第57話 小さな焼き肉屋と夜の話。愛ねー、暗いねー
ツミナは思い出したことがあった。
どうしてナワキは少し話しただけで、ツミナが慎吾のアバターだと気付いたのか。
理由は簡単。声と姿が変わろうが、喋り方と細かい挙動は変わらないからだ。
イントネーション、歩き方、無意識の内にうっかり出てしまうクセ。息の吸い方から吐き方に至るまで。
好きな人相手であれば、あっと言う間にわかってしまう。特に意図的に隠しているときでなければ更に克明に。
ツミナの記憶は巡る。
何故こうなった? どこで間違った? ただ遊んでいただけなのに。
――全部僕が悪かった。
その一言が出なかった。伝える方法は喋る以外にもあったはずだったのに。その前に椿もナワキも消えてしまった。
気分はどん底だった。粘性の高い重油色の闇に溺れているような絶望感があった。
人生そのものが終わったような諦めの中にいたツミナは、今――
「凄いぞツミナ。この店のカルビ、口の中でほろほろと溶けるようだ」
口いっぱいに焼肉を頬張るラファエラの前の席に座っていた。七輪を間に挟んで。
「……なんで僕はこんなところに……?」
そう呟いたとき、ツミナは自分の喉が復調していることに気付く。思わず首に手をやってしまい、それを見たラファエラが苦笑した。
「貴様、本当にボロボロだな。あの程度のことでよくもそこまで傷付けるものだと感心するくらいだ」
「……」
感情が未だにグルグルと、夜の海の渦潮のようにグチャグチャになっている。そのため記憶が判然としないが、どうしてここまで絶望しているのかだけは思い出した。
「確か……僕の正体に気付いた椿が逃げて……それを僕は追おうとして……」
「ナワキに足を引っかけられて転んだのだ、貴様は」
そうだ。それに対して枯れた喉で抗議をしようとしたのだが、面倒そうな顔をしたナワキがツミナの脳天に拳骨を振り下ろした。
そのときに発したナワキの発言は至極もっともだったが、あのときのツミナにとっては心臓に突き刺さるナイフのような一言だった。
『邪魔!』
そして言葉と頭に響いたダメージとで地面に伏している間に、ナワキはラファエラと急いでなんらかのやり取りをした後、椿のことを追ってどこかに去って行ってしまった。
今思えば、あのセノーという少女はきっと魔夜だったのだろう。椿のことを『お姉ちゃん』と呼ぶ人間なぞ彼女しかいない。
「後は大変だったのだぞ。妙な唸り声を上げながら号泣する貴様を宥めながらここまで連れてくるのは」
「なんで焼肉屋……?」
段々周囲が見えてきた。ツミナが今いるのは、焼肉のスモーク立ち込める焼き肉屋だ。金網の発する熱が顔に当たって煩わしい。
記憶にはまったくないが、今までずっと泣いていたせいか目が痛い。おそらく目の周りは真っ赤に腫れているに違いない。
呼吸する度に横隔膜が痙攣するのも、泣き疲れたせいだろう。喋る度にイントネーションもおかしくなるし、ところどころ言葉がつっかえる。
「気分が沈んだときは贅沢品を食べるに限る。そら。肉が焼けてるぞ?」
「僕の傷が治ってるのは……?」
「途中で活性剤を買って投与した」
火急の用事が無いのであれば、活性剤は使わずに自然治癒で傷を治すのはこのゲームの常道だ。サイキックの傷は生きている限り、仮にそれが身体の欠損であっても長い時間をかければ必ず完治する。
あくまでも数値の上での話ではある。実際には痛みから解放されたいから、という理由で気軽に活性剤は使われることも多い。
ツミナもついさっきまではゲーマーとしての常道に従っていたのだが、今はラファエラが気を利かせたらしい。
「しかし驚いたぞ。まさかあの下劣警官が貴様の恋人だったとは」
「普通に考えるなら『かなり出来のいい変装』だと思う。七宮さんが椿だったと考えるのは無理がある。たまたまどこかで見かけた七宮さんに、都合がいいから椿が化けていたと考えた方が遥かに自然だ。出来過ぎた偶然には違いないけど……」
サイキックがひっきりなしにセーフティにやってくる最近では、普通の犯罪者を相手にすることしか想定されていない普通の刑事すら引っ張りダコだ。
賞金稼ぎ目的で事件に首を突っ込んで行けば、いつかは六花と顔を合わせることもあるだろう。実際、ナワキとツミナはそうやって六花と知り合っている。
「見られた。バレた。椿に、僕の姿が……しかも逃げられた。最後にナワキまで僕の前から消えた……もうお終いだ……僕にはもうなにも残ってない……」
記憶の整理が進む度に、あのときの悲しみがフラッシュバックして胸が痛くなる。涙もまだ枯れたわけではないらしく、はらはらと落ちて頬を濡らす。
泣き言全開のツミナに、ラファエラは眉を八の字にした。それは不快感からくるものではなく、単純に疑問に思ったからだ。
「……貴様、まさか聞こえてなかったのか? ナワキは『椿の方は俺に任せろ』と言ったのだぞ」
「……はあ……?」
「で。こうだ。『ツミナのことはラファエラに任せる。頼んだぞ』だ」
「……」
更に涙が溢れ出た。それはもう滂沱の涙と言う他ない量の。
「何故泣き止まない!?」
