第9話 異郷への道#3
飛行資格のはく奪と市ヶ谷への転属を言い渡されてからの数週間をどのように過ごしたのか、あいまいな記憶しか幡谷には残っていなかった。
おぼろげに覚えているのは、ロッカールームで私物を整理している時、グアムでもらった「ラプターキラー」のステッカーの予備を未練がましく鞄に入れたことくらいだ。ヘルメットにも「ラプターキラー」と「フラッグ」のステッカーが貼られていたが、これは官給品なので持ちだすことはできない。整備隊から借りたシール落としで自分の痕跡をしっかり落とした後、上司の木下二佐にヘルメットや飛行服を返却した。三沢基地で過ごす最後の日に、ピーコングら同僚が市内の居酒屋で送迎会を開いた。落ち込んだ幡谷を励まそうと仲間たちがかなり会を盛り上げてくれていたのは覚えているが、自分を失っていた幡谷は木下二佐が奮発して注文した大間のマグロの舟盛にも、グラス一杯のビールにもほとんど手をつけられなかった。
雪解けが始まった頃、幡谷は青森の隊舎を引き払い、東京都の市ヶ谷にある防衛省の宿舎に移った。東京は青森よりもずっと暖かく、溶けた雪と泥の混じった汚れた道路も、北国特有の太陽の見えない冬の空もなかった。道路は綺麗だし、空も青い。市ヶ谷の防衛省にはいわゆる防衛官僚の背広組や様々な民間の業者やマスコミ関係者も頻繁に出入りをしており、自衛官や米軍関係者ばかりが目立つ三沢基地とは雰囲気がずいぶんと違った。
多くの幹部自衛官にとって、防衛大臣や制服組のトップである統合幕僚長などもいる市ヶ谷で勤務することは順調な出世の階段を登っていることを意味するのだが、パイロットとして空を飛ぶことにしか興味のない幡谷にとってはどうでいいことだった。
市ヶ谷に移ってから一ヶ月ほど、連日のように航空幕僚監部の職員から諮問を受けた。時には内閣府の情報セキュリティ担当者も同席することもあり、自分のしでかしてしまったミスの大きさを痛感した。幸いなことに、誰も幡谷が積極的に外国に情報を売ったとは考えておらず、幡谷は不運な被害者として扱われていた。市ヶ谷でも給料は出るし、独房に入れられるようなこともなく定時が過ぎれば街に飲みに行くことだってできた。幡谷への諮問の主な目的は、中国のスパイの手口の調査や、今後の情報セキュリティ対策のための聞き取り調査だった。
幡谷の嫌疑はおおむね晴れていたが、だからといって最新鋭機の情報を他国に漏らした人間を再びパイロットにするほど自衛隊も甘くはなく、次の市ヶ谷の勤務先として示されたのは、防衛省人事教育局人材育成課援護企画室という退職する自衛官に新しい就職先を紹介する部署だった。もちろん、自衛官の就職のサポートは重要で、多くの隊員にとっては生活やその後の人生にも関わる重要な仕事だ。しかし、大空を翔る戦士であった幡谷にとって、デスクワークと民間企業回り、そして退職予定の自衛官との面談は少しも心が躍るところがなかった。制服を脱いでスーツに身を包み、ビジネスバッグに退役自衛官の履歴書が入ったファイルを入れ、東京都内にある様々な会社を訪れた。メカに強い戦闘機の整備員を自動車工場に、格闘技に優れた警備隊の隊員を警備会社に、二佐で退職する自衛官は指揮経験が豊富ということで中規模のメーカーの部長職に推薦するなどした。
幡谷はこの仕事が意義のある仕事だとは理解していたが、自分が動物園の檻に入れられた鷹のように感じられた。もう空を飛べない、その絶望感は仕事のちょっとした達成感で覆せるようなものではなかった。
