〈4.4〉人形遣い
そこは下町だった。確かに下町だったのだ。
だが、風情などというものは残っていない。すべての建物はめちゃめちゃに壊され、これから大手銀行のミュージアム兼ショッピングモールとなるらしい更地だった。
そのピンポイント爆撃後のような光景の中で、一軒だけ無事を誇り、下町の風情を孤独に主張する家がある。
俺と信隆は少し離れた坂の上から、その古ぼけた家を眺めていた。
「ハガネはん、わては確固たる信念ちゅうやつは邪魔なもんやと思っとるんですわ。なんでもそうでっしゃろ。ハガネはんは“コート”に詳しいと聞きましてん、機械にも遊びは必要でんな?」
そのとおりだ。そしてそれは、眼下の家たちをブロックごとシロアリのように破壊していく“コートローダー”たちにも言える。無数の“コートローダー”たちの動きは一見するとランダムだが、しかし俺にはわからないだけで効率的なアルゴリズムにのっとって解体作業を進めているのだろう。
「ときには柔軟な考えも必要や。折れどきを間違えると、大変な目に遭いまっせ」
信隆の腫れぼったい目は一軒だけ残っている古民家を見て、細まっていた。
どさ、と重たいものの落ちる音がして、俺たちは振り返った。
「おい、おめえ! また何しに来やがった!」
買い物帰りの、朽木のような身体の老人だった。
信隆に詰め寄ろうとした老人のあいだに、俺はボディガードとして割って入る。
「なんだこの野郎! 引っ込んでろ!」
老人が乱暴に突き出してきた手を振り払う。力はそれほど入れなかったのだが、足腰が弱いのかそれだけで老人は後ろにひっくり返ってしまった。少し申し訳なく思った。
「……クソ。何回来たってな、あの家も土地も売らねえからな。帰れ! 守銭奴が!」
「カバチ抜かさんといてほしいですなあ、山上さん。あんたのわがまま一つで、きれいな街が作られへんのやないの」
「何がきれいな街――」
老人の台詞は、轟音によってかき消された。
俺はあわてて身を滑らせ、脅威となりうるその音源から信隆を守ろうとした。
だが、それは脅威ではなかった。
二メートル半はある“コートローダー”が、老人の家に倒れ込んだのだった。ブロック塀を突き崩し、玄関側から壁を破壊して家の中に上半身を突っ込ませていた。
「あちゃー、事故でんな」
あ、あ、あ、と放心していた老人は、その信隆の言葉を聞くと、怒髪天を突いた。
「何を言っとる貴様! お前がやらせたんだろうが!」
「わてとあの工事は無関係でっせ。まあ、あれで保険金と賠償金がっぽり頂いたらよろしいおまっしゃろ。もちろんわての借金にはそれじゃ足らんでしょうから、抵当に入ってるあの土地も貰いますがな」
それで老人は返す言葉をなくしたようだった。
流す涙もないほど絶望し、膝をついた。心を失った顔だった。
「言うたでしょう、ハガネはん」と信隆は俺に耳打ちした。「遊びがないとえらいこっちゃって。あんな風にぽっきり折れまっからな」
ぽっきり折れた……それがあの老人の家のことなのか、心のことなのかはわからなかった。
信隆のボディガード代は一週間で一千万。
この男の命の価値が一千万もあるとは思えなかった。
雪の母親も死に追いやったという。もし俺がもっと強くて雪と離れるような羽目になっていなければ、儀式を交わす前にこんな男は門前払い食らわせていたはずだった。
栓のないことだ。
時間は戻らない。
雪も“彼女”も帰ってこない。
そのあと、銀行屋との接待で銀座に向かった信隆に帯同し、ようやくガレージハウスに戻ってきた頃には夜もかなり更けていた。
道路の冷たい空気と、ぽつりぽつりとしかない街灯の明かりで余計にさみしさを感じる。
人影に気づき、俺は足を止めた。
ガレージのシャッターの前に、一人の女の子が立っている。六歳、七歳くらいだろうか。白人で、ファーのついたコートに大きなクマのぬいぐるみを背負っている。
まるで根を張ったみたいに立つ少女の両腕には、マッツが抱えられていた。
「……なんでマッツを連れてる?」
俺を見たとたん、マッツは少女の腕から逃げ出し、たたとん、と駆け上がって俺の首にマフラーみたいにしてしがみついた。マッツが怯えるなど珍しい。しかも、さらに俺を頼るなんてのはもっと珍しい。
「お前、何者だ?」
「久しぶりだな……この国ではウマシロ・ハガネと名乗っているらしいな。きちんと神に祈ってるか?」
無表情な少女の口から、見た目とは不釣り合いな硬いロシア語が流れ出した。
ばっ、と俺はアタッシュケースを掲げた。
「……“神父”……ラヴロフなのか?」
「プライベートで引き受けた殺しだったが、お前がボディガードだったなんて嬉しい誤算だよ。やっと
可愛らしい高い声で少女は喋り続ける。人間レコーダー。この人形ぶりを見ると、可哀想にだいぶラヴロフに仕込まれたようだ。
「今回のお前らのターゲットは神部雪か」
「これを見ろ」答えるはずがない。少女は覚えさせられた台詞をただ喋っているだけだ。
少女が差し出したのは、一葉の写真だった。
汚らしいコンクリートの床でぐったりとした雪が、今日の朝刊と一緒に写っている。
誘拐されたのだ。考えるよりも先に、俺の手はその写真を奪い取っていた。
穴が開くほど見つめる。外傷はない。薬か何かで眠らされているのか。表情に苦痛はない。場所はどこか廃屋。クソ、暗すぎて場所が特定できるものが見えない。
俺は写真が折れるほど握りしめた。口が開き、無意味だとわかっているのに写真の中の雪に声をかけそうになったが、白い息が吐き出されただけだった。
少女の口が、都内の住所を告げた。
「ここに午前二時までに来い。さもなければ彼女の安全は保証しない。もちろん“パーシヴァル”を持ってきても構わないぞ。最後に追伸だ……」
そう言って少しの沈黙のあと、少女はぎこちない笑みを浮かべた。釣り糸で引っ張ったような笑顔だった。
苛立ちよりも、痛々しさの方が勝った。思わず声をかけていた。
「あいつの手口を俺は知ってる。お前の恐怖はわかる。そうしなければならない、と思いこんでいるのも。恐れるな。あいつの言いなりになってたら、いつかぶっ壊れる」
少女は何も言わなかった。
ただ身をひるがえして歩き出し、闇の向こうへと消えていった。
止めることはできなかった。彼女が帰らなければ、ラヴロフは雪を殺す。
「クソ!」
俺はシャッターを蹴りつけた。近所迷惑な音が鳴り、肩に乗っていたマッツがぎにゃと叫んで、俺のコートに爪を立てた。
マッツがいるということは、ミツグも敗れたということだ。あいつは無事なのか。まさかミツグに限って死んだなんてことはない。
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