異端審問官と哀哭の緋文字(メッセージ)

はまりー

第1話



   「もうだいじょうぶ、わたしが来たんだから」と彼女はいった。

           ――ロバート・F・ヤング『ジャングル・ドクター』





プロローグ


 もうずいぶんと前から、クローチェはその臭いに気がついていた。

 激しく揺れる四輪馬車(キャリッジ)の窓から、わざわざ外を伺うまでもなかった。彼女はただ瞳を閉じて、革張りの馬車の座席に深々と身を沈めている。視覚に頼らなくとも、鼻に馴染んだその臭いが、目的地が近いことを教えてくれた。

 人の皮膚が、焼ける臭い。

 おぞましいその臭いに、彼女は顔色一つ変えない。クローチェにとって、それはただ“ことの終わり”を意味する臭いに過ぎなかった。長い睫毛。鼻筋の伸びた、整った顔立ち。ベージュ色の外套の肩では、カールした美しい栗色の髪が踊っている。クローチェの家名を継ぐ、第三十七代筆頭拷問吏。重々しいその肩書きは、彼女の若々しい外見とまるで釣り合っていない。彼女はまだ、齢十六の少女に過ぎなかった。

 御者の声が響いた。おそらくは手綱を引いたのだろう。ぬかるんだ土を車輪がはむ音が、ゆるやかになる。そのまま、四輪馬車(キャリッジ)は停止した。

 微細な彫刻がほどこされた真鍮の取っ手に、外から手のかかる気配がした。

 馬車の扉がひらく。

「ようこそおいで下さいました、拷問吏どの」

 その声が運んできたかのように、忌まわしい臭いは強くなる。クローチェは瞳を開いた。

「事は終わったのだろう? わたしが来た意味はあるのか?」

「御座いますとも。筆頭拷問吏どのに浄化の宣告(セルモ・ゲネラリス)の査察をしていただけるなど、またとない光栄でございます」

 馬車の中を覗き込んでいるのは、茶色い外套を着込んだ聖庁の修道士(モナコ)だった。老いたその顔を皺が覆っている。

 祖父と孫ほどに歳の離れた彼女を上目づかいに見あげる瞳に、クローチェは卑しい精神を感じ取った。

 聖庁に属する者が、彼女に現す態度は、二つしかない。血に手を汚す忌まわしい下働きにすぎぬと端から見下してくるか、彼女の背後に在る大きな力を敏感に嗅ぎとっておもねってくるか。この修道士(モナコ)はどうやら後者らしい。

「仔細を聞こう」

 瞼にかかった栗色の髪を、うっとうしげに頭を振って振り払うと、差し出された手を無視して、クローチェは馬車から降り立った。ぬかるんだ土の上には緋色の敷物が広げられている。クローチェは眉をひそめた。いらぬ気遣いだ。花を摘みにきたわけではない。

「勅令が下されたのは、いまより五十七時間前。刑吏テニーブレどのの囲繞は、深夜、すみやかに行われました。刑吏スパーダどのが門戸を破り、村中のものを中央の広場に集めたのがおよそ四十時間前。進捗の途中、逃亡をくわだてたものは、スパーダどのによって処刑されました。その数、およそ、三十」

「多いな」

 周囲をぐるりと見回し、クローチェは云った。

 小さな村だ。人口が三百を超えるということはおそらくあるまい。その一割が審問を受けることもなく、スパーダの持つ、悪趣味な東洋の刀(カタナ)の錆と消えたことになる。

「教令に基づき、正当な警告は住民に与えられたのか」

「これは……」

 修道士(モナコ)は、さも意外と云わんばかりに目を見開く。

「筆頭拷問吏どののことばとも思えません。聖庁からの勅令にも記されております。九十九人の無辜の民の命を奪うとも……」

「一人の異端を逃すべからず。神はおのれの者を知りたもう――わかっている」

 クローチェは眉をひそめる。こんなところで彼女自身の金言を修道士(モナコ)にひけらかされるまでもない。異端の殲滅は聖庁にとって至上の命題だ。だが。

 やり方が、粗雑に過ぎる。

 スパーダは恐らく、血に酔った彼自身の快楽に従い、村人どもに奇声を浴びせ、妖しく光る刀(カタナ)を振り回し、わざと彼らが背中を向けるようにしむけたのだろう。クローチェがよく知るスパーダならば、そうする。

 異端審問の宣告の前に逃げ出したものは、刑吏によって処理される。たとえそれが、異端であろうと、なかろうと。刑吏の遊戯じみた処刑をどこまで許すかは、異端審問官の裁量によるところが大きい。

「村人を集めたのち、“慈愛の時間”が与えられました……教例に従いまして」

 そう云う修道士(モナコ)のことばは、どこか言い訳じみていた。

「審問官どのの膝元にすがりつき、許しを請うものは一人もおりませんでした」

 振り返ったクローチェに、修道士(モナコ)はうなずいて見せる。

「ええ、一人も。この村は、臓物を腐らす病に倒れた危篤患者のように、芯から異端に冒されておったのでございます。浄化の宣告(セルモ・ゲネラリス)が下されたのち、無罪の宣告が下されたものどもはわたくしたちが保護しております。その他の者どもには、拷問吏ペッカードどのにより、しかるべき拷問が下されました。おのれの罪を悔い、改悛したものどもには聖餅(ウェファース)を与えて帰依させたのち、“狭き壁”による処罰が与えられております。拷問ののち、改悛したものにも、そのように」

「生き延びた村人は何人だ」

 クローチェは訊いた。

 その語気に気圧されたように、修道士(モナコ)はただ頭を下げる。

「何人だと聞いている」

「十と、二人」

 俯いたまま、修道士(モナコ)が答える。

 徹底した掃滅だ。

 この地に赴任した審問官の名は聞いていないが、村人に慈悲を与えるつもりなど最初からなかったに違いない。

「審問官どのの手際は、じつに見事でございました」

 顔を上げた修道士(モナコ)は、おもねるような笑顔を浮かべて見せる。

「逃げ果せた異端は、恐らく一人もおりません」

「“恐らく”?」

「あ、いえ……」

 クローチェの鋭い瞳に見つめられ、修道士(モナコ)は一瞬、絶句した。

「確実に。確実に聖庁の御業(みわざ)は示されました。逃げおおせた異端はおりません」

「わかった。あとは自分の目で見て回る」

 さらになにか云いかけた修道士(モナコ)を捨て置き、クローチェは足早に歩き出した。

 もとは静かな村だったのだろう。

 舗装もされていない路地の両側には、落ちついた佇まいの民家がならぶ。

 暮らしぶりもそれほど悪くなかったに違いない。ポーチにならべられた鉢植え。前庭にころがった手押し車。庭につくられた手製のブランコ。ありきたりな平和な村に見える。スパーダによって民家のドアがことごとく破られていることと、あたりにただよう尋常ならざる異臭をのぞけば。

 ほどなく、その異臭の大元が見えてきた。

 そこは村の広場だったのだろう。なにかの銅像が引き倒され、脇にどけられたその後に、焼け焦げた屍体が山と積まれ、くすぶった煙を上げつづけている。

 五体満足な屍体など、ひとつもなかった。

 屍体はどれも、苦悶の表情を浮かべている。ある屍体は手足が異常に引き延ばされ、ある屍体は背中に無惨な刃物の切り傷がある。

 両目を棘のようなものでつぶされた屍体が、いくつか目についた。

 刑吏ペッカートの名はむろん知っていた。全身無毛で盲目の、道化姿の男。全力の歓びをもって、仕事に尽くすタイプの拷問吏だ。

 屍体でできた山の隣に、奇妙なモニュメントが建っている。

 モニュメントは、木と、縄と、鉄の歯車と爪、そして屍体でできていた。

 タラゴーナ式多重割腹拷問台。

 斜めに立てられた木の板に、両手両足を縄で縛られた屍体がはりつけられている。屍体の腹部は、背中から突き立てられた鉄製の牙により左右に幾重にも裂けていた。

 まるで屍体の腹に薔薇の花が咲いたようだ。

「見事でございましょう」

 背後から修道士(モナコ)が、うっとりしたような声を上げる。息が荒いのは、走って彼女のあとを追いかけてきたためだろう。

「刑吏ペッカートどのは、薔薇の拷問吏、の二つ名を持つそうですな。その名に恥じぬ、見事な仕事ぶりでございました。その傲慢な異端は、最後まで頑強に抵抗し、許しを請おうとはしませんでした。ただ泣き叫び、聞くに堪えない罵詈雑言を上げつづけておったのでございます」

 クローチェは、そのことばに答えない。ただ内心、こみ上げてくる軽蔑の念を抑えられずにいた。

 殺して、どうする。

 拷問吏の役目は、異端の命を奪うことではない。

 耐え難き苦痛を与えることで、異端の口から改悛のことばを絞り出すことが、彼らに与えられた使命のはずだ。

 この醜悪な道具は、ただ無用な血を流し、異端を絶命させる役にしか立たない。嗜虐趣味に傾倒した、ただひとりの拷問吏を満足させる役にしか。

 クローチェとて、頑強に改悛を拒む異端を、この手にかけることをためらったりはしない。

 だが彼女ならば、異端に罵詈雑言を吐く間など与えない。神の御名に包まれるべき大地を、そんなもので汚したりはしない。速やかな拷問によって膨れあがった舌が、異端自身の喉を塞ぐだろう。あとは囁くような声で、神の名をつぶやき、許しを請うより術はない。“囁きの拷問吏”、それが彼女につけられた二つ名だった。

 クローチェは、拷問台に縛りつけられた男の顔を見つめる。

 男は四十代くらいだろうか。その顔からは、生前の姿を想像することすら難しい。想像を絶する苦痛と恐怖が、絶命した男の顔を歪ませていた。

 ここが自分の赴任地でなくて良かった。

 うちのお嬢様(シニョリーナ)が相手にするには、ここの異端は品格というものに欠けていたようだ。

 そんな思いと同時に、熱い疼きのようなものが、身中を駆けめぐる。

 身体で覚えた、一千二百五十七通りの拷問を、彼女は無意識のうちに脳内でソートする。もし、クローチェ自身がこの場で仕事を任されていたとしたら――。

「腕が、鳴りますかな」

 彼女の心中を見越したように、軽い笑いを含んだ声で修道士(モナコ)が云った。

「“囁きの拷問吏”どのの手腕、いちどはこの眼にしたいものです。うわさではじゃじゃ馬に足を引っぱられ、最近ではろくに仕事も与えられていないとか――」

 振り返ったクローチェの眼を見て、修道士(モナコ)は黙り込む。

 修道士(モナコ)の云うことは間違ってはいない。だからこそ筆頭拷問吏である彼女が、他の拷問吏の後塵を拝すなどという屈辱を、甘んじて受けているのだ。

 だが、だからと云って、彼女の上司を揶揄するようなそのことばを、黙って聞き流すようなクローチェではなかった。

 眉一つ動かさず、ただ瞳の力だけで、クローチェは修道士(モナコ)に怒りを伝えて見せた。

「わたしの審問官を、侮辱することは許さない」

「は……」

 修道士(モナコ)は畏れいったように頭を下げる。

「縛りが甘い」

 クローチェは云いながら、屍体を縛りつけた縄を、思いっきり引っぱって見せる。

 鈍い音が響き、手首の折れた屍体の右手が、だらんとぶら下がった。

「訓練された異端ならば、自らの手首の骨を潰して逃げるくらいのことはする。ペッカートはその可能性を考えなかったのか。それに、西の森」

 云いながら、彼女はそちらの方を指さす。

「来るときに鳥たちがいっせいに羽ばたく音が聞こえたが」

「それが、なにか……?」

「鳥を脅かしたのは、狐か、熊か、それとも人間か?」

 彼女は修道士(モナコ)を睨みつける。

「テニーブレは、優れた刑吏だ。だが彼女には自らの意志も、意志を伝える口もない。テニーブレの水も漏らさぬ包囲に慢心し、血に酔ったスパーダの仕事に頼り切っていたというなら、それは貴君の怠慢だ。わたしなら即刻、人を集め森の探索にかかるが?」

 青ざめた修道士(モナコ)は、ひとつ頭を下げると、踵を返して去っていく。

 その後ろ姿を見送りながら、クローチェはひとつ鼻を鳴らした。

 これで審問を逃れた異端がひとりでも見つかれば、担当した審問官の名は地に落ちる。結果がどうなろうと彼女の知ったことではなかった。

 そのとき――。

 その場の雰囲気にはまるで似つかわしくない、軽やかな音が響いた。

 音は、クローチェの懐から響いていた。

 電子音。

 携帯電話が鳴っている。

 外套の中に手を差し入れて、クローチェは銀色の携帯電話を取り出した。

 携帯電話を、耳に当てる。

 会話は、ごく短く済んだ。相手のことばの合間に、クローチェはただ一言、わかったと答えただけだ。

 電話は、切れた。

 異臭と煙のただよう広場に、クローチェはただひとり立っていた。

 少なくとも、生きているのは彼女ひとりだった。

 またひとつ村が消えたのだ。どんな地図にものっていない、隠された村が。そしてそのことに気づくものはいない。すべては闇から闇へと葬り去られるだろう。まるでこんな村など最初から無かったように。

 クローチェは拷問台にくくりつけられた男の屍体を見つめる。

 そちらに一歩、近づいた。

 ふいに――。

 ぐるりと頭をめぐらせ、拷問台の屍体が顔を上げた。

「ずいぶんと浮かない顔をしているねェ」

 屍体が、云った。

「どこからの電話だい? 良くない知らせだったみたいじゃないか」

 焦点の合っていない、うつろな瞳を宙に向け、屍体はぱくぱくと口を動かしている。

「聖庁からだ」

 クローチェは答える。あいかわらず、顔色一つ変えない。

「ほほう、なんだって?」

「GPSアンテナ付きの中継車に乗った英国放送協会(BBC)の記者が一人、この村のことを探っているそうだ」

「どうするんだい。その記者を殺すのかい?」

「なにもしない」

 なにもする、わけがない。

 いつもの事だった。べつに聖庁が圧力を掛けなくても、その記事は握りつぶされる。記者の上司か、その上の上司かによって。

 あるいはその記者は、自らの手で原稿を破り捨てるかもしれない。それを発表するのは、彼自身の……いや、この地に住むすべての人々の恥部を発表することにも繋がるのだから。

「それだけじゃないだろう? あんたはそんな顔をしているねェ。もっと他に、悪い知らせがあったんじゃないのかい」

 クローチェは、屍体のうつろな瞳を見返した。

「お嬢様(シニョリーナ)が、逃げた」

「あんたの上司の、異端審問官がかい?」

「そうだ」

「逃げたって、どうやって。彼女のまわりにはいつだって、修道士が山ほど取り囲んでたはずだろ」

「聖庁の最上階から、飛び降りたそうだ」

「やるねェ!……ずいぶんと大胆なことをするね、あんたのお嬢様(シニョリーナ)は」

 屍体はぱくぱくと口を動かす。

 命のない屍体が、喋ろうはずもない。

 屍体の顎を動かしているのは、クローチェの右手だった。

 彼女は裏声を使って、腹話術師と人形のように、屍体と会話をしているのだ。

 それはその場に立ち会う者がいたら、必ずや誰しも背筋の毛を総毛立たせたであろう、おぞましい遊びだった。

「手紙が残されているそうだ……わたし宛ての」

「読まない方がいいと思うけどねェ」

「何故だ?」

「その理由は、あんたがいちばん良く知っているだろう、クローチェ。あんたはお嬢様(シニョリーナ)に、嫌われちまったのさ」

 屍体が云う。

 裏声で喋り続けるクローチェの顔には、いかなる表情も浮かんでいない。

「だってそうだろう。彼女は嫌気がさしたのさ。毎日、毎日、飽きずに血に塗れてるあんたにさ。可哀想に、あんたは見捨てられたんだ、クローチェ。泣くならお泣きよ、残酷なクローチェ。あんたはこの世にたった一人さ、無能なクローチェ。馬鹿なクロ……」

 がきん。

 鈍い音を立てて、屍体の顎が砕ける。

 握りしめたクローチェの指の先が、血で塗れた。

「おまえと喋るのは、飽いた」

 そう云うクローチェの瞳は、澄んだ湖の底を写し取ったかのように、深く、暗い。

「黙って、死んでろ」

 クローチェは踵を返す。

 ぬかるんだ土に皮靴の音を響かせ、彼女は遠ざかっていく。

 その背中を、屍体のうつろな瞳だけが見つめていた。

 

 

「うー、くーっ、むぃーっ、ふーっ、にゃっ!」

 クローゼットに顔を突っ込んだ、少女のお尻がもぞもぞと動いている。

「えいっとぉ、もうちょっ……こう……そう……たあっ!」

 勢いよく両手を挙げると同時に、少女のからだは後ろにひっくり返り、ごろんと絨毯の上をころがる。

 洋燈(ランプ)の明かりに浮かびあがったのは、夜目にも鮮やかな、豊かな金色の髪。それが絨毯の上に扇形に広がり、少女の端整な顔に、白い法衣(ローブ)を着た肩に掛かる。

 齢十一になる彼女の背丈に、法衣は少し大きすぎた。

 少女の赤い唇が、満足の形に、にまーとひろがる。

「えへへ」

 少女が両手に抱えているのは、小さなブリキの人形だった。鎖帷子には聖なる五稜星がペンキで描かれ、ブリキの手には小さなブリキの剣を持っている。聖庁十字軍兵士の人形。

 十一年を聖庁で過ごすあいだ、彼女に与えられた玩具は、それひとつだった。

「ありがとね。最近、遊んであげなくて、ごめんね」

 云いながら、少女はブリキの十字軍兵士に頬ずりする。細めた瞳は、淡い青色に輝いている。

「でも、連れて行けないよ」

 少女は立ち上がる。歳のわりに痩せた小さなからだを、ドレープのついた法衣が包み込む。樫でできた重々しい書見台の上に、少女はそっとブリキの人形を寝かせる。

 寝かされた人形の横には、折りたたまれた手紙があった。

 椅子にかけてあった黒い外套(マント)を、少女は肩にかけて、喉元で紐を結んだ。

 聖五稜星の首飾り(アトリビュート)を、首から掛ける。

 洋燈の上にかがみ込むと、ふっと息を吹きかける。部屋が、闇に包まれた。

「行くよ、ノーチェ」

 闇の中に、少女の声が響く。

 

 ブリキの兵士さん、窓から見えるオレンジとレモンの木、修練院の白い壁、写本室からもれてくるインクの匂い、聖香油保存室の甘い匂い、川のせせらぎ、風の音。

 

 ぎいーっ、と鈍い音を立てて、部屋の扉がひらく。やたらと広い聖庁の廊下が左右に広がり、少女が顔を出しているのと同じような扉がいくつもならんでいるのが見える。壁ぎわに灯った蝋燭が、冷たい廊下を照らしていた。

 廊下のむこうを、燭台を持った修道士(モナコ)が通り過ぎる。少女はあわてて顔を引っ込めた。

 

 たくさんの修道士(モナコ)、聖堂に響く聖歌、聖堂の入り口に彫られた怪物たちや聖人さま、蝋燭の明かり、夜の空気。

 

 人気がないのを見計らい、少女は部屋から抜け出す。天鵞絨の靴は、硬い廊下の上にちいさな足音を立てる。少女はそのわずかな音にすら気をつかいながら、そろり、そろりと廊下を進み続ける。

 

 大好きなクローチェ、大好きなトルソー、大好きなノーチェ、大審問官さま。

 

「異端審問官さま」

 ふいに背後から声がかかり、少女はびくりと肩を震わせ、振り返る。

 いつの間にそこにいたのか、一人の修道士(モナコ)が、燭台を持ってそこに立っている。

「そこでなにをなさっておいでです?」

「し、ししし失礼な! そんなことを訊くものではありません! ご不浄に行くに決まっているではないですか」

「反対側にむかっておいででしたが」

「せ、聖堂でお祈りを……」

「この深夜にですか。感心なことです。わたくしもお供させていただきます」

「ちょ、ちょっと急用が」

「ご一緒させていただきます」

 肩をつかんだ修道士(モナコ)の手を、少女は振り払う。

「もう、ばかーっ、わたしを放っておいて!」


 わたしが持っているものはこれでぜんぶです。そのぜんぶが大好きでした。

 わたしにやさしくしてくれる、この小さな世界が大好きでした。

 でも、いま、なにかが違うんです。

 

 彼女を止めようとする修道士(モナコ)の声を背中に聞きながら、少女は走りつづける。

「どうしてこんなに簡単に見つかっちゃうんですかぁぁぁ!」

 もはや忍ぶことも忘れ、大声で叫びながら、少女はどたばたと廊下を走りつづける。

 

 なにが違うのか、その答えを探しに行きたいと思います。

 神さまに背きたいわけじゃありません。

 もっと神さまを信じるために、わたしは、ここを、出ることにしました。

 いつか、ひとりの修道士(モナコ)が教えてくれました。

 東の果てには、聖庁もなく、異端もない国があるのだと。そんな国があるならば、わたしは見てみたい。人々がなにを感じ、生きているのか、見てみたい。

 そこで、違うやり方を探してみます。

 みんなが、幸せになる、やりかたを。

 

 少女は廊下の突き当たりまで追い詰められていた。

 そこから先には、焼き絵ガラス(グリサイユ)のはめ込まれた、窓しかない。

 まわりを取り囲む修道士(モナコ)たちをせいいっぱい睨みつけながら、少女はじりじりと後退し続ける。

「大審問官さまに伝えてください……ごめんなさい、いつか弁償しますって」

 少女は云った。

 ひやりとした焼き絵ガラス(グリサイユ)の感触が、背中越しに伝わる。

 

 最後に、大好きなみんなへ、一言だけ。          あっかんべ。

 

 少女は身を翻した。

 彼女を止めようとする複数の声に耳を貸さず、身体ごと、焼き絵ガラス(グリサイユ)に体当たりをかます。

 色鮮やかな焼き絵ガラス(グリサイユ)は、粉々に砕け散った。

 その外にはベランダひとつない。

 聖庁を覆う高い壁のむこう、月に照らされた森が、眼下に広がっていた。

 きらきらと月の光に輝く焼き絵ガラス(グリサイユ)の断片とともに、少女の身体は落下していく。

 少女の耳元で、ごうごうと風が鳴った。

 法衣の袖がばたばたとはためいている。

 急速に地面が近づいてくる。

「ノーチェ!」

 少女が叫んだ瞬間、少女のからだは夜よりも濃い、影につつまれた。

 ふわり、と少女の落下が止まった。

 耳元で鳴っていた、風の音が止む。

 少女の身体は、なにもない空中で静止していた。

 冷たい夜気が、少女の頬をさす。

 風が吹いた。

 両手と両足を広げたまま、少女は風に乗り、そのまま空へと浮かび上がっていく。

「すごい、すごいよ、ノーチェ! このまま、行こう」

 少女は満面の笑みで叫ぶ。

「日本へ!」



 


(神さまなんかに頼るんじゃないよ、春之介。神さまが空から落としてくるのはどうせ厄介事に決まってるんだから)

 それが母さんの口癖だった。洗い立てのシーツを、ぱん、と皺を伸ばして庭に干している最中、決まったように口をついて出るのはそんなセリフだった。

(だからさ、欲しい物があるんだったら、自分の手で掴みなさいよ)

 シーツのむこうから顔を出してにっこりと微笑む、その顔が目に焼きついている。

 神さまも、災難だ。

 そんな決めゼリフしか持たないひとが、誰より先に神さまのところに行っちまったんだから。

 この春、母さんは逝った。交差点で信号を無視したトラックに轢かれて、あっさりと。

 あなたの身内の方が亡くなったようだ。そう知らせてきた電話の声をぼんやりと覚えている。電話のむこうにいたのは、警察だったのか、医者だったのか、病院の名前だけメモして早々に切っちまったから、わからない。

 身内、といっても早くに父を亡くしたおれの身内なんて、母親しかいない。

 高校一年にして、おれは家族をぜんぶ失ってしまったわけだ。どこかの安いドラマみたいに。

 電話を切ったおれは、呆然として手から携帯を取り落とした。……なんてことは、なかった。安いドラマじゃないんだから。

 病院から帰ってきたおれが真っ先にやったのは、タンスのなかを引っかき回して古いアドレス帳をひっぱりだし、普段あまりつきあいのない親戚連中に連絡してまわることだった。

 すぐにどやどやと人が大勢やってきて、あとは大人たちがすべて手配してくれた。

 家の前に白黒の幕が張られ、おれは訪れてきた人たち(当然のごとく、うちのクラスの連中も混ざっていた)に、ただ機械的に頭を下げていた。涙は一滴も流れなかった。悲しそうな顔すらしていなかった、と思う。

 おれの様子があんまりおかしかったんだろう。母方の叔母の一人が、ハンカチを口元に添えながら、春ちゃん、こんなときは泣いてもいいんだよ、と鼻声で云ってくれた。余計なお世話だと思ったが口には出さなかった。ただ機械的に礼を云っただけ。母さんが小さな壺におさまるまで、結局おれは泣き声ひとつ上げなかった。

 葬式が終わり、入れ替わり立ち替わり身の回りの面倒を見てくれた親戚連中が姿を消して、あれは何日目だったろう。

 部屋の片隅にぼうっと座っていたおれは、ふと思った。

 腹、減った。

 いや、それまで飲まず食わずだったわけじゃない。そんなわけがない。

 母さんが死んだその日にだって、おれは飢えて死なずに済む程度には飲んだり食ったりしていたはずなんだ。でもそのときまでそれを意識することさえしなかっただけ。

 冷酷なる宇宙の真理はこんなところにころがっている。耳の穴広げてよく聞け、皆の衆。

 誰が死のうと、腹は減る。

 おれはふらふらと立ち上がり、台所にむかった。いつか親元を離れたときにちゃんと暮らしていけるようにと、料理、掃除、洗濯、母さんは一通りおれに仕込んでくれていた。簡単な料理をつくるくらい、わけはない。

 冷蔵庫の扉を開けたとたん、溢れてきた色彩の渦に、おれは目を細めた。

 ニンジン、ピーマン、キュウリといった基本の野菜類。プチトマトのパックにセロリにゴーヤ。卵がワンカートン。納豆が二パック。

 棚からはみだしそうなくらいぎっしりと、食材がつめこまれていた。

 ぎゅうっと胸元をつかまれたような気がした。

 死んだ母さんが、明日も生きようとしていた、その証がそこにあった。

 おれはあわてて立ち上がり、冷凍庫の扉を開けた。

 グリーンピースの袋が滑り落ち、台所の床に落ちた。

 冷凍庫にも、ぎっしりと冷凍食品がつまっていた。野菜の筑前煮やら、唐揚げやら、具たっぷり濃厚クリーミーグラタンやら。

 おれの、ためだ。

 おれと一緒の生活を、明日もつづけるために。

 おれはのろのろと腰を下ろし、床に落ちたグリーンピースの袋を見つめた。

 拾いあげ、ぎゅっと右手の中で握りしめる。

 他人の腕を見てるみたいだった。おれの右手は勝手にぶるぶる震えている。

 母さんが亡くなったのは、日曜日だった。

 平日は働いているから、母さんがまとめて買い出しをするのはいつも日曜日だ。あの日の昼間、母さんが冷蔵庫の前で、あっと大きな声を上げたのを覚えている。

 ――忘れ物しれちゃった。ねぇ、買い物もういっぺんつきあってくれない、春之介。

 ――えー、荷物運びばっかで疲れたよ。もうそれだけ買ったんだからさ、べつに来週でいいだろ。

 ――そうねぇ……。

 ため息をついたあとで、冷蔵庫を閉め、母さんはおれににっこり微笑んだんだ。

 ――いいわ。あんたは休んでらっしゃい。母さん、もういちど行ってくるから。

 

 ぱん。

 

 右手の指先で、グリーンピースの袋が破ける音がした。ころころと緑色の球がこぼれて、台所の床にころがる。

 ばっかじゃねぇの?

 忘れた買い物ってなんだったんだよ。タマネギか? シイタケか? それともパンケーキ用のメイプルシロップか? 

 なんにしたって、あんたの命の代わりになるようなもんじゃねーだろうが!

 あのとき、おれがついて行っていれば。

 そうしたらおれも事故に巻き込まれていたかもしれない。

 でも、なにかできたかもしれない。なにかが。

 運命を変えるような、なにかが。

 胸の中を真っ黒な怒りが満たしていった。おれは怒鳴りたかった。あんまりだと叫びたかった。だが、誰に叫べばいい、神さまか?

 おれはゆっくりと台所のなかを見回す。

 きちんと漂白された布巾。整理された食器棚の中身。おれと二人の暮らしを守るために、母さんがどれだけ努力してくれたか、身を張っていたか、いままで見えなかったものが手に取るように見えた。

 おれは、泣かなかった。

 グリーンピースの袋を片手に泣くなんて、様にならない。

 その代わりに、おれはグリーンピースの袋を捨てて立ち上がった。

 家を出て、むかった先は隣の市に住んでいる母方の親戚の家。母方の一族は、みんな血の気が多いというか、あの母さんと同じ血を引いているというだけあって、やたらと正義感と責任感の強い人たちが多く、その家の人たちも、独りになったおれを引き取りたいと強く申し出てくれていた。

 その親戚の前で、おれは畳に頭をこすりつけて頼み込んだ。

 どうか、名義だけの保護者になってください。

 高校を出るまで経済的な援助、よろしくお願いします。あとで返します。

 独りで、あの家で暮らしたいんです。

 すったもんだ、あった。そりゃそうだろう。でもおれは頑として自分の意志を曲げなかった。

 母さんが、必死こいて守ろうとしたあの家を、おれも守りたかった。

 いや、守らなきゃならなかった。

 だから、とっととオトナになる。

 とっとと自立して、独りで食っていけるようになる。

 重い。

 ありったけ、重い。

 十六歳の、それまで母さんの庇護の下でのうのうと暮らしていたおれにとっては、重すぎる決意だった。もー、ばりばり肩に力入ってた。

 そのあたりが、顔に出てたんだろう。

 学校に戻ったら、ものの見事にクラス中に引かれた。

 ただでさえ“不幸”があって話しかけづらいクラスメイトが、思いつめたような顔をして黙り込んでたら、そりゃ誰だって引く。ちょっと前までいっしょにつるんで馬鹿話をしていた相沢だって、なにか云いたげに口ごもりつつ、遠巻きにこちらを見ている始末。

 他のやり方だってあっただろう。いまならそう思う。寂しさや辛さを隠しつつ、それでも笑っていれば、クラスメイトの同情なんかも大いに集め、誰の気を悪くすることもなかったろう。

 でも、おれはもう聞きたくなかったんだ。

 大変だったね、とか、気を落とさないでね、とか、その手のことば。

 どれだけうず高く積みあげたところで、死んじまった母さんにも、おれ自身の気持ちにも届かないことば。

 そんなことば、耳にするだけで苦痛だった。

 おれはかわいそうな子供なんかじゃない。そんな考え、十六年おれを育ててくれた母さんに対する最大の侮辱でしかない。

 そんな侮辱を受けるなら、ここで不機嫌な顔をしたまま、ずっと独りでいたっていいと思ってた。

 一生、誰とも口を聞かずにすませたって、いいと思ってた。

 ……思ってたんだよ、本当に。

「おはよ、浅倉くん。なんか、ひっさしぶりィ」

 ころころと笑いを含んだ声が、そのとき、耳元で響いた。

 席についてから、ずっと斜め下四十五度くらいを睨みつけてたおれは、はじめて顔を上げた。

 クラス委員の瀬川真帆が、満面の笑顔でおれを見下ろしていた。駆けっこで一等賞になった小学生低学年みたいな、まるで遠慮のない笑顔。太陽をまともにのぞき込んだような気がした。

「ここ見てよ、ほらー」

 瀬川はそう云って、制服のスカートの裾をぴらっとひるがえす。真っ白な素足がのぞいて、おれはあわてて目をそらす。

「うちの弟、アホタレだからさー、朝ご飯がっついてて、スープこぼしてんの。巻き添えくっちゃって、急いで染み抜きすんの、大変だったよー」

 に、はじまる、たわいのない世間話。

 新鮮だった。

 世間話なんて、ここ数週間、したことがない。

「浅倉くん、痩せたー?」

「そうかな。気にしたことない」

「うっわ。かっこいい」

「なにが?」

「気にしたことない、なんてあたしもさらりと云ってみたいなぁ。男の子ってみんなそうなのかね?」

 瀬川はそう云って、またころころと笑う。

 すらりとした体躯を持つ瀬川に、ボーイッシュなショートカットはよく似合っていた。はきはきと喋り、よく笑う。その姿をおれはいつも遠巻きに眺めていた。こんな風に気軽に話し合う距離にいたことはない。少なくともおれが忌引で休む前は。

 瀬川はおれの前の席にどっかと座り、からだを斜めにひねってこちらを向き、まだ喋っている。

 そこは瀬川の席じゃない。

 席をとられた小島つぐみが、うろたえたようにこちらを見ているのが、目の端に映っていた。瀬川は気がつく様子でもない。しなやかに伸びた手をふりまわし、身振りを交えながら、おれのリアクションなんて気にする様子もなく、喋りつづけた。

 大変だったね、なんて瀬川は云わなかった。その他、おれが聞きたくないセリフは一切吐かなかった。母さんのことも、訊かなかった。

「あ、予鈴鳴った。ほんじゃね、浅倉くん」

 目の前でちいさく手を振ると、瀬川は立ち上がり、自分の席へと歩いていく。もうおれのことなんて忘れたみたいに、自分の席のまわりの友人たちと、二言、三言、ことばを交わしている。

 気をつかってくれたんだろうか。

 そうかもしれない。なんてったって瀬川はクラス委員だし。

 でも、なぜだろう。同情されたっていう屈辱感は、そのときかけらも感じなかった。ただ胸の中にある、ほっこりとした温かいかけらを感じていただけだった。

 それからも、ことある事に瀬川はおれに話しかけてくるようになった。話す内容は、まるで男友達とするようなたわいない馬鹿話。

 こわばった顔で、それでも瀬川と会話を交わしているおれを見て、ぽつぽつと話しかけてくれるクラスメイトも増えた。相沢や、他の友人たちとは、こちらから話しかけて関係を修復した。

 よろよろと、千鳥足で、それでもどうやら前にむかって、おれの学生生活はふたたび進み始めた。

 二学期がはじまると、おれは瀬川の薦めで、半ばむりやりクラスの風紀委員に任命された。

「いや、無理だって。そんなのおれの柄じゃねーよ」

「浅倉くんって、目、つり上がってるじゃん」

 それが瀬川の返事。

「はぁ?」

「なんか、きりっとしてて格好いいよ。風紀委員って顔してる」

「顔で選ぶな、顔で!」

「その“きりっ”顔で、ばんばん風紀の乱れを裁いてちょうだいな。はは」

「だから顔は関係ねーだろ。瀬川、おれは……」

 ただでさえ、家に帰れば自炊をしなけりゃならないし、風呂だって自分で沸かさなきゃ入れない。余計なものなんて抱え込みたくない……。

「浅倉くんって、一学期、欠席多かったでしょ」

 さらっと云った。

「そのせいか、未だにクラスメイトとのあいだに距離を感じるんだよねー、傍から見てて。もうちょっと人に近いところにいたほうがいいよ」

 瀬川は笑った。

「ひとりに慣れちゃダメだよ、浅倉くん」

 そう云う瀬川の目は、真剣だった。

 瀬川が本音らしきものを見せたのは、それが最初で最後だった。

 マジなことを云った自分に照れたのか、瀬川は顔を赤らめて、「アホタレな弟」の話をいきなり早口ではじめる。

 瀬川の馬鹿話をぼんやり聞きながら、おれはこころのなかで母さんのセリフを思い出していた。

(あんたねぇ、友達だけは大事にしなきゃ、ダメなんだからね。浅倉家、鉄の家訓その七、友人は大事にすること!)

