をよくするためにアクセルをわざと踏み直す。車はわたしの思いのままに動いてくれる道具だ。気持ちのままにドライビングできる。

 わたしも夜を切り裂く光の中にいる。




「明日、海、行こうか? 愛海の運転だけど」

「誘ってくれてるの?」

「うん、そう。暖かくなってきたからどうかなと思って。愛海、好きだろう?」

 そういうのに弱い。長いつき合いとは言え、好みを覚えていてくれるのはすごくうれしい。この人はわたしのことを少なくともそれくらいには好きだと思ってくれているんだと思う。


 なだらかなS字が続く。ブレーキは踏まない。カーブに入る手前、エンジンブレーキをかけるためにアクセルをポンと、離す。滑らかに減速して無理なくカーブを曲がっていく……。




「ねぇー! めちゃくちゃ寒いし、砂がすごくて前が見えないんだけど!」

 春の海、と言えば聞こえがいいけれど、今日みたいな日は海から吹く風が砂を舞いあげて、顔面が砂だけになる。波の音は確かに聞こえているのに、たどり着ける気がしない。まつ毛に、塩の結晶ができる。


「愛海、こっちにおいでよ。ちょっとはマシだから」

 振り向くと、秀ちゃんは着ていたマウンテンパーカーを頭から被っていた。わたしは衝動的に彼の腕の中に入りたくなって、砂浜に足を取られながら彼の元に急ぐ。その間も強い風がわたしの髪を吹き上げて、髪は変にしっとりとしてしまった。


「ごめん。もうちょっと天気のいい日にすれば良かった」

 秀ちゃんはわたしの顔についた砂を払いながらテントのようなパーカーの中で謝った。彼の指がわたしの顔に触れる度にドキッとする。別にそういうことが今までになかったというわけではなくて、……いつでも彼にドキッとさせられる。その指先の色っぽさに……。わたしを切なく見る瞳に……。


「いいよ、春なんだから風のない日は少ないよ、きっと」

 きゅうっと彼の腰を抱きしめる。離したくないという気持ちが前に出る。キスをする。わたしのものだという印をつける。

 キスをする。

 唇と唇の合わさるふんわりとした感触に電流が流れたような気持ちになる。唇を合わせる。潮風の味がする。海のキスは海の味がした。


 海から一本外に出た道を手を繋いで歩いた。何もかもが砂だらけだったし、そこにも風は吹いていたけれどさっきよりはずいぶんましだった。

 ところどころ、ローズマリーが植えてある。こんな環境でも育つんだと驚く。


「何か食べていく?」

「焼き蛤?」

「……焼き蛤? 貝、好きなの?」

 ふふん、と笑う。ここに来たら焼き蛤に決まってるじゃないの、と思ったから。

「いや、愛海。イワシ料理という選択もあるらしいけど」

「テレビでやってたもーん。焼き蛤が食べてみたいな」


 焼き蛤は、1個3千円でものすごく大きかった。

 シーズンオフでお店も選べる感じじゃなかったのでそこに入った。

 割り箸をパキッと割って、ぼそぼそと焼き蛤をつつく。

 お店のおばちゃんが、「東京の方から来たの?」と聞いてきたので曖昧に頷いた。東京というか、千葉というかというところがわたしたちの街だった。


「焼き蛤、食べ過ぎー。一生分の貝、食べた! もうあんなに食べられないよ」

「愛海は変なところでバカ正直だからな。残したっていいんだよ」

「ダメ。もったいないし、残した蛤に申し訳が立たないもの」


 蛤に義理立てしなくたって……と砂だらけになったわたしの車の窓からまた外を見ている。お願い、ふたりきりのときはわたしを見て。

 秀ちゃんはもう、わたしのものなんだから。決まったことなんだから。






 昨日はパーカーで十分だったのに、今日はセーターに逆戻りで納得が行かない。そう言うと、わたしの彼は弱々しく笑った。

「サンカンシオンって言うだろう?3回寒くなって、4回温かくなれば春なんだってさ」

「そうなんだ……」


 手を繋ごうと指を伸ばすと、彼の指先はひどく冷えていた。この人はこういうところが無頓着なんだ。自分のことはさておいて、周りのことを気にし過ぎる……。それがいいときもあるし、大概はそうでないことが多い。

 ポケットに入れたままだったわたしの指で彼の指先を温める。「ありがとう」と彼が恥ずかしそうに言う。わたしまで照れくさくなる。自分の彼氏なのに。




 3月はドカ雪が降る年があって、今年は当たり年だった。除雪をお母さんに頼まれたけれど、バイトがあるからと断った。玄関のタイルが凍っていて、危うく滑りそうになる。さて、今日は歩いて行くしかないかな。覚悟を決める。