幡谷の唯一の楽しみは、市ヶ谷の近くにあった飛行機模型の店で買った百分の一スケールのF-2モデルを眺めること、時々防衛省のビルの屋上に降りてくるCH-47輸送ヘリコプターのエンジン音を聞くこと、そしてぴったり定時に仕事を上り、市ヶ谷近くにあるダイナーで酒を飲むことくらいだった。
六時少し前から、幡谷は薄暗い店内の片隅でビールを飲む。銘柄はバドワイザー。どこにでもある有名なアメリカン・ビールだが、幡谷にとってはアメリカ空軍でF-16の訓練を受けた時によく飲んだ、そしてグアムでも仲間たちと乾杯し合った思い出の銘柄だった。しかし、同じビールのはずなのにグアムで飲んだものとは味が全く違う。ジョッキが小さいからか、あるいは日本の湿った空気が関係しているのか。あるいは空を飛ぶ資格も、一緒に飛ぶ仲間もいなくなったことが味覚にも影響を与えていたのかもしれない。
「未練がましいな。いっそ、民間のパイロットにでもなるか」
幡谷はフライドポテトをつまみにしながら、近所の書店で購入した「パイロットになるには」という本のページをめくる。
「貯金はあるし、英語も話せる……。アメリカでパイロットの資格を取りなおして、グアムかハワイで日本人向けの遊覧飛行でもするか」
アメリカには趣味で飛行機を操縦する文化があり、中には第二次世界大戦中の戦闘機や朝鮮戦争時のジェット戦闘機を個人で所有している猛者もいる。アメリカでならもう一度戦闘機に乗れるかもしれない。
「エアショーで九十七式艦攻が飛んでるって話だ。そういう仕事にありつければな」
九十七式艦上攻撃機は太平洋戦争中に日本軍が使用した航空機だ。幡谷は祖父に一度も会ったことはなかったが、残された記録から九十七式艦攻のパイロットだったことは知っている。アメリカ軍の艦隊に攻撃をしかけ、未帰還となった。
幡谷が本にはアメリカのフライトスクールへの入学方法や費用、実際にアメリカでパイロットになった人々の体験談、そして学生ビザや就労ビザの取り方などが書かれていた。
「ビザか……」
その単語を見て、幡谷の気が重くなる。
自衛隊は米軍と様々な情報を共有しており、中には情報保全に関わるものもある。もしスパイ行為した疑いがある幡谷の個人情報が米軍に渡っていた場合、幡谷がアメリカの就労ビザを取れる可能性はかなり低くなる。
「くそっ」
つくづく、幡谷は佐藤の色香に惑わされた自分が嫌になった。
日本では民間の航空産業はそれほど盛んではない。ジェット機を飛ばすのなら金持ち向けのプライベートジェットのパイロットくらいしか当てはなく、しかもスパイ容疑のかかった幡谷がセレブ向けのパイロットになれる可能性はやはり低そうだ。
「いっそ傭兵にでもなるか。どこかにエリア88みたいなところがあればな」
「それも悪くないですね」
独り言に相槌を打たれ、幡谷は動揺し、手にしていたビールのジョッキを落としそうになった。揺れるビールの水面がジョッキから溢れないことを確認した後、幡谷はゆっくりと話しかけてきた男の方に振り向いた。そこに立っていたのは五十代くらいの男性。オーダーメードらしい体にフィットしたスーツ、オールバックにした髪、縁の濃い眼鏡の奥には鋭い眼光。自衛隊員とは違うが、企業戦士独特の迫力を醸し出していた。
「突然話しかけてしまって申し訳ない。私は小瀬貴司という。隣に座っていいかな」
小瀬と名乗った男は幡谷の許可を待たずカウンター席についた。その自信にあふれた動作に、幡谷は心当たりをつけた。
「商社の人?」