 うん。どうやら、友達がひとり増えたみたいだよ、母さん。

 

 

 季節はゆっくりと動いていった。

 おれがなんとか「普通の学生生活」に馴染んでいくあいだに、夏が過ぎ、ひとりぼっちの秋がきた。

 一人きりの食卓の寂しさにはもう慣れたし、自分でつくった料理の味にもすっかり舌が馴染んでいた。

 このまま、ちょっとだけ寂しい、でも平穏な生活がつづいていくんだろうと、そう思っていた。

 おれがあいつに――。

 “異端審問官”に出会うまでは。



「浅倉くん、今晩、うちくる~?」

 通りかかったクラスメイトの女の子が、びくっと肩を跳ね上げてこちらを見る。まるでまわりの視線を気にしないのが、瀬川真帆の偉いところでもあり、困ったところでもある。

 おれはひとつ咳払いを入れて、なるべく声をひそめて答えた。

「こないだ晩ご飯ごちそうになったばっかだろ、そう毎度、ご厄介になってたら、おまえんとこの母さん、渋い顔するんじゃないか?」

「カレー大盛り、おかわりした男のセリフじゃないなぁ」

「いやっ、あれはもういいって云ったのにっ、おまえが皿奪ってむりやりっ」

 瀬川は笑う。

「いいの、いいの、それで。遠慮する男の子なんてつまんないよ。うちの母親だったら、あたし以上になーんにも気にしない人だから」

 十月になった。

 おれはここのところ、頻繁に瀬川の家の夕食に招かれている。

 クラスにはあの二人はつきあっているといううわさも流れている、らしい。

 でもぜんぜん、まったく、かけらも、ミジンコほども、そういうことはない。

 瀬川の様子を見ていればわかる。こいつは困ってる奴とか、孤立してる奴とかを、放っておけないだけなのだ。たぶんおれのことは、捨てられてずぶ濡れになっている野良猫の面倒をみるくらいにしか思ってない。

 瀬川の弟には懐かれているし、瀬川の母親はおれをかわいがってくれている。口数の少ない瀬川の父に、おれは自分の中の父親のイメージを勝手に託していた。居心地の悪さもあったけれど、懐かしい温かさがそこにあったのも事実で、おれは内心罪悪感を感じつつ、ちょくちょく瀬川の家に招かれていた。

「あーれ? 返事がないなー」

 瀬川がそう云って、片方の眉をくっと吊り上げる。急に声を張りあげて、

「遠慮する男の子なんて……!」

「わかった、わかった。もう、なにも云いません……申し訳ないけど、お呼ばれするって。一仕事終えて、家で着替えてからな」

「仕事?」

「例の、校舎の壁」

「ああ……」

 とたんに瀬川が眉を曇らせる。

 昨日、校舎の壁に、赤いペンキで落書きがされた。人の背丈くらいある大きな文字で書かれたその内容は。

 “助けて”。

 たった三文字のその落書きは、大いに物議を醸した。全校朝礼で校長が「思春期における悩みとその解決法について」という題目でとうとうと持論を述べ立てるぐらいには。

 だが、“思春期における悩み”が、ペンキの落書きに青少年を駆り立てる、なんて話、聞いたことがない。二十年以上前には夜の校舎で窓ガラスを割ってまわった生徒もいたらしい。そういう鬱屈もおれには理解不能だが、こちらはもっとわからない。

「なんだろね、あれ」

 瀬川が呆れたような声を出す。

「なんか悩みがあるんなら、スクールカウンセラーにでも相談しとけばいいのに。わざわざ労力をつかって、あんなことをする意味がわかんないなー」

「まぁ、それには同意だけどな」

「……で?」

「で、ってなんだよ」

「それと、浅倉くんと、どういう関係があるの?」

 おれはため息をついた。

「おまえなぁ、自分で仕事を振っておいて、それはないだろう」

「ん?」

「風紀委員だよ。体育倉庫に、去年の文化祭で使ったペンキの残りがあるらしくってさ。上から塗れば、まぁ読めなくはなるだろ。職員室のほうで壁塗りの業者を呼んでるらしいけど、それまで放置じゃ、気分悪いだろ」

 一応、クラス担任の蒲田の許可は、とってある。

「まぁ、あの下品な落書きが、著しく我が校の風紀を乱してるのは事実だけど、ね……」

 瀬川が、考えこむように眉根を寄せる。

「うちのクラスの人間が犯人じゃなきゃいいんだけどな」

「まさか。ねーよ」

 瀬川が、ぐっと身をのりだしてくる。

「ね、手伝おうか?」

「いいよ」

 あわてて首を振る。ふたり仲良くならんで、校舎の横でペンキ塗りなんぞしてた日には、またどんなうわさを立てられるかわからない。

「まーた遠慮するー。大丈夫、いっしょにペンキにまみれてあげるよ」

 瀬川は笑っている。

 結局、瀬川に押しきられ、その日の放課後は瀬川とならんでペンキ塗りに精を出すはめになった。

 壁にむかって刷毛を振りながら、瀬川はえらく楽しそうにはしゃいでいた。

「こういうのって、テンション上がるよね~」

「そうか?」

「うん。弟と犬小屋のペンキ塗りしたときも、めちゃくちゃハイテンションだったもん、わたし」

 瀬川は鼻歌を歌いながら、楽しげに刷毛を振る。

 必死こいて壁に塗りつけたメッセージが、鼻歌とともに消えていくのを見ると、少しだけ犯人に同情したくなった。

「あんまり騒ぐなよ、瀬川、顔にペンキがついてんぞ」

 おれがそう云うと、瀬川はおれの顔をじっと見つめてきた。

 目をつぶり、無言で顔をこちらに近づけてくる。

 一瞬、どきりとした。

 おれは胸の中で心臓が暴れるのを感じながら、わざと平静な顔をして、瀬川の顔をハンカチで拭った。

 小一時間も頑張ると、赤いペンキの文字はほとんど見えなくなった。

 助けて、か。

 そう云いたくなる気持ちはわからないでもない。でも本当、なんだってその気持ちを吐き出す先が校舎の壁なんだろう。

 おれは刷毛を放り出す。どっちにしろ、こんなことをやるやつの気持ちなんておれにはわからないんだ。考えてもしょうがない。

「じゃあね、浅倉くん。家で待ってるからね~」

 手を振って去っていく瀬川と、校門の前で別れた。

 すでに日が暮れかけている。おれは自転車にまたがり、家に向けてペダルを漕ぎだした。

 おれが住んでいるのはちいさな町だ。

 海岸に漂着した昆布みたいに、日本海の沿岸にべったりとくっついた、東西に細長い町。

 昆布にハサミで細かい切れ目をじょきじょきと刻めば、それが沿岸にいくつもあるちいさな浦や港になる。

 港に浮かんでいるのは、錆の浮かんだちいさな漁船だけ。魚探や遠距離航法装置(ローラン)のついた大型漁船でマグロをかっさらって一山当てた、なんて景気のいい話、この町では聞いたことがない。

 大規模な工場や、ビジネス街があるわけでもない。背の低いビルが集まりあって、なんともしょぼい町の中心部を形作っている。めぼしい産業といえば、港のすぐそばにあるカマボコ工場くらいだ。風景だけは絶景なので、小高い丘の上には金持ち連中の別荘地がある。そこから見下ろせる場所に住んでいる多くの住民は、水産工場や半導体メーカーのある隣の大きな市まで、車で仕事に通っている。

 学校からの帰り道、海岸沿いの国道を自転車で走りながら、おれはふと考える。

 二年後、高校を出たら、どこでどうしているんだろうって。

 母方の親戚は自分で会社を構えていて、高校を卒業したら、自分のところにこないかと誘ってくれている。

 でもそうなれば、いま住んでいるあの家に、住んでいられるかどうか、わからない。

 できれば馴染みのあるこの町で、ずっと暮らしたい。でもうまく地元で就職先が見つかるかどうかなんてわからない。どうする? カマボコ工場にでも就職するか?

 働いている自分の姿なんて想像できなかった。そもそも働くというのがどういうことなのかピンとこない。

 先の見通しなんて、びっくりするくらいなかった。

 おれは、どこへ行くんだろう。

 おれは、なにになりたいんだろう。さっぱりわからない……。

 そんなことを思っていたとき、きらりと光ったまぶしいモノが、目を打った。

 なんだ?

 海岸だ。波打ち際で、なにかが沈みゆく太陽の光を反射したらしい。

 気がついたらブレーキをかけていた。

 どうしてそのとき、そんなものに、こころ惹かれたのか――。

 すでにペンキ塗りでからだはへとへとだったし、瀬川の家に行く前に着替えなきゃいけなかった。

 やることは山ほどあったはずなのに。

 なぜかそのとき、その小さな煌めきが、おれのこころをとらえたんだ。

 自転車を止め、ガードレールを乗り越えると、おれは消音ポッドの上を跳びながら、海岸まで下りた。

 すでに沈みかけた夕陽が、海面をオレンジ色に染め上げている。

 波打ち際に、白いかたまりがあった。

 そちらにむかって歩み出すうち、おれの足は早足になった。

 近づくごとに、白いかたまりは輪郭をはっきりとさせる。手が見え、足が見えた。おれは駆けだした。人だ。

 両手を広げ、仰向けに十字型になった人影が、波打ち際に倒れている。

 靴を濡らしながら、あわてて駆け寄ったおれは、だが、その人影を抱き起こすことを躊躇した。

 その人影が、女の子だったからだ。

 それも――。

 打ち寄せる波が、女の子の髪をもてあそぶ。扇形に広がった長い髪の毛にはウェーブがかかっていた。

 波に遊ばれる金色の髪が、夕陽にかがやいて見えた。

 日本人じゃない。外人の女の子だ。思ったよりもずっと幼い。まだ、十歳かそこらじゃないだろうか。上から下までひとつながりになった、白色のワンピースのような服を着て、その上に肩から背中にかけて、黒色のマントのようなものをはおっている。

 胸元には、五稜星のかたちをした金属製の首飾りが下がっている。さっき夕陽を反射したのはおそらくこれだろう。

 夕陽が照らしだした女の子の顔を見て、おれは絶句した。

 人間ではないのではないかと疑うくらい、少女は整った顔立ちをしていた。

 真っ白な肌。赤い唇。長い睫毛。まるで人形かなにかのようだ。

 指で触れれば血が滲みそうな真っ赤な唇から、わずかなうめき声が漏れた。

 おれは膝を折り、少女の頭のそばにかがみこむ。

「おい……おい、大丈夫か?」

 揺り起こそうにも、どこに手をかけていいかわからない。

 黙ってみていると、やがて少女は瞳を開いた。

 青い瞳が、真っ直ぐにおれを射貫く。

 少女はじっとおれを見つめ、一瞬不可解そうな顔をし……。

 それから、にこ、と微笑んだ。

「また……会えました」

 唇から漏れてきたのは。

 流暢な日本語だった。

 わずかに、イントネーションに違和感がある、だがそれ以外はほぼ完璧な日本語だ。

「こんなところで会えるなんて……思いませんでした」

 少女はゆっくりと手を挙げる。

 細く長い指が、おれの頬を撫でる。指の冷たさに、背筋がぞくりとした。

 こいつ……。

 本当に生きている人間なのか?

 これは、夢なんじゃないだろうか。

 おれはどこかで、夢の中に紛れ込んでしまったんじゃないだろうか。

「この……」

 少女が囁く。そのつづきが聞きたくて、おれは顔を少女に近づける。

 この?

「この……」

 少女の赤い唇から息が漏れる。

 おれを見つめる少女の瞳が、ふいにかっと見開かれた。

 勢いよく上半身を起こすと、少女は渾身の右パンチをおれの頬めがけてぶち込んだ。

 

「この、異端めえっ!」


 少女の罵声が響く。

 勢いにおされてうしろに倒れたおれは、砂の上に右肘をつく。

「痛ぇ!」

 遅まきに悲鳴を上げながら、少女が殴った左頬に手を当てる。本当はそれほど大した痛みじゃなかった。なんせ、十歳やそこらの女の子の拳だ。だが痛みより驚きで、おれのからだは痺れていた。

 少女は立ち上がり、服についた砂をはたき落とすと、傲然と上からおれを見下ろした。

「よくもまぁ、わたしのまえにのこのこと顔を出せたものですね!」

 冷たく尖った声が、突き刺さった。

「な」

 あまりのことに、とっさにことばがでてこない。

「なんなんだよ、いったい!」

「それはこっちのセリフです。あなたこそ、わたしの寝込みを襲ってなにをしようとしていたんです、いかがわしい!」

「いかがわ……バカか! おまえみたいな小さな女の子の寝込みを襲う気なんか、あるかぁ! だいたいこんなところで倒れてるのを見りゃ、心配して駆け寄るのは当たり前だろうが。心配したぶん、返せ」

「弄言を」

 少女はかたちの良い眉をひそめ、舌打ちをする。

 右手をびしっと前に突きだし、おれの額のあたりを人差し指で指さし、

「まったく、情けない。自分を恥ずかしいと思わないんですか」

「はぁ?」

「異端のくだらない誘惑に負けた自分を、恥ずかしいと思わないんですかと訊いているんです」

「だから、なに喋ってるかわかんねぇって」

「海のむこうまできて、そんなくだらない言い訳を聞こうとは……わたしもなめられたものですね。しかも、この臭い」

 少女はおれを見つめながら、顔をしかめて、鼻のあたりを片手で覆う。失礼な! 風呂なら毎日入ってる。臭い? はぁ?

「これを運命と思いなさい。わたしと出会えたことが、千載一遇の好機だと。さぁ、改悛なさい」

 そう云い、傲然と胸を張る。

 これが十歳やそこらの女の子の浮かべる表情か?

 良く云えば高貴さただよう、悪く云えば傲慢な、自信と確信のオーラが少女の身体を包んでいた。

「運命? 改悛? おまえが云ってることは一から十までさっぱりわかんねぇんだよ!」

 おれは立ち上がり、少女を見下ろす。

「もう、いいです……ノーチェ」

 少女は海を背後にして立ったまま、何者かに呼びかける。

 少女の影がふいに伸びた。

 背伸びをするように伸びた少女の影は、おれの足元にまでとどく。

 おれにむかっていた右手をいったん下ろすと、少女はそのまますうっと水平に両手を左右に伸ばす。まるでそれに呼応するかのように、少女の影が濃くなる。

 夕陽が、かげる。まるで夜のとばりが薄く引き延ばされ、沈みかけた夕陽より一足先に下りてきたように。

 いったいなにを、云いかけたことばは声にならなかった。

 誰かが、おれの首をおさえている。

 首だけじゃない。両手両足が、なにかにつかまれたように、動かない。

 なにに。わかるわけがない。いくら目をこらしても、そこにはなにも見えない。ただ長く伸びた少女の影が、おれの靴の爪先に落ちているだけだ。

 背筋がぞくりとした。

 耳元で、誰かの息づかいが聞こえる。

 唯一自由になる眼球を思いっきり動かして見ても、そこには誰もいない。

 だが、いる。

 やわらかな吐息が、おれの耳元をくすぐってくる。

 いったい――。

「いいですか、覚悟なさい」

 云いながら、少女が一歩、おれに近寄る。

 なにをする気だ。

 押さえつけてくる力に抵抗して、からだをねじっても、力は強くおれの手足を押さえたまま、放さない。

 きっ、と上目づかいに、少女がおれを睨みつける。

 いきなり右手を挙げると、ぎゅっとにぎりしめた拳で、おれの胸元を殴りつける。

 ぽか。

 ぽかぽかぽか。

 ぽかぽかぽかぽかぽか。

 両手で、何発も、何発も、少女はおれを殴る。

 ぜんぜん痛くない。

 ……というか、むしろ、必死な様が可愛らしい。

 いや、こんな呑気なこと考えてる場合じゃねぇな。

「どうです、少しは目が覚めましたか?」

 ぜいぜいと荒い息を吐き、肩を上下させながら、少女が訊く。

 覚めません。いまも夢の中にいる気分です、はい。

 ノーチェ、少女が呟く。

 すうっと少女の影が後退する。

 おれの全身を押さえつけていた力が、離れた。

 まるで糸の切れたあやつり人形みたいに、おれは海岸の砂浜の上に崩れ落ちる。

「あなたに“慈愛の時間”を与えます」

 おれを見下ろしながら、少女は云った。

「我が神は寛大ですが、裁きは甘くありません。あなたがこれ以上無駄な詭弁を弄するのなら、恐ろしい結果が待っているでしょう。その前に、自らの意志と、自らの声でもって、改悛のこころを示すのです」

 いつのまにか、少女の影は、少女の足元にわだかまっていた。

 そう、これが本来あるべき影の位置なのだ。

「さぁ、異端の少年、答えは」

 少女が訊いた。

 おれの喉から漏れたのは。

 悲鳴だった。

 わけわかんねぇ。

 やべぇ。

 おれははじかれたように立ち上がり、走り出した。背後からなにか異国のことばで叫んでいる声が聞こえてきたが、耳を傾ける余裕などなかった。

 おれはただひたすら、逃げた。

 なんだ、これ、どうなってる?

 なんなんだ、あの女の子は。なんなんだ、あの影は。おれの耳元で聞こえた、あの息づかいは。

 知るか! いまはとにかく走るんだ。大急ぎで戻るんだ。おれをやさしく包んでくれていた、あの日常に!

 ガードレールを飛び越え、置いてあった自転車に飛び乗ると、おれはスタンドすら上げずに全力で自転車をこぎ出した。

 一心不乱にペダルをこぎ、夕陽に照らされた我が家のシルエットが見えてきたときには、ほっとして思わず声を上げそうになった。

 平屋、六畳三間、ダイニングキッチン八畳……の質素な我が家が、黄金の宮殿に見える。

 長い、長い、ブレーキ音をたてて、おれは自転車を止める。

 両足で大地を踏みしめたとたん、冷静さが若干戻ってきた。

 よく考えてみれば。

 これで良かったんだろうか。あのわけのわかんない、異国の女の子を海岸に放り出してきて。

 いまでもまだ、おれの両手はわずかに震えている。あの正体不明の影に対する恐怖は、去ったわけではない。

 だけど、あの少女の様子はあからさまにおかしかった。ひょっとして、若干(どころじゃないが)こころを病んでいるのかも知れない。それにあの子の両親や保護者はどこに行ったんだ? ひとりにしといて大丈夫なのか?

 事情はわからない、だがあの子、普通じゃない様子だった。

 いや待て。待て、待て、待て。それに対する答えはひとつだ。『知るか!』。

 おれには関係のないことだ。あとで気が向いたら警察に電話して保護でも頼んどきゃいい。あとはおれにどうこうできる問題じゃない。

 そう胸の中で呟いた瞬間、脳裏に母さんの顔が浮かんだ。

 黙って、じっとこちらを見つめている、母さんの顔が。

「ああっ、クソっ!」

 おれは自転車から降りると、自転車の向きを百八十度変えた。

 もういちど、あの海岸に戻ることを思うと、身体に震えがきた。

 でも――。

 様子を見るだけ。もっぺん、様子を見てくるだけだ。

 ペダルをこぎ出そうとしたその瞬間、なにかが壊れるようながしゃん、という音が響いた。

 家の中からだ。

 おれは自転車から降りると、家の扉に手をかける。鍵はかかったままだ。

 また、扉の内側から、こんどは積みあげた荷物が崩れるようなどさどさっという音。

 おれはあわてて鍵を開けると、力一杯、扉を開け放った。

 最初に目に入ってきたのは、タイルの上でこなごなに砕け散った花瓶だった。

 その花瓶は、朝まではきちんと下駄箱の上に据えてあった。花なんてもう何ヶ月も飾っていないが。

 靴を脱ぎ捨て、廊下に上がると、おれは音のした方角めがけてまっすぐ、突き当たりの自分の部屋にむかった。

 襖をあけたとたん、まるで小型の台風が通過したあとのような、部屋の惨状が目に飛びこんできた。

 本棚の本はすべて床に散らばり。

 開きっぱなしの押し入れからは、来客用布団が行き倒れの死体みたいにでろんと伸びて、床にまでとどいている。

 タンスや、勉強机の引き出しはすべて開け放たれ。

 そして勉強机の引き出しに手をかけたまま、からだを半分こちらにむけた金髪の少女が、おれを見つめていた。

「お帰りなさい」

 少女は、云った。



「な」

 おれは云った。その先の選択肢は三つ。

 (1)なにをしているんだ。(2)なにものだおまえは。(3)なんだこりゃ。

 三つのことばが頭の中でぐるぐると回り、脳の血管の中でからまりあって閉塞し、出てきたことばは「な」だけだった。

「なにをそんなところでぼんやり突っ立っているんです」

 少女が先手を取った。云いながら、引き抜いた勉強机の引き出しを、ひっくり返す。

 シャープペンシルやら、消しゴムやら、雑多な小物やらが、カオス状態の床に加わる。

「ここはあなたの部屋でしょう? まぬけ面して立ってないで、さっさと入ったらどうなんですか」

 綺麗な顔から出てくる分、その毒舌はなおさらにエグく感じられた。

 少女は引き出しを投げ捨てると、次の引き出しに手をのばそうとする――。

「ちょっと待てぇ!」

 おれは叫んだ。やっと声が出てきた。頑張った、頑張ったぞ、おれの喉。

「なにやってんだおまえは、他人の部屋で! どこから入ってきた? なんでおれの家がわかったんだ?」

 いや、それどころの騒ぎじゃない。

 喋ってる最中に、そのことに気づいておれはぞっとした。

 おれは少女と出会った海岸からここまで、全力で自転車を漕いで帰ってきたんだ。

 途中、寄り道なんかしなかったし、怖くてしょうがなかったから(悪かったな)、休むこともしなかった。

 なんだって、素足の少女がおれより先回りして部屋にいる?

「くだらないこと訊くんですね。あなたが異端である証拠を探しているに決まっているじゃないですか」

 引き出しに伸ばそうとした手を止めて、少女は云った。

「それに、あなたの臭いがいちばん濃いところを辿れば、この悪の巣に辿りつくことなど造作もないことです」

 この野郎、母さんが遺したうちの家を、悪の巣あつかいしやがった!

 いや、待て、おれ、いまはそんなことよりも。

「落ちつこう。落ちついて話そう」

「落ちつく必要があるのは、どう見てもあなただけですよ?」

「うるせぇ! おまえがどんどん話をすっ飛ばしていくから、こっちも追いつくのに必死なんだよ、おまえは……」

 名前。

 そうだ、おれはこいつの名前すら知らない。

「基本から行こう。おれは浅倉春之介。おまえ、名前は?」

 訊ねたとたん、少女は笑った。かたちのいい唇を片側だけきゅっと吊り上げて、馬鹿にしたように微笑む。

 うわぁ、とっても感じの悪い笑顔だぁ。

「異端に名乗る名など、ありません」

 少女はどこか誇らしげに、両手に腰を当て、胸を張って答える。

「わたしのことは、異端審問官とお呼びなさい。聖庁から与えられた、あなたたち異端を裁くための聖なる職務です。あなたが知るべきは、それで充分でしょう」

 絶句したおれを、少女は片方の眉を上げ、どこか不満げに見つめる。

「畏れないのですか?」

 さらに不満げに。

「跪かないのですか?」

 肩書きを聞くだけでなんで跪かなきゃいけない。水戸黄門か。

 少女は――あるいは本人の自己申告によれば“異端審問官”は、こちらの反応を伺うように、じっとおれの顔を見つめている。

「で、その異端審問官さまがおれの家になんの用だ?」

「あなたは、馬鹿なのですね」

 憐れむような目で、異端審問官はおれを見る。

「最初から、やり直さなければならないんですね。いいですか、わたしは、あなたたち異端を裁くために……」

「わかった、わかったから!」

 おれは両手を目の前で激しく振り、少女のことばをあわてて止める。

「でもな、それ、なんかの間違いだから。おれは“異端”なんか知らねぇよ。なんだよそれ、宗教がらみか? うちの寺は浄土真宗だけど、それに文句でもあるってのか? あるんなら浄土真宗門下、一千万人、束になって戦うぞ、おい」

 はったりだった。

 数もでたらめだ。

 だが異端審問官は大きく目を見開き、あからさまに動揺した様子を見せた。

「じょーどしんしゅーとやらは、かなりの数の信者を集めているようですね」

「お、おう。どうだ、びびったか?」

「あなたは、馬鹿なのですね」

 また、憐れむ目。

「異教の人々がどれほど集おうと、そんなものに興味はありません。異教と異端はちがうのです。わたしたちが最後に異教徒と戦ったのは、もう数世紀も前の話ですよ。いまでは聖庁は異教については黙殺の構えです。そんなこと、なんの免罪符にもなりはしません」

「わけがわからん。じゃあ素直におれのことも黙殺しといてくれよ」

「できるわけがありません。あなたは自らの心を汚した、異端なのですから。じょーどしんしゅーとやらへの信仰は、隠れ蓑にすぎません」

「断言しやがった!」

「当たり前です。そんなことが見抜けなくて、異端審問官がつとまりますか」

 わぁ、その誇らしげな顔を引っ込めろ、引っ込めろ、ムカツクから。

「なぁ、それ、間違ってるから。つとまってないから」

「神に感謝なさい」

 異端審問官はおれのことばを黙殺した。

「わたしのような慈悲にあふれる異端審問官に当たったことを。力押しはわたしの好みではありません。あなたの生活を探り、動かぬ証拠をつかんでから、じっくり改悛してもらいますからね」

「証拠。いいじゃないか証拠。出してみろよ、出せるなら」

 ふふん。異端審問官はまた得意げに鼻で笑う。

「余裕があるのはいまのうちですよ。だいたいの目星はついているのです。あなたは……ここに隠しているでしょう!」

 びしっ、と音がするような鋭さで、異端審問官は右手を伸ばす。

 真っ直ぐに伸びた指の先は、ベッドの下を指さしていた。

 おれは脱兎のごとくダッシュして、ベッドに飛びついた。両手をひろげて背後にベッドを庇い、その前に座りこむ。

「ダメ……ここは、ダメ」

 異端審問官はにやー、と相好をくずした。

 それは勝利の微笑だった。ゆっくりと、子供をあやすようにひとつうなずき、少女は胸を張る。

「そうでしょう、そうでしょう。端からそこがあやしいと思っていたんです」

「だったら部屋中荒らす必要、ねぇだろうが!」

「わざとです」

「意味わかんねぇ!」

 云いながら、おれは激しく左右に首を振る。

「とにかく、ここはダメ。ちっちゃい子供に見せられるもんじゃないから」

「わたしを子供扱いしないでください」

 異端審問官はむっとしたように頬をふくらませる。

「これでも立派な異端審問官です」

「とにかく、ダメ。いいか、お兄さんがひとつ、大事なことを教えてやる。年頃の男の子のベッドの下ってのは、漁っちゃだめなんだ。地獄を見るぞ」

 云ったあとで、あ、ヤバイ、と思ったがもう遅い。

 おお、と異端審問官は小さくつぶやいた。罰当たりなことばを耳にしたことをお許しください、そういわんばかりに胸の前で腕を組み、首から下げた五稜星型の首飾りにキスをする。

「いや……地獄っていうのはそういう意味じゃなくてね……もしもし?」

「あなたを見くびっていました」

 異端審問官は真顔だった。

「ただの小物かと思っていましたが……開き直って、そこまではっきりと異端を告白するとは。敵ながら、その気迫だけは見事です」

「いや、あの……」

「わたしも覚悟を決めなおさなくてはなりません」

「もしもーし……帰ってこーい」

 少女の声が、小声で呟く。ノーチェ。

 少女の足元から、生き物のように影が伸びた。またたくまに影は広がり、おれを包み込み、おれの自由を奪う。

 見えない力に押しつけられ、おれはえびぞりにからだを反らせたまま、ベッドに押さえつけられる。

「観念なさい」

 少女はそう云うと、ベッドの下をのぞき込もうとする。

 止めようにも、指一本動かなかった。

「よせっ!」

 かろうじて自由の効く喉をつかって、おれは異端審問官を止めようとする。少女はむろん、聞く耳などもたない様子だ。

 いかん、マズイ。

 かっと頭に血が上った。焦ったおれは、とっさにでまかせを口から迸らせていた。

「そこには母さんの形見が置いてあるんだよ!」

 アホか、おれは。

 こんなセリフ、効くわけがない。

 そう思った。が……。

 異端審問官の動きが、ぴたりと止まった。

 そのまま、時間の動きが止まったのかと思うくらい長いあいだ、少女は動かなかった。

 からだの自由が効かないおれは、少女の様子を伺うことができない。

 見えるのは、ベッドの下をのぞきこんだ、異端審問官の小さなお尻だけ。

 そのお尻がもぞもぞと動き、異端審問官はゆっくりと後退し、畳の上にぺたんと尻餅をついた。

 少女の顔に陰が差していた。

 わけのわからない力で、自分のベッドに押さえつけられている。そんな状況にもかかわらず、おれは少女の顔に見入っていた。

 年齢にはまるで似合わない、大人びた表情だった。さっきまでの顔とまるで違う。憂愁と悔恨の入り交じった、まるで九十歳を過ぎてまだ血に塗れた玉座に座る、老いた帝王が浮かべるような表情だった。 

 噛みしめていた下唇をほどくと、異端審問官はぽつりと一言だけ口から絞り出した。

「……ごめんなさい」

 少女は立ち上がった。服の裾がふわりと広がる。その裾を踏みつけるようないきおいで、異端審問官は踵をかえし、部屋から走り去っていった。

 おれの身体を押さえつけていた力が、ふっと弱まった。

 目には見えない気配が、遠ざかっていく。少女の後を、追ったのだろうか。もはや恐怖を感じる余裕もなく、おれはただ呆然とベッドの前にしゃがみこんでいた。

 荒い息をつきながら、しばらく、そのままでいた。

 それから、のろのろとからだをひねり、ベッドの下にもぐりこむ。

 指先に当たったものを、おれは引きずり出した。

 きれいなお姉さんが、あられもない姿で表紙を飾った、えっちな本。

 悪友の相沢が、含み笑いとともにおれに押しつけていった、『秘蔵:相沢コレクションオールタイムベスト』。ベストというだけあって、中身はかなり強烈だ。小さな女の子なんかに見せたら、トラウマもの必定だろう。

 それを未然に防げたのは良かった。が……。

 おれはベッドに顔を埋めた。

「ごめん、母さん」

 なんだって母さんの形見、なんて口走っちまったんだろう? こんなすけべぇな本一冊守るために。

 胸の中に黒い雲のようにむくむくと、罪悪感がわき起こる。

 うわぁ、めちゃくちゃ後味が悪い。

 おれは立ち上がり、異端審問官のあとを追った。あいつが何者であれ、このまま放っておくわけにもいかない。

 玄関のすぐ外で、異端審問官を見つけた。

 両手をからだの脇にまっすぐにおろした姿勢で、こちらに背を向けて立っている。

 視線は、母さんが植えたペチュニアの花壇にむかっているが、おそらく花なんて目に入っちゃいないだろう。

 声もかけられず、しばらくその背中を見守っていると、異端審問官の右手がふいに動いた。

 広げたてのひらが、自身の右頬をはたく。思いっきり力が入っていたらしく、乾いた大きな音が響いた。

「おい! なにもそこまで……」

「わたしは、未熟者です」

 絞り出すような声で、異端審問官は云った。

「異端であれ、親は子を、子は親を思い、それなりに一生懸命生きている。そのことは思い知っていたはずだったのに……」

 振り向いた異端審問官は、泣きそうな顔をしていた。

「あなたの御母堂の記憶を汚すつもりは、ありませんでした。ごめんなさい」

 ずきぃっ。

 えらい勢いで胸が痛んだ。

 すいません、汚してしまったのは、他の誰でもない、このおれです。

 素早く両目の目元を拭うと、異端審問官はふたたび背筋を伸ばす。

「あなたのことをもっと知りたい……御尊父はどうされたのです。この狭い家で、あなたはひとりで住んでいるのですか?」

「狭くて悪かったな。父さんも、死んだよ。脳溢血だった。小さい頃だったから、おれは写真でしか父さんの顔を覚えてない」

「あなたのような小さな子供が、ひとりで暮らしているなんて……」

「おれよりちんまいヤツに云われたくない。おまえこそどうしたんだよ。父さんや母さんはどこにいるんだ? なんなら、送っていってやるぞ」

「父も、母も、いません」

 どこか寂しげに、異端審問官は微笑んだ。

「異端審問官にそんなものはありません。生まれたときから、ひとりです」

「生まれたときから、って……」

「そう定められているのです」

 異端審問官のことばは、他人事のように淡々としていた。木の股から生まれてきたわけじゃあるまい。生まれてすぐ、両親と生き別れになったってことか。どんなカルト宗教だよ、こいつのいう『聖庁』ってやつは。

「でも、寂しくなんかありませんでしたよ。物心ついた頃から刑吏ノーチェがそばにいましたし」

 その名を聞いて、おれはあわてて異端審問官の影のそばから遠のいた。

「それに、あと二人……」

 云いかけて、なにかを振り払うように、異端審問官は首を振る。

 そのまま黙り込んでしまった異端審問官を見て、おれはため息をつく。

 おれは云った。

「一人で生きてると思うな。たとえ父さんがいなくても、いじけるな……母さんの口癖だったよ。あんたは二本の腕だけ持って生まれてきたんじゃない。見えない腕が他にもあって、それは母さんや、親戚や、友達のみんなの手をぎゅっと握ってるんだ。あんたは一人じゃないんだよ、ってな」

 異端審問官の顔がほころぶ。

「……すてきなお母様ですね」

「まぁな」

「あなたは、亡き御母堂のこころざしを、しっかり胸に抱いて生きているのですね」

 感心したように云う異端審問官を見て、おれは苦笑する。そんなもの悪友たちに言わせれば、『浅倉はマザコン』の一言で終わりなんだが。

 異端審問官が歩き出した。

 立っているおれの横をすり抜け、玄関に入る。

 爪先のとがった、妙な靴を履いたまま、そのままずかずかと廊下を奥へと歩き続ける。おれはあわてて後を追う。

「待てよ、どこへ行く?」

「あなたの部屋です」

 ベッドの上では綺麗なお姉さんがあられもない姿をさらしたままだ。おれはあわてて異端審問官の前に回り込む。

「これ以上、おれの部屋になんの用だよ」

「探索を続行します。あなたが異端である証拠を見つけます」

「なんでだよ!」

 我ながら悲壮感のただよう声で、おれは叫んだ。

「いま、すげーいい雰囲気で、良かったね、さようなら、みたいな感じだったじゃねーか!」

「馬鹿なことを云わないでください。それとこれとは別です。あなたが異端である疑いはかけらも晴れたわけじゃないんですよ」

「だから、異端なんか知らねーって!」

「異端はみんな、そう云うんです」

 おれを押しのけるようにして、異端審問官は部屋に入り込む。

 ぐるりと部屋を見回し、布団が飛び出た押し入れに目をつけると、よいしょ、と声を出して押し入れの上の段に飛び上がる。

 そのまま布団の上で正座して、異端審問官はおれをきっ、と睨みつける。

「わたしもいささか疲れました。捜索は明日に回して、今日は休ませてもらいます」

「なに勝手なこと……は、休む?」

「いいですか……」

 云いながら、異端審問官の目が、とろんと潤む。

「あなたの……尋問は……まだ始まった……ばかり……」

 こてん。

 異端審問官が、いきなり真横に倒れ込んだ。

 駆け寄ったおれの目の前で、異端審問官は健やかな寝息を立てはじめた。

 おれは呆然として異端審問官を見つめていた。からだを半分ひらいた、無防備な姿勢のまま、口をわずかにひらいて、異端審問官は本気で寝ていた。

 そうだよな、ちっちゃい子供って、いきなりこてんと寝るんだよな。

 なんて、呑気に思ってる場合じゃねぇ!

 どうするんだよ、これ、どうするんだ……。

 おれは眠る異端審問官を見下ろしたまま、馬鹿みたいに押し入れの前に突っ立っていた。





 ゆうべのうちに昆布をつけておいた出汁を、鍋ごと火にかける。

 鍋の底に小さな気泡がぷつぷつと浮かび上がってきたころ、昆布を取り出し、代わりに鰹節の五グラムパックの中身を放りこむ。

 まな板の上では、熱湯を回しかけた油揚げと、大根が、短冊形に切りそろえられてスタンバイ中だ。

 網焼きの上では、アジの干物が香ばしい匂いをあげている。

 漬け物は、白菜ときゅうりの浅漬けだ。

 エプロンの前で濡れた手を拭うと、おれは一息ついた。

 一人暮らしを初めて半年近く、すでになにも考えずに手が勝手に動くくらいには、おれは自炊に慣れてしまっていた。

 おれが三食、自分でメシを作っていると聞いて、クラスの女子のあいだでおれの株が一時的に急上昇したことがあったらしい。

 でもそれは大いなる誤解というやつだ。

 おれは“自炊”をしてるだけで“料理”が趣味なわけじゃ、ない。流行りの草食系男子とはジャンルが別だぞー、女子。手持ちのレシピは指折り数えられる程度だし、その中身は、どこの家庭の食卓にもならぶような基本アイテムばっかりだ。

 母さんの遺産と他人様の金で食っている身だ、豪華さで目を引く料理なんて作れるはずもない。

 それでもおれは、メシを作るのが、きらいじゃなかった。

 自炊に熱中しているあいだは、余計なことを考えずに済むからだ。

 たとえば……いま、部屋の押し入れで寝くたれている“あいつ”のことなんかを。

 クソっ、一息ついたら、いろいろ思いだしちまった。

 昨日、押し入れの前で頭を抱えて、小一時間ぐるぐるあたりを回ってたこととか。ベッドに入ってからもほとんど眠れず、悶々としていたこととか。

 朝食の準備が整うと、おれは丸めたエプロンを椅子の上に放り投げ、ため息をついた。

 そろそろ、現実と向き合う頃合いだ。

「おい、起きろ! 朝飯……」

 扉を開けて大声で叫んだ。

 ……つもりだったが、ことばの後半は口の中で舌とからまり、消えていった。

 開けっ放しの押し入れの前に、見知らぬ少女が立っている。

 年の頃は十歳前後、どう見ても日本人ではない。

 だが、あの“異端審問官”でも、ない。

 まず目に飛びこんできたのは、腰まで伸びた、長い銀色の髪。

 銀色、というよりむしろ白色と云ったほうが近いかも知れない。色素の抜けたように白い、真っ直ぐな髪。

 こちらにむいた横顔は、髪と負けず劣らず真っ白だ。尋常な白さじゃない。

 見開いた大きな瞳、血の気のない唇、まるっきりの無表情。

 ゆうべ、異端審問官を初めて見た時、まるで人形のようだと思った。その形容詞は、この少女にこそ相応しいかもしれない。少女にはまるっきり生きている人間の生気というものがない。

 少女は、異端審問官の眠っている押し入れをじっと見下ろしている。

 両袖のところでしぼってある、フリルのついた寝間着は、薄いピンク。

 血の気のない左手には、クマのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめている。

 そしてその姿は――。

 透けていた。

 半透明な少女の顔越しに、部屋の風景がぼんやりと見える。ピンクの寝間着も、クマのぬいぐるみも、少女が身にまとうすべてが半透明に透けていた。

 生気がないどころではない。

 これではまるで……まるで……。

 喉元までこみ上げた、幽霊、ということばを、たまった唾といっしょに飲み込むと、少女が気配に気づいたのか、こちらを振り返った。

 光のまったく差さない黒い瞳が、おれを見つめる。

 少女の顔が、わずかにほころんだ。いたずらっぽい顔で、唇の前に人差し指を立てる。

 静かに、そう云いたいのだろうか。異端審問官はまだ眠っているから、と。

 少女は異端審問官の方を振り返り、それからふわりと浮き上がった。

 声を出すヒマもなかった。少女のからだはさらに透けてゆき、異端審問官のからだの上に頭から飛びこむようにして、その姿は毛布の中に溶けて消えた。

 部屋の中はしん、として音ひとつしない。

 自分の呼吸の音が、やたらうるさく響いた。

 あれはなんだ?

 まさか、あれが……異端審問官の云う、“ノーチェ”ってヤツか?

