きみの指は波間に摘んだ花の色
冬野 暉
きみの指は波間に摘んだ花の色
嬰児の頭髪は柔く、あかりを透かして波状の線を描いていた。
薄曇りの陽射しは障子戸に濾過され、畳の目を仄白く光らせている。あかりのふちに引っかけるように敷かれた座布団の上には、手触りのいいタオルケットがこんもりとわだかまっていた。
タオルケットに包まれて寝息も立てずに眠りこんでいる嬰児は、つい一週間前に病院からわが家へやってきたわたしの甥である。
先刻までミルクがうまく飲めず泣いてぐずついていたのに、いまはおそろしいほど静かだ。産着の胸がかすかに浮き沈みするので、かろうじて呼吸をしていると知れた。
折り曲げた指先には小さな小さな爪が五枚、きちんと生え揃っている。昨夜、母が専用の鋏で伸びすぎたぶんを切ってやっていた。
あかりをつるりと弾く爪を眺めていると、幼少期の海辺の記憶が波音とともによみがえった。
真夏の陽に温まった波に洗われる砂浜にしゃがみこみ、わたしは兄といっしょに貝殻を拾い集めて遊んだ。気に入る色の貝殻がなかなか見つからずふてくされるわたしに兄が差し出したのは、細かく砕けた桜貝だった。
甥の爪は、幼い兄のたなごころで艶めいていた桜色の欠片に似ている。波に揉まれているうちに角が取れ、まろやかでいびつな形で打ち上げられた貝の死骸に。
兄の手から受け取ったはずの欠片は、いったいどこにしまいこんだのか。
嬰児がふすっと鼻を鳴らした。
億劫そうに身動いで、兄と同じ癖毛に包まれたでっかちな頭を左右に揺らす。
両手がうごめくたび、十枚の爪がちらちらと明滅する。嬰児は夢の中で何かを探しているように見えた。
かれの母、わたしにとっての嫂は産後の肥立ちが芳しくなく病院から戻れずにいる。兄は上司にかけ合って短くはないあいだ有休を取り、今日も妻の見舞いに赴いた。
母は足りなくなったオムツやミルクを買いに出かけている。消去法で、休日の午後を持て余しているわたしが留守番と甥の子守りを任された。
産毛に覆われた嬰児の頬は、滑らかなベルベットのように光り輝いていた。愛らしく突き出した口唇の形は兄に似ているが、ぼってりとした眉の線は嫂譲りらしい。
首は産着に埋もれて目視できない。時折、口の端からミルクの名残が垂れるのでガーゼのハンカチで拭ってやる。
わたしの片手で包みこめてしまう顔。真ん中がふにゃりとへこんだ生まれたての頭蓋骨。
割れやすい貝殻みたいに、なんて脆い生き物。
生まれてくるまで、わたしはこの子を慈しめるだろうかと何度も考えた。
わたしと血のつながらない、密かに特別に想っていた男のひとが他人とのあいだに儲けた子を。
幼くして孤児となったわたしを引き取ってくれた家族は、いまに至るまで障子戸からこぼれるあかりのようにやさしくわたしを包みこむ。
父も母も、わたしが欲しがる貝殻を一生懸命探してくれた兄も。兄が選んだ女性も。
嬰児が空のたなごころを開き、中空へと伸ばした。
薄く瞼が開いて、白目の際が青く澄んだ双眸が光を追いかけている。
さまよう指先に人差し指を重ねる。ぎゅうと握りしめる力の柔さに胸が軋んだ。
いつか受け取った桜色の欠片が砂となって指のあいだから流れ落ちていく。名付けることすらためらい続けた感情は、あえかな希望とともに波にさらわれて削られていく。
兄とわたしの素足を愛撫していた波のごとく、悲しみは透明で温かった。胸の奥へ奥へと打ち寄せながら、どこまでもひたひたと広がっている。
だが、海の彼方には水平線が引かれているように、悲しみにも終わりがあり向こう側には明るみがあった。
わたしの指を掴んで離さない嬰児の爪が、ただ静かに光っていた。
眠りから覚めた甥が寂しくないように、そっとかれの名をささやく。
形のよい貝殻にも似たその耳に、どうかこの声がやさしく届くよう願いながら。
きみの指は波間に摘んだ花の色 冬野 暉 @mizuiromokuba
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