ハイブリッド・ブラン・ブルー/二
「あら、桜井さんってご結婚なさっているんですかぁ?」
次の日の朝、ユウリは叔母の國丸ユキコの甲高い作り声で目を覚ました。鎮痛剤のせいで目覚めは最悪で頭はずっしりと重く、体はしばらく動きそうにないなって分かった。ぼんやりとした病室の白っぽい景色の中にはお見舞いに来ているユキコと桜井さんがいた。ユキコはベッド脇のパイプ椅子の上に座っていて、桜井さんはベッドの上、ユウリの足下の方に腰を軽く乗せて座っていた。二人とも笑顔で、とても親しげに視線を交わしているな、とユウリは感じた。
いつの間に二人は仲良くなったんだろう?
……ああ、そっか。
ユウリが寝ている間に決まってる。眠っている間、ユウリが知らない間に、なんか悪いことって起こるのかもしれないって思った。
っていうか、桜井さんって既婚者だったんだ。
「あ、おはよう、ユウリ」
ユキコは目覚めたユウリに気付き、正真正銘夏の午前中、という感じの眩しい笑顔を見せる。二人きりだったらユキコはそんな笑顔は見せないんだけれど、ユキコの笑顔って基本的に雪女の不気味な笑顔だ、ごめん、言い過ぎかな、とにかく桜井さんがいるから、そんな向日葵みたいな笑顔をするんだ。ユウリはそれを直視するのが苦しくて視線を桜井さんの方に移した。「……おはようございます」
「おはよう、」桜井さんは天使の笑顔。「どお、よく眠れた?」
「はい、」ユウリは額を押さえながら言う。「……なんか、変な夢を見たような気がします」
「悪夢?」ユキコはニタリといつもの顔で言った。「夢診断しようよ」
ユウリはぷいっとユキコを無視して桜井さんの方を見て言う。「……桜井さん、結婚してるんですか?」
「あ、聞いてた?」桜井さんはハニカんで体温計をユウリに手渡す。朝の検温をしなくちゃいけない。「二十四の時に結婚して今年の夏で五周年なの、遥か昔の話よね、あの頃は、ええ、若かったなぁ」
「へぇ、五周年ですか、凄い、」ユウリは体温計を脇に挟みながら、天使はすでに誰かの天使だったんだって落ち込んでいた。まあ、ちょっとだけだけど。本格的に好きになっちゃう前に、その事実を知ることが出来てよかったとも、ユウリは思った。「五周年かぁ」
「お子さんはいらっしゃるんですか?」ユキコが聞く。
「はい、女の子が一人、今年五歳になります」
「桜井さんに似て可愛くておしとやかな女の子なんでしょうね?」ユキコはさらりと言う。
「いいえ、おしとやかとはほど遠くって、すっごく腕白で、女の子なのに電車とか車とか好きで、最近は仮面ライダーとか真剣に見てるんですよぉ、他の幼稚園の女の子たちとちょっと違ってて、きっと夫の方に似たんでしょうね、」桜井さんは優しい顔で話した。「國丸さんはご結婚されていないんですか?」
「いいえ、」ユキコはユウリからすればぞっとするほど優しい顔で首を横に振った。「今のところ予定はありませんね」
「彼氏とかは?」
「いいえ、彼氏なんて、そんな、」ユキコは口元で小さく笑う。「いませんよぉ」
「でも國丸さん、お綺麗ですから、モテるでしょう?」
「そうですね、」ユキコは言ってチラリとユウリを流し見た。「お相手してくれる方なら沢山いるんですけれど、やっぱり国籍を変えてまで一緒になろうって思える人にはまだ出会えなくって、なかなか難しいですよね、決断って」
「え?」桜井さんは首を捻る。「国籍って、その、どういうことですか?」
「どういうことも何も、私、レズビアンなんです、」ユキコは歯切れよく言った。「まだ政府は同性婚を認めていないでしょう? だから正式に結婚するには政府を変えなくてはいけませんよね、でもまあ、運命の二人が出会って愛し合い、そして永遠を誓えば政府の認可なんて、んふふっ、どうでもいいことですけれどね」
「……そ、そうですね、」桜井さんの笑顔は少し、ひきつっていた。「その通りだと思いますよ、んふふっ」
ピピッとこのタイミングでユウリの脇に挟んだ体温計が鳴った。ユウリは自分の体温が平熱であることを確かめて、桜井さんに渡した。
「ありがと、うん、問題ないわね、」桜井さんは体温計を受け取り、そして早口で言った。「さっき鎮痛剤を打っておいたからしばらくは痛まないと思うけど、また痛くなったら我慢しないで呼ぶのよ、分かったわね、それじゃあまた、お昼に来るから」