 ふいに沈黙が破られ、おれはびくりとからだを震わせる。

 押し入れの上で毛布の塊がもぞもぞと動いた。

 うー、とも、あー、ともつかないくぐもった声が、毛布の下から漏れる。

 長い吐息を、おれは吐き出した。いまのは……見なかったことにしよう。現実だ、現実。浅倉家、鉄の家訓その三、朝食は生活の基本。すべてに優先する。朝飯を抜く子は、死刑。

「おい、起きろ、飯だ、っつってんだろ!」

 おれはそう云って、押し入れに近づき、毛布を半分めくる。

 毛布に触れるとき、さっきの幽霊がふいに手を伸ばしてきたら、そう思ってぞっとしたが、むろんそんなことはなかった。

 異端審問官は白のワンピースに黒のマントという昨日の格好のまま、両手を大の字に広げて眠りこけている。

 ちいさい子供特有の、乳臭い体臭が匂った。

 それにかすかに、潮の匂いも。

 睨みつけているおれの前で、異端審問官はうっすらと瞼をひらき、小さな声で呟いた。

「修道士(モナコ)?」

 昨日の覇気なんてかけらも伺えない、間の抜けた声だ。モナコ?

「まだ眠いです。お水……顔を洗うお水、どこですか」

「顔が洗いたきゃ、洗面所に行って自分で洗え!」

 耳元で怒鳴ると、異端審問官はしぶしぶ、といった感じでからだを起こした。両手で目元をこすり、はう、と息をつく。目の焦点があっていない。こいつ、きっと相当な低血圧だ。

「とにかく、飯を食え。料理が冷めちまうし、おれは学校に行く準備だってしなきゃいけないんだ」

 おれは異端審問官を押し入れから下ろし、そのまま引きずるようにして台所まで歩いていく。

「これ……なんですか?」

 食卓にならんだ、鯵の干物と、大根と油揚げの味噌汁と、きゅうりと白菜の浅漬けを眺めて、異端審問官が云った。

「見りゃわかるだろ。朝飯だ」

 客用の茶碗にごはんをよそってやりながら、おれは答える。手振りで座れ、と合図すると、素直に椅子に腰かけた。

「ごは……ん?」

 意味がわからないというように、異端審問官が首を傾げる。

「ペイストリーが食べたい」

「そんな気の利いたもん、うちにはねぇ」

「カフェラッテが飲みたい」

「ねえって云ってんだ」

 くしゃり、と異端審問官の顔が歪む。

「びんぼうなんだ……かわいそう」

「和食をバカにすんな! そこまで貧乏じゃねぇ!」

 調子が狂う。

 なんだこいつは、ゆうべの勢いはどこに云った? こうして目の前で食卓についているこいつは、どっからどうみても幼い、ただのガキにしか見えない。

 異端審問官は、のろのろと頭を動かし、ゆっくりと食卓の上を見回し、箸に目をつけた。両手で一本づつ、箸を握る。そのままナイフとフォークみたいにして、両手でかまえた。

 思わず声を上げると、異端審問官がのろのろとこちらを見る。

「あー……まぁいいや。外人さんに箸をちゃんと使えって云ったって、いきなりは無理だよな。今日だけは見逃してやる。好きに食え」

 今日だけは?

 自分で云ったことばに、自分で驚く。なに云っとんだ、おれは。今日こそは警察に届けなきゃならん。こいつとはそこでバイバイだ。楽しい(楽しくない!)異端審問ごっこは、それでおしまいだ。

 必死でアジの干物と格闘している姿は、やっぱりただの子供だ。

 夢だったんだ。

 昨日のあれは、きっとなにかの間違いで、悪い夢だったんだ。迷子の子供と、一晩彼女を保護した優しいお兄さん。この物語に結末をつけるならそんなところだろう。

 そんなことを思っていたとき、誰かが玄関の扉を開ける気配がした。遅れて、ノックの音。

「浅倉くーん。いるー?」

 瀬川真帆の声だった。

 おれは、あ、と声を上げそうになる。椅子に座りかけた腰を再び浮かして、おれは玄関に歩いていく。

 すっかり忘れていた、昨夜は瀬川の家でご馳走になる約束をして……すっぽかしちまった。

「なんだ、元気じゃん。ひどいなぁ。ゆうべはだいぶ心配したんだよ」

 瀬川は、玄関の扉に片手を添えたまま、首をちょっと傾げてこちらを眺めている。短く切りそろえた髪の上で、斜めにさした朝日が踊っていた。

 こうやって見ると、こいつ、やっぱり、可愛い。朝っぱらから自分の家の玄関に可愛い女の子がいるってのはいいもんだ。こんな状況じゃなければ。

「わりぃ……いろいろ、あってさ」

 おれは云いながら、さりげなく玄関の外に瀬川を誘導して、扉を閉める。ここに異端審問官が顔を出したら厄介だ。

「だったら、電話くらいくれてもよかったじゃない。ずっと、待ってたのに」

「ごめん」

「携帯だって、何回も鳴らしたんだよ」

 携帯なら、おれの平和な日常といっしょに、カバンの下に眠ったままだ。

「ほんと、悪かったよ。出る余裕もなくてさ」

「で、いろいろってなに? ちゃんと聞かせてよ」

「いろいろ、は……いろいろ」

「それじゃあ、ちっともわかんないよ」

「壮絶な、凶暴な、めくるめく、いろいろ」

「ねぇ、浅倉くん。人が真面目に心配してるのに……」

 云いかけた瀬川が、ぴたりと口を閉ざす。なにかに耳を傾けるように、また首を傾げる。

 どたどたと、廊下を駆けてくる遠い音。

 あれは、まさか。

 もしや。


「そこになおれっ、異端めぇっ!」 

 

 ばーんと音を立てて扉が開く。悪い予感が的中した。怒りに顔を歪めた異端審問官は、まっすぐに瀬川を睨みつけている……え、瀬川?

 瀬川にとびかかろうとした異端審問官を、おれはあわてて両手で抱きかかえて止める。からだをひねっておれの両手を振り払うと、異端審問官はきっ、とおれを睨みつけた。

「この上、どう言い逃れをしようと云うのです?」

「なんのことだよ……クソっ、いろいろ台無しだ」

 瀬川にどう言い訳すりゃいいんだろ。ああ、もう、なんだって朝からこんな厄介事を背負い込まなきゃならんのか。

「とぼけないでください! 一人ならずも二人まで」

 びしっ、と伸ばした右手の先で、瀬川を指さし、

「異端があらわれたいま、言い訳することばなどないはずです! この家は異端の巣に決定です! 異端です!」

「おまえ、飯の途中だったろ? 飯は残さず食ったのか?」

「ふん、異端の施しなど受けません!」

「食ってたじゃねぇか、もりもりと食ってたぞ、おまえ」

「……敵をあざむくにはまず己から、です」

「それを云うなら味方から、だろ。とにかく、最後まで食ってないんだな、おまえ」

 おれは右手の中指を丸め、ぐっと力を込める。

 異端審問官のひろい額に照準を定め、一発、デコピン。

 異端審問官は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。

「食事の途中で、意味もなく席を立つ子は、悪い子だ。御飯は常に感謝しながら食わなきゃならん……浅倉家、鉄の家訓その二だ」

「暴力を……ふるいましたね」

 異端審問官は恐ろしげに身を震わせる。

「とうとう本性を現しましたか。次はどうするつもりです? わたしを柱にくくりつけて、鞭打ちですか?」

「そこまでしねぇよ」

 どういう環境で育ってきたんだ、こいつは。

 呆れていると、いきなりうしろから頭を殴られた。

 振り返ると、瀬川真帆が、ちょうど両手に抱えた学生カバンを振りおろしたところだった。

「ちいさな子に乱暴にしちゃだめでしょ。なに考えてんだよ、まったく」

 瀬川はぷりぷりと怒っている。

 この異常な状況を見て、出てきたリアクションがそれかい。

 他にツッコミどころは山ほど在るだろう、瀬川。

 呆れすぎて口もきけなくなったおれにかまわず、瀬川は微笑みながら、異端審問官の前にしゃがみこむ。

「ね、悪いお兄ちゃんだねぇ……あなた、お名前は?」 

 異端審問官はここぞとばかりに胸を張る。

「異端に名乗る名など……」

「え、なぁに?」

 瀬川はそう云って、ぐいっと顔を異端審問官に近づける。

 鼻白んだ異端審問官は、一瞬、ことばに詰まった。

「……異端審問官」

「イタンシンモンカン? 変わった名前だねぇ、じゃあ、モンちゃんだ」

 モンちゃん?

 シンモンカン、のモンか? 瀬川、おまえ、センスへんだぞ。

「モンちゃんは、お弁当つけて、どこに行くのかなー」

 瀬川の指が、異端審問官の方に伸びる。

 びくりと肩を震わせた異端審問官にかまわず、瀬川は異端審問官の頬についた御飯粒を拾いあげ、彼女の目の前で見せて、ふふふ、と笑う。

 そのまま御飯粒を、自分の口の中に放りこんだ。

「ん、モンちゃんのお弁当、おいしい」

 瀬川はそう云って、にこにこ微笑んでいる。

 あけっぴろげな微笑を浮かべたその顔は、まるで天使の笑顔に見えた。

 異端審問官は、呆然と口を開けて、瀬川の顔を見つめている。

「モンちゃんも、あんまり乱暴なことば、使っちゃだめだよ。ちいさい頃からそんなことば遣いしてたら、癖になっちゃうから……ね?」

 瀬川は云いながら、異端審問官の頭をくしゃくしゃと撫でる。異端審問官が、耳まで真っ赤になった。

「くっ……一時、撤退します」

 云うなり、踵を返し、玄関の中に走り込む。どたどたと廊下を駆けていく音が響いた。

 コブラ対マングース。

 あるいはナメクジに塩か。異端審問官にとって、瀬川はどうやら調子の狂う相手だったらしい。

「さて、と」

 云いながら、瀬川は立ち上がり、まっすぐおれを見つめてくる。おっと、次はおれか。

「どうやらあの子が、ゆうべあった“いろいろ”みたいだね」

「……ご推察の通りで」

 おれは云いながら、右手で頭を猛烈にかきむしる。出てこい、言い訳。

「ええと、なんていうか……」

「かわいい子だったねぇ、外国の、親戚かなにか?」

「え? ああ、うん、そうなんだ。しばらく預かってくれって、頼まれちゃってさ」

「そうなんだ。だったらゆうべは、一緒に連れてくればよかったのに」

「いや、それはどうかなー」

 阿鼻叫喚の修羅場を、他人様のお茶の間にまで、持ち込みたくはない。

「浅倉くん一人の所に、あの子まで預かっちゃって、大丈夫?」

「まぁ、長い間じゃないから。ほんのちょっと、出張かなんかに行ってるらしくてさ」

 泥縄もいいところの言い訳。

 嘘なんかつくつもりもないのに、どんどん嘘が広がっていく。許せ、瀬川。

「そんなわけでさ、ちょっと、あいつの面倒見なくちゃいけないから、一緒に学校には行けそうにないわ」

「今日、来るんでしょう、学校」

「行く行く。悪いけど先にいっといてくれないかな」

 瀬川は、ちょいと首を傾げて考えこみ、それから笑顔でうなずいた。

「わかった。頑張ってね、浅倉くん、応援してる」

 応援されてしまった。

 笑顔で立ち去る瀬川を見送りながら、おれのこころは荒れに荒れていた。さぁ、山ほどついた嘘の後始末を、どうすりゃいいんだろう。

 家にとって返すと、異端審問官は部屋の真ん中でこちらに背を向けて立ちつくしていた。

「……不快です」

 こちらを振り返りもせずに、一言、そう云った。

「まんまと異端に、手玉にとられてしまいました」

「瀬川ってのはああいうヤツなんだよ」

 おれは苦笑する。分け隔てなく、誰にでもやさしく接し、人間を信じている。そういうやつだ、瀬川ってやつは。そういえば、おれだって手玉に取られたうちの一人だ。

 さて、と。

 どうするか。このまま学校を休んで警察に直行って手もあるが、そうするとこんどは学校に言い訳するのが面倒だ。

「おまえ、ひとりでお留守番、できるか?」

「馬鹿にしないでください! 子供じゃありません。わたしは立派な――」

「異端審問官さま。そりゃ結構。おれ、学校行かなきゃいけねーんだわ。昼飯はなんかてきとーに作って、テーブルの上に置いておく。ラップかけとくから、レンジで温めて食え。レンジの使い方、わかるか? 食器棚の横にあったろ?」

「ふん。異端のオンボロ機械なんか触る気もしません。どうせこんな東洋の島国、聖庁より百年は文化が遅れてるに決まってます」

 ……わぁ、すごい見下し方をされたぞ、いま。おれの住んでる国、まるごと。

 おれはため息をつく。ま、冷えてもそれなりに食える料理をちゃちゃっと作っておいてやればいいだろう。具なしチャーハンとか。

「スプーンは食器棚にある。見りゃ、場所ぐらいわかんだろ。おまえのことは、学校から帰ってきてから、ゆっくり考えっから。それまでこの家から出るなよ……ああ、それと、おれがいないあいだに、昨日みたいにそのあたりの物、勝手にいじるな。昨夜は片づけるのにどれだけ苦労したと思ってんだ」

「ええ、わかっています」

 異端審問官は振り返り、おれの瞳をじっと見つめる。

「あなたの御母堂の記憶を汚すような真似は、二度としません」

 なんか、果てしもなくイヤな予感がするのは気のせいだろうか。

 おれは頭を振りながら、制服に着替える準備をする。



 朝の学校には、いつもどおりの気怠い雰囲気がただよっていた。

 物憂げな顔で教室をめざす学生たちのあいだを、おれは一人、鼻歌でも歌いたい気分で歩いていく。校門をくぐったとたん、がぜん気分が良くなった。

 いつもと変わらない退屈な授業が待っているのだと思うと、心がはずむ。

 現代国語の教師のしかめっ面を思うだけで、心は薔薇色だ。

 ビバ日常。ビバ平和。願わくば、せめて放課後まで、この安らかな気分がつづきますように。

 おれのささやかな願いは、ものの数分も経たないうちに見事に粉砕された。

 教室の前に、人だかりができている。

 青いブレザーの制服の群れが、開きっぱなしの教室のドアを塞いでいた。見れば、他のクラスの生徒の姿も混ざっている。

 その最後尾で、ツインテールの小柄な少女がふたり、ぴょんこぴょんこと飛び跳ねている。

「見えないー」

「見えないねー」

 代わる代わるに飛び跳ねて、教室の中をうかがおうとしているのは、うちのクラスの辻田姉妹だった。ツインテールの方が姉のこよみで、ツインテールの方が妹のかれん。顔で見分けがつかないんだから、せめて髪型くらい変えてくれよ、と思う。

 ともあれ、小学生かと思うくらいの背丈の低い二人組が、一生懸命飛び跳ねている姿を見て、おれのこころは大いに和んだ。一瞬だけだが。

 気配に気づいたのか、二人は同時に振り返る。

「あ、浅倉くんだー」

「あ、浅倉くんだー」

 なんですか、一卵性双生児業界(あるのか?)には、事あるごとに狙ってハモれ、という鉄の掟でもあるのですか?

「おはよう……なんだよ、この騒ぎ」

「それがさー」

「わかんないの」

「わたしたちが来たときにはさー」

「なんか、わいわいしてて」

「なんかねー」

「黒板に落書きがしてあるみたいなんだけど」

 落書き?

 きのう、校舎の壁めがけて必死で刷毛を振るったあの感触が、否が応でも蘇る。

 ブレザーの人ごみを掻き分けるようにして、おれは教室のなかにむりやり割り込む。

 廊下の人だかりに比べて、教室の中はがらんとしていた。

 クラスの女王的存在である篠崎由香里と、その取り巻きたちの姿が嫌でも目につく。

 教室後部の指定座席で、篠崎たちは騒ぎにはそしらぬフリで、ゆうべのテレビの話題で盛り上がっている。

 その他には、教卓のまわりを取り囲んだ、四、五人の生徒。

「ねえっ、誰か、代わりにやってよ!」

 途方にくれたような声を出しているのは、小島つぐみ。バスケット部に所属している、いつも明るい女の子だが、きょうは様子が違う。

「わたし、やだ、こんなのに触るの!」

 小島はそう云って、片手に握った黒板消しの先で、黒板を差す。

 黒板には大書きの文字が描かれていた。

 ピンクのチョークで、たった三文字、

 

 助けて

 

 と。

 たった三文字、というが、それが普通じゃない執念で描かれたことは一目で見て取れた。

 文字はささくれだっていた。縦の線一本引くだけでも、おそらくは何度も、何度も、チョークを黒板に振るい、それを束にして太い一本の線にしてある。文字の太さは、大きな黒板をほとんど覆い尽くしていた。

 ただ単に、ささっと落書きしてみました、なんて可愛いもんじゃ、これはない。

「あんたが消しなよ、日直でしょう。あたし、ヤだ」

 そう云ったのは、保健委員の梶谷良子。小島とは親友のはずだが、こんなときには友情はもろい、らしい。黒板消しを押しつけられてはたまらないと、後ろ手で腕を組んで、思いっきり頭を振っている。

「わたしだってヤだよ。なんか消したら呪われそうじゃん」

 小島が云う。たしかにその尖った文字には、鬼気迫るような切迫感が感じられる。

 その割に、伝えたいことはあやふやだ。

 誰を助けて欲しいんだ。

 なにから助けて欲しいんだ。

 ここまでやるほど、なにに切羽詰まってるんだ。

 さっぱり、わからない。

「いじめなんじゃないのー?」

 教室のうしろから、大きな声が響いた。

 篠崎由香里は椅子に腰かけたまま、胸の前で腕を組み、不敵ににやにやと笑っている。

「誰か、陰でこっそりハブられてるとかさ。それで誰かに助け求めてるとか。心当たりあるひと、いるんじゃない?」

 由香里はそう云って、入り口のあたりにひしめいたブレザーの群れを流し目で見る。声にならないざわめきが広がった。

「わたしだったらみっともなくて、こんなマネできないけどね」

 由香里はそう云って、含み笑いを漏らす。篠崎由香里は成績も優秀だし、なによりぱっと目で人を惹きつける華やかさがある。たしかに、こんなやり方で助けをもとめるような切実さとは無縁だろう。

 落ち着かない雰囲気が、あたりを支配した。

 誰もがきょろきょろと周りを見回し、互いの顔色をうかがっている。

 このクラスでいじめがあったという話は聞かない。誰かのうわさにでさえ。

 うちのクラスはよく云えば平穏、悪く云えばぬるま湯的な雰囲気で、生徒はグループごとに区分けされ、目立って孤立した生徒もいない。あえて孤立しているというなら、生活環境で浮いてる、おれだ。

 だが教室という空間で誰かが助けを求めているというなら、いじめという答えが、確かにいちばん現実的な解釈かもしれない。

「どーすんの、もうすぐ予鈴、鳴っちゃうよ」

 小島つぐみが、おどおどした声を出す。

 その時、すうっとおれの横を誰かが通り抜けていく気配がした。

 瀬川だ。

 瀬川は途方にくれて立ちつくしている小島の元にまっすぐ歩いていくと、その手から黒板を奪い取った。

 ためらいもせず、黒板にむかう。黒板消しが、みるみるピンクに染まっていく。

「ちょ、ちょっと真帆」

「気にすることないよ」

 振り向いた瀬川は、小島をあやすように、にっこりと微笑んで見せた。

「こんなの、ただのいたずらだって。本気で助けを求めたい人が、こんなやり方、するはずない」

 黒板の文字を半分くらい消したところで、瀬川は黒板消しを置き、両手を叩いて鳴らす。

「さぁ、もうすぐ予鈴が鳴るよ。他のクラスの人はとっとと自分のクラスに戻って。それ以外は全員、自分の席につく。試験まで間もないんだし、みんな遊んでるヒマ、ないでしょ」

 ざわめきを残しながら、それでもブレザーの群れは散っていく。篠崎由香里は、面白くもなさそうにそっぽを向いている。

 黒板を綺麗に消してしまうと、瀬川は真っ直ぐおれの方に近寄ってきた。

「悪い予感があたっちゃったね」

 声をひそめて、瀬川は云う。

 よほど酔狂な他人の仕業でない限り――そもそも、黒板にメッセージを残すなんて行為自体が酔狂だが――落書きの犯人は、うちのクラスの生徒、ということになる。

「どうなのかな」

 おれは云った。本当に、ただのいたずらなのか。

「わかんないよ。わたしもああは云ったけど、確信なんてない……あとで二人で、相談しない?」

「ああ、いいよ」

 おれはうなずく。風紀委員の仕事の範疇ではすでに無くなった気はするが、このまま放っておくのも後味が悪い。

 瀬川は、自分の席に戻っていく。おれも、どこか落ち着かない気分で、自分の席についた。

 予鈴が、鳴った。

 がらり、と扉がひらく。

 うちの制服を着た一人の少女が、戸口に姿を現した。

 ざわめきの残る教室が、一瞬で静まりかえった。

 見覚えのない顔だ。違うクラスの子かも知れない。だが、教室中が一瞬で静まりかえった理由は、そこじゃない。

 すらりと通った鼻筋。長い睫毛。純和風、という形容詞がぴったりくる端整な顔立ち。

 手足の長い、モデルのようなプロポーション。

 つややかな黒い髪は長く腰のあたりまで伸び、うしろで一本にくくられている。

 そこに立っているのは、とんでもない美人だった。

 クラスには一人はいるような、ちょっと目立つ可愛い子、レベルじゃない。

 父は映画俳優で母は元宝塚、生まれも育ちもサラブレッドでございます、といわれても、そうでございましょうともとひれ伏してしまうような桁外れの美しさだ。

 少女はつかつかと無言で教室に入ってくると、教壇の横に立ち、こちらをむいた。

 教室中の視線が集中する中、その視線にひるみもせず、堂々とまわりを見返してみせる。

 その視線が、おれの真上まできたとき、ぴたりと止まった。

 少女の瞳が、真っ直ぐにおれを射る。理由はわからないが、おれは背筋がぞくりとした。

「おう、今日はやけに静かだな」

 聞きなれた声が、教室に響く。担任の蒲田が入ってくる。無神経に響くどら声が、いまは妙に心強い。みなも同じ気持ちだったのだろう。張り詰めた空気が、やわらぐ気配がした。

「みんなに紹介するぞ。転校生の黒瀬眞清だ。お父さんの仕事の都合で、鳥取から急遽こちらに転校してくることになった。よろしく頼むぞ。黒瀬、あいさつを」

 蒲田に振られ、黒瀬は蒲田の方を見ることもなく、口をひらいた。

「よろしく」

 そう云ったきり、黙り込む。張り詰めた、凛とした声だった。

 その声の余韻が消えていくと、教室をまたしんとした静けさが覆う。

 さすがに居心地が悪くなったのか、蒲田がひとつ、咳払いをする。

「席は、浅倉のうしろが空いてるな。黒瀬、あそこに座れ。教科書は届くまで、隣の八代から見せてもらうように」

 黒瀬と呼ばれた少女は、うなずくでもなく、蒲田の指示に従う。

 歩いていくその姿に、まだ視線は集中していた。

 おれの横を通り過ぎる時、視線があった。

 黒瀬は、表情一つ変えないまま、真っ直ぐにおれの顔を見ている。

 なぜだろう。

 おれはそのとき、鷹に狙われた鼠みたいな気分になって、固まっていることしかできなかった。

 背後で、黒瀬がカバンを開ける気配がする。八代が控えめな声で、よろしく、と声をかける。よろしく、黒瀬はごく普通に返事をした。

 だが、黒瀬はまだおれを見ている。視線を、感じる。

 振り返る勇気などあるはずはなく、おれは退屈なホームルームに集中するふりをしていた。

 


 三時間目は体育だった。

 バスケットのメンバーからあぶれたおれは、体育館の壁にもたれて、隣のコートで試合をしている女子のほうを眺めていた。

 視線は自然と、黒瀬眞清を追う。

 教科書も持っていない転校生が、どこでどうやって体操着を手に入れたのやら、黒瀬眞清はコートの真ん中で相手チームの追撃を華麗なドリブルでかわしていた。

 体育館の床でシューズが反転する、鋭い音。

 黒瀬眞清はそのままスピードをあげて相手のコートに突進し、ボールを持ったまま高々とジャンプした。

 ゴールのネットが音をたてて揺れた。ダンクシュート。見学していた生徒のあいだから、一斉に拍手があがる。

「さっきから目が泳いでんなぁ、おい」

 相沢がそう云って、おれの首を絞めながら耳元で囁いてくる。

「さっそく黒瀬眞清をロックオンか? 倍率高ぇぞ」 

 相沢はそう云ってにやにや笑っている。ウザい。

 というか、おまえの『オールタイムベスト』のおかげで、おれはどれだけ心乱れる思いを味わったことか……貸してくれた本を受けとったのは、おれだが。

「ウワサ、聞いてるか?」

「なんだよ……首、放せ」

「あいつ、編入テストで満点とったらしいぞ。蒲田の希望の星だってよ」

 うへぇ、文武両道かよ。

 おまけにあのルックス。神さまは不公平だ。女子のあいだにただよう不穏な空気にも納得がいく。女王の座から転落しそうな篠崎由香里は、さっきからやたら不機嫌な顔で、やる気なくコートをほっつき歩いている。

「つーか、正直、頭の出来なんてどうでもいいよなぁ。たまらんわ、あの眩しいお姿」

 相沢が云う。頼む、ひとの耳元で息を荒くするな。

 しかし、云われてみれば――。

 ハーフパンツからすらりと伸びた黒瀬の足には、人の目を惹きつける謎の引力がある。ふくよかなふくらはぎといい、きゅっと締まった足首といい、あまりに見事な――。

 いや、いや。

 あんまり見つめていると、また目が合ってばつの悪い思いをするかも知れない。おれはむりやり、自分の視線を黒瀬からひっぺがした。

 体育の授業のあと、水飲み場で水を飲んでいると、うしろからいきなり瀬川に声を掛けられた。

「見てたでしょ、黒瀬さん」

 おれは口から盛大に水を吹き出す。

「べつに、いいけどね。綺麗だもんね、彼女」

 咳きこみながら振り返ると、体操着姿の瀬川が腰に手を当て、不機嫌そうな顔でおれを見つめている。

「……そんなに見てたかな、おれ」

「べつに、いいって云ってるでしょ。綺麗な子に目がいくのはしょうがないじゃない」

「いや、べつに黒瀬が綺麗で見とれてた、ってわけじゃ」

「じゃあ、どんな理由?」

 妙に、からむなぁ。

 瀬川にしては、珍しい。

「あとで二人で話そうって云ったこととか、さっぱりと忘れてるでしょ」

「そんなこと、ないって。ちゃんと覚えてるよ」

 どうだか、という顔をして、瀬川はため息をつく。

「で、どう? ただのいたずらだと思う?」

「どうだかなぁ。いたずらにしちゃ手間がかかりすぎてる気もするし。内容もなんだか不気味だしなぁ。蒲田に話してみるか?」

 瀬川は首を振る。

「あんまり、意味ないと思う」

 たしかに超ド級の無神経さを誇る蒲田に相談なんかしたら、終礼後のホームルームでいきなり、いじめをしてるのはどいつだぁ! なんて説教を始め出す恐れがある。

「二回目があったってことは、三回目もあんのかな?」

「どうだろうね。ここ、いまどきの学校にしてはセキュリティ甘いしね。夜中に忍び込んで落書きとかされたなら、防ぎようがないし。だいいち、そこまでして防ぐ理由もないでしょう」

 確かに、実害はない。

 放っておいてもどうということはない、本当にただの“いたずら”だ。

 それがもし、本当に助けを求める叫びでなければ、の話だが。だが本物のSOSだったとして、助けを求める理由すらわからない相手に、どうやって手をさしのべればいい?

「それはそれとして、浅倉くん、今晩うち来る?」

 瀬川が云った。こいつにはいつもどきりとさせられる。

「ゆうべはうちの母さん、がっかりしてたよ。弟も楽しみにしてたしさ」

「今晩……は、いけそうにないかなぁ」

 家に帰れば、あの異端審問官が待っている。

 今日こそは、あいつを連れて警察に行かなければならない。そこで事情聴取うんぬんで、引き留められる恐れも大いにあった。

「そうか、モンちゃんが待ってるもんね」

 瀬川は、どこか寂しげにそう云って、笑う。

「じゃあ、こんど、いつか来てね。待ってるから。うちの父さんもさ、息子ができたみたいだなんて云って、喜んでたんだよ。家族全員、みんな待ってるからね」

 瀬川はそう云って、潤んだ瞳でじっとおれを見つめてくる。

「……もちろんわたしも、ね」

 じんときた。

 こんな親無し子のおれにだって、やさしくしてくれる友達はいるんだ。心の底からありがたいと思う。瀬川、おまえはきっと天国に行けるよ。早々、行って欲しくはないけど。

 四時間目は数学だった。

 体育後の超だるい雰囲気が教室にただよう中、黒瀬眞清は汗を掻いたあとすら見せず、きちんと制服に着替えなおして、すでに席についていた。

 席につくおれを、黒瀬の視線が、追ってくる気配がした。

 うしろから突き刺さる視線を痛いほど感じながら、残りの授業を、おれはほとんど集中できずに過ごした。



 おれの安息の地は、いったいどこにあるんだろう?

 憩いの場である自宅は、わけのわからない金髪の少女に占拠され、外界から隔絶された聖域であるはずの学校では、謎の転校生から意味深な視線を投げかけられる。

 おれが望んでいるのは、当たり前のことしか起こらない、ごく普通の生活なのに。

 せめて……せめて明日からは、平穏な日常が戻ってくると信じたい。

 おれは自転車を引きながら、とぼとぼと歩く。しょぼくれたおれの背中にむかって、アーチの頂上に立った錆びた天使が、ラッパを吹き鳴らす。五時だ。

 おれが歩いているのは、海沿いの国道から一本内陸側に入ったところにある、小さな商店街だ。

 校門を出る直前になって、おれは自宅の冷蔵庫の中がほぼ空っぽになってしまっていることを思い出した。

 すきっ腹の小さな女の子を、警察に突きだすのは気が引ける。

 交番に行くのは、せめてあいつになにかを食わせてやってからにしたかった。

 外人って、なにを食わせれば喜ぶのかな。やっぱり、寿司とかか。でも出前で寿司を取るなんて、親戚が来たときでもなけりゃありえないしな。ここはポトフとか、シチューとかのお手軽洋物料理でお茶を濁すか。とりあえず肉屋の店先をのぞいて、安(やっす)い肉でも買って……。

 そんなことを考えながら歩いていたとき。

 とことこと目の前を、小さな女の子が歩いていくのが目に飛びこんできた。

 白いワンピースに、黒のマント。

 少女が歩くたびに、肩の上で金色の髪が跳ねる。

 おれは立ち止まった。

 目をつぶって、頭を振る。

 はは、疲れてるな、おれ。

 ついに幻覚まで見るようになったか。まぁ、でも、こうやって落ちついて深呼吸でもして、もういちど目を開ければ……。

 金髪の少女はまだそこに、いた。

 床屋の店先にしゃがみ込み、青、白、赤の三色で塗りわけられた看板を、興味深げに見上げている。

 おー、という感心したような声が、ここまで聞こえてきた。

「異国の科学力はすごいです! いったいどこまで巻き上がっていくんでしょう。見ていたら、吸い込まれそうです」

 なにやってんだ、あのバカ。

 おれは深々とため息をついた。自転車を引きながら近づいていくと、気配に気づいたのか、異端審問官が振り返る。

「あっ、異端、お帰りなさい」

 異端ってそれ、おれを現す固有名詞か? 固有名詞になっちゃったのか?

「春之助だ。いい加減、名前くらい覚えろ」

 おれは云いながら、床屋の店先に自転車を止める。

 右手の中指にぐっと力を込める。

 異端審問官のひろい額をめがけて、デコピン、一発。

 異端審問官はきゃん、とかわいい悲鳴をあげた。

「また暴力をふるわれました!」

「おれが帰ってくるまで、どこにも出るなって云っておいただろ。このあたりは車の行き来も多いんだ。轢かれでもしたらどうする」

 睨みつけるおれを、異端審問官は眉根をよせて、恨めしげな目で見上げてくる。

「だって、退屈だったんです!」

「だったら、テレビでも見てろよ」

「テレビって、なんですか?」

「えーっと、放送局からの電波を受けて、ブラウン管に映像を映し出す……まてよ、いまどきブラウン管なんて古いか。液晶とか、プラズマとか……」

 いや、そんなことを説明してどうする、おれ。

「というか、テレビも知らないのか、おまえ」

「知りません」

 ぶすっとした顔で、異端審問官が答える。

「聖庁にはそんなものありませんでした。わたしは赴任地に行くとき以外、ほとんど外に出たことがないんです」

 なんじゃそりゃ。児童虐待もいいとこじゃねぇか。

 どうしよう。ひょっとしてこれって警察じゃなくて児童相談所の仕事の範疇なのか?

 おれが悩み込んでいるあいだに、異端審問官はとことこと歩いて、通りの反対側にある洋菓子屋兼喫茶店の店先にむかう。おれはあわてて後を追った。通りすがる買い物途中の主婦の方々の、目線が痛い。

 びたーっと洋菓子屋のショウウィンドウに両手をついて、異端審問官は食い入るようにならんだ菓子を眺めている。

「ティラミスだ!」

 振り返った白い顔は、満面の笑顔。

「ティラミスが、あります!」

 そうですねぇ、ありますねぇ、はい、はい。

「好きなのか?」

「はい!」

 なんていいお返事。おれはため息をつく。

「……わかったよ、食っていくか」

「い、異端の施しなど!……わぁい……施しなど……わ、わぁい!」

 内面の葛藤に見事に引き裂かれ、異端審問官の顔は笑顔に、渋面にと、ころころと変わる。明滅を繰り返す信号機を見ているみたいで、面白かった。

 洋菓子屋を出ると、異端審問官は腰に手を当てて、胸を張る。

「と、とりあえずこの街がさまざまな誘惑に満ちあふれていることはわかりました!」

 口の端にティラミスのかけらをつけて、いまさら格好をつけても、遅いと思うんだが。

「たとえば、あれなどは、いけません」

 異端審問官はそう云って、びしっ、と右手を前に突きだす。

 酒屋の店先に貼られたポスターの中で、ビキニ姿のグラビアモデルが、ビール缶を片手に微笑んでいる。

「あんなものを往来に晒しておくなど、破廉恥もいいところです。こころを惑わし、異端に足を踏み入れるきっかけになりかねません」

 そうかなぁ、あれくらい、いたって穏健な普通の広告だと思うが。

 異端審問官は、またとことこと歩き出す。

 ポスターの前で、立ち止まる。

 いきなり片手を伸ばし、異端審問官はポスターをびりりと引き破いた。

「なにやってんだ、あんた!」

 叫んだのは、おれじゃない。

 店の名前の入ったエプロンをつけた酒屋の店主が、血相を変えて表に飛び出してくる。

「あ、ちょっと、お巡りさん!」

 なにいっ!

 見ると、酒屋の店主が手招きするその先に、自転車にのってこっちにむかってくる、制服姿の警官の姿がある。

 やっべぇ!

 おれはダッシュで異端審問官に近づくと、そのからだを横抱きに抱き上げた。不幸な店主にぺこりと頭を下げ、急いで自転車に戻る。

「な、なにを!」

「いいからうしろに座ってろ。手を放すなよ!」

 叫びながら、おれは自転車にまたがる。そのまま、全力でペダルを漕いだ。

 なにか、叫んでいる声が聞こえたが、怖くて振り向けなかった。

 なにやってんだ、おれはぁ!

 警察にこいつを突きだすんじゃなかったのかよ! 逃げ出して、どうすんだぁ!

「てめぇ、なんてことしやがんだよ!」

「善行をひとつ積むことができました!」

 背中にしがみついた異端審問官は、うれしそうな声をあげる。

「この街の異端の芽を、ひとつつぶせたのです。大審問官さまも、きっと誉めてくださいます!」

 おれは誉めない。酒屋の店主も、警官も誉めない。この街の人間なら誰でもだ!

 そのまま全力疾走して、気がついたら家についてしまっていた。

 おれは自転車のハンドルを握りしめたまま、がっくりと肩を落とす。

 いまさら警察なんて、行けやしない。平和な日常が、じゃあね、さよなら、と手を振って遠ざかっていく気配がした。

「お腹が、すきました」

 異端審問官が云った。

「うるせぇ! レトルトのカレーでも、食ってろ!」

 自転車から異端審問官を下ろしながら、おれは怒鳴る。

 家の鍵は、かかったままだった。

 おれは振り返って、異端審問官の顔を見つめる。こいつ、どうやって外に出た?

 異端審問官は素知らぬふりで、そっぽを向いている。

 鍵をあけ、扉を開けた瞬間、おれはぎゃあ、と叫びそうになった。

 廊下に、物が散乱している。

 居間や、おれの部屋の扉は開け放たれたまま、昨日と同じようにありとあらゆる引き出しはひっくり返されている様子がはっきりと見えた。

「おまえ……!」

「異端の証拠を探していたんです」

 そっぽをむいたまま、すねたような声で異端審問官が云う。

「黒き炎の書、山羊の頭蓋骨、使い魔の黒猫、そういった類です」

「あるわけねぇだろ、そんなもん!」

「探索してみなければ、そんなこと、わかりません」

 ちらっとこちらを伺うように見て。

「安心なさい。ベッドの下には手を触れませんでしたよ」

「そんなこと云ってんじゃねぇ! 他人の家を勝手に荒らすなって云ってんだ!」

 異端審問官はきっ、とこちらを振り返り、真っ向から睨みかえしてくる。

「だいたいあなたがいけないのですよ、さっさと異端であることを告白して改悛しないから。せっかく“慈愛の時間”を与えてあげたのに!」

 こんなもの、慈愛でもなんでもありゃしねぇ!