日本の商社、特に大手と呼ばれる企業はポケットティッシュからミサイルまで、犬小屋から原子力発電所まで、あらゆるものを扱っている。人のいい営業もいるが、中には目の前の男の様に日本刀のような男がいる。ある商社の人間は、中東で革命が起きた時、救援に向かえない日本政府の代わりに別の国を動かして邦人救助を行ったこともある。国ではなく、一企業の人間がだ。この小瀬という男も、程度の差はあれそういったやり手の様に見えた。なにより、戦士としての幡谷の勘にピンと警戒させる何かがあった。まあ、佐藤麗奈の色じかにはあっさりと騙されたので当てにはならないが。
「残念だが、外れだ」
小瀬は幡谷と同じビールを二つ頼むと、一つを自分の前に、もう一つをまだ中身が残っている幡谷のジョッキの横に置いた。
「私は民間軍事会社ブランブルの責任者だ。幡谷翔、君をスカウトしに来た。私の会社でパイロットをしてみないか?」
小瀬と名乗った男は表情を変えずに、値踏みするように幡谷の目をじっと見つめた。その眼圧に耐えられず、幡谷は目を逸らしそうになるが気合で耐える。しばらくして、小瀬が小さく笑った。
「もちろん、セスナやビーチみたいな小型の民間機じゃない。ファイター、それも第四世代機のF-16を用意するつもりだ。どうだ?」
「それは何かのジョークですか」
幡谷は読んでいた雑誌を閉じ、いつでも店を出て行ける様に椅子に浅く座り直した。
「君は凄腕のパイロットだと聞いている。不幸な出来事があってパイロット資格をはく奪されたとも。君の腕をこのまま腐らせるのは惜しい、そう思わないか」
「……どこで俺のことを?」
「第3飛行隊の木下とは大学の同期でね。彼から聞いたんだ」
「木下飛行隊長が?」
「そうだ」
そういうと、小瀬はスーツのポケットからスマートフォンを取り出すと、その画面を幡谷に見せた。そこには青森にある自衛官の行きつけの居酒屋、幡谷の送別会もそこで行われた、で並んで酒を飲む木下二佐とスーツを着崩した小瀬が写っていた。壁には幡谷が送別会で目にした冬のマグロメニューが掛けられているのでごく最近撮られたものだろう。
「またいつかフラッグと飛びたい、木下はそういっていた」
幡谷は小瀬という男を信用してはいなかった。そもそもグアムで中国のスパイに引っかかったばかりだ。木下とのツーショット写真は合成で作れるし、パイロット資格をはく奪されたことも調べればすぐにわかる。スパイをするとき、大きな失敗や大きな成功をした後の精神のバランスが崩れた相手に付け入るのが常とう手段だと幡谷を諮問した情報部の人間がいっていた。今の幡谷のメンタルは非常に脆くなっていることは自分でも自覚していたし、それを他国の人間にまた接触され利用される危険性があることも承知していた。
戦闘機に乗れるなら手段は選ばないつもりだったが、それが人民解放軍空軍のスカウトなら絶対にイエスとはいわない、幡谷はそう心に誓っていた。誓わなければ、流されてしまいそうなくらい、戦闘機パイロットに執着があった。
小瀬という男の言葉は罠かもしれない。そう思ってもまた空を、戦闘機に乗れると聞けば聞き流すわけにはいかなかった。
「俺があなたの会社に入ったとして、何をすればいいのですか? 訓練支援ですか」
「ほう、興味が湧いてきたか」
世界には実際にジェット戦闘機を保有する会社がある。その会社は電子戦や空対空戦闘などの訓練を、正規の空軍に提供するサービスを行っており、時々日本にも来ていた。小瀬という男が経営するという会社も同じように自衛隊の訓練相手を務める会社なのかもしれない。そのような会社は聞いたことは無かったが、あっても不思議ではなかった。
「残念だが君にしてもらうのは実戦だ。実弾をもって敵対勢力と戦ってもらう。敵機を撃墜すればボーナス、敵に撃墜されれば死亡手当がでる」
「はっ、冗談を」
小瀬の言葉を幡谷は鼻で笑った。
「そんな漫画みたいな仕事がこの世界にあるんですか? F-16を装備した傭兵団なんて聞いたこともない。第一、誰と戦うんですか。テロリストですか?」