「あ、アイツ……直前まで僕はラファエラと協力して悪ふざけしてたってのに……そこまでやってくれるなんて……」
「あー……あれは私も悪かったがな」
ラファエラがツミナの悪ふざけに乗った理由は、ナワキに対しての不満からだ。おそらくナワキはセノーから『
それはわかるが、だからと言って自分を放置して勝手にどこかに行かれるというのは気分が良くない。多少のイタズラも止むを得ないだろう。
「ふ、ふふふ……ダメだ。もう。完敗だ。全然ダメだ。ナワキはやっぱり凄いよ……ふ、ふふふふふふふふふ……」
「完敗?」
「アイツがいるならもう、椿に僕はいらないかなぁ……」
少し焦げてしまったカルビを口に入れ、咀嚼した後でラファエラは冷静に問うた。
「正気か? いや、それ以前に貴様ら、なんだ? 恋敵だったのか? 親友同士で同じ対象を相手にラブ合戦的な?」
「いや全然違うけど。椿は僕が直々にアプローチして必死の思いで落としたんだ。その間にナワキの出番はほとんどない。でもそう思わざるを得ない理由があるんだよね……そうだな……」
ふう、とツミナは涙を拭い、前を向く。やっと目を合わせたな、とラファエラも気を引き締めた。焼肉を捌く手も緩めないが。
「僕は本当に酷いヤツだ。でもね。こんな僕でも優しいヤツのフリはできる。女の子を落とすのに、優しいヤツの仮面は凄く都合がいいんだ。ときどき適確に、女の子の心の柔い部分に噛み痕を付ける酷いヤツの表情と合わせれば更に適確に」
「なんだ? ナンパテクの講釈か?」
「なんで僕に優しいヤツのフリができると思う? 隣で十年くらいナワキの顔を見続けてきたからだ。要はアイツのマネなんだよ」
少し話が見えてきた。同時に『あ、また肉が焦げてしまった』とラファエラは思った。できればツミナにも食べてほしいのだが。
「……椿の隣にいる人がナワキなら僕もまあ、安心かなって……さ……」
「再度問うぞ。正気か貴様」
「狂気の真っただ中に決まってるじゃないか。むしろ僕が正気だったことなんて産まれてこの方、一度たりともないよ。今は輪をかけて酷い」
「あの女は貴様を追ってこの世界に来たのではないのか?」
ビクリ、とツミナの肩が震えた。やっと合った目をツミナは逸らす。
「貴様の最低さ加減なぞ私だって知っている。女にはひっきりなしに声をかけ、ナワキには何度も自分の都合で迷惑をかけ、挙句の果てにイヤなことがあればすぐにいじけて泣き散らかす。いや……なんだこれは。列挙してて私も思ったが本当に酷いぞツミナ。悔い改めようとは思わないのか?」
「こんな状況になっても性格そのものを矯正しようとは思わないなぁ」
「改めて最低すぎる! だがな。たったの五日間の付き合いの私ですら、貴様のことをこう思うのに、だ。それでもアイツはそんな貴様のためにここまで来たのだろう?」
冷静になってみれば、ラファエラの言うことは状況を良く見た上での真っ当で優しい解釈だとわかる。彼女のことはちっとも好きではないが、この優しさ自体は尊いものだった。
「……よく分析しろ。初めからな。本当にあの程度で貴様に愛想を付かすような女なのか? それならアイツはもう人でなしだ。最低どころか、人間性ランキング圏外と言ってもいいぞ」
「僕のことはどうでもいいけどさ。彼女のことをよく知りもしないのに、そういうことを言われるのは凄く気分が悪いよ」
「なら話してみろ。少しは落ち着くだろうさ」
「……まあ、特に隠すようなこともないありきたりな話だけど、いいか」
これで気晴らしになるとは思えないが、ツミナはぽつりと言った。
「薬物問題が僕たちの周りでやたらと騒がれ始めたんだよね」
「は?」
「ドラッグ漬けになって人生破滅する人間なんているんだー、なんて思ったよ。僕たちの周囲で起こるまではテレビの向こうの話だと思ってた」
「待て。なんの話だ?」
「だから、初めからだよ」
調子が変わらない。ツミナの語り口はとてもフラットだった。
「僕とナワキの周囲で、危なくて頭の悪い薬を売るバカが出たんだ。友達が一人、そのせいで学校に来られなくなった。それにナワキがブチ切れてね。『俺たちで事件を解決してやる』って息巻いてたよ、アイツ」
「……ぬ!? 待て! 椿の話ではなかったのか!?」
「あの当時、僕たちは十四歳。二人で薬のことを調査して、最初に売人の尻尾を掴んだのは僕だった。まあ、結果から言って末端も末端だったから解決にはもうちょっと時間がかかったんだけど。依存症に片足突っ込んだ女の子を自宅に連れ込み、更にズブズブに薬漬けにして、抵抗できなくなったところを強姦しようとしていた下っ端を、事が起きる直前で乗り込んだ僕がボコボコにしたんだ」
なにやら物騒な話になってきた。これは果たして、焼肉を食べながら語るような内容なのだろうか。そうラファエラが困惑していると――
「誰であろう、その薬漬けで下着まで脱がされた女の子が椿だよ」
本題に入った。軽々しく首を突っ込んだ気は無かったが、それにしてもここまでとは想像もしていなかった。
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