A-SIDE 藍青蒼碧(Hybrid Bland Blue)
ハイブリッド・ブラン・ブルー/一
西暦二千何年かの八月二十四日、深夜、錦景赤十字病院、入院棟四階の個室病室のリクライニングベッドの上で独り、國丸ユウリは骨折した右足に轟く痛みに歯を食いしばって耐えていた。
こんな痛みに少女が襲われているのは、二日前の失恋が大きな原因だった。
ユウリはG大学で講師をする武村コウヘイという十二歳年上の二十七歳の男に恋をした。恋に落ちた瞬間、これは本物の恋なのだとユウリは思った。しかしあのときのユウリの精神状態は普通じゃなかった。だから彼に恋なんてしてしまった。ユウリは現在から過去をそう分析していた。
コウヘイに恋をしたなんて嘘だったんだ。
全て間違いだったんだ。
失恋した瞬間にユウリは悟った。その気持ちは当然ながら怒りへと変化し、ユウリを暴力的にさせたのだった。ユウリはG大学が運営する世界望遠機関ミュージアムという施設の特別展覧室でユウリはコウヘイに告白し明確な回答を得ないまでも明確に振られたわけなのだが、そのとき丁度ユウリの目の前には、スクリュウのマケットが展示されていた。
スクリュウ、というのは錦景山の中腹あたりにそびえ立つ、パイザ・インダストリィという企業が建設した七十メートルの塔のことだ。かつては発電所兼次世代エネルギア研究所として機能していた施設だったが十数年前、スクリュウでは大規模な爆発事故があった。それ以来発電所としての機能は完全に失われいわゆるモニュメントとしての役割をスクリュウは全うすることとなっていた。
そのスクリュウ建設時に作られたマケット、ほぼユウリの身長くらいの雛形が特別展覧室の中心に展示されていたのだ。特別展のテーマはスクリュウで、そしてそれを企画したのはコウヘイだった。だからユウリは怒りの気持ちは眼前に立つスクリュウのマケットへと向いてしまった。彼が大事にしているものを壊してやりたい、とユウリは強く思った。その怒りの他にも、様々な想いが混合し、ユウリはスクリュウのことを、蹴った。ただ蹴ったわけじゃない。
必殺、上段回し蹴り。
ユウリは師匠に教えてもらった上段回し蹴りでスクリュウのマケットを破壊しようとしたんだ。粉々にね。
しかしユウリの必殺技はスクリュウに効かなかった。傷一つ付けることも出来なかった。それもそのはずでスクリュウのマケットはブロンズ製で体の線が細い少女の上段回し蹴りごときで簡単に壊せるものではなかったのだ。ミリタリィブーツを履いて頑丈にしていてもそれは一緒だった。ミリタリィブーツは硬いものにぶつかった衝撃で変形した。
ユウリの右足は骨折した。
ということがあったのが、二日前の話。
まさに失恋によって心も体も傷付いてしまったユウリだったわけだが、手術を終えて目を覚ましたときには不思議なほど気持ちは冷めていて、コウヘイのことなんてどうでもいいわ、知らないわ、ヒステリックにもならないわ、という具合に心の整理は尽きつつあった。男のことを少女はそれほどに引きずらなかった。
しかしけれど、紛れもなく右足は折れていて、ボルトもねじ込まれていて、ドクタには全治二ヶ月と診断された。その間、ユウリは右足を引きずって歩かなくちゃならない。その前に車椅子だ。それはとても少女にとっては過酷で不自由な運命に思えて、そのとてつもない不自由さ加減の怒りはもちろん、コウヘイへと向けられたのだった。
全部、全部、何もかもコウヘイのせい!
あの莫迦男のせいだ!
それにこの痛み、鎮痛剤が切れた瞬間に襲来する痛み、マシンガンでズタズタに撃ち抜かれたような痛みは十五歳の少女には耐え難いものだった。
これもやっぱり、コウヘイのせい!
ユウリはナースコールのスイッチを握り締めて目をぎゅっと瞑って激痛に耐えている。
冷房が効いているのに痛みに汗が出て髪の毛もパジャマもパンツもぐっしょり濡れている。
でもナースコールを押さないのは虚勢を張っているから。
痛みに泣きそうになっている弱い少女だ、なんて担当の看護婦さんに思われたくなかった。涼しい顔をして、全然平気ですよ、これくらいの痛みって看護婦さんに言って、強いねって誉められたいからユウリは虚勢を張っていた。
アッシュブラウンのショートヘアが素敵な看護婦の桜井さんはユウリのタイプの女でした。
ユウリはレズビアン、レズガール、同性愛少女なので、タイプの看護婦、桜井さんに様々なことを妄想してしまうのです。
様々なことを妄想してユウリは痛みをごまかした。
でも妄想がふと途切れてしまえばすぐに強烈な痛みに体が乗っ取られてしまう。早く眠ってしまえばいいのだけれど、こんなに痛くっちゃ眠気も来ない。
ナースコールを押して、痛み止めを打ってもらえばいいのだけれど、なんてたって桜井さんはタイプなので押せない。
押して溜まるか。
朦朧とする意識の中、毛布を頭から被ってユウリはほとんど価値も意味もない意地を張り続けていた。
でも。
そろそろ限界かもしれないな。
ナースコールを押したい。
でも桜井さんはタイプなので。
少しでもいい子だって思われたいのでユウリはナースコールのスイッチを握り締めたまま押さない。
「……うー、」ユウリの口から唸り声が勝手に漏れた。それに自分で吃驚してギブスに覆われ吊された右足が大きく動いてしまったから痛みが炸裂した。「ぴゃあああっ」
そのときだ。
急に病室の照明が点灯した。
瞼の向こうが明るく見えた。
かつかつかつ、と靴の底が床を叩く音が響いてベッドの脇で止まる。ユウリの顔を覆っていた毛布がはぎ取られ、薄く目を開ければそこには桜井さんがいた。
白衣を纏った桜井さんは、ありきたりな表現だけれども天使に見えて、ここって天国かもって思った。
なんちゃって。
いや、激痛で冗談なんて考えている余裕なんてないんだけれど。
「こらっ、また我慢してぇ」
桜井さんは可愛い丸い目でユウリのことを睨んでいた。「痛かったら呼びなさいって言ったでしょう? 夜だからって気を使わなくっていいの、夜仕事するためにちゃんと私たちは準備してるんだから、分かりましたか?」
ユウリは薄目で天使を見つめながら小さく頷いた。
天使の桜井さんは慣れた動作でユウリの左腕の肘の裏の血管にチクリと針を刺す。
その痛みは右足に比べたら遥かに小さく、その小さな痛みで大きな痛みが和らぐのだから、それは天使のキスかもしれないななんて思った。
天使のキスってきっと痛みがあるのだろうな。唇を噛むようにキスをするのだろう。だから痛いんだ。タイプの人に痛くされるのって、いいかもしれないって思った。
桜井さんはしばらくユウリのベッドの横に座って、左腕の注射跡を湿ったカーゼで押さえてくれていた。ユウリの顔は相変わらず痛みに歪んでいたから桜井さんは優しく頭を撫でてくれていた。彼女の手の温度にユウリは安らいだ。
徐々に痛みは和らいでいった。それは紛れもなく注射で体の中に入った薬のせいで間違いないんだけれど、桜井さんっていう天使の力が痛みを吹き飛ばしてくれたんだってユウリは眠りに落ちながら思ったんだ。
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