「はやく告白しないと、とんでもないことになるんですよ!」

「とんでもないことになら、もうなってる!」

「仕方ありません。明日は、捜索範囲を広げてみます」

 もう、やめてくれ……。

 口の中でつぶやいて、おれはへなへなと玄関先にしゃがみ込んだ。





 あくる日、学校へとむかうおれの足取りはすこぶる重かった。

 あれから、異端審問官はレトルトのカレーを完食し、スプーンを持ったまま、テーブルの上でうたた寝しはじめた。昼間の“探索”とやらで、よほど疲れていたんだろう。

 異端審問官を布団に寝かしつけたあと、荒らされた家を元通りに復旧するのに、五時間かかった。結局、神経が昂ぶってベッドに入ってからも寝つかれず、ようやくうとうととし始めたころには東の空が白みはじめていた。

 頼むから、もうこれ以上揉め事なんて起きてくれるな。

 そんな願いが通じたのか、今朝の教室は平穏無事。黒板に妙なメッセージが残されている、なんてこともない。結構。

 朝のホームルームまでのわずかな時間を、おれは机に突っ伏して惰眠を貪ることに決めた。

 背中にはあいかわらず黒瀬からの視線を感じるが、今日は気にしている余裕がない。

 相沢がくだらない話題をフリに来たが、おれは片手を振って追い返した。孤独大好き。どうかいまは、おれを放っておいてくれ。

 覚醒と睡眠の境目を、気持ちよく彷徨っていたそのとき。

 突然、背後から上がった悲鳴に、おれは叩き起こされた。

 振り向くと同時に、篠崎由香里の椅子がうしろに倒れる、派手な音が響く。

 篠崎は、血相を変えて立ちつくしていた。

 篠崎の机の上には、どうやら机の中から出したと思しき、新聞紙の包み。

 その包みの中身がなんなのか、おれが確かめる前に、集まってきた人だかりに視界は遮られた。

 篠崎の机を取り囲んだ輪の中から、女子の悲鳴が立て続けに響く。尋常じゃない。

「誰よっ、こんなことしたのっ!」

 篠崎の叫び声は、完全に裏返っていた。いつもの女王様然とした余裕は、かけらも残さず吹き飛んでいる。

「なんでよりによってわたしなわけ? 名乗り出なさいよ。云いたいことあるなら、はっきり云いなさいよ!」

 おれは椅子から立ち上がり、人だかりをかきわけて、篠崎の机に近づく。

 うっ、と短い声が、思わず喉から漏れた。

 幾重にもかさねられた新聞紙に血がべっとりとくっついている。

 なかに包まれていたのは、無惨な傷跡も生々しい、黒い猫の屍体だった。

「なによ、あんたなわけ?」

 篠崎がそう云ったのは、おれに対してではなかった。

 青ざめた篠崎の隣に、黒瀬が立っている。

 端整な横顔には、いかなる表情も浮かんでいない。他の女子たちが黒猫の屍体から目を背けている中、平然とした黒瀬の態度は、その周辺だけがぽっかりと浮かび上がって見えるほど、異様だった。

 すうっと黒瀬の右手が伸びる。

 細い指先が、篠崎の机の上にある、猫の屍体をさす。

「これは、きみの飼い猫か?」

 篠崎は、絶句した。

 目を真ん丸に見開いたまま、しばらく声も出ず、ぱくぱくと口を動かしている。

「そんなわけ……ないでしょう」

 ようやく、といった感じで、篠崎が声を絞り出す。

 黒瀬は屍体から視線を外し、ぐるりと周りを見渡す。

「では、これは誰かの持ち物か?」

 ”持ち物”?

 なんだそりゃ。

 こんなことをしでかした犯人を詰問する、といった感じのことばでは、それはなかった。おれが感じた異様な雰囲気を周囲も感じていたらしい。むろん名乗り出るものなどあろうはずもなく、しんとした静けさが教室を覆う。

「そうか」

 なにを合点したのか、黒瀬は細い頤をこくんとひとつ縦に動かし、うなずいた。

「ならば、これは無用の物だな。捨ててこよう」

 黒瀬は無造作に右手を伸ばし、黒猫の首のうしろをつまみ上げる。

 誰かが、短い悲鳴をあげた。

 残った片手で、血に汚れた新聞紙を丸め、黒瀬は踵を返し、歩き去った。

 黒瀬が教室を出て行ったあと、長い、長い沈黙が、教室を支配した。

「みんな、席に戻って! 蒲田がじきに来るよ!」

 静寂の中、瀬川の声が響く。

 へたりこみ、両手で顔を覆った篠崎に近づき、瀬川はしきりに、慰めのことばをかけている。

 誰も、動かなかった。

 おれ自身も、ただ呆然と立ちつくしていた。

 とても、はいそうですかと気分を切り替えて、授業を受けられるような雰囲気ではない。

 予鈴が、鳴った。

 廊下を、近づいてくる足音がする。 

 無神経な蒲田のドラ声が、いまは無性に恋しかった。さっさと現れて、この異様な空気をぶち破って欲しい。こころの中でそう願っていたのは、きっとおれだけではないはずだ。

 がらりと、教室の前の扉がひらいた。

 金髪の少女が入ってきた。

 白いワンピース、黒いマント。

 ぐるりとまわりを見回すと、少女はつかつかと教卓に歩み寄る。

 教卓の裏にまわると、少女のからだは隠れてほとんど、見えなくなった。

 よいしょ、とかけ声とともに両手を伸ばし、少女は教卓の上に上り、そこに仁王立ちした。

 びしっ、と音のするような鋭さで右手を伸ばし、異端審問官は大声で叫んだ。

 

「悔い改めなさい、異端ども!」


 ひとのこころは、あまりにも追い詰められると、夢想の世界に逃げこむものらしい。

 そのとき、おれが思い描いていたのは、ピザの宅配人になった自分の姿だった。

 バイクで壁にクラッシュし、宅配中のピザごと、壁に大小の丸い染みをつくってつぶれた、自分の姿だった……。

 

 

 声も出なかった。

 おれは虫ピンでマウントされた昆虫標本みたいにその場に貼りついたまま、最大限に目を見開いて、異端審問官を見つめていた。

「この部屋です、この街でいちばん異端の臭いが濃いのは!」

 異端審問官は傲然とまわりを見回し、腰に手を当てて、胸を張る。

「どうやらわたしは、敵の本拠地に辿りついたようですね。興奮に胸が高まります。さぁ、あなたたちに“慈愛の時間”を与えます。自らの罪を悔いたものは、前に名乗り出て、頭を垂れなさい!」

 金色の髪を振り乱し、異端審問官は声を荒らげる。

 モンちゃん、と声がした。

 瀬川が口を開けて、呆然と異端審問官を見つめている。どうだ、呆れるだろう、瀬川。こういうヤツなんだよ、こいつは。おれはもう知ってたけどな……って威張ってる場合か、おれ。

「あなたたち、神に頂いた自分の命を、そんなに粗雑に扱って、申し訳ないと思わないのですか! 異端とは、自分のこころに背くことです。自らのこころが指し示す道をまっすぐに進まず、なぜ異端に堕ちたのですか!」

 弁じながら、自分のことばに興奮してきたのか、異端審問官の白い頬はほのかに赤く染まってきた。

 おれは一応、自分の足を確認した。

 案の定、膝ががくがく震えている。喉はからっからに渇いているし、頭痛もしてきた。

 走れっかなー。

 自信はないけど。

「なんだ、きみは……」

 呆然とした声が、ひとつ追加。教室の入り口に、担任、蒲田登場。

「なにをやっとんのかね、こんなところで」

 頃合いだ。

 ひとつ大きく息を吸って、おれは叫んだ。

「出席番号、三番、浅倉春之介、早退します!」

 そのままカバンも持たず、教壇にむかって突進する。おれの姿を認めた異端審問官が目を大きく見開く。その腰のあたりをがっしと掴むと、立ちつくしたままの蒲田の横をすり抜け、おれは廊下に飛び出した。

「なにをするんです、放しなさい!」

 くの字に身体を曲げた異端審問官が、おれの背中をばしばしと叩く。

 放してたまるかぁ!

「ええい、放せと云っているでしょう。ノーチ……!」

 おれは走りながら、あわてて片手で異端審問官の口を塞ぐ。

「いいか、おまえに云いたいことが二つある。一つ、教壇の上に土足で立つな。二つ、呼ばれてもないのに教室になんか来るな。三つ、おれの平和な日常を壊すな。四つ、バスガス爆発。以上だ!」

 そこまで一気に喋って、おれは異端審問官の口を塞いでいた手を離す。

「え?……ふたつ?……がくばすがすは……え?」

 おれの背中で、指を折りながら、異端審問官は一つ(ウーノ)、二つ(デュエ)、三つ(トレ)、四つ(クアットロ)、などと意味のわからないことばをぶつぶつ呟き出す。よし、これでしばらく静かになる。

 窓ごしにびしばし刺さってくる視線を感じながら、おれは一気に校庭まで駆け抜けた。

 肩から異端審問官を下ろすと、おれは背中を曲げて、ぜいぜいと息を吐く。

 異端審問官は傲然とおれを見下ろしている。

 おれはからだを曲げたまま、荒い息の合間につぶやく。

「だいたい……なんで……教えてもいないのに、おれの学校の場所が……」

 ああ、そんなこと、訊くまでもない。

 一昨日、こいつは教えもしないのにおれの家まで勝手に押しかけてきたのだ。しかも、鍵の掛かった家の中に。

 “異端の臭い”とやらを追って家まで来たとこいつは云っていた。同じようにして、ここを突きとめたんだろう。

 夢だと思いこもうとしてた。一昨日からのことは悪い夢だったんだと……いま、答えが分かった。“真実”という名のちょび髭のおっさんが、おれの脳内にしずしずと姿を現す。

 異端審問官が、眉をひそめる。

「なにをしているんです?」

「にゃにって、みひぇわかるらろうが!」

 自分の両頬を思いっきり引っぱりながら、おれは答える。これも、夢だ。きっと悪い夢のつづきなんだ。自分自身を、そう必死で騙そうとしながら。

 頬が、痛い。

 異端審問官の腹が、大きく鳴った。

「お腹が、すきました」

 おれはがっくりと校庭に両手をつく。

 誠に遺憾ながら。“真実”のおっさんが仰々しい声でおれの脳に囁く。これは現実にございます。



 ウェイトレスが運んできた『エビフライとふわふわ卵のオムライス』を見て、異端審問官が歓声を上げた。

 スプーンとフォークの使い方は、さすがに手慣れている。箸みたいに、一から教えなきゃいけないということはなさそうだ。

 ケチャップを口の端につけたまま、喜々としてオムライスを頬張る異端審問官を横目で見つめながら、おれは窓ガラスに頭を押しつけ、シートの上で斜めに傾いだまま、灰になっていた。

 いっそ、死にてー。

 おれは力の抜けた左手でカップをにぎり、ずずっとコーヒーをすする。

 カバンといっしょに後方一・五キロメートルの地点に放り出してきた、さまざまなものが脳裏をよぎる。

 明日、学校になんて言い訳しよう。

 たぶん、生徒指導室に呼び出しは確定だろうなー。

 いっそ蒲田に、全部話しちまうか。

 信じてくれねーだろうなー、絶対。

 これで何度目かになるため息をつき、おれはカップをテーブルに置く。

 ここは海沿いの国道に面した場所にある、全国チェーンのファミリーレストランだ。午前中のこんな時間に、飯を食わせる店なんて、近所じゃここくらいしかない。

 地方にあるその手の店のご多分に漏れず、駐車場だけはやたらと広い。アーリーアメリカン風の落ちついた調度品に囲まれた店内には、客の数はまばらだった。あたりに流れる爽やかなBGMは、おれの荒んだこころをちっとも癒してくれない。

 とりあえず、目立っている。

 おれたちは、とんでもなく目立っている。

 平日の午前中に、ブレザー姿の高校生が、妙な格好をした外国人の少女を連れ回しているのだ。目立つなというほうがおかしい。

 コーヒーのおかわりを入れにくるたびに、ウェイトレスが探るような視線を向けてくるのには、慣れた。もう、大概のことはどーでもいい。

「どうしたんですか」

 スプーンを持った手を休め、異端審問官がいぶかしげに首を傾げる。

「なんだかずいぶん、疲れているように見えますが」

 ……誰のせいだと思ってやがる。

 おれはコーヒーカップを脇に押しやると、テーブルの上に顔を伏せた。

 なんかもう、このまま遠い国にでも逃亡したい気分だ。

 ぽふ。

 頭の上に、誰かの手がのる気配がした。

 おれは驚いて顔を上げた。腕を伸ばした異端審問官が、おれの頭をゆっくりと撫でている。

「わたしが疲れたときや、落ち込んでいるとき、よくクローチェがこうして頭を撫でてくれました」

 異端審問官は、云った。

「大丈夫、わたしたちはきっと上手くやっていける……耳元でそう囁きながら。わたしはそれで、ずいぶんと元気になれたものです。わたしじゃ、だめですか?」

 その顔には、本気で心配してくれている表情が浮かんでいる。

 あ、と声を上げそうになった。

 こいつはこいつなりに、気をつかってくれているんだ。

 自分のことばかり考えて、こんな小さな子に心配されている自分が、情けなかった。

 そうだよな。こいつのペースがあんまり強引なんで、振り回されてばっかりきたが、このままでいいはずがない。こいつのこの後のことも、ちゃんと考えてやらないとなぁ。

 気まずさをごまかすために、おれはひとつ咳払いをした。

「……クローチェってのは、おまえの親代わりかなにかか」

「わたしの大切な人です」

 異端審問官はそう云って、にっこりと微笑む。

「クローチェは、どんなときも綺麗で、やさしいんです。よく、聖庁の厨房でアップルパイを焼いてくれました。クローチェが焼いてくれたアップルパイは、どんな食べ物よりおいしいんです。頭だって良いんですよ。いま喋っている日本語も、彼女が教えてくれたんです。異端審問官はどこの国が任地になるかわからない仕事だから、なるべく多くの国のことばを覚えておいた方が良いって」

 親身になって、身の回りの世話をしてくれて、か。

 メイドさんかなんかだろうか。ともかく、こいつのそばにもちゃんとこいつのことを考えてくれる大人がいると知って、救われた気分ではある。

「それにクローチェは、とっても有能なんです」

 有能なメイドさんか。

 いいなぁ……そういう人がうちにも一人いてくれたら、家事に時間を食われることもなくなるだろうなぁ。

 甲高い歓声が、耳のすぐそばで響いた。

 異端審問官より幼い子供が二人、追いかけっこをしながら、シートのあいだを駆け抜けていく。

 おれは背後を振り向いて、子供たちの保護者の姿を探した。壁ぎわの席で、若い母親が二人、子供たちをほったらかしにしたまま、お喋りに夢中になっている。

 どういう躾してんだ。

 おれがあれくらいの歳に同じような事をしでかしたら、きっと母さんにこめかみをぐりぐりやられてただろう。うちの躾は厳しかったから。

 前にむきなおり、異端審問官の顔をふと見て、おれは固まった。

 またあの表情だ。

 憂愁と悔恨の入り交じった、大人びた表情。駆け回る子供たちを目で追いながら、異端審問官はつらそうに顔を歪めている。

 なんだってそんな顔をするんだろう。

 『ふわふわ卵のオムライス』に釘でも入ってたのか?

 ……なんて軽口も叩けない雰囲気で、おれは黙って異端審問官を見守るしかなかった。

 そういえば、おれはこいつのことをなにも知らないんだった。「異端です」「異端じゃねぇ!」以外、まともな会話をほとんどしていないんだから、当たり前といえば当たり前だが。

 はじめてこいつに興味が湧いた。

 なにを知り、なにを見て、どんな人と触れあって、生きてきたんだろう。

「クローチェ、だっけ。そんな大切な人がいるんだったらさ、おまえ、故郷(くに)へ帰ったほうがいいんじゃないか。ずいぶん心配かけさせてるんじゃないのか」

「心配くらい、かけさせたって、いいんです」

 異端審問官の目は、まだ子供たちを追っている。

「あのまま聖庁にいたって、みんなが不幸になるだけです。わたしはみんなが幸せになる方法を見つけたくて、この国にやってきたんです」

 いきなりこっちを振り向いた。

 きっ、とおれを睨みつけると、両手の拳で、どん、とテーブルを叩く。

「それなのに、この国ときたら、聞いていたのとぜんぜん違うじゃないですか! 修道士(モナコ)はわたしに云ったんです。東の果てに、日本という国がある。そこには正統もなければ異端もない、ただ人々が平和に暮らしているだけだと。そこに行けばきっと答えは見つかる、そう思っていたんです。そこに住むひとたちは憎しみや、哀しさとは無縁で、妬みあうことも、寂しさを感じることもなく、互いに愛し合って暮らしているのだと。ところがどうです、街には破廉恥な“ぽすたぁ”がべたべたと貼られているわ、人のこころは荒んでいるわ、あなたみたいな異端が野放しで歩いているわ、ぜんぜん話とちがうじゃありませんか」

「おれは異端じゃねぇよ」

「まぁ、すごい。息を吐くように嘘をつきますね」

「……おい」

「いまそうしているあいだにも、あなたは神への冒涜をつづけているんですよ」

 なんだよ。コーヒー飲んでるだけじゃねぇか。まさかこれを悪魔の飲み物とは云うまいな?

 おれはすすったコーヒーを飲み下す。苦い。

「あのなぁ」

 おれはため息をつく。

「だいたいどこに、そんなご立派な国があるんだよ。あるとしたらおとぎ話のなかだけだろ。生きてりゃ嫌なことだってあるし、嫌なヤツにだってぶつかるだろうさ。このおれだって、誰かから見りゃ嫌なヤツだ。金持ちを見れば羨ましくもなるし、誰かを妬みたくなることだってある。それが、普通だろ。どこの国に行ったってさ」

「それじゃあ、駄目なんです」

「どうして駄目なんだよ」

「あなたを、殺したくないからです」

 異端審問官は、云った。

「このまま改悛を拒むなら、あなたは死んでしまうから」

 その瞳は、真剣そのものだった。

「意味、わかんねー」

 返事に困り、おれは顔を背ける。

 死んでしまう、なんて云われたってなぁ……あんまり非現実的すぎて、思考がついていかない。

 おれは窓ガラスに頭をつけ、ぼんやりと駐車場に目をむける。

 客数の少ない店内を反映して、駐車場には止まっている車もまばらだった。

 白いラインで区分けされた、やたらと空いた駐車スペースに、ぽつんとひとり、男が立っている。

 いや……。

 やたらとワイルドな服装に、一瞬、男かと思ったのだが、よく見ると女らしい。

 十月だというのに、上はノースリーブのシャツ一枚。下は迷彩柄のアーミーパンツ。シャツの胸元は豊かに膨らんでいた。

 女はだらんと両腕を身体の脇に下げて、迷彩柄の帽子の縁を目深に下げて、うつむいていた。

 その肩が、かすかに上下に震えている。

 笑っている。

 帽子に邪魔され、その表情は見えない。

 だが、女はたしかに笑っていた。

 女はゆっくりと片手を上げる。まるでこちらに見せつけるように、てのひらを前にむける。

 がたん、と派手な音を立てて、テーブルが揺れた。

 異端審問官が立ち上がっている。

 その瞳は驚愕に見開かれていた。大きく口を開け、窓の外を注視している。

「……逃げて」

 かすれたような声が、その喉から漏れた。

 ばん、となにかを叩きつけるような音が、窓の外から響く。

 振り向いたおれの視界を、黒いものが覆い尽くしていた。

 最初は、それがなにかわからなかった。

 窓の外にシャッターでも下りたのかと思ったぐらいだ。

 だが、違った。

 薄いガラス一枚通して外にあるその黒い物体は、無数の縮れた毛で覆われていた。深く刻まれた皺には、乾いた血のような赤黒い染みがついている。

 視界を覆った黒い物体は、ゆっくりと下に動いた。

 窓の上にできた隙間から日の光が漏れる。

 四本の突起状の黒いものが空を指し、突起の先には鋭い爪がついている。

 手。

 真っ黒で、異形の、それは巨大なてのひらだった。

「逃げてーっ!」

 異端審問官が立ち尽くしたまま絶叫する。

 その叫びに重なるように、窓ガラスが粉々に砕け散る乾いた音が響いた。

 考えるより先に、身体が動いていた。おれは異端審問官の手を取り、急いで窓際から離れる。

 鋭い爪をつけた五本の指が、ガラスを割って店の中に侵入してきた。香辛料のような、嗅ぎ慣れない刺激臭が、鼻をついた。

 あちこちで、立て続けに悲鳴が上がる。

 唖然として立ち尽くすおれの前で、異形の腕は変化していく。

 風船がしぼむように小さくなり、それでも大人の頭四個分くらいの大きさがある異形の腕は、ガラスの破片が散ったテーブルの上をそろそろと這い進む。

 鋭い爪が、テーブルの上にある塩の容器をつかんだ。

 塩の容器を器用にひっくり返すと、腕は、異端審問官が食べ残したオムライスの上に、塩を振った。

 遊んでいる。

 割れたガラスのむこうで、肩を揺らして笑っている女の姿が目に映った。

 異形の手は、塩の容器を放り出すと、おれたちを脅かすように爪を曲げ、こちらにむかってくる。

 おれは、走った。

 異端審問官の手を取り、銀のお盆を取り落としてがたがた震えているウェイトレスの横を通り過ぎ、真っ直ぐ店の入り口にむかう。

 自動ドアが開いたとたん、おれの足は止まった。

 さっき駐車場で姿を見た女が、そこに立っていた。

 距離にして、五メートルも離れていない。女は胸元で腕を組んだまま、こちらを向いていた。その浅黒い肌は、日本人のものじゃない。

 迷彩柄の帽子の縁は、深く下げられたままだった。目は見えない。

 薄い唇が、きゅっと酷薄に吊り上がり、瞳より雄弁に、そいつの感情を物語っていた。

「逃げなよ(フッジーテ)」

 異国のことばがその口から漏れる。意味などわからなくても、女がおれを嘲笑っているのは、はっきりと分かった。

 硬直したままの異端審問官を抱えて、おれは走る。当てなどなかったが、足は自然と海の方へと向かっていた。

 走って逃げるおれの背後で、なにかが爆発したような音が上がる。

 走りながら上を見あげて、おれは唖然とした。

 白いラインの痕も鮮やかな、二メートル四方くらいに切り裂かれた駐車場のアスファルトが、頭上を舞っている。

 駐車場の破片は、回転しながらおれの斜め前に落ち、轟音とともにアスファルトの破片を散らす。

 破片を避けて細めた目に、海が見えた。

 ガードレールを跨ぎ越すと、おれは異端審問官を脇に抱えたまま、消音ポッドの上を飛びながら、海岸を目指す。

 ポッドからポッドへ、またその先のポッドへと跳ぼうとしたとき、ふいにぐらりと、足元がゆらぐ。

 おれの乗った消音ポッドが、砂をまき散らしながら、海岸から浮かび上がった。

 悲鳴をあげそうになった。

 手だ。

 幅十メートルはある、大きな真っ黒な手のひら。おぞましい剛毛の生えた奇怪な腕が、おれと異端審問官ごと、消音ポッドを持ち上げている。

 まるで怪獣映画のワンシーンだ。

 巨大な腕は、まるでおれたちを弄ぶように、てのひらを傾けて見せる。

 異端審問官を抱いたまま、おれはたまらず、砂の上に投げ出される。

 全身を激しく打ちつけられ、おれは苦痛に顔を歪めた。

 鈍い音を立てて、おれのすぐそばに消音ポッドがころがる。

 苦しくて、息もろくに出来ない。

 異端審問官はどうなったのか。確認しようにも、痛みに顔も上げられなかった。左腕は、痺れて感覚がない。

 さっきの手は、なんだ。いったい、なにが起こった?

 砂を踏む足音が近づいてくる。首の痛みに耐えて顔を上げると、涙に滲んだ視界に、底の分厚い編み上げブーツが入り込んできた。

 おれはそのまま、視線を上に動かす。

 浅黒い肌の女と、目が合った。

 不敵な光を浮かべた、黒色の瞳。その瞳が、ふと、逸れる。

 異端審問官が、そこに立っていた。

 白い服は砂だらけだが、見たところ怪我はなさそうだ。異端審問官はただことばもなく、曰く云い難い表情を浮かべて、女を見つめている。

「トルソー」

 異端審問官の唇から、かろうじてことばが漏れた。トルソー、それが女の名前なんだろうか。

「こんなところでなにをしてんだ、お嬢様(シニョリーナ)」

 女の喉から、流暢な日本語が漏れる。どこか面白がっているような、その声。

「あんた、聖庁で謹慎中の身のはずだろ。ここはあんたの任地じゃない。ってことはあたしの任地でもない。あたしら、ここで、なにやってんだ」

「刑吏トルソー……わたしを、連れ戻しに来たんですね」

 異端審問官が、云った。真剣な表情を浮かべたその顔は、引きつっている。

「話が早くて助かるねぇ。もう半歩、余分に物わかりが良くて、こんなおいたをする子じゃなかったら、あたしも重い手足を引きずって、こんなところまで出張ってくる必要なんてなかったんだけどさ……まぁ、とにかくそういうわけだ、帰るぜ」

 トルソーと呼ばれた女は、云いながら、右手を異端審問官の方に差し出す。

 異端審問官は、一歩、後退した。

 下がりながら、異端審問官の目は、トルソーの腕から、逸れない。

「なぜそんな目であたしを見る」

 血も凍るような冷たい声で、トルソーは云った。

「なぜそんな、汚いようなものを見る目で、あたしを見るんだい、お嬢様(シニョリーナ)」

「わたしは……そんなつもりは」

「この手のせいか」

 異端審問官の方に差し出した右手が、みるみる変化しはじめる。

 浅黒い肌は、異常なまでの黒みを帯び、漆黒に近い色になる。

 爪が尖り、おぞましい剛毛が生えそろったその腕は、大きさこそ違えど、たしかにさっきおれたちが見た、あの異形の腕だった。

「ずいぶんとつれないじゃないか。この手はあんたの相棒だぜ、お嬢様(シニョリーナ)。この手はあんたの手だ。あんたが異端だと名指した異端をこの手で切り裂いて殺してきたんだ。何人も」

 おれの背中がびくんと跳ねた。

 ……殺した?

「何十人も」

 殺した、だって?

「いや、もっとだ」

 おれは思わず、異端審問官のほうを見る。

 おれと目が合うと、異端審問官はいたたまれなくなったように目を背けた。

「違うやり方を探してみる、あんた、書き置きの手紙にそう書いたね、お嬢様(シニョリーナ)。ってことは、あたしのやり方が気に入らなかったってわけだ。えぇ、そうだろう?」

「違うんです、トルソー!」

「なにが違うっ! 子供(ガキ)だからって、甘いこと抜かして、なんでも許されると思ってんじゃねーぞ、てめぇ」

 トルソーが声を荒らげる。

「誰があたしをこんな風にした? この化け物の腕を、あたしが泣いて欲しがったっていうのか。こんな……こんな腕を!」

 トルソーのことばの昂ぶりに合わせるように、その右腕がみるみる大きさを増していく。

 二の腕ははち切れんばかりに太くなり、異形の手の大きさはトルソーの頭の大きさをはるかに超していた。

 人のものではない異形の手を、トルソーは足元に叩きつける。砂が飛び散り、異端審問官の顔にかかる。異端審問官は顔を背けた。

「闇マーケットで売られてた五歳のあたしを買って、生まれ持ったナマの手を切り落とし、こんな化け物の手を移植したのは誰だ? 異端を征するに異端の技を持って征す、そんな体裁の良いことをぬかしながら、他人の身体をいじくり倒したのは? みんなてめぇら聖庁のやったことだろうが。もう引き返す道なんざねぇんだよ。あたしも、あたしに切り裂かれる異端どもも、たった一本の細い道を、脇から目ぇ反らして歩き続けるしかねぇんだよ……それなのに、あんたは違うって云うのか、異端審問官」

 その名を呼ばれ、異端審問官はびくりと肩を震わせる。

「あんたはやり直したいと云う。誰も知らない場所で、たった一人で。ご立派だ。だが、残されたあたしたちはどうなる? クローチェや、修道士(モナコ)たちは。あんたの審問で有罪が下された、数百人の異端たちは……あんたに殺されたあの連中は。やり直せるのかい? もういちど、真っ白な人生をやりなおせるとでも?……ふっざけんなよ! 他の生き方なんざ、ないんだよ。それをいちばん分かってるのはあんただろう」

 異形の腕は、また形を変えた。

 みるみるうちに大きさが縮み、尖った爪は指の中に引き込み、さっきまでと変わらぬ、普通の腕に戻る。

 その腕から、砂がこぼれ落ちた。

「その証拠に、あんたはここでも見つけた……異端を」

 トルソーの腕が、おれを指す。

 おれは震えていることしかできなかった。

 声も出せない。身体も動かせない。ただ、見つめていることしかできない。

「身に染みついたやり方で、聖庁から命ぜられた任地でもない場所で、あんたは異端を見つけざるを得なかった。あんたが嫌がったって、あんたの本能は正直だってことさ。あんたは異端審問官であることから一生逃げられない。あたしが逃げられないように」

 ふっとトルソーの顔に、微笑が浮かぶ。妙にやさしげな、その顔。

「大丈夫だ、いままで通りのやり方でやっていけるさ。あんたが異端を見つけ、あたしがそいつを切り裂く……至ってシンプルだ」

 トルソーが右腕を挙げる。

 その腕が、また変化した。鋭い爪が、陽光をはじいて輝く。

 トルソーの漆黒の瞳が、おれを見下ろしていた。

 切り裂く。

 おれを、切り裂く。

 おれは、殺されるのか。こんなところで。こんな納得いかないやり方で。

 逃げだそうにも、手も、足も、動かない。

 おれの怯えた表情がおかしかったのか、トルソーは楽しげに、くくっと笑った。

 その肩にぐっとちからが入る。

 鋭い爪が、おれにむかって振りおろされようとした、まさにそのとき。

 異端審問官が静かにつぶやいた。ノーチェ。

 思わず顔を背けたおれの頭の上で、金属がぶつかり合うような、鋭い音が響く。

 いつまで経っても、おれの背中が切り裂かれる様子はない。

 おれはおそるおそる、顔を上げる。

 白い髪の少女が、宙に浮かんでいた。

 左手に熊のぬいぐるみを抱いたまま、ピンクの寝間着を着た幼い少女が、いまにも折れそうな細い腕を上げ、振りおろされようとしたトルソーの右腕を防いでいた。

 少女のからだは、透き通っている。

「ノーチェ、この木偶人形!」

 トルソーの顔が怒りに歪んだ。

 ノーチェの顔には、いかなる表情も浮かんでいない。

 トルソーが短く舌打ちした。諦めたように、腕を引っ込める。トルソーの戦意が無くなるのを確認すると、ノーチェの身体はそのまま空気に溶けるように薄くなり、消えていった。

 おれは呼吸をすることさえ忘れて、事の成り行きを見守っていた。

 トルソーは忌々しげな表情を浮かべ、おれを見下ろしている。

 沈黙を破ったのは、異端審問官の声だった。

「“慈愛の時間”です」

 おれと、トルソーは、同時に振り返った。

 異端審問官は、真っ直ぐにトルソーの顔を見つめている。

「なんだと?」

「まだ“慈愛の時間”は終わっていません、トルソー」

「笑わせる。こいつはびびっちまって、いまじゃ自分の名前すらろくに云えないさ。改悛の告白なんぞできるもんか。無駄な抵抗はやめな、お嬢様(シニョリーナ)。待ってろ。いますぐこいつを切り裂いてやる」

「聖庁に逆らうつもりですか、トルソー」

 異端審問官の声は、震えていなかった。

 すべての動揺を抑え込み、毅然としたところを見せようとしているかのように、瞳に強い光を浮かべて、真っ直ぐにトルソーを見つめている。

「あなたも知っているはずでしょう。浄化の宣告(セルモ・ゲネラリス)が行われる前に、異端の疑いがある者には自白の機会が与えられる。そしてその時間は異端審問官の裁量において、自由に伸張できるのです」

 トルソーの口から、吐息が漏れる。

 長い吐息は、やがて、肩の震えとともに笑い声へと変化した。

「それが……違うやり方、かい」

 げんなりしたような表情が、トルソーの顔に浮かぶ。

「そんなまどろっこしいやり方を、聖庁の頭の固い連中が、納得すると思うのかい?」

「やってみなければ、わかりません」

 異端審問官は、云った。

「そしてあなたは、わたしのやり方に従うべきです……あなたは、わたしの、部下なのですから」

 ひとつ舌打ちをすると、トルソーは膝を曲げ、おれに顔を近づける。

 トルソーの顔が、目の前にある。

 おれは悲鳴を上げて逃げ出したかった。

「そんな顔をしなさんな。楽しみが伸びただけさ。期待しときな。次に会うときには、必ずあんたの身体を引き裂いてやる。改悛の告白なんかするんじゃないよ。そのまま……異端のままでいな」

 トルソーが腰を上げた。

 トルソーと異端審問官は、そのまま、なにも云わずに見つめ合う。

 不意に、トルソーが踵を返した。ブーツの底が砂を踏む音を響かせながら、トルソーは立ち去っていく。

 異端審問官はその姿が見えなくなるまで、トルソーの背中を見つめていた。

 やがて、はっと気づいたように振り返り、倒れたままのおれに近寄ってくる。

「大丈夫ですか」

 云いながら、異端審問官はおれに手を差し出す。

 白い手を差し出す。

 人を殺した、白い腕。

 おれは悲鳴を上げた。

 悲鳴を上げながら、おれにむかって突きだされた、異端審問官の腕を、払いのけた。

 異端審問官は目を見開く。

 おれに叩かれた手を見下ろしながら、異端審問官は呆然とそこに立ち尽くしていた。



 さっきから、黒と白のストライプの模様が、頭の中でひらひらと舞っている。

 これはいったい、なんのイメージだろう。

 身体中がひりひりと痛む。重い身体をひきずりながら、おれはただ、歩いている。

 おれのすぐうしろを、異端審問官がついてくる気配がする。

 おれは振り返らなかった。

 あいつに笑顔を見せて、大丈夫だと声をかけて、手を引っぱってやったりも、しなかった。ただ異端審問官が、勝手についてくるのにまかせていた。

 いつの間にか、家の前に立っていた。

 どこをどう通ってそこまで帰りついたのか、まるで覚えていない。

 かちかちという小さな音が、おれの手元から響いていた。

 こわばった手ににぎりしめた家の鍵が、鍵穴に入らず、小刻みに震えていた。

 気合いを入れて、鍵を開け、家の中に入り込む。

 おれはまっすぐ自分の部屋に向かった。

 床の上に、どうと座りこむ。

 制服についた砂が畳の上にちらばったが、そんなこと知ったこっちゃなかった。痺れて感覚のない左腕のことも、じくじくと血を流している膝の擦り傷も、いまはどうでもいい。

 異端審問官が、こそこそと足音を忍ばせて、部屋の中に入ってきた。

 そのまま部屋の隅にちんまりと座りこむ。しょぼくれて背中を丸めたその姿は、いつもより小さく見えた。

 正座した膝に、ぎゅっとにぎりしめた拳を押しつけたまま、異端審問官はうつむいている。

 二人とも黙り込んだまま、長い、長い、沈黙が過ぎた。

「なにも、訊かないんですか」

 蚊の鳴くような、小さな声。

「わたしが本当に……」

 喉がつまったように黙り込んだ、そのあとのことばは察しがついた。でもそれを補ってやるような親切な真似を、おれはしなかった。

「わたしが、本当に、人を殺したか、どうか」

 喉から必死に絞り出すように、異端審問官は、云いきった。

 おれはさっき、殺されかけた。

 本気で、他人に、殺意をむけられた。

 そのことをどうとらえればいいのか、おれにはわからなかった。頭のどこかが麻痺したようで、うまく考えられない。

「……なにかの冗談だと思ってたさ」

 おれは、云った。

「なにもかも、本当だったんだな。おまえは本物の異端審問官で、おまえが異端だと断定したヤツは、さっきの化け物の手を持った女に切り刻まれる……そういう仕組みか」

 こくりと、異端審問官はうなずく。

「おまえが殺したわけじゃ、ないんだろう」

「同じことです。トルソーの云うことは正しい。彼女の腕はわたしの腕です」

 膝の上で、異端審問官の拳はぶるぶると震えていた。 

「異端は絶対の悪だ、わたしはそう教えられて育ってきました。元はわたしたちと同じ神を信奉しながら、いまでは違う教典を崇める人々。なに食わぬ顔をしてわたしたちの教典に右手を載せながら、こころの中でわたしたちの神に悪罵をつく偽善者。裏では黒き炎を崇拝し、山羊の頭蓋骨を崇め、黒猫を使役させる……そんな人たちを見定めるのがわたしの役目だ、そう教えられてきました。彼らを滅ぼさなければならないと。そのためにわたしは能力を与えられました。神さまを罵る人々の、こころを読むちから。神さまを罵る人々の、臭いを嗅ぎつけるちから。わたしは、上手くやりました。誰よりも上手く。そのたびに大審問官さまはわたしを誉めてくださいました。わたしはそれが」

 ぎゅっと、目をつぶる。

「それが、とても、うれしかった」

 思わず、乾いた笑いが漏れた。

「人の命って、そんなに軽いもんか」

 おれはひきつった笑いを止められない。

「おまえさ、すごいよ。イヤミでもなんでもなく、本当にそう思うよ。すごいよ。人の命を何人も奪っておいて、よく平気な顔ができるよな。よくそんな重みを背負えるよな。おれなんか……」

 おれなんか、ただ一人の人の死すら、未だに抱えきれずにいるのに。

 目の前の小さな少女は、山ほどの屍の山を築きあげてきた。

 こんなこと、まともに考えろっていうほうが、無理だ。

 おれの知ってる現実の範疇を、とうに越えてしまっている。

「平気なんかじゃ、ありませんでした」

 異端審問官の声は、いまにも消え入りそうだ。

「ずっと思っていました。このやり方は間違っているって。異端の人たちには、異端の人たちの暮らしがある。彼らなりに、一生懸命、生きている。無惨に殺していい道理などあるはずがありません。トルソーの爪が彼らを切り裂く前に、わたしはあなたのような人々が、自分からこころを開いて、自らの罪を告白してくれるのを待ちたかった。“慈愛の時間”のあいだに自白をすれば、死よりもずっと軽い刑罰を与えるだけで済みます」

 異端審問官は顔を上げ、すぐにまたうつむく。

「わたしは、ここに居ては、いけませんか」

 おれは答えなかった。

 答えられなかった。

 そんなことを聞かされて、おれになにが出来る。

 おれはただの一介の高校生だ。世界を変える力なんて持っていない。スーパーヒーローでもありゃしない。あの巨大な黒い手を持ったトルソーの前で、おれは情けなくぶるぶる震えていることしかできなかったんだ……。