「そこは答えられん。機密情報だからなら。ただ、この地球に存在するいかなる国家でもないとはいっておこう。もちろん日本や中国、アメリカのために戦うことでもしない。我々の雇い主のためだけに戦うんだ」
「でもそれが誰かは?」
「いえない。契約をして現地に行けばわかるさ」
「そんな怪しい話にイエスといえると思いますか?」
「君は戦闘機に乗りたいのだろ? それに、もし入社するなら、手付金として五百万、以後、毎月百万円を給料として支払おう。自衛隊より給料はいいぞ」
小瀬は鞄の中から大きな封筒を出すと、他の客から見えないようにそっと中を幡谷に見せた。そこには茶色い札束が五つ入っていた。小瀬は封筒を閉じると、それを幡谷の前に差し出した。
「これで私の本気は伝わったかな?」
怪し過ぎる話だったが、幡谷には小瀬という男がふざけているようにも思えなかった。
「……ファイターに乗れるのか?」
「もちろん」
「実戦?」
「そうだ。わが社は今年で設立三年目、その間の殉職者は二十四名で内パイロットは六名だ。最近、敵対勢力が悪くない戦闘機を投入してきてな、この三ヶ月で四名も殉職者が出た。いずれも空中戦の結果だ。だから腕のいいパイロットが必要なんだ。どうかな、フラッグ君?」
幡谷は目の前の封筒と、そして小瀬という男の言葉を頭の中で整理していた。傭兵となって空で戦う。それは戦闘機乗りであり続ける最後の希望に思えた。
日本人として、また航空自衛隊員としての責務を感じてはいる。自衛隊で身に着けた技術を、ピーコングやコントたちと切磋琢磨して磨いた技術を、国を守るためではなく金儲けの為に使うことは躊躇された。だが、それよりも個人としてパイロットでありたいといく気持ちの方が勝った。命の危険はこの場合些細な問題だ。実弾を打ち合う空中戦こそないものの、いつ紛争に発達するかわからないスクランブルでの出撃は命がけだったし、自衛隊でも訓練や任務中に殉職するパイロットは数年に一度は必ず出る。パイロット、特に戦闘機パイロットにとって死は身近なものだった。
幡谷は断る理由を見つけられなかった。民間軍事会社、傭兵、アウトロー、裏切り者、どういわれようともう一度戦闘機で空を飛べるなら返事は決まっていた。
「わかりました。その話、詳しく聞かせてください」
「よい返事を聞けて嬉しいよ。では場所を変えようか。これからする話にアルコールは不要だ」
小瀬は一口もつけていないビールを残したまま颯爽と席を立った。幡谷は少しアルコールの入った身体を重たげに動かしながら、ダイナーを出るスーツ姿の後を追った。
それから二ヶ月後、幡谷翔「フラッグ」は航空自衛隊を退職し、民間軍事会社ブランブルの契約社員となった。契約期間は一年間。勤務地は機密事項。家族には簡単に別れを告げ、給料か死亡手当の振り込まれる銀行口座は両親に渡してきた。
パスポートを手にした幡谷は、小瀬から郵送されてきた香港行きのチケットを手に羽田空港の国際線ターミナルに立っていた。手にしたボストンバックには数枚の着替え、小瀬から事前資料として受け取ったF-16となぜかMiG-21の操縦マニュアル、市ヶ谷で買ったF-2の模型、そして三沢基地の整備隊からもらったラプターキラーのステッカーが入っている。
これからどこに行くのか、幡谷は知らない。もしかしたらもう二度と日本には戻ってこられないかもしれない。それでも、手荷物検査を終え出国手続きをする幡谷の気持ちは軽かった。
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