桜井さんはユキコを無表情で一瞥、そそくさと逃げるようにユウリの病室から出て行った。
ユキコは頬杖付いて、桜井さんが出て行った扉を見つめながら言った。「子持ちのストレートを口説くのは初めてかも」
「ユキコ、おい、ユキコ、」ユウリはまだ少し微睡む目でユキコのことを睨んだ。「それはさすがに、駄目だと思う」
「あら、」ユキコは指先を広げ、綺麗に色が塗られた爪を見ながら言う。「ユウリだって、彼女のこと、ちょっと狙ってたんじゃないの?」
「うっ、」ユウリは押し黙る。ユキコにはどうやら見抜かれていたようだ。ユウリが桜井さんのこと、ちょといいなって思ってたこと、完全に把握されていたみたい。っていうかきっと、好きな女のタイプが似てるんだと思う。血は争えないってこういうことでしょうか。「……さ、桜井さんには、家族があるんだよ、それをブチ壊しちゃ駄目だよ」
「もちろん壊さないようにやるつもりだけど」
「そ、そういう問題じゃなくって」
「そんなことより、ユウリ見てよ、」ユキコは身をこちらに乗り出すようにして自分の爪を見せてきた。「昨日、ネイルに行って来たの、綺麗でしょ?」
ユキコの急接近にユウリは少しドキリとする。たまに来る不意打ち。避けられないで喰らっちゃうんだ。ユキコの爪は確かに綺麗だった。芸術的な模様が施されていた。金と紅と黒の三色で構成された模様は、金魚の泳ぐ風景だった。ちょっとうらやましいって思う。
「うん、綺麗だね」ユウリはユキコから顔を背け、無関心を装って答える。
「ユウリも怪我が治ったら行く? こういうのしたことないでしょ?」
「別にいい」ユウリはアクエリアスで喉を潤した。
「そっか」ユキコはユウリから身を離しパイプ椅子に足を組み座り書店のビニル袋から週刊誌を取り出し読み始めた。
「今日もずっといるつもり?」ユウリは枕元に置いていた天体史の概説書をお腹の上で開きながら聞く。
「ええ」ユキコは視線を週刊誌に落としたまま言う。
「別にいいのに」
「そんなわけにはいかないわよ、私はユウリの保護者だから、あなたが入院しているんだから、傍にいなくっちゃ」
ユウリの保護者。ユキコは何かにつけて、それを理由にしてユウリの傍に居続けている。ユキコがユウリの保護者であることは紛れもない事実だった。両親はユウリが中学生になった春に離婚した。二年と四ヶ月前くらい。親権は父に託されたが、ユウリは父が大嫌いだった。だからユウリは父の名義で借りたマンションに一人で暮らすようになった。でもユウリはまだ中学生。大人になるまでは保護者の存在が必要だから叔母のユキコがその役目を負うことになった。父の妹、叔母であるユキコがユウリの保護者っていうのは國丸一族の会同で決められたことのようだ。小さな頃、ユウリはユキコに懐いていたし、今でも他の親戚たちに比べればユキコのことは嫌いではなかった。とにかく、保護者に任命されてからユキコはユウリに頻繁に会いに来るようになった。干渉してくるようになった。ユキコはユウリに対して、母の顔もするし、姉の顔もするし、当然ながら叔母の顔もする。ただ、そんな顔をされてもユウリにとってユキコは結局他人なのだ。家族じゃない。恋人でもない。微妙なんだ。
ユキコはユウリにとって微妙な存在。
そして微妙な存在の女の顔はユウリにそっくりで。
奇妙。
気味が悪いくらい、よく似ている。
顔だけじゃなくって、それ以外も色々。
色々あるんだ。
嫌なくらい、共通項が。
だから。
それが多分、ユウリがユキコのことを持て余している理由。
距離を測り兼ねている理由なんだと思う。
天体史の概説書の内容は頭に入らない。脳ミソはすっとぼんやりとしている。煙草を吸いたいと思った。病院だからもちろん無理だけど。いや、その前に何か食べたいと思った。
そう思ってちらりとユキコの方を見たら目がバッチリと合ってしまった。
逸らせないくらい完璧に焦点があっているんです。
「何か食べる?」
ユキコはそしていつだって、ユウリの心なんて全部分かってるって感じに装うんだ。「あ、ドーナツが食べたいんだね」
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