 力があれば、苦労はしない。

 運命を変える力があったなら、いまこんなところで、情けなくへたりこんでいや、しない。

「で、どうだったんだ」

 おれの声は、自分の耳にも、ひどく意地悪く響いた。

「おれの家の中をひっくりかえして、山羊の頭蓋骨は見つかったのか?」

 異端審問官は、首を横に振る。

「じゃあどうして、おまえはおれについてきたんだ?」

 異端審問官は顔を上げた。

 青い瞳が、まっすぐにおれを射貫く。


「なぜなら、あなたが神さまに腹を立てているからです」


 顔をはたかれたような気がした。異端審問官の顔を見返しながら、おれはなにも云えなかった。

「あなたはすごく怒っている」

 異端審問官は云った。

 おれを見つめる青い瞳が、異様に輝いて見えた。

「すごく、すごく腹を立てている。そのくせ、その怒りをどこにぶつけていいかわからない。だから誰にも気づかれないように、怒りをそっと押し込めて、ただ胸の中で神さまを罵っている。あなたは小さな子供みたいに泣き叫んだりしない。道理の分からない大人みたいに物に当たったりもしない。ひたすらに、人知れず、神さまを責めているだけです」

 瞼の裏で、ひらひらと白と黒の幕が舞っている。

 ああ、わかった。

 あれは葬式の垂れ幕だ。

 あの日からおれの家の中には、線香の匂いが絶えることがない。

 母さんは、花が好きだった。

 それなのに、いや、だからこそ――母さんが死んでから、おれはいちども家の中に花を飾ったことがない。

「そして、その十倍も、百倍もひどく――自分を責めている。なにも出来なかった自分を責めている」

 おれには力が無い。

 スーパーヒーローなんかじゃ、ありゃしない。

 もしそうだったら、こんなところで情けなく震えていたり、しない。

「あなたは自分を許せない。弱い自分を許せない。独りぼっちを怖がるこころを許せない。ずっと、ずっと、何度も、何度も、こころのなかで繰り返している。もしも、あの時」

 おれは思う。もしも、あの時。

「おれがついて行っていれば」

 おれがついて行っていれば。

「そうしたらおれも事故に巻き込まれていたかもしれない。でも」

 なにかできたかもしれない。

「なにかできたかもしれない。なにかが」

 運命を変えるような。

「運命を変えるような、なにかが」

「黙れっ!」

 おれは立ち上がり、異端審問官を睨みつける。

 血がたぎる音が、耳元でごうごうと響いている気がした。

「土足で踏みにじんなよ、ひとのこころを!」

 皿の上でふるえているゼリーの塊にスプーンの先を突っ込むように。

 おれの脳の中に、なにかが入ってくる気配がする。

 おれの怒鳴り声を上げると同時に、その気配はすうっと遠のいた。

 こいつは、おれのこころを、読んだ。

 ありったけの憎しみをこめたおれの瞳を、異端審問官はまっすぐに見つめ返す。

「他人の痛みに触れて、なにが楽しい! おまえになにがわかる。わかりゃしねぇだろう。ああ、そうだよ。おれは胸の中で神さまを罵ってたさ。だって他に誰を責めればいい。誰にこの憎しみをぶつければいい」

 異端審問官は、答えない。

「答えられねぇだろう。誰にも答えられないことを、どうしておれが口に出さなきゃいけない。こころの中に隠してて、なにが悪い。云おうと思えば云えるさ。いつだって誰かに訊きたかった。誰かが選ばれなきゃいけなかったとして、それがどうしてうちの母さんだったんだ。どうして母さんは死ななきゃいけなかったんだ。それに答えてくれない神さまなんざ……糞っくらえだ!」

 違う。

 おれはしゃがみ込み、両手で顔を覆う。

 いちばん悪いのは、おれだ。

 ずっと、ずっと。何度も、何度も。

 そうだ、あの日からいちども、おれは止めたことがない。

 誰かと喋っているときも、学校で授業を受けている時も、食べている時も、笑っている時も、ファミレスでコーヒーを飲んでいるときも、一度だって。

 自分を責めるのを止めたことがない。

 後悔しなかったことなんて、ない。

 異端審問官が、立ち上がる気配がした。

 おれに近づいてくる。

 ちいさなてのひらが、おれの両頬に触れた。

 おれは顔をあげる。

「あなたを誇りに思います」

 異端審問官が、やさしく微笑みながら、おれを見つめていた。

「告白はなされました」

「……なんだって?」

「あなたはたったいま、自らの閉ざしたこころを開き、自らの罪を告白したのです」

 ふっとその笑顔に、自重めいた苦みが混ざる。

「これが、異端審問官です」

 異端審問官の声から、ひりひりするような痛みが、伝わってきた。

「ひとのこころに土足で踏み入って、秘密をあばく。神さまの名のもとに、わたしは何百回も、こんなことをやってきたんです。まったく……因業な仕事です」

 ふいに異端審問官は、声を出して笑った。

 明るい声で笑いながら、腰に手を当て、胸を張る。

「それでは宣告を下しましょう……あなたは無罪です! 異端じゃありません!」

 ふふんと鼻で笑いながら、異端審問官はおれを見下ろす。

「あなたは、かたくなに哀しさを胸に抱え込んだ、ただの強情っぱりの子供です。まったく、まぎらわしいったらありゃしません。あなたの身体からは、神さまを恨んでる異端の臭いがぷんぷんしましたからね。まぁ、無実なのは当たり前です。本物の異端は、こんなに容易く根をあげたりしませんからね! 彼らは爪のあいだに焼けた火箸を突っ込まれたって、告白なんてしませんよ。まったく、あなたは根性無しもいいところです。歯ごたえが無くて、がっかりですよ。本当のあなたは、もっと強いはずですよ」

 傲然とおれを見下ろしながら、異端審問官の瞳は、笑っている。

「こんなことでくじけたりしないくらい、強いはずですよ……だからもう、自分を責めないで。あなたは、悪くない」

「……嘘だ」

「本当です、あなたは、悪くないんです。御母堂が亡くなったのは、あなたのせいじゃありません」

 おれは答えなかった。

 なにもしなかった。ただ見つめていた。

 異端審問官が背中を向けるのを。

 異端審問官の背中がおれから遠ざかっていくのを。

 襖を開けて、そこで立ち止まるのを。

「もう二度と、トルソーにあなたを傷つけたりさせません」

 振り返りもせずに、異端審問官はそう云った。

「わたしは諦めません。きっと正しいやり方を貫き通してみせる。でもその行為に、あなたがつきあう義務なんて、ありませんから。ここにいたら、またあなたを傷つけてしまう……いままで、ごめんなさい」

 次のことばは、閉まった襖の向こう側から響いた。

「さよなら」

 廊下を、足音が遠ざかっていく。

 玄関の扉が開き、そして閉まる音が響いた。

 おれは追いかけなかった。

 追いかける資格なんて、ない。

 どうしておれは、強くない。

 どうしておれは、スーパーヒーローじゃない。

 どうして、身の回りにいる誰も彼もを、幸せにしてやることができない。

 ……そうか。

 あいつも、異端審問官も、きっと同じ気持ちだったんだ。

 おれは、じっと自分のてのひらを見つめる。

 この手で救えなかった人が、いったいいままで何人いただろう。そんなことを思いながら。

 胸の中で神さまを罵るヒマがあるなら。

 この手でできることを、どうしてまともに考えようとしなかった。

 胸の中にわだかまった自分への怒りが、おれの右手を震えさせた。

 振り上げた右手で、おれは自分の頬を叩きつける。

 乾いた音が、部屋のなかに響いた。

「……わたしは未熟者です、なんてな」

 おれは立ち上がった。

 口の中が切れている。口腔に溜まった血を畳の上に吐き出すと、おれは異端審問官のあとを追った。

 もうこりごりだ。

 自分にとって大事な誰かを、この手からすべりおとすのは。

 おれは靴も履かずに玄関に下り、扉を開けた。

 異端審問官がそこにいた。

 すぐそこに、いた。

 扉がひらく音に、はじかれたように振り返る。

 異端審問官は、顔を歪めて、泣いていた。

 流れた涙が、頬を濡らしていた。

「もう二度と、和食に文句なんか云わせねーぞ」

 扉によりかかりながら、おれは云った。

「晩飯はきんぴらごぼうと、ほうれん草のおひたしと、鮭のムニエルと、納豆だ。夜になったら作ってやるから、黙って食え。それから、風呂だ。それが済んだら……布団敷いて、寝ろ」

 異端審問官は、声をあげて泣きだした。

 抱きついてきた異端審問官を、おれは両手で抱きしめる。

 こころの中で、おれはひとつのことだけを考えていた。

 とりあえず、こいつには、箸の持ち方から教えてやらなきゃいけないな、と。



 布団だと身体が痛くて眠れないという異端審問官に、ベッドをゆずった。

 その隣に布団を敷いて、おれたちはならんで横になった。

 真っ暗な天井を見あげながら、その夜、おれたちは寝つけなかった。暗闇のなかでお互いの距離をはかりあうようにことばを投げかけあい、いろんなことを、ぽつぽつと喋った。

 たぶん、夜のせいもあったろう。

 昼間に素面だったらとても云えないようなことまで、気がついたらぺらぺらと喋っていた。

「うちの両親さ、おれを産むとき、かなり悩んだらしいんだよな」

 暗闇の中におれの声が響く。

「母さん、もとから腎臓が悪くてさ。出産年齢も高かったし、妊娠中毒症でも起こしたら、かなりやばかったらしいんだ。父さんが心配してさ、ある日、ぽつりと云ったんだ。諦めようかって。そのとたん、母さんものも云わずに父さんをグーで三発殴りつけたんだとさ」

 思わず、笑いが漏れた。

「その父さんがさ、分娩室からおれの泣き声が聞こえてきたとたん、病院の廊下で男泣きしだしたらしくてさ。めっちゃ恥ずかしかったって、母さん、笑ってた。うちに残ってる父さんの写真、さして二枚目でもないのに、かっこつけてクールぶってる写真ばっかでさ。この人が人目もはばからず泣いたのかと思うと、おれおかしくて、父さんの写真を見るたび、笑っちまうんだよな」

 右腕で目元を覆うと、真っ暗な天井は視界から消え失せた。

「天国にいる両親の声が聞きたいとか、そんなことは思わないんだけどさ。せめていま、おれの左胸で頑張ってる心臓の鼓動を、両親に聞かせられたらって思うよ。母さんが、グー三発で守ったおれの命は、まだ続いてるって。おれは一人でも、ちゃんと生きてるって、ちゃんと母さんたちに伝えたいよ」

 ごそごそと、異端審問官がベッドから起き出す気配がした。

 近づいてくると、異端審問官はおれの左胸にぴたりと耳をくっつけた。

 鼻先をくすぐる長い髪から、甘ったるい匂いがただよってくる。

「ほんとだ。あなた、生きてます」

 異端審問官は云った。

「そうだよな……生きてるよな」

 おれは真面目に答える。よく考えたら、なんてまぬけな会話だ。

 異端審問官の吐息が、パジャマ越しにおれの胸にかかる。

「わたしは神さまの声を聞いたことがありません」

 異端審問官は云った。

「あいにくとわたしは預言者でも神父でもなく、異端審問官ですから。あなたの両親との仲介役になれればと思いますが、儚い望みです。ときおり、思うことがあります。神さまはどうやって人の運命を決めていらっしゃるのかと。わたしは神さまの意志をこの世にあらわすために存在する、右手のはずです。そんなわたしでも、神さまの意志ははかり知れません」

 異端審問官はおれの胸から頭を上げ、こちらに背を向けてごろんと横になった。

 ぴったりとくっついた、異端審問官の背中が、熱い。子供は体温が高いと聞いたことがあるが、本当だろうか。

「あなたが……うらやましい」

 異端審問官がぽつりとつぶやいた。

「は?……おれが、か?」

「ええ」

 なにかをためらっているような気配が、背中から伝わってくる。

 覚悟を決めたように、異端審問官はぽつりぽつりと語り始めた。

「聖庁の窓から見えるのは、オレンジとレモンの木だけでした。遊び相手は、ブリキの兵隊さんが一体だけ。修道士(モナコ)たちはわたしに会えば深々と頭を下げてはくれますが、誰も忙しそうに働いていて、わたしの相手はなかなかしてくれませんでした。クローチェはたいそう良くしてくれましたが、彼女とてわたしの家族というわけではありません。孤児院の前に捨てられていたわたしを大審問官さまが引き取って下さってから、わたしはずっとそんな暮らしをつづけていたんです。聖庁の建物から勝手に外に出ることは、許されませんでした。

 聖庁から勅令が出て、赴任地におもむくたびに、わたしは不思議でしょうがありませんでした。どうして人々はあんな小さな家に、ばらばらに分かれて暮らしているのか。必ず男の人が一人と、女の人が一人、それに子供たち。トルソーが彼らを追い立て、わたしの前に一列にならばせるとき、彼らは互いをかばおうとしていました。男の人は女の人を、女の人は男の人を。子供たちは女の人のスカートの陰に隠れるように、じっとこちらを伺っています。それが家族だというものだと知ったのは、しばらくあとのことでした。わたしには家族というものがなんなのか、よくわかっていなかったのです。

 彼らが互いをいたわり合い、一緒に暮らしているのだと知って……それが家族というものだと知って、わたしは彼らがうらやましくて、しかたなかった。あの列の向こう側にいられたら。そう思ったことも何度かあります。わたしにも父親と、母親がいて、そうして暮らしていられたら、と。罰当たりな、望みですが」

「なにが……罰当たりなんだよ」

 おれは思わず、布団の上に身体を起こす。

「それって、普通の望みだろ」

「わたしは、異端審問官ですよ」

 異端審問官はそう云って、ちいさく笑った。

「彼らを尋問し、切り裂き、泣き叫ぶ彼らを引き離して罰を与えるのがわたしの仕事です。そんなわたしが望みごとをするなんて、罰当たりもいいところではないですか。あなたのように両親を亡くした子供を、わたしはこの手で作り上げてきたんです……何人も」

 異端審問官の声はふるえていた。

「過去を消し去る方法があったらと思います。もういちど、最初からやり直せていたらと。人はあなたのように、家族とのちいさな大切な思い出をいくつも、いくつも、積みあげて暮らしているのだと知っていたら。トルソーの爪が誰かを切り裂く前に、それに気づけていたらと。でも、もう、遅いんです」

「やり直したかったんだろう」

 おれは云った。

「間違いに気づいて、やり直すために、この国に来たんだろう?」

「やり直せたとしても、死んだ人は帰ってきません。もう二度と。わたしのやったことは……とりかえしのつかないことです」

 異端審問官のちいさな背中を見つめたまま、おれはかけることばを失っていた。

 喉のあたりに、ちいさな塊がつかえたようになっている。

 その塊に名前を与えるなら、それは怒りだった。

 なんだって十歳やそこらのちいさな女の子が、こんなことで悩まなきゃいけない。

 なんの宗教だか知らないが、くだらない諍いのために、こいつの「能力」とやらをいいように利用しやがって!

 おれの知ってるこの国の神さまと、こいつの神さまは違う。

 そんな狭量な、残酷な神の教えが、正しいわけがない。

 こいつをどうすればいいかなんて、おれにはわからなかった。

 でもひとつだけはっきりしていることがある。

 こいつの居た場所に、こいつを戻しちゃいけない。

 これ以上、こいつの手を、血で汚しちゃ、いけない。

 喉につかえた塊を吹き飛ばすために、おれはうおー! と声を上げた。異端審問官がびっくりしたように振り返る。

 その身体を抱きかかえると、おれはベッドの上に異端審問官の身体を放り投げた。目を丸くした異端審問官の上に、むりやり布団をかぶせる。

「もう、寝ろ!」

 おれを見あげている異端審問官に、おれは云った。

「夜中に考え事をしてるとろくなことがねぇ。夜更かしする子は悪い子、罰はデコピン一発。浅倉家、鉄の家訓、その八だ。朝になったら、きっともうすこしマシな気分になる」

 異端審問官は鼻の先まで布団をかぶり、目だけをのぞかせて、じっとこちらを見あげている。

「なんだよ」

「あなたは、異端ではありません」

 夜目にもはっきりと、異端審問官の顔が赤くなるのがわかった。

「で、でももう少し、監視の必要があります!」

 早口でそう云うと、異端審問官はそっぽをむき、頭のてっぺんまで布団をかぶる。

 ミノムシのように丸まった異端審問官を見下ろし、おれは自分のてのひらに視線を移す。

 この手に、できること、か。

 それはいったい、なんだろうな?





 次の日学校に行くと、教室の入り口にブレザー姿の人だかりができていた。

 一昨日のリプレイですか。ホワイ?

 ドン・ウォリーデスヨ、ハルノスケサーンと謎の脳内キャラクター、スペイン系スポーツ・インストラクターのキャサリン(二十八歳。そばかす多し)が答える。ワンス・アゲイン・プリーズ。ナニゴトモ、クリカエシガダイジデース。

 人だかりの最後尾では、辻田姉妹がまたぴょんこぴょんこと飛び跳ねている。

「あ、浅倉くんだー」

 振り返ったかれん(か、こよみ。どっちかわからん)が云った。

 よう、と軽く手を挙げて挨拶すると、二人同時に、ささっと左右に引かれた。え?

 今朝は、むりやりに人ごみに割って入る必要もなかった。

 おれの姿を認めたとたん、制服姿の人の群れは、一気に左右に分かれて道をつくってくれる。十戒のモーセにでもなったみたいだ。正直、ちっともいい気分じゃなかった。

 いやな予感をビシバシと感じながら、おれは教室の中に足を踏み入れる。

 教室の中は人影もまばらで、黒板へとむかうおれの視線をさえぎるものはなにもなかった。

 やっぱり。あった。

 黒板にチョークで描かれた、大きな文字が。

 しかも描かれたその文字ときたら、

 

 私は異端です

 

 だ。

 ざざっと音を立てて、顔から血の気が引いた。

「……あんただったんだ」

 篠崎由香里が、おれの耳元で、そう云った。

 眉を吊り上げ、おれを睨みつけるその瞳を見ただけで、彼女の怒りのボルテージがすでにMAXまで吊りあがっているのがはっきりとわかった。そばに可燃物を置いておいたら、勝手にぼうぼうと燃え出しそうだ。

「いい加減にしてよね……なんでさぁ、なんであんなことしたわけ?」

「おれじゃねぇよ」

 異端、なんて文字、いまは目にもしたくない。

 おれがこんなこと、するはずがない。

「そんな言い訳、通ると思ってんだ。じゃあさ、説明してみてくれる? 昨日のヘンな外人の女の子、あれはなに? あの子が叫んでた、異端ってなに? あんたなんで、昨日はあわててフケたわけ?」

「あれは……」

 遠い国からやってきた異端審問官だ、なんて口が裂けても云えない。

「云っちゃいなよ、浅倉くん」

 近づいてきた瀬川が、助け船を出す。

「云えばいいじゃない。あの子はただの、親戚の子だって」

 悪い、瀬川、その船は泥船だ。

「へぇ、答えられないんだ」

 篠崎が、ははっと引きつった笑い声をあげる。視線を、ついっとおれから逸らし。

「ねぇ、今朝いちばん早く教室にきたの、誰?」

「わたし」

 入り口にたかった人ごみの中から、梶谷良子が手を挙げる。一昨日、黒板を消すのを必死で嫌がっていた保健委員の女の子だ。因果は巡る。今日は梶谷が日直だったらしい。

「あんたが来たとき、あの落書きって、あった?」

「……あった」

「だったら、おれがあれを描けるわけがないだろ」

 おれは篠崎に、せめてもの抗弁を試みる。

「おれは、いま、学校にきたんだぞ」

「ゆうべ夜中にでも忍び込んで、あれを描いたんでしょ。暇なヤツだね、あんた」

「言い掛かりもいいところだぞ、それ。トバしすぎだろ、篠崎」

「じゃあ云ってみてよ。あんた、夜中はどこにいたの。誰といたの」

 黙り込んだおれを見て、篠崎はさらに眉を吊り上げる。

「ほら、云えないじゃない! あんたさぁ、自分の境遇がすこしばかり不幸だからって、なにやっても許してもらえるとか思ってない?」

「そんなこと……おれが思ってるわけ、ないだろ!」

「だったら答えてみてよ、わたしが納得いくように、ぜんぶ説明してみなさいよ!」

「いい加減にしなよ、由香里! 浅倉くんがそんなことする理由、あるわけないでしょう?」

「彼氏がヤバいからって、そこで庇っちゃうんだ、真帆。もしかして、共犯?」

 云われて、瀬川が顔を赤くする。

「べつに、彼氏ってわけじゃ……」

「あらら、わたしのツッコミどころはそこじゃなかったんだけどさ。そこに反応しちゃうわけだ。やっぱりあんたら、怪しいんじゃない?」

「由香里、あんたおかしいよ、冷静になりなって!」

「うるさい! あんたにわたしの気持ちなんか、わかってたまるか!」

 怒鳴りあう篠崎と瀬川の声を聞きながら、おれの視線はまったくべつのほうに向かっていた。

 その場に凍りついたように立ちつくしたまま、おれは顔を寄せて罵りあう二人の、さらにその向こう側を見つめていた。

 教室の中で、ただ一人、席に着いている生徒がいる。

 黒瀬眞清だった。

 黒瀬はまっすぐ前を向いている。

 机の上に軽く肘をつき、てのひらの上に顎をのせて、まっすぐに黒板の文字を見つめている。

 いつも表情に乏しい黒瀬の顔に、変化があった。

 笑っている。

 大声で怒鳴りあう瀬川と篠崎のほうを見ようともせず、黒瀬はただ黒板を見つめて笑っていた。

 形の良い唇を吊り上げ、声もなく笑う黒瀬の笑顔には、かけらほどの温かみも感じられない。意味などわからないが、おれの背筋は総毛立っていた。酷薄な笑顔を浮かべる黒瀬の顔から、どうしても顔を背けることができなかった。



 放課後、その黒瀬がおれを待っていた。

 篠崎からは執拗な追求を受け、生徒指導室ではこってりとしぼられて、おれはその日、かなり消耗していた。

 商店街で買い物をして、とっとと帰ろう。

 そんなことを思いながら学校の入り口まで来たとき、ならんだ下駄箱のあいだのタイルに、夕陽を浴びた長い影が落ちていることに気づいた。

 黒瀬眞清が、そこに立っていた。

 胸の前で腕を組み、軽く両足をひらいた姿勢で、真っ直ぐにおれを見つめてくる。

 おれは呆然と、黒瀬の顔を見つめ返す。

 美しかった。

 目も、鼻も、唇も、すべての顔の造作が完璧だ。彼女がそこに立っているというだけで、すえた臭いを放つ下駄箱の列が、パルテノン神殿のドーリア式列柱かなにかに見えてくる。

 転校以来、黒瀬はじつに静かに日々を過ごしていた。

 授業は真面目に受け、余計なことは喋らず、誰かに話しかけられれば、それなりに受け答えはする。

 それなのに彼女のまわりに人が集まらないのは、黒猫の屍体を指でつかんだあの印象が強烈に残っているのと、身の回りからただよう、なんとも云えない冷たいオーラのせいだろう。

「話がある」

 黒瀬が、云った。

「ええと……おれ?」

 思わずまわりを見回したが、他に人影はない。自信がなかったのは、執拗な視線を浴びせてくるわりに、彼女がいままでおれに話しかけてきたことがいちどもなかったからだ。

「ここにはきみ以外、誰もいない」

「そりゃ、そうだけどさ……」

「あまり時間はとらせない。いいか?」

 おれは返事をためらった。家で腹を空かせて待っている、異端審問官のことを思ったからだ。

 だがむりやり拒んで振り切ることができないくらい、黒瀬は真剣な表情をしていた。

「もっとも、早く終わるかどうかは、きみ次第だが」

 黒瀬はおれに背をむける。おれはあわてて靴を履き替え、そのまま歩き始めた黒瀬のあとを追う。

 校門の前に、黒塗りの車が止まっていた。

 このあたりではめったに見かけない、外国製の高級車だ。

 やたらと横に長いその車の、後部座席の扉がひらいた。

 先に乗り込んだ黒瀬が、うながすような視線でこちらを見つめてくる。

 おれは仕方なく、黒瀬の隣に乗り込んだ。

 扉が勢いよく閉まり、車が急発進する。

 後部座席に思いっきり頭をぶつけ、おれは悲鳴をあげた。

 黒瀬は、顔色一つ変えない。

「どこに行くんだよ」

 後頭部をさすりながら、おれは訊いた。

 黒瀬が答えるまで、間が空いた。

「わたしの家だ」

 自分から誘っておいて、まるでおれに興味をなくしたように、黒瀬の顔は真っ直ぐ前を向いている。声を掛けるのもためらうような雰囲気で、おれは黙って彼女に従うしかなかった。

 着いたところは、金持ち連中の別荘地から目と鼻の先にある、マンションの前だった。

 おれは思わず、マンションの階数を数える。十二、十三……十四階建て。その威容を下から見あげているだけで、威圧的な迫力に、気圧されそうになる。

 黒瀬は、おれが後からついてくるかどうか確かめもせず、オートロックの扉をくぐる。

 ひとけのないロビーでも、エレベーターの中でも、黒瀬は終始無言だった。

 おれは馬鹿みたいに後からついてゆき、ただ黒瀬の白い横顔を見つめているしかなかった。

 こいつ、なにを考えてる?

 転校間もない女の子が、一言も口をきいたことのない男のクラスメイトを、家に上げるか? こいつの父さんや母さんに会ったら、なんて挨拶すればいい?

「余計な心配は無用だ。わたしは、一人暮らしだ」

 おれのこころを読んだように、黒瀬が云う。

 ええっと……それって、逆の意味でヤバい気がするんですが、お嬢さん。おれ、誘惑されてる?

 扉が開いた。

 閉館日の博物館からただよってくるような、静かで、冷えた、生活感のない臭いがただよってくる。

「この街にはまだ来たばかりで、荷もほどいていない。殺風景で申し訳ないが、気楽にしてもらっていいい」

 黒瀬が云った。

 殺風景と簡単に云うが、度が過ぎていた。

 黒瀬に案内されただだっぴろい部屋には、中心にぽつんとガラスのテーブルが一脚据えてあるだけで、それ以外なにもない。

 テレビもない。

 クローゼットも、時計も、ソファも、女の子らしい装飾品も、なにもない。

 正確に云うならば、白いシーツをかけた、なにやらわけのわからないものが、部屋のまわりをぐるりと囲うようにいくつも置いてある。その正体なんて、おれが知るわけがない。

 ガラステーブルの上には白い皿が一枚、置いてあるきり。その上には数個の林檎がころがっていた。

「お茶も出せなくて申し訳ないな。林檎、食べるか?」

「いや……」

 おれは首を横に振る。若い男と女が、ひとつ部屋で林檎を齧りあってる姿というのも様にならない。なにより、黒瀬の話というのが気になっていた。

 黒瀬が、白いシーツをかけた物体のひとつに、近づく。

 シーツをはがすと、座り心地の良さそうな革張りのソファが一脚、姿をあらわす。

 ソファは、目にも鮮やかな真紅で彩られていた。

 まるで血のような、真紅。

「座ってくれ」

 黒瀬が云った。

 拒む理由もない。おれは黙って、ソファに腰かける。

 がちゃん。

 鍵のかかる音のような金属質の響きとともに、肘掛けに置いたおれの両手に、鉄の輪がかかる。

 同時に、ソファの下部から鉄の輪が飛び出し、おれの両足首をがっちりと固定した。

 ふいに肘掛けが、ばん、と勢いよく捻りながら跳ね上がり、おれは万歳をした形で両手を挙げさせられた。

 悲鳴をあげる、余裕さえなかった。

 まるでアニメに出てくる変形ロボットのように、ソファはまたたく間に形を変えていく。

 足元が跳ね上がる。

 つづいて背もたれが、ばたんと後ろに倒れ、おれの上半身はそのまま後ろに倒れる。

 気がついたらおれは天井を見あげていた。歯医者の診察台に寝ころぶように。

 おれは唯一自由になる首を動かし、必死で黒瀬の姿を追う。

 黒瀬はゆっくりとおれの右側に歩いてきた。

 いつのまにそんなものが飛び出していたのか、ソファ(?)の右側、おれの腰のあたりに、ハンドルのようなものが姿を現していた。

 黒瀬がハンドルを回すと、きしむような音とともに、いまや一枚の板状になったソファ(?)はゆっくりと垂直に持ち上がった。

 気がつくと、黒瀬は目の前に立っていた。

 両手両足の自由を奪われたまま、おれは馬鹿みたいにぽかんと口を開けて、黒瀬の顔を見つめていた。

「……なんかの冗談か、これ」

 笑って云ったつもりだった。だがおれの声は裏返っていて、それは自分の耳にも笑い声に聞こえなかった。

「そちらはどうか知らないが、わたしは真剣だ」

「おい、黒瀬!」

「その名はわたしにとって、意味がない。好んでつけた偽名だが、呼ばれるたびに、むず痒い」

 黒い瞳が、真っ直ぐにおれを射貫く。

「八百年つづいた、由緒正しき家名で呼んでもらおうか。わたしの名は、クローチェ。第三十七代筆頭拷問吏だ」



「きみが座ったそのソファは、タラゴーナ式驚嘆型拷問台(フローデ)という」

 黒瀬が……いや。

 クローチェが云った。

「詐欺師、の別名を持つ強襲型拷問台だ。逃亡の恐れのある異端の不意打ちのため、ごく稀に使われる」

 その黒い瞳。

 真っ直ぐに伸びた、長い髪。

 胸元で組んだ腕の、その肌の色。

「……詐欺だろ」

 おれは思わず呟いていた。

「あんた、どっからどう見たって外人に見えないぞ」

 ついでに云うなら、メイドにも見えない。

 脳内で描いていた金髪碧眼のメイドさんのイメージが、がらがらと音を立てて崩れていく。

 おまけに、拷問吏だって? こいつ……。

 きゅっと、身体中の血管が引き締まるような思いがした。

 あのトルソーの、仲間だ。

「わたしの名前を聞いていたのなら、話は早い」

 クローチェが、云った。

 右手を挙げて、指先で自分の髪を梳く。綺麗な長い髪が、はらりとその指先から落ちていく。

「髪も、顔も、皮膚も、変えることなど造作もない。わたしの一族には、八百年の歴史がある。異端の身体に触れ、その屍体に寄り添った八百年だ。そこらの整形医よりはよほど人体に精通している。拷問吏は、間諜の役目を兼ねることも多くてな。もはやわたしの本来の顔や、瞳が、どんなものだったのか、わたし自身にも思い出せない」

 さらりと、凄いこと云ったぞ、こいつ!

「東洋人に化けるのは初めてだ。きみらの反応を見る限り、どうやらわたしはやり過ぎたらしいな」

 クローチェは、薄く、笑った。どうやらそれが、苦笑に該当するものであるらしいと理解するのに、しばらく時間がかかった。

「この皮膚の造形は美しすぎる、そうだろう。もうすこし隠密行動にむいた、目立たない姿にするべきだった」

 クローチェはそう云いながら、拷問台に片手をかけ、身体を傾ける。

 その吐息が、間近でおれの耳朶をくすぐった。

 早くなった鼓動を、どうか気づかれないでくれとおれは祈った。

 祈りは通じなかったらしい。クローチェは短く、声を出して笑う。

「なるほど……こういう効用もあるわけか」

 クローチェは含み笑いをしながら、さらに顔を近づける。

 おれの耳朶を、クローチェの唇がつつむ。軽く噛まれる感触。

「……!」

「こういうのはどうだ、浅倉。きみはわたしの願い事を聞く。その代わり、きみにこの身体を与えよう」

「……!」

「こんな皮膚の造形など、わたしにはなんの興味もない。そこにわたしの矜恃はない」

 クローチェの右膝が、おれの両足の間に、割って入る。

 おれの制服と、クローチェの黒いタイツ越しに、生温かい彼女の体温が伝わってくる。

「きみに与えよう。この脚も」

 クローチェの空いた片手が、おれの首筋を撫でる。

「腕も」

 冷たい声が、おれの耳元で囁く。

「顔も、身体もすべてだ。きみの自由にしていい……どうだ?」

 か細いクローチェのからだがおれに寄り添っている。

 覗き込むクローチェの顔を、おれは真っ向から見返した。

「願い事なんか、聞いてやるもんか」

 おれは、震える声で、云った。

「どうせおまえの魂胆は分かってる。あいつを……異端審問官を連れ戻したいって云うんだろう。そんな願いなんか、聞いてたまるかよ」

「交渉は決裂か。惜しいことをしたな、浅倉」

「アップルパイを……」

 ことばが、喉につかえて、上手く出てこない。

「アップルパイを好きだって云ってた。あんたが焼いたアップルパイは最高だって。あいつを騙したな。やさしい顔を見せて、こころにもない甘いことばをかけて……あいつをいいように利用した、そうだろう?」

 クローチェの顔に、さざなみが奔った。

 ほんの一瞬、その顔に動揺が浮かび……すぐに消えた。

「……あいにくと、料理人が本業というわけじゃない」

 クローチェは踵を返す。その手がシーツをつかみ、剥がす。

 現れたのは、鋼鉄製の彫像のようなものだった。女の彫像だ。美しい顔、豊かな身体……ただ、その腕も、脚も、奇妙にねじくれ曲がっている。

「美しいだろう。貞節な淑女(シグノーラ・デル・フェデラータ)という。五百年前に原型が出来上がり、それからは我が一族の審美眼に優れたものが意匠を積み重ねた、芸術品だ。この淑女に抱かれたものは、全身の二十七カ所の関節を逆にひし曲げられる。だが、どれも致命傷には至らない。異端は彼女の前で呻き、苦しみ、たっぷりと改悛と告白の時間を与えられるという寸法だ」

 クローチェは歩き続ける。踊るような優雅な仕草で、次のシーツをめくる。

「こちらはカスティーリア式懺悔台。ハンドルを回せば、異端は自然と膝を折り、頭を垂れ、我が神の前に懺悔する姿勢を取る。あとは柱についた無数の針が、曲がった異端の背中に突き刺さり、神の慈悲の代わりに苦渋の呻きを与えてくれる」

 クローチェはさらに歩き続け、テーブルの前で立ち止まった。

「わたしのお気に入りはこれだ」

 クローチェはそう云って、おれの前に手にしたものを突きつける。

 林檎だ。

 ぷりぷりとよく実が肥えて、旨そうに見える。

 だが……。

「異端を拷問台(ラック)に縛りつけ、塩漬けの肉だけを与えて、太陽の下で半日さらす。飢え乾いた異端に林檎を差し出せば、否も応もなく果肉に齧り付く」

 クローチェの指が、林檎を強く押す。

 とたんに、林檎の果肉がはじけた。

 ……いや、それは林檎じゃない。

 真っ赤な林檎の皮をつけたまま、無数の刃物が左右に突きだしている。それはまるで両足を広げた蟹か、エイリアンの幼生体みたいに見えた。

 刃物の鋭さは、この身で味わってみるまでもなかった。

 蛍光灯の明かりの下、無数の刃物は鋭い輝きを見せている。

「異端がこれを口にしたとたん、七十二枚の微細な刃物が、異端の咥内を切り刻む。ただし……舌を切り取るまでには至らない。傷で膨れあがった舌を抱えて、異端はもはや冒涜のことばを吐くことすらかなわない。だらだらと口から血を流し、ただ囁くような声で、こうつぶやくだけだ」

 クローチェが拷問台に片手をつき、またおれの耳元に唇を寄せる。

「どうか神のお慈悲を。改悛いたします……とね。“懊悩の林檎”。それがこの拷問具の名だ」

 ことばも出なかった。

 クローチェが踵を返し、林檎の化け物をテーブルの上に置くと、身体中から一気に冷や汗が溢れ出す。

「それであんたは……その気色の悪い拷問道具のコレクションをおれに見せびらかすために、おれを呼んだのか」

「そんなわけはない。わたしたちの共通の話題といえばひとつしかないはずだ」

 決まっている。異端審問官のことだ。

「少し長くなるが、わたしたちが何者か、まずそこから話した方がいいだろう」

 クローチェは語り始めた――。


 それは影の歴史だった。

 海の向こうで、元は同じ神を奉じていたはずの、二つの宗教が争っている。

 ひとつは正統と呼ばれ、もうひとつは異端と呼ばれる。

 正統の歴史は、異端との戦いの歴史だった。聖典に含まれた様々な矛盾は多用な解釈を生み、決して相容れることのできない差異を生む。そこから生まれた異端を、正統は寛容とは言い難い態度で遇した。

 幾度にもわたる公会議、繰り返される異端との往来討論、その末に正統は異端の破門を宣言し、この世にあってはならないものと定義した。

 爾来、八百年、正統と異端のあいだには、捕虜もとらなければ停戦もありえない、徹底的に無慈悲な、終わりなき戦いがつづいている。

 現代(いま)も。

 正統には二つの顔がある。誰もが名前を知り、世界平和をうたい、多数の信者を抱える穏健で古びた宗教としての顔と。

 中世と変わらぬ過酷さで、闇に潜んだ異端を追い詰め、捉えて尋問し、処刑する『聖庁』という機関を擁する影の顔。

 聖庁の影響力は多岐にわたっていた。

 各国政府、報道機関、警察、軍隊――正統のシンパはあらゆる場所に潜み、聖庁の活動を支援する。

 ときに、十字軍と呼ばれる私設の軍隊が、国境を越えて異端の巣窟に攻め込んだとしても、国境警備隊はなにも見なかったかのように彼らを看過する。

 そしてクローチェたちもまた、聖庁に属する、“見えない”人間たちだった。

 クローチェたちは身分証明書(ID)を持たず、手ぶらで税関をスルーすることができる。そうやって国から国へと渡り歩きながら、彼らは民草に潜んだ異端たちを炙りだしてきた。

 異端に属するものたちは、聖庁の追及を恐れ、影に潜んでいる。

 隠匿人(オクラトーレス)や秘匿人(ケラトーレス)と呼ばれる協力者たちの援助を得て、あるものは街の中でひっそりと暮らし、またあるものは集いあい、地図に決して描かれることのない秘められた集落(コミューン)をつくる。

