答案
試験が終わったことをママに報告したかったけど、試験終了のチャイムと同時に降り始めた雨が放課後になって強まったので、今日電話するのは諦めた。
美沙や皆はすぐ寮に帰って遊ぶようで私にも声をかけてくれたけど、私はなんとなく帰りたくなくて、美沙の誘いを断って図書室に向かった。
図書室は今はあまり使われていない西棟の、2階の隅にある。
雨で浜辺に行けない日は、私はよく図書室に行った。
……なんて言ったら真面目に聞こえるかも知れないけど、私は図書委員だったから、雨の日にしか図書室に行かない不真面目な委員というのが本当のところだった。
でも、私はこの学校で唯一の図書委員だったから他の図書委員の生徒から叱られるなんてこともなかったし、その上今どき紙の本を読む生徒なんて全然いないから図書委員が不在でも困る人はいなかった。
そもそも30分もあれば周囲を一周できてしまう小さな島だ。
学校と、寮と、少し離れたところにある小さな港しかないから、遊ぶ場所は寮しかなかった。
皆はVRが好きで良く遊んでいたけど、私はなんだか好きになれなかったから、晴れた日は砂浜で、雨の日は図書室で過ごしてばかりいた。
*
図書室の戸を開くと、ふっと風が通り抜けて潮の匂いがした。
前来た時に窓を閉め忘れたのかな、そう思ったのも束の間、奥の方で人の気配がした。
こんな所に来る生徒はほとんどいないからちょっと身構えたけど、書棚の間から顔を覗かせたのが深沢先生だったから私は胸をなでおろした。
深沢先生はこの学校で唯一の、AIじゃない人間の先生だ。
「先生、何してんのこんなとこで」
「なんだ、染矢か」
私が覗くと、先生は図書室の大きめの机を埋め尽くすようにさっきの試験の10人分の答案を広げて採点をしていた。
「職員室だと生徒に見られるからさ」
「あ、めっちゃ見ちゃった、ごめん」
「別にいいよ」
先生の口調が本当に構わない感じだったので、私は気にしないことにした。
先生の近くの椅子に腰掛けて、読みかけだったミヒャエル・エンデの「モモ」の続きを読むことにする。
雨の降り続く音が窓の外から静かに流れ込み、無言の図書室を満たしていた。
「染矢、おめでとう」
先生が突然言った。
「え、何がですか」
「合格だよ」
先生の口調があまりに何気なかったので私はちょっとおかしくなって笑った。
「ねえ、言っちゃっていいの、そんなこと」
「別に。分かってんだろ、全員合格だよ」
「じゃあ、あんな緊張して試験受けて、なんか馬鹿みたい。あの緊張と、勉強時間を返して欲しいよ」
「まあ、卒業後の手続きのためには一応必要だからな」
「なんか良く分かんないけど、その手続きとかってのもさ」
「お前、何度も話したろ。てか、よく分かってんだろ」
先生は机の上に折り重なった答案用紙の中から私のを引っ張り出して見せる。
「問1 海面上昇による陸地面積減少の発端となった現象は何か」
「答1」の欄に書かれた「地球温暖化」の文字に、赤いペンで丸がつけられている。
「問2 陸地面積減少に対して、人類が取った対策を100字以内で記述せよ」
「答2 全世界の18歳以上の人間に呼吸法転換手術を行い、生活基盤を海中に移すこと」
これも丸。
「問3 その対策を明文化した、2149年に採択された国際条約は何か」
「答3 クアラルンプール国際条約」
これも丸。
「別に、話はなんとなくわかるけどさ」
赤丸が並ぶ答案用紙にちょっとホッとしながら私は言う。
「けど、実際手術ってどういうことするのかとか、そういうのは知らないし」
そう続けた私の顔をチラッと見て、先生の採点の手が止まった。
私はなんだか居心地が悪くなってふっと目を背けてしまう。
窓の外では降り続ける静かな雨が校庭の砂の灰色を濃くし続けていた。
「先生はやっぱり、手術とか受けなかったの」
先生はこの学校で唯一の人間の先生、この島で唯一の大人の人間だった。
「俺は卒業試験に落ちたからさ」
冗談めかしてそう言った先生の目が、雨空を写して灰色に光っているのを私は見た。
その目は私を吸い込んでしまいそうで、私は急に息苦しくなって深呼吸する。
「先生はどうして」
そう言いかけた瞬間、無遠慮な勢いで図書室のドアを開く音が、私の問いを遮った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます