視線

図書館の戸を開けて飛び込み、そこでようやく立ち止まった。

肩で大きく息をする。

吸い込んだ空気の、年月を経た本の匂いを感じた時初めて、自分がずっと息を止めていたことに気付いた。

セーラー服は水をこれ以上ないほど吸って黒く重くなっている。

袖からも髪からも雫が落ちていった。

顔中に強い雨が吹き付けて、泣いていたのかどうか自分でも分からないほどぐしゃぐしゃになっていた。

その時、図書室の戸が開く音がした。

私は尾山君が追ってきたのかと思って振り向いたけど、そこにいたのは深沢先生だった。

「染矢か」

先生はゆっくりと私の方に歩み寄る。

私は自分の体が強張るのを感じた。

私に近づいた先生は、ようやく私がずぶ濡れだということに気づいたようだった。

「染矢、お前何してたんだ」

びしょ濡れの前髪が私の眼を隠してくれて、私は先生の眼を見ずに済んだ。

「タオル取ってくるから」

「いいんです」

踵を返そうとしていた先生は、私が何を考えているか分からない、という眼で私を見た。

「すぐ、寮に帰りますから」

「だが」

「大丈夫です」

先生は観念したように私に向き直った。

私は重いセーラー服を脱いでかたわらの椅子にかけた。

長い髪に指を通すと、水滴が指先からポタポタと木の床に落ちた。

白いシャツが肌に張り付いて透けている。

それを見た一瞬、先生の視線が、まるで尾山君のそれのように私を真っ直ぐに捉えたのを感じた。

私は自分の心臓が焼けるのが分かった。

でもそれは本当に一瞬のことで、先生は私から視線を逸らすと、何か取り返しのつかないことをしたかのような顔で、窓辺に置かれた椅子に歩み寄り、腰掛けて窓の外を見つめていた。

「先生」

先生は窓の外を見つめ続けていたけど、ガラスには絶え間なく水滴が打ち付けられて滴り、ぐねぐねと透明な模様を描き続けていて、その向こうにあるはずの景色は見えなかった。

「先生はどうして、海で暮さなかったんですか」

シャツと肌の隙間を伝って水滴が流れ落ちる。

「卒業試験に落ちたからだよ」

窓を見続けたまま先生は言った。

薄暗い図書室の中、先生の表情のない顔だけが窓からの光で浮かび上がって見えた。

「本当は怖かったんじゃないですか。海で暮らすことが。何もかも捨てて、身体まで作り変えて、魚になってしまうことが」

焼かれた心臓が熱を持ったままばくばくと跳ねていた。

それがまるで嘘のように濡れた肌が冷たい。

「染矢」

私は先生の横顔を見つめ続けていた。

「どうして人類が、18歳まで地上で暮らすか分かるか。遺伝子ごと作り変えてしまえば、ずっと海で生きていけるのに」

私は熱く揺れていた心臓が瞬時に動きを止めたことを感じた。

先生の頰に、流れる水が曖昧な影を落としている。

「子どもたちに、土の記憶を残しておくためだ。いつかまた人類が、地上で暮らす時のために」

心臓が急速に冷えていく。

先生はこちらを見た。

その眼は灰色に光っている。

先生は立ち上がり、私に歩み寄る。

身体全体が冷えた私は指先をわずかに動かすことすらできなかった。

「だから、染矢は、染矢のままだ」

先生はそう言って私の髪を撫でた。

幼い娘にするように。

私は自分の頰が、今度こそ自分の熱い涙で濡れるのを感じた。

「いつか、帰ってこれるんですか」

先生は私を優しく見つめる。

その眼からは光が消えていた。

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