 彼らを追いつめ、自白を拒む異端から改悛のことばを引き出すのが、クローチェたち拷問吏の役目。

 最後まで自白を拒んだもの、あるいは審問から逃げ出したものを殺すのはトルソーのような戦闘能力や、ノーチェのような特殊能力を持った、刑吏と呼ばれる異形の者たち。

 そして彼らを束ねるもの。異端の臭いを嗅ぎつけ、異端の隠されたこころを暴くもの。

 彼らの名を、異端審問官と云う――。


「そんな……そんなたわごと、信じられるわけがないだろう!」

 おれは叫んだ。

「新聞だって、ニュースだって、そんな報道、聞いたことがないぞ!」

「自らの現実把握能力を恥じる必要はない。きみが知らないのは、それがないことになっているからだ」

 クローチェが涼しい顔で答える。

「どの国の歴史にも暗部はある。血と悲鳴で購われた、闇の時代が。その過去をくぐり抜け、知性と論理で組み立てられた、一点の曇りもない文明を手に入れた。それが彼ら、普通の人間の誇りなんだ。彼らはわたしたちの存在を知らないのではない、知ろうとしたがらないんだ。わたしたちは彼らに“欧州の恥部”と呼ばれている。この国で、カタナを持ったサムライたちがいまも首を狩りながら暴れているとしたら、きみたちだってそれを誇りたくはないだろう?」

 その歪んだ日本像には大いに文句があったが、話がややこしくなりそうなのでおれは黙っていた。

「誤解のないように云っておくが、わたしは自分の仕事を誇りに思っている。人としての誇りを捨てた異端どもの口から、後悔の悲鳴を絞り出すのはなににもまさる歓びだ。父や、祖父や、曾祖父が、わたしの人生に深く刻みつけた轍をたどっていくのに、一点のこころの曇りもない」

 そう云うクローチェの表情からは、ことばの通り、かけらの後ろめたさも感じられない。

「……彼女には、わたしのようにあって欲しかった」

 その声が、ふいに重く沈む。

「彼女は百年に一人の逸材だ。あの歳で、あそこまで能力を開花できた異端審問官など、過去にひとりもいない。異端を嗅ぎつける嗅覚も、ひとのこころを読む能力も、ずば抜けている」

「てめぇの勝手な誇りに、あいつを巻き込むなよ!」

 おれはクローチェを睨みつける。

「おまえ、知ってるのか、自分がやってきたことを、あいつがどれだけ後悔してるか。そのことで、どれだけ苦しんでるのか、知ってるのか。あいつをむりやり連れ戻したところで、おまえらの云うことなんぞ聞くもんか!」

「“囁きの拷問吏”の名が泣くな」

 クローチェがまた、苦笑を浮かべた。

「拷問台(ラック)に縛りつけた相手に、素面でここまで吼えられたのはひさびさだ。もっとも、ここから先はそうはいかないがな……」

 クローチェがハンドルを回しはじめる。

 おれの両手と両足を固定した鉄の輪が、ゆっくりと上下に動いていく。

「じきに痺れるような痛みがきみを襲う。まず外れるのは手首の関節だ。次に肩の関節がはずれ、股間の関節が外れるのはずっと後だ。自らの関節が外れる音を耳にしたことはないが、恐らくいい気分ではないだろうな。だが、死にはしない。後悔する時間はたっぷりある。股間の関節が外れるまで、正気を保っていられる人間はほとんどいない。きみはどこまで耐えられるかな」 

 きしんだ音ともに、鉄の輪がさらに上下に動いていく。

「彼女が、わたしたちを拒む理由はわかっている」

 クローチェの顔に、苦々しげな表情が浮かぶ。

「あんなくだらぬ出来事のために……」

「出来事?」

 クローチェの瞳が、おれの目を見る。

 ハンドルは回る……。


 小さな村だったという。

 異端審問官の様子は、その前からおかしかったそうだ。

 輝かしかった微笑みは消え、子供らしい快活さは無くなっていった。

 その日も、異端審問官は仏頂面で、淡々と仕事をこなしていた。

 一列にならんだ村人たちの前に立ち、つぎつぎと浄化の宣告(セルモ・ゲネラリス)を下す。

 異端です。

 異端ではありません。

 異端です。

 異端です……。

 その声がふいに途切れ、異端審問官の足が止まった。

 粗末な服を着た、小さな女の子が、じっと異端審問官を見つめていた。彼女よりも、ずっと幼い女の子が。

 女の子は、手に、安物の櫛をぎゅっと握りしめていた。

 どうかお許しを。その村の長が云った。この子はまだ道理も分からぬ、幼い子供です。早くに父母を亡くし、もはや身寄りもない、憐れな子供です。

 女の子が握っていた安物の櫛は。

 その子の母親の形見だったそうだ。

 どうか、お慈悲を。長は云いながら、異端審問官の足元にすがりつく。

 クローチェが異端審問官の肩を抱いて、促した。どうしました。審問の続きを。

 云いたくありません。

 異端審問官はそう云ったそうだ。

 まわりを取り囲む修道士(モナコ)たちがいっせいにざわめいた。そんなことばが異端審問官の口から出てきたことなど、過去に例がない。

 なにを云っている。クローチェが云った。これはあなたの仕事なんだ。わかっているのか。

 異端審問官はぎゅっと目をつぶり、ただひたすらに黙していたそうだ。

 云うんだ、クローチェは強く異端審問官の肩を揺さぶりながら、彼女の名を呼んだ。

 震える唇が、ゆっくりと開いた。

 その子は――。

 異端審問官の声が、そうつぶやきかけたとき。

 女の子は逃げ出した。

 トルソーが歓喜の声を上げた。異端審問の宣告の前に逃げ出したものは、刑吏によって処理される。たとえそれが、異端であろうと、なかろうと。

 女の子が短い悲鳴を上げ、背中から血を吹き出しながら、地に伏すのを、異端審問官はただ目を見開いて。

 ただ目を見開いて。

 黙って、見つめていたそうだ。


「愚かな娘だ」

 ハンドルを回しながら、クローチェは、断じた。

「あの娘が仮に異端だったとしても、おとなしくわたしの拷問を受ければよかったんだ。子供の拷問は容易い。子供には体力が乏しく、忍耐力もないからな。少し痛めつけてやれば、大概は泣き叫びながら己の罪を吐く。そうすれば“狭き壁”にわずかなあいだ幽閉されるだけで済んだ」

 クローチェはそう云って、眉宇をひそめた。

「つまらぬ血など流すことはなかった。そんなもののために、わたしたちの信頼が崩れるなど、お笑いぐさだ」

「云いたいことは、それだけか」

 おれは、云った。

 ハンドルを回す手が、止まった。

 クローチェがおれを見つめている。

「云いたいことは、それだけかと訊いているんだ」

 おれの手足は、すでに限界近くまで、上下に引き延ばされていた。

 手と足の関節の痛みは、耐え難いほどに高まっている。

 おれは、口の中に溜まった苦い唾を、クローチェの顔に向かって吐き出した。

 クローチェは避けようともせず、自分の顔を汚れるにまかせた。

「人の命を気安く語ってんじゃねぇぞ、てめぇ!」

 おれは叫んだ。

 怒りのあまり、視界が狭まっていた。

 涼しい顔をしたクローチェの顔が、視界一杯に映っている。

「誰がそんな血塗られた仕事を好きこのんでやりたがる。それがあいつにとって苦痛でしかないってことがなんでわからない!」

「きみになにがわかる」

 抑揚のない声で、クローチェが答えた。

「われわれには、あとがない。聖庁はとっくに彼女の脱走に気づいている。このまま放っておけば、聖庁は彼女を反逆者とみなすだろう。そうなれば追っ手がかかる。わたしたちを殺すために」

「正統だの、異端だの、知ったこっちゃねぇんだよ!」

 おれは叫んだ。

「おまえがいちばん、あいつのそばにいたんだろうが。どうしてあいつの気持ちに気づいてやれなかった。あいつの涙を見たことあんのか。どうしてあんな小さい子が、自分を責めて、泣かなきゃいけない! 十歳かそこらの小さな子が、どうして甘えることも知らず、山ほどの命と死を抱え込まなきゃいけない! あの子から笑顔を奪ったのは、おまえ自身だろうが!」

 クローチェの肩が、びくりと震えた。

「父親がいて、母親がいて、ときに甘えたり、叱られたり、いろいろ教えられたり。どうしてそんな普通の生活をあの子にさせてやらなかった! それが人の生活ってもんだろうが。そうやって人って生きてくもんだろうが。たとえ……たとえ親が死んだってなぁ、まともな生活ってもんを教えてやりゃ、ちゃんと子供は大きくなっていくんだよ。あいつからなにもかも奪って、平気な顔ができるおまえなんぞ、下衆以下だ! 人を道具みたいに扱ってんじゃねぇよ!」

「誰が彼女を、道具だと云った!」

 ばん。

 広げたてのひらを、クローチェが拷問台に叩きつける。

「わたしたちが積み重ねてきた月日の、なにがわかる」

 あからさまな怒りを浮かべたその顔が、おれの目の前にある。

「それがわたしたちの生き方だ。ぬるま湯のなかで生きているようなきみたちの生き方とは違う。わたしたちには奉ずるべき神がいて、為すべき使命がある。その使命に一生を捧げるよう、わたしたちは生まれたときから定められて生きてきたんだ。それなのに……」

 ことばを止めたクローチェが、悔しげに唇を噛む。

「それなのに、彼女は逃げ出した。聖庁からどれほど促されても任務をこなそうとせず、あげくの果てには謹慎という不名誉まで被った末にだ。きみをわたしがどんな気持ちで見つめていたか、わかるか? トルソーから聞いた……」

 クローチェの顔が歪む。

「彼女は、笑っていた、と」

 感情を容易に現さない黒瀬の姿は、もうそこにはない。

 浅ましい感情をあらわにし、痛ましいほどに内面の痛みにもだえるクローチェの姿が、そこにあった。

「妬ましかったよ。彼女の笑顔など、わたしはもう長いあいだ見ていない。どれほどこころを砕いて彼女に尽くしても、やさしいことばを掛けても、彼女はわたしの瞳すら見なくなった。終いには彼女はわたしから逃げ出した。わたしにこころを打ち明けることもなく、さよならのことばをかけることもなしに。その彼女が、きみの瞳をまっすぐに見て、笑っていた……何故だ?」

「理由なんて、わかってんだろうが」

 おれは云った。

「おまえが本当にあいつのことを考えてるっていうなら、あいつが血で手を染める前に、あいつを逃がしてやるべきだったんだ」

「できるわけがない」

 クローチェが云った。

「わたしは拷問吏で、彼女は異端審問官だ。わたしがどんなに彼女を思ったところで、わたしたちの関係はその上に成り立つものでしかない」

 クローチェの片手が、拷問台のハンドルに伸びる。

「きみに教えてやりたい。彼女がわたしを見て微笑み、異端を滅ぼせと命じたとき、身内を駆けめぐった歓びを。わたしがどれだけ自分を誇りに思ったか。わたしはね、浅倉、あの蜜月を取り戻したいんだ。彼女が甘ったるい声で、浄化の宣告(セルモ・ゲネラリス)の開始を告げた、あの黄金の日々を」

 喋りながら、クローチェは、ハンドルを操る腕を止めない。

 おれの身体が、引き延ばされていく。

「……人殺しが!」

 おれは呻いた。

「もっと罵るがいい。嘲りのことばを受けることには慣れている。聖庁の狗(ドミニ・カニス)と嘲られ、血に塗れた忌まわしい存在だと畏れられてきた。そんなことなど、取るに足りなかった。信頼をこめた彼女の瞳が、わたしを見つめていてくれる限り」

 きしむ音を立てて、ハンドルが回る。

「彼女のためならどんな屈辱にでも耐えられた。わたしはいつだって、彼女のために、死すら厭わず、異端と戦う覚悟ができている。それなのに……」

 ハンドルが回る。

「それなのに、彼女はもう……わたしを見て、微笑まない」

 クローチェの手が……。

 一気にハンドルを逆回転させた。

 おれの手足を縛りつけていた力がゆるまり、鉄の輪が外れる。

 おれは受け身を取ることも出来ず、頭から床に倒れ込んだ。

 おれは荒い息をついたまま、背中を丸めて、震えていた。

 手足が、ちぎれそうなほど、痛かった。

「……べつに、きみの熱弁にこころを動かされたから、助けるわけじゃない」

 クローチェがおれを見下ろしていた。

 痛みに涙のにじんだ目で、おれは真っ向からその瞳を睨み上げてやる。

「できないんだ。浄化の宣告(セルモ・ゲネラリス)無しに異端を裁くことは禁じられている。異端審問官がその気にならない限り、わたしも、トルソーも、きみになにもできはしない」

 クローチェがおれの腕を掴む。

 そのままむりやりに起き上がらされた。肩と足首の痛みが、脊髄を奔って、頭の中で花火を散らす。おれはふらふらとふらついたまま、瞳だけはクローチェから逸らさなかった。

「……だがなにもできないのはきみも同じだ。そうじゃないか? きみに彼女の運命など変えられはしない」

「できるさ!……人は変われる。運命ぐらい、きっと変えられる!」

「そうか?」

 クローチェはそう云い、目を伏せる。

「きみの云うことにひとつだけ賛同しよう。むりやり彼女を連れて帰ったところで、彼女はわたしの云うことに耳を傾けたりはすまい。彼女が、ほんのわずかな間、違う景色を観たいというなら、わたしは……彼女を待つしかない」

 クローチェの顔に、暗い影が差していた。

 彼女は、自分の肩を抱く。

 細い肩だ。

 まるで自分が痛めつけてきた異端たちの亡霊をまるごと背負っているように、その肩は細かく震えていた。

「家まで送ろう」

 クローチェが云った。

「早く帰って、彼女を安心させてやれ。できれば彼女のこころを癒し、やさしいことばを掛けてやってくれ。それはいまは……わたしの役目ではない」

 云いながら、クローチェは背中を向ける。

「あいにくとアップルパイはいまは食べさせてやれない……彼女は、ティラミスが好物だ」

 そんなこと、知っているさ。

 その一言を、おれはなぜか、彼女の背中にむかって、投げつけられずにいた。



 帰り道、また高級車の後部座席に乗せられた。

 痛む手首をさすりながら、隣に座ったクローチェから顔を背けるように窓の外を見ていたおれの視界を、黄色いものが横切った。

 あれは――。

「止めてくれ」

 気がついたら、おれは口走っていた。

 クローチェが、こちらを向く。

「家まで、送るが」

「いい。ここから、歩いて帰る」

「好きにするといい。わたしもいまは、彼女と顔をあわせたくはない」

 運転席に座った男に、クローチェが合図をする。車は停止した。

「なぁ、浅倉、きみにとって彼女はなんだ?」

 車から降りたおれの背中に、クローチェが声を掛ける。

 クローチェは窓枠に肘をつき、足を組んだ格好で、おれを見ている。この女がおれの学校の制服を着ていることが、いまは不思議でしょうがなかった。

「痛い思いをし、恐ろしい思いをしてまで、庇い通さねばならないほどのものか? きみにとって彼女は、重荷でしかないと思うが」

「放り出せない荷物だって、あるんだよ」

「……納得できない答えだな」

 ドアが、閉まる。

 そのままUターンし、去っていく車のテールライトを見送ると、おれは痛む足を引きずり、ビルの谷間にある空き地にむかって歩き始めた。

 間違いない。

 ははっ、と短い笑いが、おれの喉から漏れる。

 セイタカアワダチソウに駆逐されて、もうこのあたりじゃ見られないと思っていた。

 腰までの高さで、空き地を埋めつくすやさしい花姿。

 頬をさす夜の空気に、黄色い花が揺れる。

 アキノキリンソウだ。

 母さんが、大好きだった花。

 おれがもっと幼かったころ、この花はそこらの道ばたに咲いていた。二人で散歩するたびに、母さんは足を止めて、この花にみとれていたものだ。

 母さんとの散歩は、おれの小さい頃の日課だった。冒険と称するその道行きは、たいがい目的などなく、飛んでいくテントウムシを追いかけたり、レンゲで冠をつくったり、だらだらと長時間に及んだ。帰り道にはおれがぐずって、母さんにおぶってもらうのが常だった。

(お花はね、春之助、人に元気をくれるんだよ)

 おれをおぶって歩きながら、母さんはそんな話をしてくれた。

(だから家に花を飾る人はね、花からもらったぶん、元気に生きなきゃいけないの)

 あのときの母さんの背中のぬくもりはまだ覚えている。

 うとうとと、背中で眠り込んで、はっと目覚めたとき、自分がまだ母さんの背中の上にいることに気づいて、ほっとしたものだ。

 母さんが死んでしまっても、その記憶まで消えるわけじゃない。

 いくつもの思い出が、おれを死ぬまで支えてくれるだろう。

 だけど――。

 あいつには、異端審問官には、なにもない。

 支えてくれる人も、支えてくれる記憶も、なにひとつ。

 誰が誉めて、頭を撫でてくれたって?

 誰がアップルパイを焼いてくれたって?

 そんなもの、ひとがよく動く道具に示す好意に等しいものだろう。

 そんなものにすがるほか、あいつには生きる術がなかったんだ。

 だってそうだろう。誰が一人で生きられる?

 狭い世界に押し込められ、それが正義なのだと教え込まれたら、頭を撫でてくれる手を得る術がそれしかなかったら、おれだって人殺しに手を染めていたかもしれない。歪んだ世界観を頭から信じ込み、それが正義なんだと自分を騙しつづけていたかも知れない。

 突然気がついた。

 おれには、足りないものなんて、なにもない。

 十六年間、母さんが注いでくれたもので、事足りる。

 それで足りないなんて云ったら、罰が当たる。

 だったら、次はどうする。

 おまえになにができる。

 決まってる――。

 次は、おれの番なんだ。

 アキノキリンソウの群れに、ひとつぺこりと頭を下げ、おれは可憐な黄色い花を、いくつか手折った。

 家に帰ると、玄関までどたどたと駆けてきた異端審問官が、満面の笑顔で出迎えてくれた。

「お帰りなさい、春之助!」

 ……なんだ、おまえのその格好は。

 異端審問官は、片手にプラスチックのボウルを抱えていた。ボウルの底には、水でこねた小麦粉らしきものが溜まっている。水が多すぎたらしく、小麦粉のかたまりは異端審問官が身体をゆするたびに、ボウルの中でたぷんたぷんと揺れていた。

 もう片方の手には、包丁。

 異端審問官は片手でボウルを抱えたまま、包丁の先で小麦粉をこねまくっている。

 ……泡立て器の存在を知らなかったのね、おまえ。

 頬に小麦粉の白い粉をつけたまま、異端審問官はにこにこと笑っている。

「やっぱりそうですね、顔を見て、ピンと来ましたよ!」

 異端審問官にそう云われて、おれはどきりとする。

「なにがだよ?」

「絶対に、おなかをすかせて帰ってくると思っていたんです。そんな顔をしています! 待っていなさい。すぐにわたしが、とびきりおいしいパンを焼いてあげますからね。お腹がはちきれるまで食べるとよいでしょう!」

「パンって……おまえ、作ったこと、あんのか」

「大丈夫です」

 異端審問官はそう云って、得意げに胸を反らせる。

「聖庁の厨房で、助修士たちが焼いていたのを、うしろから見ていたことがあります」

 悪い。日付が変わるまで待っても、それじゃパンなんてありつけそうにない。

「貸しな。包丁ってのはそんな風に扱うもんじゃない。ケガするぞ」

 おれは、異端審問官からボウルと包丁を受けとり、代わりに花を押しつける。

「お花!」

 異端審問官が顔を輝かせる。

「わたしに摘んできてくれたんですか?」

「べ、べつにおまえのために摘んできたわけじゃねーよ」

 おれはそう云って、口を尖らせる。ちょっとツンデレしてみました。

「おれと、おまえ、二人のためだ。あとで玄関先に飾ろう。知ってるか?……花は人に、元気をくれるんだ」

 台所にいくと、流しの引き出しはすべて開け放たれ、片栗粉やら塩やら砂糖やら、いろんな容器がテーブルの上に引きずり出されていた。小麦粉の粉が、台所の床を汚している。やれやれ、今日も片づけが大変だぞ、こりゃ。

「おまえには、おれが知ってる料理の技術を、きちんとぜんぶ叩き込んでやる」

 おれは云った。

「パンが食いたいなら、こんどの休みにでも焼いてやるから、いまは待て。まずは、包丁の扱い方からだな」

 床を掃除し、あたりをざっと片づけてから、おれはエプロンをつけて、流しの前に立つ。

「いいか、包丁ってのは生半可な扱いをしちゃ駄目だ。手入れは丁寧に、ときおりちゃんと研いでおくのも忘れちゃいけない。研ぎすぎた包丁で怪我をすることなんて滅多にない。なまくらな包丁を使う不精者が、たいがい怪我をするんだ」

 おれは左手でこぶしをつくり、自分の前に持ってくる。

「そして流しの前には、拳一つ分、間隔をあけて、立つ。おまえはちいさいから、拳二つ分でもいいかもな。そして体はまっすぐ、まな板の方をむくこと……わかったか?」

 異端審問官はこくこくとうなずく。

 アキノキリンソウを両手で抱え持ったまま、異端審問官は真剣なまなざしでおれの手元を見ている。

「使いやすい包丁の大きさは、自分の握り拳、二個分だ。おまえにはこの包丁は大きすぎるから、ちょっと小さい子供用のやつをこんど買ってきてやる。刃は、重い方が使いやすい」

 ふいに異端審問官が、くんくんと鼻をうごめかせる。しきりとあたりの匂いを気にして、いろんなものの匂いを嗅いでいる。

「包丁の柄は、しっかり握るんだ。左手は指を伸ばさず猫の手にして……おい、聞いてんのか」

 異端審問官はおれの制服の袖をぐいっと引っぱると、くんくんと匂いを嗅ぐ。

 その顔に、ほっとしたような笑顔が広がる。

「神さまと喧嘩するのをやめたんですね、春之助」

 異端審問官は笑いながらそう云った。

「異端の臭いが、消えました」

 クローチェにこいつを連れ去られない方法が、ひとつある。

 こいつを、血塗られた道に戻さない方法が、ひとつある。

 スーパーヒーローでもないおれにできる、たったひとつのやり方が。

 こいつを、普通の女の子として育ててやることだ。

 今日から、おれは、こいつの母親になる。





 次の日、教室の扉を開けるのに、ありったけの勇気が必要だった。

 この薄い扉のむこうに待っているもののことを思うと、それだけで背筋が凍る。

 わずかな岩のとっかかりに全体重を預けるロッククライマーみたいな気分で、おれは扉に指をかけたまま、しばらく固まっていた。

 思い切って、扉をあける。

 そのとたん、雑多なざわめきで満ちていた教室の中が、水を打ったようにしん、と静まりかえった。

 おれは教室を見回した。誰とも目線が合わない。おれと目を合わすまいと、あからさまに顔を背けたヤツも数人いた。

 相沢などは、試験前にも見せたことのない熱心さで、急に開いた教科書に顔を埋めている。わかりやすいヤツ。

 辻田姉妹は、互いをかばうように抱き合ったまま、必死でこちらから目を背けている。やめてくれ、シスターズ、取って食いやしないから。

 やがてゆるゆると視線をこちらに向けてくる、一人と、一組。

 瀬川真帆は、気づかうようにじっとおれの顔を見つめている。

 篠崎由香里とその取り巻きは、ぴたりと口を閉ざしたまま、あからさまに悪意のこもった視線をこちらに向けてくる。ほんの数秒前まで、おれの悪口で盛り上がっていたことが丸わかりだった。

 はっきりとおれを遠ざける、この空気。

 きっとみんな、あの意味不明な黒板の落書きも、篠崎の机に黒猫の屍体を押し込んだのも、おれが犯人だと思っているのだ。

 それは、もういい。

 おれはゆっくりと自分の席にむかう。

 くだらない一連の事件の犯人が誰かなんて、どうだっていい。冤罪を晴らそうと努力することすら、アホらしい。いまは……。

 自分の後ろの席に誰も座っていないことを確認し、おれはほっと肩をなで下ろす。

 そう、いまはクローチェのことだ。

 彼女を黒瀬と呼ぶのは、もう適切じゃないだろう。自らを拷問吏と名乗った、異端審問官の部下。彼女が果たして、今日学校に姿を現すのかどうか。おれはずっとそれを気にしていたんだ。

 考えてみれば――。

 椅子に座りながら、おれは思う。彼女がこの学校に来たのは、おれに近づくためだと見て間違いない。その彼女が正体を明かしたってことは、もう隠密行動を取る意志をなくしたってことだろう。

 なにも一介の女子高生という、いろいろと制限のかかる身分に自分を押し込めておく必要も、これからはないわけだ。

 街のどこからでもおれを見張り、隙があれば異端審問官を連れ戻そうとすることができるんだ。

 クローチェのことばをそのまま信じるのならば、異端審問官の意志に反して、むりやり連れ戻そうとするようなことを彼女はしないだろう。トルソーならともかく、クローチェは。

 だからといって、クローチェが自らの意志を翻し、手ぶらのまま帰国する、なんて姿もおれには想像できなかった。異端審問官がいなければ、クローチェが仕事をすることもできないのだ。クローチェがあれほどまでに誇りに思っている、反吐が出るような拷問の仕事を。

 さて、これからどうしたもんか――。

 などと思っていたとき、がらりと教室の扉が開き、クローチェが入ってきた。

 黒い髪に、きょうはカチューシャをはめている。きちんと制服を着て、両手で握ったカバンを前に提げたまま、こちらに歩いてくる。

 教壇の前を通り、九十度向きを変えて、自分の席にむかう。

 そのあいだ、おれたちはいちども目線を合わせなかった。

 おれは机の端を、指の先が白くなるほどつよく握りしめたまま、固まっていた。

 クローチェが椅子を引き、腰掛ける気配がした。

 おれは全神経を背中に集中させた。

「お、おはよう、黒瀬さん」

 声を掛けたのは、クローチェの隣の席にいる八代だった。やたらとおとなしい、口数の少ない眼鏡少女だが、どういうわけかクローチェのことが気に入ったらしい。事あるごとにクローチェに声を掛け、なにかと話題を振っては、話の糸口をつかもうと健気な努力をしている。

 やめとけ、と口から出かかったことばを抑えるのに、大変な努力が必要だった。八代はクローチェのことをただのクラスメイトだとしか思っていない。とんでもない。こいつは牙を隠した毒蛇だ。

「おはよう」

 いけしゃあしゃあと、クローチェが答える。おれの気持ちも知らないで涼しげな声をだしやがって、コノヤロウ。どんな顔をしてんのか見てやりてぇ。

 振り返る勇気? あるもんか、そんなもん!

「今朝は寒かったよねぇ」

 返事があったことが嬉しかったのか、八代の声は弾んでいる。

「そのようだ」

「わたしなんか、あんまり寒いから、六時半に目が覚めちゃったよ。いつもは目覚ましがないと起きられないのに」

「そうか」

「お母さんが喜んじゃってね。無駄に早起きしたんなら、犬を散歩に連れて行けって、むりやり散歩紐を押しつけられちゃった……あ、ウチの犬、コロっていうの。雑種で、六歳でね」

「コロ」

「うん、可愛いんだよ。黒瀬さんは、犬とか、好き?」

「好きとか嫌いとか、そういう目線で見たことはないな」

「そ、そっかぁ、黒瀬さんみたいにかっこいい人は、動物とかあんまり好きじゃないのかな。まぁ、好みは人によるもんね」

「そうだな」

「で、散歩から帰ってきたら、汗びっしょりになっちゃってね。シャワーを浴びてたら、こんどは風邪を引きそうになっちゃって……」

「お大事に」

「ううん、大丈夫だよ。あ、黒瀬さん、物理の宿題、してきた?」

「ああ」

「そうなんだ。わたしね……」

「きみは、すこし、五月蠅いな」

 ぱたんと本を閉じるように、クローチェが会話を閉ざした。

 ごそごそと、持ってきたカバンの中身を漁る音。

 やがてなにかを取り出し、八代の方に突きだす、気配。

「林檎、食べるか」

 おれは、あわてて振り返る。

 まっすぐに伸びたクローチェの右手の先、握られているのは、たっぷりと果肉のついた、旨そうな、林檎。

 赤い、赤い、林檎。

 ぎゃあ、とおれは声を上げて、クローチェのその手をつかんだ。椅子を蹴倒すような勢いで立ち上がると、そのままクローチェを廊下まで引きずり出す。

 そのまま勢いを落とさず、おれは廊下を全力疾走した。

 なにを考えてやがんだ、こいつは! 教室を血の海に変える気か!

 おれはクローチェの手を握ったまま、階段を上る。クローチェは別段抵抗するわけでもなく、おとなしく後をついてくる。

 屋上の手前の踊り場で、おれはやっと足を止めた。

 背中を丸め、ぜいぜいと荒い息をつくおれを、クローチェは覚めた目でじっと見つめている。

「なにごとだ」

「なにごとだ、じゃねぇよ!」

 おれは云いながら、クローチェがまだ手に持っている林檎を指さす。

「そんなもの、教室に持ってくるなんてどういう了見だ!」

「ああ、これか?」

 クローチェは云いながら、右手に握りしめた林檎に目を落とす。

 右手を上げると、そのまま林檎に齧りつく。

 さくっという旨そうな音が響き、そのままクローチェは齧った林檎を噛みくだく。

「わたしは林檎が好きなのだ」

 ……。

 好きなのだ、じゃねぇ。

 ただの林檎かよ。そんなもん教室に持ってくるか、普通。

 あ、そうか、こいつは普通の女子高生じゃないんだった。だったら、いいか。

 ……じゃなくて!

 おれはがっくりと肩を落とした。

 疲れる。

 異端審問官も充分疲れるヤツだったが、こいつはそれ以上に疲れる。

「あの八代という女生徒は、わたしに好意を持っているようだ。わたしとしても、その好意に応えたかったのだが、なにか、まずかったか?」

 絶対、わかってやってるだろ、こいつ。

 それとも案外、天然さんなのか……。

「なにをあわてているのか知らないが、わたしにはなにもできないと云っただろう。異端審問官の宣告がない限り、わたしとしても自慢の腕を振るうわけにはいかんのだ。はなはだ残念なことにな。きみの級友たちを傷つけることなどわたしにできるわけがない。彼らが異端でもない限りな」

 思わず顔を上げたおれに、クローチェはふっと笑って見せた。

「昨日の落書きのことなら、心配することはない。あれはただのいたずらだ。あまりにばかばかしくて思わず笑ってしまったが、な。八百年の聖庁の歴史のなかで、極東で異端審問が開かれたという事例はない。この国に異端はいない。……いや」

 クローチェは思案顔で、林檎に齧りつく。

 林檎のかけらを飲み下してから、おれを見た。

「あるいは、いるのかもしれん。異端審問官がこの極東の地にやってきたのは、彼女の本能に導かれてということもあり得る。彼女自身も知らないうちに、異端の臭いを嗅ぎつけ、わざわざ海の向こうまでやってきたのだと。わたしとしては、その可能性に賭けたいところだな」

「ねーよ」

 言下におれは答える。

 あいつは、異端審問官は、異端も正統もない理想郷を求めて、この国にやってきたんだ。

 まぁ、実際がその理想とかけ離れてたのはしょうがねぇけどさ。

 異端だって?

 そんなもん、生まれてこの方、見たことも聞いたこともない。

「そうか?」

 いたずらっぽい目でおれを見ながら、クローチェは林檎に齧りつく。

「そんなことより、こんな人気のない場所にわたしを連れてきたのは、昨夜のわたしの誘惑を受け入れる気になってくれたのかと思ったがな」

 クローチェの細い指が、おれのほうに伸びる。

 まるで仔猫をあやすように、クローチェの指の先が、おれの喉の下を撫でた。

 おれは身震いしてしりぞいた。

「ない! それはない!」

 もったいないけど、ない!

「失望したな」

「なにがだよ!」

「わたしの上司がこれと見込んだ男だ。どんな傑物かと密かに期待していたのだ。だがここ数日じっくりきみを観察していてよくわかった。きみは、あれだ、ただの……」

 クローチェはことばを止め、正しい日本語を舌に上らせようとするかのように、考えこむ。

 やがて、云った。

「へたれだ」

 ぐさっ。

 目に見えない矢が、おれの胸に刺さる。

「甲斐性無しだ」

 ぐさぐさっ。

「据え膳も食えない、腰抜けだ」

 どきゅーん。

 目に見えないRPGがおれの胸に風穴を開けていった。

「どうせそのありさまだ。好みの女子を手籠めにした経験すらあるまい」

「あってたまるかそんなもん!」

 叫んだあとで赤面しそうになった。

 畜生、なんだってこんなところで自分の恋愛経験の薄さをカミングアウトせにゃならんのだ!

「悔しいのか? だったらここで、わたしの唇のひとつくらい、むりやり奪ってみたらどうだ」

 おれは上目づかいにクローチェを睨みつける。

 おうさ。

 やってやろーじゃねぇか。

 おれは震える両手を伸ばし、クローチェの肩をがっしりとつかむ。

 細い肩だ。

 強い力を入れたら、折れてしまいそうなくらい、腕も細い。

 齧りかけの林檎が、クローチェの手から落ち、踊り場に転がった。

「後悔すんなよ!」

「こちらの台詞だ」

 クローチェの黒い瞳が、まっすぐにおれを見つめてくる。

「目ぐらい、つぶれよ」

 おれがそう云うと、クローチェは瞳を閉じた。長い睫毛が、下瞼にかかる。

 ヤバい。

 なんか勢いでこうなっちまったものの、どうしたもんか……。

 かといって、ここで尻込んだら男がすたる。

 おれはゆっくりとクローチェの顔に、自分の顔を近づけていく。

 甘い匂いが、鼻をついた。

 信じられないくらいの美貌が、おれの目の前にゆっくりと近づいてくる。

 ……と。

 おれは自分の指の先に、違和感を感じた。

 震えている。

 クローチェが細かく、肩を震わせていた。

 ……えーと。

 これって?

「クローチェ」

「……なんだ」

 答える声は、震えていた。

「おまえさ……もしかして、初めてか」

 クローチェは瞳を開いた。

 目尻に、涙が滲んでいる。

「初めてで、悪いか」

「……」

「心配するな。間諜の任務で、娼館に潜入したこともある。理論なら知っているぞ。どんな風にふるまえばいいか、頭では心得ている」

「……」

「なんだ、その目は。わたしは生まれてからずっと、拷問吏として生きてきたと云っただろう。男との密会にうつつを抜かしている暇などあるものか。初めてで、悪いか。わたしだってきみのようなへたれに初めてを捧げるなど、い、いやだ。だがそれで異端審問官が帰ってくるなら安いものだ。わたしの貞操などドブに捨ててやる。犬に食わせてやる。汚泥にまみれさせてやる」

 ……そこまで畳みかけることはないだろう。

 おれは黙って、クローチェの肩から腕を放す。

「どうした?」

「……やめた」

 げんなりした声で、おれは答える。

 なんだよ、偉そうなこと云ってるから、海千山千の手合いかと思えば……。

「なぜだ。わたしでは、きみの好みにあわないか?」

 クローチェが不安そうな顔をして訊ねこんできた。おれは溜息をつく。

「なぁ、クローチェ、おまえもうここにくるなよ。おまえが女子高生やってる意味なんて、もうねぇだろ」

「ある。わたしは待っているのだ。きみが心変わりするときを。彼女をうまく焚きつけ、聖庁に帰って異端審問に精を出すように説得する。わ、わたしの身体と引き替えに」

「そんな話、のるわけねぇだろ! 人殺しの手助けなんて、してたまるか」

「人殺しとは人聞きの悪い。ただの異端審問だ」

「それが人殺しなんじゃねーか! ともかく、あいつはもう聖庁とやらには帰さないぞ。トルソーの手に押しつぶされようが、おまえに拷問されようが、絶対渡さないからな!」

「きみの意志が問題なんじゃない」

 クローチェはそう云って、おれの顔を覗き込む。

「問題なのはいつも、彼女自身の意志だ。そうだろう?」

 おれはクローチェを睨みつける。

「おまえらがむりやり押しつけた意志だろうが。そんなもんがあいつの本心じゃないことくらい、もうわかってるんだろ? 人の意志なんて、まわり次第でどうだって変わるさ。そうは思わないか?」

「あの子はただの女の子じゃない。きみに彼女は変えられない」

「変えられるさ」

 急がなきゃいけない。

 こいつらが次の手を打つ前に、異端審問官に、人殺しの能力以外のことを、徹底的に教え込まなきゃいけない。

 あいつは、白い紙みたいなもんだ。黒いインクで塗りたくれば黒に染まる、それなら、逆も、然り。

 おれは異端審問官を、絶対、“ただの女の子”にしてみせる。



 ほうきの柄をどん、と畳に叩きつけると、おれは声を張りあげる。

「埃が溜まったって死にゃしないなんてよく云うけどなぁ、そういうヤツのこころには、ちゃんと埃が溜まってんだよ。浅倉家、鉄の家訓その五、部屋の汚れは、こころの汚れ、はいっ!」

「部屋の汚れは、こころの汚れ!」

「よろしい!」

 おれは腰に手を当て、胸を張って、異端審問官を見下ろす。

 異端審問官は熱心な生徒のように、畳の上に正座をし、目を輝かせておれを見つめている。

「掃除機の使い方は、昨日マスターしたな?」

「はいっ」

「すっきりした部屋を見て、どう思う?」

「気持ちいいです!」

「自分が部屋を散らかしっぱなしで放り出してたのが、どれくらいの悪行だったか、理解したな?」

「はい、悪です! カスティーリア式懺悔台にかけるくらいの悪です!」

「そこまでひどくねぇ!」

「そうですか?」

「デコピン一発くらいだ」

 異端審問官はさっと額を隠す。

「きょうのおまえは良い子だから、デコピンはしない」

 異端審問官はほっとしたように、両手を下ろす。

「今日はほうきの使い方をマスターする」

 おれはそう云って、手にしたほうきを持ち上げる。

「座敷ほうきには草ほうきとシュロほうきがあるが、うちは先祖代々、草ほうきだ。たかがほうきと云って、馬鹿にしちゃいかん。使ったあとは先を薄い塩水につけて、陰干ししておくと長持ちする。道具は手入れが大事だ」

「道具は手入れが大事!」

「そうだ。ちなみにお茶がらを撒いてからほうきで掃除すると、細かい埃も舞わずに一挙両得だが、上級編だから今回は省略する……じゃあ、やってみろ」

 おれは異端審問官に、ほうきを渡す。

 異端審問官は落ち着かない様子で、ほうきをひっくり返したり、また元に戻したり、匂いを嗅いだりしながらしきりと眺めている。

 やがて、ゆっくりと、ほうきで畳の上を掃きはじめた。

「腰がなっとらん。しっかり腰を入れて、自分のこころを掃くように」

「部屋の汚れは、こころの汚れ!」

「そうだ。大変よろしい」

 楽しげに鼻歌を歌いながら、畳の上をほうきで掃く異端審問官を、おれはじっと見守った。

「そこまで。次は雑巾拭きをマスターする」

 おれはこんどは、水に濡らして絞った雑巾を渡す。

「酢をうすめたぬるま湯に、雑巾を濡らして畳の上を拭けば、ぴかぴかだ。あとでから拭きしておけば、カビも生えん。よし、はじめ……ちがう、中腰でやると腰を痛めるぞ! ちゃんと膝をついて……よし、その調子、いいぞ、ダニエルさん」

「ダニエルさんって誰ですか?」

「知らんでよろしい。そうそう、その調子、右手、左手、右手、左手……」

 たかが六畳一間でも、本気で掃除をするとなると重労働だ。

 畳の上を這う異端審問官の額に、汗が浮かぶ。やがて疲れたのか、ぺたんと畳の上に尻餅をつき、雑巾を持ったまま、ふうとため息をつく。

 おれはその頭をくしゃくしゃと撫でてやる。

「よくやった」

 異端審問官は顔を真っ赤にして、目を輝かせる。

「ご褒美に、あとでティラミスを買ってきてやる」

「ほんとですか! やったぁ!」

 両手を天に挙げて喜ぶ異端審問官を見つめながら、おれは別のことを考えている。

 人の記憶ってのはどのくらい持つもんなんだろう。

 こいつの頭の中から、血塗られた過去を消し去ってやるには、どれくらいの雑多な生活上の知識を注ぎ込んでやればいい?

