本棚

尾山君に言われた6時までまだ少し時間があったので、私は寮にある自分の部屋に一度戻ることにした。

談話室のところでVRで遊ぶ美沙たちを見たけど、私には気付いていないようなのでそのまま声をかけずに通り過ぎた。

食堂では後輩たちがパーティーの準備をしているらしく、前を通りがかっただけで「先輩は立入禁止です」と1年生の女の子に注意を受けた。


私の部屋は、勉強机と、ベッドと、小さな本棚を置いたらもう他のスペースはないくらいの狭くてシンプルな個室だった。

地上のものを海中に持ち込むことは一切不可能だと小さい頃から教えられていたので、私物と呼べるようなものはほとんどなく、本棚に並んでいるのも教科書ばかりだった。

中途半端な時間を潰そうと、古い教科書を1冊手に取りパラパラとめくる。

私が苦手な算数の時間に居眠りしている間に、美沙が描いたらしきラクガキがあり、急に何年か前の教室の空気が鼻腔の奥に蘇った。


私は教科書を本棚に戻すと、下の段に並んだ本を全て引っ張り出し、その奥にしまいこんでいた1冊の本を取り出した。

淡い色遣いで描かれたその絵本の題名は、「魚」。

この本は閉架からこっそり持ち出してきたものだ。

閉架にはもう何年、何十年と誰からも読まれていない本がひっそりと置かれており、生徒も先生も誰一人として近づこうとすらしなかった。

私だって、用心深く周囲を伺いながら部屋のドアを開く深沢先生の姿を見かけなければ、入ることはなかっただろう。



閉架の奥へと向かって静かに歩く先生を、私は息や足音、あらゆる音を殺しながら追った。

薄暗い部屋の一番奥には窓がないので夕方の太陽の光も届かず、天井から吊るされた小さな電球の橙色の光が、古びた革表紙の本の上に積もった埃をかすかに揺らめかせていた。

先生は、隅の方の本棚に無造作に置かれたその本を何かの儀式みたいに丁寧な手つきで取り出し、1ページ1ページを慈しむような眼差しで長い間眺めていた。

私はその姿をずっと、少し離れた本棚の陰から見ていた。

やがて先生は、取り出した時と同じような様子で棚の中に絵本を戻し、足早に立ち去った。

先生の後ろ姿が扉の向こうに消えていくのを見送って、私はさっきまで先生のいた場所に歩み寄ると、本棚の中から絵本を見つけて取り出した。

先生、閉架に入っていくの見ましたよ。なんかすごく可愛らしい絵本、読んでたでしょ。そんな冗談を言うつもりでいたけど、そんな気持ちは絵本の表紙に目を落とした一瞬で消えた。

題名の下に書かれた作者の名字が、先生と同じ「深沢」だったからだ。


鉛筆で描いたような力強い線と明快な色彩のその絵本には、人間とも魚ともつかない不思議な生き物が描かれていた。

彼らは海底の街で幸せそうに暮らしている。

なぜ先生はこんな本を描いたのか、そう思った刹那、6時を告げるチャイムが学校中に響き渡った。

急いで寮に帰らなくては。焦った私はその絵本を思わず持ち帰ってしまったのだった。


それから何度も先生にその絵本のことを尋ねようとしたけど。

その質問はできなかった。

あの日、絵本を見つめていた先生の眼差しがどこまでも優しくて、それがとても恐ろしかったから。



6時のチャイムが寮に鳴り響き、意識が寮の部屋に引き戻される。

気付けば日は暮れ、明かりをつけずにいた部屋が薄暗くなっている。

急に勢いよくドアが開き、美沙が顔を覗かせる。

「こんな暗い部屋で何してたの」

「いやあ、ちょっと寝ちゃって」

部屋が暗かったのでとっさに絵本をベッドの下に隠す。

「そろそろパーティー始まるよ」

「うん。行こ」

階下にはもう生徒たちが集まっているのか、賑やかな声が聞こえてくる。

私は美沙と連れ立って、鈴みたいな声で笑いながら、廊下を駆けて行った。

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