 何しろ雪は慣れていないものだから、スタッドレスは履いていない。


「愛海」

「秀ちゃん! こんな寒い日にどうしたの? 凍っちゃうよ」

「愛海はいつも通り元気だな……。あのさぁ、話があるんだ」

 不意に、窓の外ばかり見ていた彼の横顔を思い出す。彼はあの時、私のことはガラス越しにも見えていないんだ。


「バイトの後でいい? ちょっと遅くなるけど。できるだけ早く上がるから」

「うん、いいよ。働いていらっしゃい」

 少し離れたところから。彼はわたしに手を振っていた。わたしも振り返した。何度見ても彼は手を振っていて、その度に手を振り返す。扉の手前まで。


 秀ちゃんはわたしの彼氏だ。

 彼がそう決めたんだから間違いはない。そうでしょう? ねぇ……わたしを好きなんだよね?


 バイト先の裏口の重いドアを開けると、バカみたいにそこには秀ちゃんがしゃがんでいた。

「何やってんの? こんな日にこんなところにいるなんて、バカげてるよ。凍っちゃう!」

「待ってるって約束したじゃん? それにさっきまでは向かいのファミレスでコーヒー飲んでたし」


 そう言った秀ちゃんの指先をわたしの、頬に押しつける。

「愛海、ぽかぽかだね」

「働いてきたからね。」

「そっか」

 わたしたちを避けて、バイト先の人たちがバラけて帰っていく。ああ、明日からかわれるよなぁと思う。事実を言われるんだけどめんどくさい。


「暖かいところに行かない?」

「……」

 彼は何故か黙った。確かに言い出しっぺのわたしは実家だから、こんな時間じゃ気が引けるかもしれない。となると秀ちゃんのひとり暮らしの部屋ということになるんだけど。


「ごめん。やっぱり瑠美のところに戻ろうと思うんだ。今日はそれを言いに来たから、愛海を連れ帰ったりしたら覚悟がぐずぐずになっちゃうだろう?」

「……なっちゃダメなの?」


 立っていることに疲れても、どこもかしこも溶けた雪で濡れていて腰を下ろすことは叶わなかった。

「瑠美さんと別れるって決めたの、秀ちゃんだよ?それともやっぱり……わたしじゃ違ったの?」

「愛海!」




 ふたまただった。

 もしくは略奪。




 秀ちゃんにはか細い瑠美さんという人がいた。わたしは秀ちゃんの懐にすっと入った。

 わたしの方が秀ちゃんとのつき合いが長かった。

 ずっと幼なじみだった。


 でも、クリスマス前に瑠美さんとケンカした秀ちゃんと関係を持った。……ずるかったかもしれない。少しはずるをしてもいいと思った。

 ずっとずっと憧れて遠くから見ることしか叶わなかった秀ちゃんの体温が、今はわたしのところにある。

 それは確かな重みとなってわたしを落ち着けた。


 そんな状況でも彼はやさしく、時折、大胆にわたしを愛した。「あんなに小さかったのに」とわたしを笑った。小さかったときと違ってしまった部分を彼は丹念に愛してくれた。

 そして言ったのだ。

「瑠美と別れて、愛海を選ぶよ」と。


 当然、瑠美さんは泣いた。彼女は非の打ち所のない静かで大人しい女性だった。「待って!」とは言ったものの、それ以上、秀ちゃんを引き止める術を持っていなかった。そういう弱さが彼を引き止められないんだとわたしは思っていたのに。


「わたしだって、秀ちゃんが思ってるほど強くない! こんなに好きになってしまったのにどうするの?」

 秀ちゃんは燐光のように光を淡く放つ雪の中で、立ち尽くした。だって、遅すぎる。こんなに秀ちゃんを愛してしまった。捧げてしまった。受け入れてしまった。ふたりの思い出が、まだまだわたしには足りないという思いが、わたし自身を泣かせた。


「落ち着いて……まだ、瑠美に話したわけじゃないんだ」

「じゃあ。じゃあ、今晩は一緒にいて? お願い、これからこんなお願いは二度としないから。秀ちゃんを好きなわたしが好きなの。変わりたくないよ」


 躊躇いがちに、迷いながらそっと手が差し伸べられる。悲しい予感が胸をよぎる。

 彼の手が、わたしの頭を彼の肩に抱き抱える。

「バカだな、こんなに寒いところで話し込むから。女の子は冷えたらいけないんだぞ」

 と耳元でぼそぼそっと囁かれる。


「妹キャラだから、ダメなの?」

「……そうなのかなぁ」

「わかんないの?」

「正直に言えば」

 悲しすぎて、雪のあとの乾いた空に星があんまり輝きすぎて、目が痛くなった。その光はわたしを目から貫いて心もぼろぼろにしてしまった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

それでもこの冷えた手が 月波結 @musubi-me

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