 いや……。

 過去なんて、消し去れやしない。それは、おれも、こいつも、よく知っている。

 おれにやれることは、ただこいつに、いままでと全然違う世界を見せてやることだけだ。

 絶対に、運命は変えられる。

 父親がいなくても、母親がいなくても、こいつに他の歳くらいの子が味わっているような普通の生活を、絶対に味合わせてやる。

「春之助?」

 異端審問官が不思議そうな顔をして、おれを見ている。

「どうか、しましたか?」

「いや」

 ……おれは苦笑して、答える。

「きょうの晩飯はなんにしようって、考えてたのさ」



 夕食の材料を買いに行く道すがら、トルソーと会った。

 商店街の入り口にあるアーチの頂上に、トルソーは錆びた天使とならんで四つん這いにしゃがみこんでいた。おれを見下ろし、にやにや笑っている。

 おれがトルソーの姿を認めたと知ると、トルソーはアーチのてっぺんに異形の両手を掛けたまま、飛び降りた。厚底のブーツの底が地面に叩きつけられ、砂埃が上がる。そばにいた主婦らしき人が、ひっと悲鳴を上げて逃げていった。

「くだらないこと考えるねェ、あんた」

 迷彩柄の帽子の庇の下に、侮蔑の光を浮かべた黒い瞳がある。

「見てたよ。あんなおままごとで、本当にあの子が変われると思ってんのかい?」

「どいてくれよ」

 おれは云った。

「そこに居たんじゃ、買い物ができない」

 おれはまだ夕食の献立のことで悩んでいた。

 しょうが焼きじゃ重すぎる気がする。カレイの煮付け、ぶりと大根のあら煮。寒くなってきたから鍋という手もある。まだ早いか。

「ずいぶん余裕だねェ。ぶるぶると小便垂らしそうなほど震えてたあの時とえらい違いだ。クローチェからなにを聞かされたか知らないが、よっぽど肝が据わったと見える」

「胆なんか最初からねぇよ。おれは、おれにできることをやろうとしてるだけだ」

「そいつぁ結構だ。なんならあたしも手を貸してやろうか」

「いらない。小さな女の子の背中を、切り裂く手なんか、必要ない」

 はっ、とトルソーは大きく口を開けて笑う。

「あいにくとそれがあたしの仕事でね。あのときはつまらなかったねェ。おとなしい羊みたいな連中ばっかりで、みーんなクローチェに分け前かっさらわれちまった。引き裂いたのはあのバカな子供(ガキ)の背中だけさ。手応えがないったらありゃしなかったよ」

「トルソー」

 おれは云いながら、トルソーの浅黒い肌を見つめる。

 トルソーの腕は、いつのまにか普通の人間の腕に戻っている。

「おまえ本当に、それを楽しんでやったのか?」

「あぁ? 楽しいに決まってんだろ。このクソッタレな人生の中で、楽しいことなんて異端の身体を引き裂くことしかないじゃないか」

「……そうか」

「はっきりしないヤツだねェ。なにが云いたい」

 トルソーの声に、苛立ちが混ざる。

「なんならいまここであんたを引き裂いてやったっていいんだよ。約束したろ。こんど会ったときには必ずそうするってさ。ここじゃノーチェの邪魔も入らない。ここなら思う存分、あんたといいことできるじゃないか」

「できないんだろ。クローチェがそう云ってたぜ。異端審問官の宣告がなければ、あんたたちはおれになにもできないって」

「あたしはクローチェとは違う。八百年つづいた家名の重みも、一族の誇りもなんにもない、野良犬さ。あの優等生になにを吹き込まれたか知らないが、あたしを動かしてんのは快楽だけだ。聖庁の栄光なんざクソくらえさ」

「まるであんたが異端みたいな口ぶりだ」

「じきにそうなる。このまま異端審問官が邦(くに)に帰らなきゃあ、追っ手がかかる。そうなる前に、ここで事故を起こすって手もあるさ」

 トルソーは愉快そうに笑いながら、右手を伸ばす。

 右手の指先をそろえて手刀をつくり、おれの喉元に当てる。

「事故ならいつだって起こり得る、そう思わないかい? あたしはついうっかり、間違えてあんたを殺しちまったんだ。そうなったところで受ける刑罰なんざ鞭打ち百回くらいだ。それくらい、耐えてやるよ。あたしはあんたを殺した、なんて云わない。ただこう云うのさ……」

 トルソーの手刀が、おれの首筋を横切る。

「すいません、ついうっかり手が滑っちまいました、ってな」

 トルソーが笑う。

 おれは黙って、その顔を見つめる。

 残酷な歓びに歪んだ、その顔を。

 あ、とおれは思わず声を上げそうになる。

 そうか、基本中の基本を忘れていた。

 肉じゃがだ。

 あれなら料理初心者の勉強にもなるし、甘めに味付けをすれば、きっと異端審問官も気に入るだろう。

 おれはトルソーの横を素通りし、真っ直ぐ肉屋にむかう。

「おい」

 背後からトルソーが呼んだ。おれは歩きつづける。

「おい、呼んでんだ! なんであたしを無視する!」

 おれはため息をひとつついて、振り返る。

「トルソー、ごめん」

「なにを謝ってんのさ」

 トルソーの顔に、初めて動揺が浮かんだ。

 その顔を見返すおれの顔には、きっとありありとした軽蔑の表情が浮かんでいたんだろう。自分でわかった。

「おれは本当は、みんな救ってやりたかったんだ。クローチェも、おまえも、みんな、この国で幸せになって欲しいって、一瞬だけ、そう思った。でも、無理だ。おまえは根っこから腐ってる……おれには、おまえを、救えない」

 トルソーは愕然とした顔をして、立ちすくむ。

「おまえ……あたしを憐れんでんのか」

 おれは前を向いて、歩き出す。肉は牛をつかうって手もあるが、豚肉でいいだろう……そっちの方が安いし。

「あたしを憐れんだのか、そうなのか?」

 豚はバラの薄切りで……百五十グラムもあればいいだろう。

「おまえにあの子が、救えるわけがないだろう!」

 タマネギとじゃがいもは、まだ家にあった。あとはニンジンと、グリーンピースと、糸コンニャクを買わなくちゃいけない。

「あの子だってあたしと同じさ。生まれたときから行く道は決まってんだ。そんなおままごとでなにが変わる!」

 おれは頭の中で、肉じゃがのレシピをおさらいする。豚肉は三センチ幅で切り、ニンジンは乱切り、じゃがいもは乱切りにしたあとで水にさらす。

「あの子の身体には、異端を裁くための血が流れてんだよ。あたしらと同じ饐えた空気を吸い、血に塗れた手でメシを食って生きてきた。なにが違う!」

 熱した鍋に油大さじ一を入れ、肉と野菜を炒める。出汁汁に砂糖を大さじ二、みりんを大さじ二、入れて、材料と一緒に煮る。

「いずれ、あの子も間違いに気づくさ。賭けたっていい。あたしが血を求めてうずくように、あの子だって異端を裁くことに飢えてるんだ」

 鍋に落としぶたをし、中火で五分煮る。そのあとで醤油を大さじ三加え、さらに弱火で十五分煮る。

「あんたは異端審問官の本能に負けるんだ。絶対そうなるに決まってる! あんたは負けんだよ!」

 野菜が柔らかくなったらグリーンピースと糸コンニャクを入れ、さらにもう一煮立ちする。火を止めたら、肉じゃがが出来上がる。





「浅倉くんってさぁ、なんか、変わったよね」

 瀬川真帆がそう云ったのは、次の日の昼休み。

「そうかぁ? 本人はなーんも変わった気、しねぇけどな」

 おれは云いながら、水筒に口をつけて、直接麦茶を飲む。ビンボー自炊系弁当男子には、学食でお茶のペットボトルを買う余裕なんてないのだった。食い扶持が増えたぶん、今月はなおさら金欠だ。

 おれたちがならんで座っているのは、学校の屋上のフェンス前。

 そんなところでわざわざ弁当を広げているのには、むろんわけがある。

 その日の朝、教室の中は異常な空気にみたされていた。

 おれが教室に足を踏み入れたときには、魔女裁判さながらの糾弾がすでに始まってしまった後だった。

 糾弾の相手はおれじゃない。

 小島つぐみだ。

 話をくわしく聞こうにも、みんな興奮状態で、手がつけられない。

 漏れ聞いた話をまとめれば、要はその日の朝、篠崎由香里の机に小島つぐみが、新聞紙につつんだネズミの屍体(!)を入れようとしていたのを、当の篠崎本人が目撃してしまった、ということらしい。

 小島つぐみに云わせれば、朝早く来て、自分の机の中に屍体を発見してパニック状態に陥り、誰かに押しつけようとして篠崎の机を選んだ、という事情だったらしい。むろん、そんな話を信じるものはいなかった。おれだってそんな事がありえるもんかどうか、半信半疑だ。

 ともあれ、一連の事件の真犯人は小島つぐみということになり、矛先が外れたおれは、ひとり蚊帳の外に置かれていたというわけだ。

 小島つぐみは泣き出すし、篠崎由香里は鬼のような顔をして小島に罵声を浴びせまくるしで、正直、手が出せる雰囲気じゃなかった。

 疑心暗鬼に駆られたクラスメイトたちの目線は、恐ろしかった。

 たとえその糾弾の相手がおれじゃなくなったとしても、だ。

 ぴりぴりと張り詰めた教室の中でメシなど食う気もせず、おれは瀬川を誘って二人で屋上にやってきたというわけだ。

「変わったじゃない。自分が犯人扱いされてたときも、我関せずって感じだったし」

「まぁ、それどころじゃなかったからな」

 一方で、異形の腕を持った女に殺されかけ、また一方で、わけのわからん拷問機械に手足を千切られそうになったのだ。学校のことなんて、いちいち気に掛けている余裕がなかったというのが正直なところだった。

「そういう風にさらっと云えちゃうところが変わったんだよ。なんだか一人で大人になっちゃったみたい。置いていかれたみたいで、ちょっと悔しいなぁ」

 瀬川はそう云って、笑う。

 風に吹かれて髪をなびかせた、瀬川の笑顔は、透き通って見えた。なんだかこのまま、秋の空気の中に溶けていってしまいそうだ。

「わたしもいろいろ頑張ってみたんだけどね、なんだか空回りしちゃったみたい。あー、上手くいかないなぁ」

「しょうがねぇよ。ああいった雰囲気で、個人がなにかしようったって、なかなか難しいだろ。おれだって口を挟めなかったしさ」

「そういう事じゃないんだよ」

 瀬川はそう云って、意味ありげにまた笑う。

「モンちゃんが来てからかねぇ、浅倉くんが変わったの。小さい子の面倒みるうちに、パパになっちゃったのかな」

「よしてくれよ」

 ぶっちゃけキスもまだ未経験だというのに、一足先に父親なんて、あんまりだ。

 あ、母親になるって自分で決めたのはおれだったか。

 しかしそれは、そういう意味ではなく……うーむ。

「いまはおれより、小島だろ。不登校とかにならねーかな。心配だ」

「大丈夫だよ、わたしがそんなことにはさせない」

「おお、なんかクラス委員長っぽい発言」

「よしてくれよ」

 瀬川はおれの口調を真似してそう云い、一人で笑っている。

「まぁね、損な役割だって自分でも思うけど、それでも信頼して委員長をまかされたんだもん。精一杯、責任は取るよ」

「あんまり重く考えること、ないと思うぞ」

「大丈夫、心配しないで」

「心配するさ。浅倉家、鉄の家訓その七、友人は大事にすること、だ」

「なにそれ。おっかしー」

 瀬川は腹を抱えて笑っている。そこ、べつに笑うところじゃないんだがな。

「あんまりおかしくて涙出てきちゃったよ」

 瀬川はそう云いながら、目元を拭う。

「冗談抜きでさ、一人で抱え込むなよ。おれはさ……」

 おまえのことを恩人だと思っているから。

 さすがにそんなセリフは真顔では云えない。

 だが、そう思っていることは事実だった。

 いちばん苦しいとき、いちばん辛かったときに、瀬川は笑って話しかけてきてくれた。

 正直、それがどれだけありがたかったか。うれしかったか。

 きっと本人にそれを云う機会は一生無いだろうが、瀬川が本当に苦しいときには助けてやろうと、おれはこころに誓っていた。

「浅倉くんさ……ひとつ、お願いがあるんだけど」

 瀬川が云った。

「なんだよ。なんでも云えよ」

 例え火の中に飛びこめと云われても、ためらう理由はない。……………………熱そうだけど。

「わたしを、忘れないでね」

 瀬川の、大きく見開いた瞳は、真っ直ぐおれに向かっている。

「いつか、卒業しても。大人になっても。ここでこうやって話したこと。ここに瀬川真帆って女の子がいたこと、忘れないでね」

「そんなことかよ」

 おれはほっとして、肩の力を抜く。よかった、火に飛びこめとか云われなくて。

「忘れる方が無理だよ。おまえのことなら、絶対に忘れない」

「ありがと、なんか元気出た」

 目を潤ませながら、瀬川はにっこりと笑う。

「よかった、わたし、浅倉くんに忘れられてるのかと思ってた。最近、家にもこないしさ。お母さんったら浅倉くんはどうしたのって、ことあるごとに訊くんだよ。弟も、父さんも、みんな待ってたのに」

「悪いな、最近、ばたばたしてたからな……そのうち行くよ。あいつを連れて」

 その前に、異端審問官に最低限の礼儀作法と、他家での振る舞い方を教えなきゃならんが。

「モンちゃんって、好き嫌いあるの?」

「ありすぎる!」

 おれは叫んだ。

 昨夜も付け合わせの浅漬けには、手もつけやがらなかった!

「無くさせる! 日本で暮らしていく以上、日本の食事には馴染んでもらわにゃ、ならん」

「ほら、やっぱりパパみたいだよ」

 瀬川は云いながら、笑いをこらえて肩を震わせている。

「頑張ってね、おとーさん♪」



 放課後、中庭の花壇のところで、クローチェを見かけた。

 クローチェは膝を折って花壇の前にしゃがみ込み、花を見つめている。

 長い髪の先が、地面にまで届いていた。

「似合わないことしてんじゃないか」

 声なんかかけるつもりはなかったのに、なんとなく話しかけてしまった。

 丸めたその背中が、あまりにも隙だらけだったせいだ。

 クローチェは振り返る。どことなくうつろな表情をしていた。

「きみか」

 答える声にも、張りがない。

「第三十七代筆頭拷問吏どのに、花を愛でる趣味があるとは、知らなかったぜ」

「ちょうどきみの足元あたりだ」

「なにが」

「いつぞやの、猫の屍体を埋めた場所」

 おれはあわてて飛び退く。クローチェは着地したおれの足元を指さし、

「そこには、ネズミの屍体を埋めておいた」

「おまえ、おれで遊んでるだろう!」

「きみが、ひとの追想を邪魔するような、無粋な真似をするからだ……ああ、黒猫の屍体だがな、車に轢かれたような跡があった」

 轢かれる、というキーワードに反応して、おれは肩をびくりと震わす。

「おおかた、どこかの道ばたで死んでいた猫の屍体を見つけて、篠崎由香里の机に放りこんだんだろう。ネズミもしかりだ。きみのクラスメイトに小動物を虐待して殺すような嗜好の持ち主はいないようだ。安心しろ」

 クローチェはそう云って、また花に向き直る。

 正直、ちっとも安心できない。屍体を机にぶち込む時点で、充分異常だ。

「そんなに花が好きなのかよ」

「いや、べつに」

 クローチェは即答した。

「ただ、昔のことを思い出していただけだ」

 話はそれで終わり、そう云いたげに、クローチェは黙り込む。

 なんとなく気になって、おれはその場に立ちつくしていた。

 しばらくそのままでいると、やがてクローチェがため息をついた。

「とことん無粋だな、きみは。独りでいたいと言外に云っているのがわからないのか」

「だって、なんか、気になるじゃねぇか」

 それになんだか、他人に訊いて欲しそうな素振りが見えた。

「くだらん、思い出話だ」

 そう前置きを置きながら、それでもクローチェは話し始めた。

「あれはわたしが修業時代を終えて、拷問吏として独り立ちし始めた頃だから、十一歳の頃か。当時のわたしは、兄たちの背中を見ながら、その背中にはやく追いつきたくて必死だった。がりがりに痩せた、寡黙で陰気な少女。それがわたしだった。そんなわたしの前に現れたのが――異端審問官だった」

 まだ足取りもおぼつかない、六歳の女の子。

 ぶかぶかの法衣(ローブ)に身を包んだその女の子は、とことこと聖庁の身廊を歩いてくると、目を輝かせてクローチェを見つめ、手をのばしてクローチェの腰のあたりをぎゅっと握りしめたそうだ。

 そして、云った。わたしはあなたが、大好きです――と。

「あなたがわたしの拷問吏なのでしょう、彼女はそう云った。わたしは年端もいかぬ子供ですが、異端を滅ぼすために精一杯頑張ります、どうかわたしのために尽くしてくださいね、と。彼女は笑った。わたしの顔を見て、笑ったんだ」

 そう云うクローチェの顔も、おだやかな微笑にみたされている。

 どこか遠くを見つめるようなその瞳は、たぶん、五年前の異端審問官の姿を見つめている。

「そうしてわたしに花をくれた。聖庁の中庭で摘んだんだろう。聖庁の中が彼女に許される、世界のすべてだったから。彼女は、わたしに、自分の世界をわけてくれたんだ。わたしは……そのとき、彼女のためなら、死んでもいいと思った」

「いい話じゃねぇか」

「その夜は、気合いが入ったな。拷問台に縛りつけた異端どもに、山ほど悲鳴を上げさせた」

「ちっともいい話じゃねぇ!」

「あの笑顔は、わたしたちだけに見ることだけを許された、黄金の輝きだと思っていた。横から湧き出たきみが、洗い流していくまでは」

「ひとを鉄砲水みたいに云うな!」

 クローチェの細い指が、花壇の花に伸びる。

 そっと花弁を撫でながら、長い睫毛のついたクローチェの瞼が、半目に閉じる。

「彼女に請われるままに、日本語なんか教えるんじゃなかった。おかげでわたしは逃げた彼女を追って、こんな地の果てまでやってくる羽目になった。わたしを嫌っている彼女を追いかけて……未練たらしい、女のように。そんな湿っぽい女らしさなど、嫌っていたのだがな。自分の中にそんな部分があるとは、心外だ」

 クローチェの笑いには、あからさまな自嘲の響きが混ざっている。

「わたしは、こんなところで、なにをしている」

 異端審問官は、おまえを嫌ってなんかいない。

 嫌っていたら、あいつの口からああも頻繁にクローチェの名前が出てくるはずがない。

 そう云いかけて、やめた。

 このまま普通の女の子としての道を歩むなら、いずれ異端審問官はクローチェとたもとを分かつことになる。いまそんなことを告げても、残酷なことになるだけだ。

「悪いけど……あいつはもう、あんたたちと一緒には帰らないぜ。あいつはここで、おれと一緒に暮らすんだ」

「トルソーから聞いた。きみたちはおままごとをしていると」

 クローチェが顔を上げる。端整な美貌が、おれの方を向く。

「斬新な手法だ。彼女の中では、老獪な異端審問官としての才覚と、世間知らずなただの十一歳の女の子が、せめぎ合っている。きみは後者の可能性に賭けたのだろう? 果たしてどちらに針が傾くかな」

「おれが勝つに決まってるさ。あいつはここで暮らしていく。この平和な国で、ただの普通の女の子としてな」

「平和な国?」

 クローチェの唇の端が、皮肉にきゅっと吊り上がる。

「果たして、そうか? わたしには異端審問官のように、異端の臭いを嗅ぎつける能力はない。神を罵る異端のこころを読めるわけでもない。だが、わたしにも見えるものはあるぞ。嫉妬、怒り、猜疑心……邪なこころでこの建物が満ち満ちているのは、わたしにもわかる。拷問台(ラック)に縛りつけた異端たちの口から漏れた罵声と、きみの級友たちの口から漏れる罵声の、なにが違う。この国は本当に、平和な国か?」

 悲鳴が上がった。

 どこか遠くの方で……あれは、体育館の方だ。

 クローチェは、声を出して笑いはじめた。聞くものの心胆を寒からしめる、ぞっとするような酷薄な笑い――。

 クローチェに背を向け、おれは走り出す。

 体育館の裏手に、人だかりが出来ていた。

 甲高い叫び声や、悲鳴がそこから相次ぐ。

「なんでもない! こんなものはただのいたずらだ。動揺するんじゃない!」

 叫んでいるのは、生徒指導部長の、後藤だった。いつもの強面が、青ざめている。

「下がりなさい! 見るんじゃない!」

 人ごみをかきわけて、おれはむりやり最前列に割り込む。

 

 助けて

 

 赤いペンキで描かれた文字が、目に飛びこんできた。

 

 助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。

 

 体育館の、裏手。

 校舎との隙間に、壁一面を埋めるように、びっしりと文字は描かれていた。描いた人間の心情を現すように、歪んだ筆致で。

 視界を埋めつくす、悲痛なSOS。

 だがいったい、誰を助ければいい。

 誰が助けを求めている。

 なにもわからないまま、ただおれは立ちつくしていることしかできなかった。

 クローチェの笑い声が、まだ耳の底で響いている気がした。



 流し台の前に立ち、おれは云った。

「煮汁が煮立ててから魚を入れるのが、煮魚の基本だ」

「煮魚の基本!」

「そう、そうすれば魚のうま味も逃げない。今日はカレイだからこれでいい。野菜の場合はものによるかな。地面の下に生えるものは水から、上に生えるものは煮立ってから、なんてよく云うな」

「地面の下に生えるものは水……! むー、難しくてよくわかりません」

「まぁ、おいおい覚えていけ。カレイの皮には切れ目を入れる。こんな具合に。そうすると味の染みこみがよくなって、おいしくなる。鍋に入れるときは、かならず皮目を上にむけること。沸騰したら中火にして、ショウガの薄切りを入れる」

「むー、しょうが、嫌いですー」

「生で食えとは云ってねぇよ。おまえ、生臭いの、だいたい駄目だろ」

「駄目ですー」

「ショウガを入れると、生臭さを抑える効果があるんだ」

「おいしく、なりますかね」

 背伸びして鍋をのぞきこみながら、異端審問官は目を輝かす。ぐう、とその腹が鳴った。おれは真っ赤になった異端審問官の顔を覗き込みながら、笑う。

「まぁ、待ってな。十分も煮込めばいい」

 云いながら、おれは別のことを考えている。

 瀬川は、今日、おれのことを変わったと云った。

 おれにしてみれば、すっかり変わっちまったのは、むしろ世界の方に見える。

 テレビで海の向こうの戦争を眺めるみたいに、ぜんぜん別世界のことだと思っていた血生臭い世界が、いまやすぐそばにある。

 学校からの帰り道、トルソーを見かけた。海岸沿いの道路のガードレールの上に立ち、自転車で通り過ぎるおれに、憎しみのこもった視線をぶつけてきた。聖庁の首輪も、ヤツにはあまり効果がないらしい。このままではあいつがいつ暴走するか、知れたものではなかった。

 クローチェにしろ、聖庁の教令(ルール)と異端審問官への愛情で自分を抑えているのだろうが、機会さえあればあのいまいましい拷問道具を使うのに、かけらのためらいも示さないだろう。

 対するおれの武器といえば……なにもない。

 もっと、こう、ライトノベルの主人公みたく、右手を突きだしたらぴゃーっと光の剣やらが突き出てくるような、そんなお手軽な特殊能力なんてのがあればいいのにな、と思わなくもない。そんなもん、あったらあったで困るだろうが。

 鍋を動かし、汁をかけ回す。

 結局、おれができることと云えば、ここで異端審問官と一緒に、カレイを煮立てていることくらいだ。

 内心のわくわくを抑えきれないらしく、異端審問官はぴょんこぴょんことジャンプし始めた。

「火のそばで暴れると、危ねぇぞー。やるなら、居間でやれ」

 こいつは、変わってくれるだろうか。

 血塗られた過去を脱ぎ捨て、普通の女の子でいてくれるだろうか……いつまでも。

「浅倉家、鉄の家訓その二、御飯はつねに感謝しながら食べる!」

「そうだ。いい子だ」

 おれは異端審問官の頭をくしゃくしゃと撫でてやる。異端審問官は顔を真っ赤にしたまま、照れたように、微笑む。

「浅倉家、鉄の家訓その四、他人を傷つけてはいけない!」

「それはいまは関係ねぇ……でもまぁ、よし」

「ねぇ、春之助、わたし、決めました」

「なにをだ?」

「明日の春之助のお弁当は、わたしが作ってあげます」

 異端審問官はそう云いながら、胸を張る。

「そうしたら、お昼御飯も、離れているけど、いっしょのものを食べられるでしょう? 離れているけど、べつべつじゃないでしょう?」

「……へぇ」

 呟きながら、おれは口元がにやけてくるのを抑えられない。

「おまえにしちゃ、上出来なアイデアだ」

 こいつはきっと、大丈夫だ。異端審問官の笑顔を見つめながら、おれはほっと胸をなで下ろす。

 おれは知らなかった。

 その夜が、最後の平和な夜だったんだと。

 そのとき、おれは、まだ知らなかったんだ。





 教室のならぶ廊下の前まで来たとき、異変に気づいた。

 静かすぎる。

 今朝の学校は平和だった。うちの教室の入り口に人だかりができている、なんてこともない。その代わり、廊下をかったるげに歩く生徒の姿もない。

 一人も、いない。

 うちのクラスだけじゃない、両隣の教室も、なんだか不気味に静まりかえっている。静かすぎて、自分の鼓動の音まで聞こえてきそうだ。

 うちの教室の入り口の扉は、開け放たれたままだった。

 外から覗き込んでも、人影はない。

 胸騒ぎを抑えつつ、おれは無人の教室に足を踏み入れる。

 視線は自然と、黒板に向かう。

 全身の毛が、逆立つような気がした。

 おれは教室を飛び出し、廊下を走り出す。階段に辿りつくと、二段跳ばしで駆け上った。

 なんでだ。

 踊り場でターンを決めながら、おれは胸の中で罵り声をあげる。

 なんでこんな方法しか選べないんだ、馬鹿野郎。

 そんなことをして、なんになる!

 もっと別のやり方だってあっただろう。

 誰か、そばに、いなかったのか。黒板にチョークで文字を描くんじゃなく、おまえの生の声を聞いてくれる、誰かが。

 屋上の扉のカギは、何者かによって、壊されていた。

 重そうな鉄の扉は、ちょっと押しただけであっけなく外に開く。

 太陽光がまともに目に入り、おれは眼を細めた。

 ブレザー姿の背中が、ずらりとそこにならんでいた。

 人影を個別認識している余裕まではない。おれは人ごみを押しのけて、前に出ようとする。

「やるんでしょ、やってみなさいよ! ここで見ててやるから!」

 人の壁の向こうから、篠崎由香里の声が響く。

 黒板に描かれた、文字。

 それは。


 誰も助けてくれなかった。さよなら。わたしは今日、飛びます。

 

 だった。



 外側を覆う、大きな人の輪の中に、ひとまわり小さな輪ができている。

 輪の中心にいるのは、小島つぐみだった。

「知らないよ、わたし、本当になにも知らない!」

 小島は泣いていた。頬を流れる涙を拭う余裕もないらしい。子供のように泣きじゃくりながら、しゃくり上げている。

「黒板に文字を描いたのは、わたしじゃない。由香里の机に屍体を入れたのだって……そりゃあ押しつけようとしたのは悪かったけど、元はわたしじゃない」

「じゃあ、あんたじゃなきゃ誰よ。云ってみなさいよ」

「そんなこと、わたしが知るわけないじゃない!」

 小島は泣き腫らした目で、周りを見回す。

「この中にいるんでしょ。黙ってしらん顔して、わたしを笑ってるんでしょ。云ってよ、いったい誰が本当の犯人なの!」

 とたんに、疑心に満ちた瞳が、互いの顔を見つめ合う。

 ことばにならないざわめきが、輪の中に広がっていく。

 誰もが、半信半疑なのだ。

 あの執念と絶望に満ちた落書きを、小島つぐみが描いたとは思えない。でも、うちのクラスの中に犯人はいるはずだ。では、いったい誰が……。

 そんなことばにできない思いが、皆の頭の中でうずまいているのが、手に取るようにわかった。

「誰でもいいからさ、“飛ぶ”んなら、早く飛んでくれない?」

 篠崎の声は、苛立ちに尖っている。ちょっと見、美人のその顔が、いまは憎しみに醜く歪んでいた。

「もう、こんな遊びにつきあうの、うんざりなんだけど。見事に飛んでくれたら、それで終わりになるじゃん。自分のウツまき散らして、他人に迷惑かけてさ。いい加減、自分がどれだけ非道くまわりを掻き乱してるか、わかってもらいたいもんね。かまってちゃんの限度を超えてるよ、これ」

 鋭く細めた篠崎の目が、小島を射るように見つめる。

「そう云えば、あの黒板の騒ぎのとき、最初に騒ぎ出したのってあんただっけね。いま考えたら、自作自演だったんじゃないの、あれ。自分が描いた落書きに注目して欲しくてさ」

「……それなら、由香里もじゃない」

「なんだって?」

「この中で、いちばん騒いだのって云ったら、由香里じゃない。自分で自分の机に屍体を押し込んで、それでわたしを犯人にしようとしてるんじゃないの?」

「ふざけんなよ、あんた!」

「ムキになるところが怪しいじゃない!」

「あんた、あたしがあの時どんな気持ちだったか、知ってて云ってんの?」

「わたしだっていま、苦しいよ! 本当にわたしがやったんじゃないのに」

「……わかった」

 篠崎が、思いつめた顔で、うなずく。

「じゃあさ、裁判やろう、裁判。この中で誰がいちばん怪しいか、多数決で決めようじゃない。それで、いちばん投票の多かった人に、見事に飛んでもらおう」

「ふざけないで、由香里!」

 声を上げたのは、瀬川だった。

「冗談でも、云っていいことと悪いことがあるよ」

「冗談なんかじゃないよ。はい、じゃあまずあんたからね。真帆が犯人だと思う人」

 篠崎はそう云って、瀬川を睨みつける。

 誰の手も、挙がらない。

 篠崎の瞳が、おれの目と合う。

「浅倉が犯人だと思う人」

 ちらほらと、数人の手が挙がった。

「わたしが犯人だと思う人」

 やはり、数人の手が挙がる。

「小島が犯人だと思う人」

 手が、挙がった。

 誰の数よりも、多い手が。

「人気者じゃん、小島」

 歪んだ顔で、篠崎が笑う。

 小島は呆然とした顔で、子供がいやいやをするように、首を左右に振る。

「……いやだよ、わたし、飛び降りたくなんて、ないよ」

「じゃあ、次、転校生いってみようか――」

 声を張りあげた篠崎の手を、おれは進み出て掴みあげた。

「なによ、浅倉」

「いいかげんにしろよ、篠崎。こんなこと、馬鹿げてる」

「最初っから馬鹿げてたんじゃん。馬鹿げたオチがつくのは、当たり前でしょ?」

「頭、冷やせよ。おまえ、完全に踊らされてるじゃねぇか」

「誰によ? あんたに? やけに必死になるじゃない。庇うね、犯人を」

「犯人、なんて云い方も、よせ」

 そりゃ、猫やネズミの屍体はまずかったかも知れない。

 だがそれだって、誰かの必死さの現れだったかも知れない。

 助けを求めても、求めても、答えてくれない悔しさに苛立って、ついあんな短絡的な行動に出てしまったのかも知れない。

「これは、再投票の必要がありそうかな」

 篠崎は、冷ややかな声を、張りあげる。

「浅倉春之助が犯人だと思う人――!」

 そのとき。

 からん、という乾いた音が、背後で響いた。

 神経を極限まで昂ぶらせていたほぼ全員が、いっせいにそちらを振り向く。

 おれたちを取り囲んだ、外の輪に切れ目ができていた。

 校舎へとつづく、屋上の入り口の前で、人の壁が途切れている。

 そこに、異端審問官が立っていた。

 両手を脇にだらんとおろし、俯いている。

 肩の上でわだかまった金色の髪。白いローブ。黒いマント。

 その足元に、ハンカチでつつんだ弁当箱がころがっている。

 おれが今朝、家に忘れてきた弁当箱が。

「……児戯に等しいな」

 異端審問官が云った。

「なんだって?」

 篠崎が叫ぶ。

「なんて云ったの、コスプレ少女。あんたなんだってこんなところにいるのよ」

「まるで子供の遊びのようだ、そう云ったんです」

 異端審問官が顔を上げる。

 笑っていた。

 いつもような子供らしい、あの微笑ましい笑顔じゃなかった。

 青い瞳が怪しく輝いている。

 こんな顔をした異端審問官は見たことがない。

「そんなに人を裁きたいですか。人を裁くということがどういうことか知りたいですか。なんなら見せてあげましょうか……本物を」

 その顔に浮かんでいるのは、あからさまな侮蔑の表情だった。

 異端審問官は歩き始める。

 その足が向かう先を見定めて、おれは自分の顔が強ばるのを感じた。

「……よせ」

 叫んだつもりが、かすれて、ほとんど声が出なかった。

「そっちに行くんじゃない」

 異端審問官の視線の先にはクローチェがいる。

 クローチェはすでにその場に片膝をついて、異端審問官に頭を垂れていた。

「あなた、クローチェですね」

「はい」

「まだわたしに仕える気がありますか」

 異端審問官の声は、凍るように冷たい。

「……そのためだけに、生きてきました」

 クローチェの返事は、万感の思いを込めたように、重く響く。

「それでは、始めます」

 クローチェがはじかれたように顔を上げる。

 その顔は、浅ましいほどの強い歓びで輝いていた。

「……御意!」

 異端審問官は、こんどは屋上のフェンスの方に顔をむける。

「トルソー、いますか」

 ごう、と風が鳴る。

 巨大な化け物の手が、がしゃんとフェンスにぶつかる。

 黒い毛の生えた、化け物の腕。

 トルソーの、高らかな笑い声が響いていた。

 その喜びの声は、あまりに甲高く、狂ったように調子外れな声だった。

 いっせいに悲鳴が上がる。

 何人かの生徒が、屋上のドアへと奔っていく。だがドアが開かないらしい。がたがたと扉を揺する音がする。

 ドアを閉ざしているのはノーチェだ。決まっている。

 そして――。

「よせ、やめろ! それから先を云うんじゃない!」

 異端審問官に駆け寄ろうとしているおれの足を、釘づけにしているのも、ノーチェだ。

 異端審問官はおれを見ない。卑しいものを見るような表情でまわりを見回し、ひとつ、うなずく。

 こちらを。こちらをいちどでも振り返ってくれれば。

 おれの祈りは、天に通じなかった。

「それでは――」

 異端審問官は云った。

「異端審問を開始します」



 屋上のフェンスが、ぐにゃりと曲がった。

 異形の腕の大きな爪が、屋上の緑色の床に叩き込まれ、穴を穿つ。

 一人の女生徒が、巨大なてのひらに足首を挟まれ、悲鳴をあげていた。倒れたフェンスの下敷きになった生徒もいる。

 つづいて、もう一本の腕が伸びてくる。

 異形の、左手。

 逃げまどう生徒たちにまるで斟酌せず、左手は右手と同じように屋上の床に爪をかけた。

 ぐっと指先に力が入る気配。

 異形の腕が伸びる、その先に、跳び上がったトルソーが姿を現した。

 迷彩柄の帽子の下にあるのは、残酷な微笑を浮かべた、浅黒い顔。

「待ちくたびれたぜ、この時をさァ!」

 屋上に飛び下りたトルソーは、胸を反らして高笑いする。

「さァ、派手にやらかそうじゃないか!」

 その前を、クローチェが通り過ぎる。

 クローチェもまた、抑えきれない歓びに顔を輝かせていた。

「ノーチェ」

 片腕を挙げ、クローチェが同志の名を呼ぶ。

 その頭上に、黒い影がわだかまる。

 やがてその影の中から、異形の物体が落ちてきた。

 鋼鉄でできた、奇妙な彫像。

 貞節な淑女(シグノーラ・デル・フェデラータ)。

 そして、カスティーリア式懺悔台。

 いいつけに従った飼い犬の頭を撫でるように、クローチェの腕が伸び、鋼鉄の淑女の頭を撫でる。

 屋上は、すでにパニック状態に陥っていた。

 ひとつしかない出口に向かい、人が殺到する。だが、誰がどうあがこうと、扉は開かない。誰かの拳が扉を叩く音だけが虚しく響いていた。

 辻田姉妹が、互いを抱き合い、床にへたりこんで泣きじゃくっていた。

 相沢は、どうしていいのかもわからないらしく、ただぐるぐると一カ所を頭を抱えて回り続けている。

 おれはもう、声も出せなかった。

 ノーチェの見えない腕が、手も、足も、喉も締めつけている。か細く絞られた気管から、わずかにおれを窒息死させない程度の空気が漏れ入ってくる。

 おれは異端審問官をただ、見つめていることしかできなかった。

 異端審問官は表情を凍りつかせたまま、真っ直ぐに前を見つめている。

 その右腕が、水平に横に伸びた。

 なにが起こったのか、最初に気づいたのはおれではなかった。

 悲鳴と怒号で満たされた屋上に、新たな悲鳴が加わる。

 数人が、空を見あげて、なにかを叫んでいた。

 おれは、唯一自由になる眼球を巡らし、連中が指さす上空を見あげる。

 空に、巨大な影の塊がわだかまっていた。

 雨雲よりもはるかにどす黒く、禍々しい雰囲気を醸し出している、黒い塊が。

 そこから、なにかが落ちてくる。

 大きな、薄く引き延ばされた、板状の物体だ。

 屋上にむかい、一直線に落ちてきたそれは、屋上の直上、五メートルのあたりで静止した。

 声をあげる間もなく、次から次へと、板状の物体は落ちてくる。

 一ミリの誤差も無く、板状の物体はならびあい、やがて大きな壁を形成した。

 壁は互いに接しあい、やがて空に浮かぶ、巨大な矩形を形作る。

 矩形の上に、さらに板状の物体が堕ちてきて、斜めに傾いで止まり、屋根となって空を視界から奪う。

 最後に空から墜ちてきたのは、午前の日射しを受けて、きらきらと輝くステンドグラスだった。

 ステンドグラスは、矩形に空いた、唯一の穴にぴたりと収まる。

 屋上が、虹色の輝きで満たされた。

 それは――。

 空に浮かぶ、巨大な大聖堂だった。

 床の無い大聖堂が完成すると、異端審問官は歩き始めた。

 ゆっくりとした、だが意志をもった足取りは、やがて一人の生徒の前でぴたりと止まる。

「“慈愛の時間”を与えます」

 慈悲のかけらも感じさせない冷たい目線で、異端審問官はその生徒を見下ろす。

「告白なさい――瀬川真帆」



 耳をつんざくほどに姦しかった悲鳴は、いつのまにか、止んでいた。

 誰もが息を飲んで、事の成り行きを見守っている。

「なにを……なにを云ってるの、モンちゃん」

 瀬川は、屋上の床にへたりこんだまま、口を半開きにして異端審問官を見あげている。

「わたしには、なんのことだか……」

「告白なさい」

 瀬川の独白を遮るように、異端審問官が云う。

 ぴしり、と叩きつけるような鋭い口調だった。

「モンちゃん……」

「告白なさい」

「……やめて」

「告白なさい」

「やめてよ!」

 瀬川が叫んで、両手で顔を覆う。

 どこかで悲鳴が上がった。

 巨大な異形の腕が持ち上がる。

 異形の腕は宙を切り、瀬川真帆の頭の上に、振りおろされようとする。

 腕の動きにあわせ、ごう、と空気が鳴る。

 トルソーの腕が、へたりこんだ瀬川を叩きつぶそうとしたまさにそのとき、クローチェがその前に立ちはだかった。

 黒い異形の腕は、クローチェの頭の手前、二センチで、ぴたりと止まっている。

「てめェ、なにしやがるクローチェ! あんた、またあたしから分け前を奪う気か」

 トルソーが、唾を飛ばしながら罵声を浴びせる。

「そいつは異端なんだろ。いますぐここで、叩きつぶしてやる!」

「“慈愛の時間”だ」

「なんだって?」

「いまは“慈愛の時間”だと云ったんだ、トルソー」

 クローチェは傲然と言い放ち、目の前にある巨大な手を見つめている。

「浄化の宣告(セルモ・ゲネラリス)はまだ下されていない。いまは教令に従った、異端者自らによる自白の時間だ。この神聖な審問を汚すものは、わたしが許さない。たとえそれがおまえであってもだ、トルソー」

「てめぇ……異端審問官! まさか、またくだらない時間稼ぎをするつもりじゃねぇだろうな!」

「そうだとしても、我々に口を出す権利はない。下がれ、トルソー!」

 忌々しげに舌打ちし、それでもトルソーは腕を引っ込める。

「告白なさい」

 背後の騒ぎなど知らぬげに、異端審問官の瞳は、ただ瀬川真帆だけを見つめている。

 瞳を半目に閉じたその表情からは、異端審問官の内心など、およそ伺い知れなかった。

 おれは叫び声を上げようと、虚しい努力をつづけていた。

 おまえ、どうしちまったんだ。おれは叫びたかった。

 いつものやさしいおまえはどこに行った。

 その道は、おまえがあれだけ嫌がっていた、血塗られた大地へとつづく道だぞ。

 やめろ、異端審問官、いますぐに!

「告白なさい」

 声にならないおれの叫びは届かず、異端審問官はただ繰り返す。

 やがて――。

 両手で顔を覆った瀬川の喉から、声が漏れる。

 引きつったその声は。

 笑い声だった。

「……どうしてわかったの」

 顔を覆った指のあいだから、瀬川は声を漏らす。調子外れの笑い声とともに。

「どうして、モンちゃんにはわかっちゃったのかなぁ……」

「告白なさい」

「そうだよ。ぜんぶ、わたしがやったんだ。校舎や、体育館の壁に、ペンキを塗りたくったのも。由香里やつぐみの机に屍体を放りこんだのも。黒板に、何度もメッセージを残したのも、みんなわたし」

「告白なさい」

 異端審問官は、ただ無表情に繰り返す。

「苦しかった」

 瀬川の声は、ひりひりするような痛みに満ちていた。

「苦しくて、誰かに助けて欲しくて、でもどうすればいいのかわからなかった。だってみんな、本当のわたしを知らないもの。クラス委員長で、しっかり者で、頼りになる、そんなわたししか知らないもの。そんなの……ちっとも本物のわたしじゃないのに! ただの仮面のつもりで身につけたそんな性格が、気がついたらわたしの本物の顔になってた。仮面なのに、外せないの。苦しくて、苦しくて……でも誰にも頼れない自分が、嫌で、嫌で、しょうがなかった!」

 瀬川の叫びは、おれのこころを切り刻んだ。

 気づけなかった。

 あれだけそばにいて。毎日、瀬川とお喋りして。いつも、いつも、苦しいときには瀬川に助けてもらいながら……。

 おれは瀬川の、本当の気持ちに、気づけなかった。

「モンちゃんが、教室に来たとき、わかったの。異端ってわたしのことだって。自分のこころに嘘をついてる。自分のこころをねじ曲げて、ありもしない虚像のわたしを作り上げてる。わたし、毎日、毎日、神さまを罵ってた。わたしを助けてくれない神さまなんか、滅んじゃえばいいって」

 異端審問官は、眉ひとつ動かさない。

「わたしなんか、偽物だ。わたしの家族だって偽物だ。そう思ってた。父さんと母さん、ほんとは憎みあってる。わたしたちの前では良い顔をして、普通の家族のフリをしてるけど、二人きりのときには口もきかない。離婚の話だって陰で進んでるの、わたしは知ってる。それなのに、たまにお客があると、必死で良い親子を演じようとするの。わたし、そんな両親が大嫌いで……でも、二人の笑顔を見ると、なんだか、うれしくて」

 だから……。

 だから、おれを夕食に招いていたのか。

 せめてほんのつかの間、仲の良い家族であって欲しくて。

 おれは、燈火に群れる蛾のように、瀬川の家に、しばし温かさを与えてもらっているのだと思っていた。

 でも本当は――。

 誰よりも強くその光をもとめ、誰よりも強くその光に惹かれていたのは、瀬川本人だったのか。

「たぶん、うちの家族は、春までもたない。わたしはまだいい。でも弟にはなんて説明すればいいの。あの子はまだ、本当の両親を知らない。あの子になんて云ってあげればいいか、わたしわからなかった。わたし、本当は……」

 瀬川の潤んだ瞳が、おれを射貫く。

「浅倉くんに助けて欲しかった。でも云えなくて……本当は自分が犯人のくせに、二人で犯人捜しをやっているあいだは、浅倉くんのそばにいれて、うれしくて……わたしは、ただ――」

 瀬川の肩が、震えた。

「わたしはただ、浅倉くんに、わたしのそばにいてほしかっただけ。浅倉くんをわたしだけのものにしたかっただけ」

 瀬川は瞳を閉じる。

「ごめんなさい。罪人はわたしです」

 一粒の涙が、その閉じた瞳から落ち、頬を流れていく。

「告白はなされました」

 異端審問官が、云った。

 その姿を、黒い影が覆う。

 異端審問官のからだが、わずかに空に浮かび上がる。

 ステンドグラスから漏れる光が、影を背後にひかえた、その姿を照らしだしている。

「宣告を下します」

 異端審問官は云った。

 無罪だ。

 無罪に決まっている。

 瀬川真帆が、異端なわけがない。

 だが――。

「瀬川真帆、あなたは有罪です」

 無慈悲な声が、そう告げた。

「ルールに従い、あなたに罰を与えます」

 おれの喉を締めつけた力が、ほんのわずか、ゆるんだ。

「やめろ!」

 おれは叫んだ。

「やめてくれ。そんな罪がなんだっていうんだ。笑い話で済むようなことじゃねぇか。そんなもののために、おまえはあれだけ嫌がってた、血に塗れた道に戻るのかよ!」

 異端審問官はこちらを見ようともしない。

「瀬川はおれの恩人なんだよ。本心がどうであれ、おれは瀬川にいちばん苦しいときに助けられたんだ。そんなヤツを喜んで引き裂くおまえの姿なんか、見たくないんだよ! そっちの道を、行くな!」

 手を差し出そうにも、指一本動かない。

 おれはせめてこころの中で、異端審問官にむかって、思いっきり腕を伸ばす。

「こっちに来い、バカ娘!」

 異端審問官のからだは、空に浮かんだまま、前に進む。

 トルソーの、あの鋭い爪が視界の端に映っている。

 拷問台に縛りつけられたときの手足の痛みを思い出す。

 瀬川が、あんな目にあうっていうのか、冗談じゃない!

 だがおれがどんなに叫んでも、異端審問官はおれの方を見向きさえしなかった。

 うつむいた瀬川のすぐそばまで来ると、異端審問官は冷たい声で云った。

「覚悟はよいですか」

 瀬川はぎゅっと目をつぶったまま、顔を上げた。

 その背筋は、まっすぐに伸びていた。

 せめてものプライドが、かけらほどのプライドが、瀬川の背筋を支えていた。

 異端審問官が右手を差し出した。

 丸まった中指に、ぐっと力がこもっている。

 はじいた指は、正確に瀬川の額をとらえた。

 デコピン。

「以上、罰、終わり」

 異端審問官は、朗らかな声で、笑って云った。

 頭上で、なにかが崩れるような音が響いた。

 空中に浮かんだ大聖堂が、音もなく崩壊していく。

 崩壊した壁や屋根は、頭上にわだかまる黒い影へと吸い込まれていった。

 くしゃり、と瀬川の顔が歪んだ。

 見栄やプライドやそんなものが、一瞬で崩れ去ったかのように。

 瀬川は、背中を丸め、顔を覆って泣き始めた。

 おれは――。

 おれはただ、呆然と口を開けて、それを見ていることしかできなかった。

 唖然として空を見あげ、それから異端審問官に視線を移す。

 おれの方を向き直ると、異端審問官は腰に手を当て、胸を反らした。

「やれやれ、わたしも信用が無いんですね」

 その顔には、いたずらっぽい表情が浮かんでいる。

「誰が聖庁の勅令に基づいて彼女を罰すると云いました? わたしは、新しく学んだ、別のルールに従ったまでです」

 別の……ルール?

「あなたが教えてくれたんじゃないですか」

 異端審問官はそう云って、得意げに胸を反らす。

「浅倉家、鉄の家訓その四、他人を傷つけてはいけない。破った悪い子にはおしおきで、デコピン一発。そうでしょう?」

 お……ま……え……!

 手足の自由が効いたら、おれはその場に四つん這いになって這いつくばっていただろう。

 がっくりと、肩の力が抜けた。

 異端審問官が、別の方に向き直る。

 視線の先には、屋上の床にへたりこんだ、篠崎由香里がいた。

「わかったでしょう? 人を裁くと云うことがどういうことか」

 異端審問官は、篠崎にむかってにっこり微笑む。篠崎がひいっと悲鳴を上げた。

「簡単なことじゃありませんよ。人を斬りつけた刃は、必ず返り血を浴びるのです。人のこころに土足で踏み入り……」

 異端審問官の足は、いつの間にか屋上の床をとらえていた。

 自らのその足で、異端審問官は篠崎の方に一歩踏み出す。

「他人には人殺しと罵られ」

 さらに、一歩。

「自らも傷を負い、返り血を浴びる」

 さらに、もう一歩。

「それが人を裁くということです。あなたにその覚悟がありますか? そんなくだらない道を歩みたいですか?」

「ごめんなさい!」

 篠崎が叫んだ。

 篠崎は頭を抱えて、小さな子供のようにぶるぶる震えている。

 やれやれ、というように異端審問官は肩をすくめる。またこちらに向き直り。

「それにしてもまぁ、云うに事欠いて“バカ娘”とは何事ですか。浅倉家の鉄の家訓には、むやみやたらと友人を疑うな、という項目は無いのですか?」

 ……ある。

 家訓、その二十七。いちど信じた友人は、とことん信じろ。

 ナンバリングが後すぎんだよ、畜生め!

 おかげで脳内でソートしたって、とっさに出てきやしねぇ!

「春之助、あなたにはいつか、きっちり罰を与えなければいけませんね。もっとも……そんな日は、こないかもしれませんけどね」

 そう云う異端審問官の顔は、おれとは別の方を向いている。

 雄叫びが上がった。

 トルソーが胸を反らし、空にむかって絶叫している。

「ふざけるなぁぁぁ!」

 異形の右手を、トルソーは床に叩きつける。硬いコンクリートの破片が無数に散らばり、あちこちで悲鳴が上がる。

「こんな茶番で納得できるもんか! 異端はどこにいる! あたしが切り裂く異端はどこにいるんだよぉぉぉぉ!」

 異端審問官が、トルソーの方に歩いていく。

 暴れているトルソーの前に立つと、その身体を抱きしめた。

「トルソー」

 そう云う異端審問官の表情は、こちらからは伺えない。

「帰りましょう、トルソー。わたしたちがいるべき場所に」

 帰る?

 帰るって云ったのか、いま、こいつは。

「浅倉春之助」

 名前を呼ばれて振り返ると、クローチェがおれの背後に立っていた。

「……感謝する」

 クローチェはそう云い、軽く頭を下げる。おれはその顔を、思わずまじまじと眺め入る。

「……こうなることを、あらかじめ全部知ってましたって顔だな」

「云ったはずだろう。この国には異端はいないと」

 クローチェは涼しげな顔で、そう云った。

「彼女はただ、神を罵る瀬川真帆のこころを、過敏に察知しただけだ。他の凡百の異端審問官では、それに気づくことさえできなかっただろう。わかるか? 彼女は身についた異端審問のやり方で、瀬川真帆のこころを解放したんだ」

 トルソーと抱き合っている異端審問官を見つめるクローチェの顔は、どこか誇らしげだった。

「彼女は一回り大きくなった。普通の娘としてではなく、異端審問官として、な。結局彼女は、こちらの道を選んだ。この国に来たのは無駄足ではなかったらしい。これで、大手を振って聖庁に帰れる」

 思わず反論しかけたおれの唇の前に、クローチェは指を一本立てる。

「決めるのはわたしたちじゃない。彼女自身の意志だ……そうだろう?」

 クローチェはそう云い、抱き合う二人の元に歩いていく。

 トルソーの身体を抱擁した指を、異端審問官はほどいた。

 ゆっくりと、こちらに向き直る。

 悲しげな顔をした異端審問官の顔が、はっきりと見えた。

「お別れです、春之助」

 異端審問官は云った。

「短い間だったけれど、楽しかった。いろいろ教えてくれて、うれしかった」

 やめろ。

 そんなむず痒くなるようなことば、いまは聞きたくない。

「わたしね、いま、すごく、楽しかったんです」

 異端審問官はそう云って、寂しげな顔をする。

「全身の血がたぎって、いっせいに合唱する声が聞こえました。そうだ、それでいい。おまえはそのために生まれてきたんだ、人を裁くために生まれてきたんだって。わたしは、どこまで行っても、異端審問官でしか、ありません」

 異端審問官の肩に、クローチェが手を置く。

 まだ鼻息の荒いトルソーを含め、三人の姿を、黒い影がゆっくりと覆っていく。

「わたし、あなたが望むように普通の女の子になりたかった」

 異端審問官が、云った。

「でもそうしたら、わたしに殺されたたくさんの異端の人たちの命はどうなるんですか。彼らは、無駄死にですか? わたしには、義務があるんです。海の向こう、わたしのいるべき場所で、戦う義務が……」

 異端審問官は、むりやりに笑顔を浮かべる。

「あなたが教えてくれたこと、無駄にしません。ひとりでも多くの異端の人の命を救えるように、わたし、頑張ってみます。いままで、ありがとう」

 異端審問官の笑顔が、影のむこうに、消えそうになる。

「さようなら」

 いま、影が、異端審問官の顔を、完全に視界から消し去った。

「……嘘だろ」

 おれはその影を、じっと見つめる。声が震えた。

「おれはまだ、おまえになんにも教えちゃいないぞ。ボタン付けのやり方、教えたか? 裁縫道具の持ち方ひとつ、教えてないんじゃなかったか?」

 影のかたまりが、ゆっくりと小さくなっていく。

 三人の姿をそのむこうに隠したまま、小さく。

「自転車がパンクしたときの修理のやり方教えたか?」

 一歩、前に進む。

 おれの動きにあわせたように、影は、ふわりと退く。

「カーテンの染みの抜き方は? 障子の張り替えの仕方は?」

 必死に声を上げるおれにまるで頓着せず、影はさらに小さな、サッカーボール大の黒いかたまりになる。

「誰かが戦わなきゃいけなかったとして、どうしてそれがおまえなんだよ。どうしておまえが……そんな小さな身体で、戦わなきゃいけないんだよ。どうしておまえが普通の生活をしちゃいけないんだよ」

 おれは影に手をのばす。

 まるでそのときを狙ったかのように、影はぐうっと高く跳ね上がり、見あげるほどの高さに浮かぶ。

「行くなよ、異端審問官!」

 おれは声を限りに、叫んだ。

 空に手を伸ばし。

 ありったけの気持ちをこめて。

 そのことばが届いたかどうかさえ、わからない。

 影は空中でくるっと一回転し、さらに高度を高めながら、遙か彼方へと飛び去っていく。

 異端審問官たちをその中に包み込んだまま。

 後にはただ、片手を空に突きだしたまま、呆然と立ち尽くしたおれだけが残された。

 そのまま、どれくらいそうしていたのかわからない。

 それまで、耳に入らなかった背後のざわめきが、やっと脳に届きだした。

 ドアが、開くぞ!

 誰かがそう叫ぶ声がした。

 出口にむかって、殺到する足音。叫び声。

 ずいぶんとたって、振り返ったとき。

 屋上にいるのは、おれと、顔を伏せて泣き続けている瀬川真帆だけだった。



エピローグ



 おれが住んでいるのはちいさな町だ。

 海岸に漂着した昆布みたいに、日本海の沿岸にべったりとくっついた、東西に細長い町。

 昆布にハサミで細かい切れ目をじょきじょきと刻めば、それが沿岸にいくつもあるちいさな浦や港になる。

 港に浮かんでいるのは、錆の浮かんだ小さな漁船だけ。魚探や遠距離航法装置(ローラン)のついた大型漁船でマグロをかっさらって一山当てた、なんて景気のいい話、この町では聞いたことがない。

 大規模な工場や、ビジネス街があるわけでもない。背の低いビルが集まりあって、なんともしょぼい町の中心部を形作っている。めぼしい産業といえば、港のすぐそばにあるカマボコ工場くらいだ。

 海岸沿いを通る国道で目につくものと云えば、漁協に、JOMOのガソリンスタンド、精米所、パチンコ屋、それに全国チェーンのファミリーレストラン。

 ファミレスの前で、おれは自転車を止める。

 いつかトルソーの爪が穿った駐車場の穴には、青いビニールシートが張ってあった。

 駐車場のむこうには海が見える。

 秋の海には、白い波頭がほとんど見えず、穏やかに凪いでいた。風はない。

 かすかな潮の匂いを嗅ぎながら、おれはあの海の向こう側に行ってしまった連中のことを思う。

 あいつはいまも、戦っているんだろうか。

 どんなに目をこらして見ても、海岸線の向こうになにかが見えてくるわけじゃなかった。

 おれはまたペダルを漕ぎだす。

 無意識にペダルを漕ぐうちに、いつのまにか家についていた。

 平屋、六畳三間、ダイニングキッチン八畳の質素な我が家。

 おれはカギを開けて、家に入る。

「ただいま」

 たわむれに、声を上げてみた。

 返事は、ない。

 あるはずなんて、なかった。



 あの屋上の事件から、十日が過ぎていた。

 あれからおれは、まわりを取り囲んだ大人たちに、嵐のような詰問を浴びせられつづけた。

 知りません。よくわかりません。おれはそのたび、呪文のように何度も繰り返した。話しても、わかってもらえるとは思わなかった。

 結局、屋上の破損は落雷、あるいはそれに類する自然現象によるもの、というところに落ちついたらしい。不思議と、おれや瀬川真帆を教師にチクる生徒はひとりもいなかった。屋上は出入り禁止となり、おれは停学処分その他をくらうこともなく、普通に学校に通っている。それでも、生徒指導部長の後藤はおれが怪しいと睨んでいるらしい。当分、厳しいマークがつづくだろう。

 瀬川はしばらく学校を休んでいたが、今日ひさしぶりに教室に顔を出した。

 すこしやつれた顔をして、席についている瀬川のまわりに、近寄る人間はいなかった。

 おれは自分の席にカバンを置くと、まっすぐ瀬川の前に行き、頭を下げた。

「ごめん」

 本当に、ごめん。

 瀬川の気持ちに、気づいてやれなくて。

「どうして浅倉くんが謝るの」

 瀬川はそう云って笑った。無理を感じない、どこか肩の力の抜けた笑顔だった。

「自分がやったことだもん。しょうがないよ。これからゆっくり、自分がやったことの罰は受けなきゃね……モンちゃんは、あれっきり?」

 おれは、頷く。

 異端審問官とは会うことがない。恐らく、もう二度と。

「そうなんだ」

 瀬川はそう云って、目を伏せる。

「わたしね、モンちゃんには感謝してるんだ。ぱんぱんにふくらんだ風船の空気が、抜けていった感じ。どこか、ほっとしてる」

「そうか」

 なら、良かった。

 結局、異端審問官は、おれが瀬川にできなかったことをやってくれたわけだ。

「わたし、モンちゃんがいなかったら、本当に屋上から飛び降りてたかも知れないよ。そのつもりだった。自分がしたことの責任を取るには、それしかないって」

 ……本当に、良かった。

「両親の離婚、本式に決まりそうなんだ」

 瀬川が、云った。

「そうか」

「決まったらね、弟にはわたしから、ぜんぶ話す。そう決めたんだ。嘘は、もうつかないって。他人にも、自分にもね。そんなことより……」

 瀬川が急に声をひそめ、おれの耳元に口を近づける。

「浅倉くん、知ってた? わたしさ、あのとき屋上で浅倉くんに告白したことになってんだけど」

 おれは、ぶんぶんとすごい勢いで首を横に振る。

「そっか。でもそういうことになってるみたいよ。浅倉くんがどんな返事を返すのか、みんな期待してるみたい」

 妙な期待をするなぁ!

 そんなこと、突然云われたって、おれも困る。

「返事はさ、浅倉くん」

 瀬川は、おれの瞳を見て、云った。

「わたしがもっと、元気になってからに、してね」

 その笑顔は、おれが知っている、いつもの瀬川真帆のものだった。



 商店街で買ったものを詰め込んだビニール袋をテーブルに置くと、おれは流し台の前に立った。

 蛇口をひねり、水で手を洗う。

 蛇口を閉めると、金属のきしむ、きゅうっという音が、台所中に響いた。

 この音、こんなに大きな音がしたっけか?

 おれの家って、こんなに静かだったっけ?

 そう思ってから、昨日もそんなことを考えたっけな、と気づく。

 そのまま放っておくと、地の底まで気分が落ちていきそうだった。おれは頭を振り、わざとがさがさ大きな音を立ててビニール袋を漁り、二分の一にカットされたキャベツを取り出す。

 今日の晩飯は、シンプルにさんまの塩焼きにする予定だった。キャベツの千切りとすりおろした大根を添えて。

 軽く水洗いしたキャベツをまな板に乗せ、おれはキャベツを千切りにし始める。

 ああ、クソっ。

 畜生。

 なんだってこんなに、包丁がまな板を叩く音が甲高く響く?

 なんだって、一人っきりで流し台にむかってる自分が虚しく感じる?

 なんだって、こう……ああ!

「ウザいんだよ、自分が!」

 おれはとうとう、声に出して叫んで、包丁をまな板の上に投げ出す。

 もちろん、一人っきりの部屋の中で叫んだって返事なんてありゃしない。虚しいだけだ。

 これでよかったんだ。

 千切りにしたキャベツを見下ろしながら、おれは胸の中で呟く。

 おれが異端審問官に教えたことは、きっと無駄にならない。

 だってあいつはもう知っているんだから。

 普通ってもんがどんなもんか。普通の人間が、どんな風に、吹けばとぶような質素な生活を、必死になって守っているか。

 聖庁のなかで、たった一人で、あいつはこれから戦いつづけるだろう。

 普通の人々の生活を守るために。

 もう誰も、傷つけたりしないために。

 それをおれは信じられた。かけらも疑う余地なんて、ありゃしなかった。

 だから、これでよかったんだ。

 おれも、頑張らなきゃな。

 頑張らなきゃ、嘘だ。自分で決めた通りに、ちゃんとしたオトナになるんだ。ちゃんとしたオトナになって、この家を守るんだ。

 ふう。おれはひとつ、ため息をつく。

 投げ出した包丁を拾いあげ、ふたたびキャベツに挑もうとした、そのとき――。

 ばーん、と派手な音を立てて、玄関の扉が開く気配がした。

 つづいて、どたどたと廊下をこちらに駆けてくる足音。

 振り向いたおれの視界の隅を、金色のものがよぎった。

 ウェーブのかかった、金色の髪。

 廊下の上できゅっと音をたてて立ち止まると、金色の髪はふわりと肩の上で舞う。

 白いワンピース。

 黒いマント。

 おれを見つめる、青い瞳。

 びしっ、と音のするような鋭さで右手を前に突きだすと、少女はおれにむかって叫んだ。


「異端ですっ!」


 異端審問官は、眉をひそめた。

「浅倉家、鉄の家訓その一、ため息は禁止! ため息をつくとひとつづつ幸せが逃げる。家長たるあなたが、家訓を破ってどうするんです!」

 おれは……。

 ただ呆然と、異端審問官の顔を見つめるしかなかった。

 なんで、こいつが、ここにいる。

「おまえ……」

 口から勝手に、思ってもいないことばが出てくる。

「来るなら来るって、云えよな。サンマ、一匹しか買ってないんだぞ」

「なんです、その顔は」

 異端審問官は腰に手を当てて、ふふんと笑ってみせる。

「わたしがいなくて、よっぽど心細かったと見えますね!」

「ばっ……そんなわけあるか、バカ!」

 答えるおれの声は、狼狽して裏返っていた。

「ははん、嘘なんてついたって、無駄ですよ」

 ちっちっち、舌を鳴らしながら、異端審問官は人差し指を振ってみせる。

「海の向こうにいたって、寂しくってしょうがないっていうあなたのこころの声が、ちゃーんと聞こえてきましたよ。どうやらわたしのちからはさらに強まったみたいです。これと定めた相手のこころの声は、どんなに離れていたってちゃんと聞こえるんです」

「そうなのかよ!」

 これじゃうかつなことも考えられねぇ。

 異端審問官は胸を張って答えた。

「嘘です」

「嘘かよ!」

「異端審問官だからって、そんなになんでもかんでもこころが読めたりしません。わたしはただ、やり残したことをしにきただけですよ。ボタンつけのやり方、教えてくれるんでしょう?」

 おれはもうことばもなく、うなずく。

「パンクした自転車の修理の仕方も?」

 こくり。おれはうなずく。

「カーテンの染み抜きの仕方や、障子の張り替えのやり方も?」

 こくり、こくり。

「それになにより、これが残っていますからね」

 異端審問官はそう云って、突きだした中指を、ぐっと丸める。

 呆然と突っ立ったおれに、手振りでしゃがむように指図する。

 中腰になったおれの前に立つと、異端審問官はおれの額にデコピンを一発かました。

「あなた、あの日、わたしがせっかく作ったお弁当、忘れて行ったでしょう」

 異端審問官はそう云って、きっ、とおれを睨みつける。

「ものすごく傷ついたんですからね。罰はちゃんと受けてもらいます。デコピン百回です」

「そりゃ、きついな」

 云いながら、おれは口元がにやけてくるのを止められない。

「分割にしてくれよ、百回分割で、十年くらいかけて」

 ふと見ると、まな板の上では、中途半端に千切りにしたキャベツが小さな山をこしらえている。

 おれは光の速さでラップを手に取り、包んだキャベツを冷蔵庫に放りこむ。

「すき焼きだ!」

 おれは宣言した。異端審問官はけげんそうに顔をひそめる。

「すきやき?」

「家をながらく留守にしたヤツが帰ってきたときは、寿司かすき焼きと日本じゃ相場が決まってんだ。今夜はすき焼きにする。シイタケは冷蔵庫にあったな! 春菊も! 牛肉とネギと豆腐がいる。しらたきと白菜も!」

 ぐうぅぅぅぅぅぅ。

 派手な音を立てて、異端審問官の腹が、鳴った。

「お腹が、すきました」

「待ってろ! ダッシュで買ってくるから!」

 勢いこんで駆け出そうとしたおれの手を、異端審問官がぎゅっとつかんだ。

 ぬくもりが、おれの手に伝わる。

 青い瞳が、真っ直ぐにおれを射る。

「なにか、忘れていませんか?」

「なんだよ、まさかモヤシか? あんなもん入れるの、うちじゃ邪道だぞ」

「そうじゃありません」

「そうか、うどんか! わかった、買ってくる!」

「そうじゃありません」

 異端審問官はそう云って、じいっとおれの瞳を見つめてくる。

 あ、と声をあげそうになった。

 胸の中で、心臓がひとつ跳ねた。どきまぎして、とっさに声が出てこない。

 さんざん声を詰まらせて、派手な咳払いをしたあとで、やっとおれは云った。

「おかえり」

 良くできました、そう云いたげに、異端審問官は微笑む。そして、云った。

「ただいま」



 次の日、学校に行く途中で、トルソーに会った。

 ガードレールの上に仁王立ちし、胸の前で腕を組んだまま、憎しみのこもった目であいつはおれを睨みつけてきた。

 なにも云わずに、おれはトルソーの前を通り過ぎた。

 なにも云わなくても、あたりの空気まで震わせるような強い憎悪が、肌に伝わってきた。

 この町に帰ってきたあいつは、いつまでおとなしくしていてくれるだろう?

 聖庁の教令(ルール)とやらが、あいつをいつまで縛りつけておけるだろう?

 いまは……そんなこと、考えたくもなかった。

 教室に行くと、まるで当たり前の顔をしてクローチェが、そこにいた。

 人気のない教室で、低い音でうなる黒板消しクリーナーに、黒板消しを当てている。

 真っ直ぐに背を伸ばしたその姿は、まるで教会に置かれた聖女の彫像のように見えた。

 黒板の日直の欄には、黒瀬眞清の名が書かれている。

「ずいぶんと早いな」

 クローチェが云った。

「昨日は良く、眠れたか?」

「はぁ……おかげさまで」

「きみのことじゃない、彼女のことだ」

 教壇の上の花瓶に、花が飾られていることに、おれは気づいた。クローチェが活けたのだろうか。

「ぐーすか寝てたぜ……おまえ、なんだってここにいるんだ、クローチェ」

 おれの問いに、クローチェはかたちの良い眉を片方吊り上げる。

「彼女がここに残ると決めた以上、わたしも残るのは当然だ。黒瀬眞清でありつづければ、きみの監視もつづけられる。わたしにとってはなにかと都合が良い。愚問だな。もっと気の利いた質問はないのか?」

「あいつは……」

 その先を訊くには、勇気がいった。

「あいつはいま、おまえたちの組織で、どんな扱いを受けてるんだ」

「いまや、われわれはお尋ね者だ」

 クローチェは、言下に答えた。

「二度に渡る脱走。再三に渡る任務の拒否。じきに聖庁から追っ手がかかる。安住の生活がいつまでもつづくとは夢にも思うな。この地は、血で血を洗う争いに巻き込まれるだろう……じきにな」

 クローチェがクリーナーのスイッチを切った。教室は一瞬、静寂に満たされる。

「わたしは彼女のそばにいる」

 クローチェは云った。

「聖庁を捨てても。筆頭拷問吏の肩書きを捨てても、彼女と添い遂げる。そうこころに決めた」

 口をひらいたおれの先手を取るように、クローチェは片手を挙げて、おれの前に人差し指を突きだす。

「きみに礼を云われる道理はない。これはわたしが決めたことだ。彼女の身は、わたしが守る。この命に代えても」

 おれはことばもなく、ただひとつ、うなずくことしかできなかった。

 クローチェの口元に、ふっと皮肉な微笑らしきものが浮かぶ。

「なぁ、浅倉、きみはたしかに賭けに勝った。彼女は聖庁での栄光よりも、きみとの生活を選んだ。だがずっと、賭けに勝ち続けられると、そう思うか? 彼女の奥底に眠るもう一人の彼女を、永遠に眠らせていられると思うか?」

「そんなの……わかんねぇよ」

 おれは正直に、そう答えた。

 屋上で見せた、異端審問官のあの恐ろしい微笑。

 あれもまた、偽らざる異端審問官のもうひとつの姿なのだ。

 いつかまた、あの異端審問官が顔を出すときがくるのかも知れない。

 でも、願わくば――。

「おれは、おれにできることを、やるだけだ」

 いつかトルソーに云ったのと同じことばを、おれはクローチェにかけた。

「健闘を祈ろう」

「いらねぇよ」

 おれはそう云って、クローチェに背を向ける。

 そのまま机にむかって歩きかけたおれを、クローチェが呼び止めた。

「なぁ、浅倉……林檎、食べるか」

 そう云うクローチェの手には、どこから取り出したのか、果肉のたっぷりついた、赤い林檎が載っている。

 さて、この林檎はどっちだろう。本物の林檎なのか、それとも……。



 わかっている。

 いつまでもこの平和がつづくわけじゃない。

 この世に永遠なんてあり得ない。

 でも、願わくば――。



 テーブル越しに足を蹴られて、おれは悲鳴を上げた。

「痛ぇーっ!」

 異端審問官は、テーブルのむこうからおれを睨みつけてくる。

「痛いじゃありません! あなた、おかずの上で一瞬、ためらいましたね。いったんおかずに箸を伸ばしたら、ためらわない! ためらい箸は地獄箸! 食物に対する冒涜です! 浅倉家、鉄の家訓、第十九条違反です。異端です!」

「いいじゃねぇかよ。あさりのワイン蒸しも、キュウリの酢の物も、どっちも好きなんだよ、おれは!」

「ええい、くだらぬ言い訳を! まだ懲りませんか!」

 異端審問官は云いながら、おれの臑を蹴る。おれはまた悲鳴を上げる。

 帰ってきた異端審問官は、いつのまにか、おれ以上の「浅倉家、鉄の家訓」信者になっていた。

 違反するたびに容赦なく、制裁のパンチやらキックやらが飛んでくる。

 家の中では、おれの悲鳴が絶えることがなかった。

 正直、とんでもねぇヤツが帰って来やがったな、と思わなくもない。

 もはや、どっちが教師でどっちが生徒だか、わかったもんじゃない。

 ボタン付けも、パンク修理も、障子の張り替えも、あっという間におれより上手くなりやがった。

 やっぱりこいつは、天才なのかも知れないな。

 そう思うと、ふと不安がよぎる。

 砂が水を吸い込むように“普通の生活”を吸収した異端審問官の脳の底には、きっとまだ血生臭い異端審問官としての才能が眠っている。

 それがいつか、また目覚める日がくるのかもしれない。

 いつか、そう遠くない日に、こいつを聖庁の連中に奪い返されないために、おれは戦わなきゃいけない日がくるのかも知れない。

 でも、願わくば――。

 おれはこころの底で、そっと呟く。

 もし、もしも。

 この世に、おれがいちども信じたことのない神さまがいて、おれたちを見ていてくれるのなら。

 異端審問官の奉じる残酷な神でなく、ただ見守ってくれるだけの神さまがどこかにいるのなら。

 どうかもう少しだけ、やさしい時間が、おれたちの上を流れてくれますように。

 どうか、か弱くバカなおれたちが、自分にも、他人にも嘘をつかずに生きていけますように。

 もう、罵ったりしませんから。

 どうか、お願いします、神さま。

「ついでに、こいつの暴力癖が、すこしは治まりますように」

「なにか、云いましたか?」

「いいえぇ、なんにもぉ」

「あなたには本当に、おしおきが足りませんね」

「もうこれ以上、勘弁してくれよ、異端審問官」

「ラウラ」

「は?」

 思わず素っ頓狂な声を上げたおれを、異端審問官はじっと見つめる。

「ラウラ」

 異端審問官はそう云って、とびきりの笑顔で、微笑む。

「わたしの、名前です!」



                  2009/12/15 2:14

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異端審問官と哀哭の緋文字(メッセージ) はまりー @hamari_sugino

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