4 フェンレル・フォア・ゴースト

〈4.1〉依頼終了


 すすくの護衛を引き受けてから一ヶ月が経ち、約束の時が訪れた。


 俺は神部かんべ家に呼び出されて、神部凍星とうせいからボディガードの終了を告げられた。


 謹んで了解し、俺は家を辞した。




 雪が俺の事務所の扉を猛牛のごとく蹴り開けたとき、俺は自分の右手からどくどくと血を流していた。


「ハガネ! 凍星さんに聞いたけど、終わりってどういう――」

 こと……と雪の言葉は尻すぼみに消えていった。


 俺は斬った右の手のひらで、目の前の男と手を握り交わしていた。

 その男の手にも、薄い切り傷がある。


「なんで、そいつがいるの……」


 男は肉太りした六十代絡みの小男で、薄くなった頭髪を隠そうともせず、むしろそれこそが自らの生きた証なのだと見せつけるような厚かましさがあった。贅肉で丸々太った身体と常に崩れることのないえびす顔は、見る者に陶器で作った福の神を思い出させる。親しみを与えるよう完璧に調整された外見と、裏腹に命の灯っていない冷たい目。


 名前は信隆しんりゅうがんという。闇金とは違う、いわゆる非合法な金貸しバンカーかつ、木っ端ながらも黒幕屋フィクサーで、俺の新しい依頼人だった。


「なにしてんのハガネ……なんで、そいつとしてんの……」


「なんでっか、ハガネはん。こないなと約束がおますなら、先にゆってくだはればええのに。そしたら、わてらかてさっさとおいとましましてん」


 数人の側近を従え、信隆はめちゃくちゃな大阪弁をしゃべっていた。わざと大阪出身に見せかけようとしているか、落語の聞きすぎかどっちかだろう。もう四年も日本にいて、日本語に通じた俺でも聞き取れないことがある。


「ねえ、答えてよ。なんでこいつがここにいるの? なんでそいつと手を握ってるの!」


 俺と信隆が向かい合うソファーに、雪はショートカットの髪を振りかざしながらずんずん近づいてきて、ついに俺に詰め寄った。


!」


 そんな、と信隆は分厚い手のひらを振った。


「心外でっせ。わては悪どいこともぎょーさんやったけど、人を殺したことはおまへん」


「都合のいいことを抜かすなよ。あんたが直接手を下さなくても、これまで自分の邪魔になる人間は排除してきたはずだ」


「かないまへんな」ぴしゃり、と信隆は頭を叩いた。


「なにをぺちゃくちゃ喋ってんの! こいつのせいで……こいつの取り立てのせいで、お母さんは身体を壊してそれで――」


「やめろ」


 俺がそう言うと、雪は殴りつけられたように固まった。


「お前のボディガードが終わった以上、俺だって食わなきゃならない。どんな仕事を選ぼうが、お前に文句を言われる筋合いはない」


「そんな……だって言ったじゃん! 何があっても私を守るって!」


 その直情的な台詞……かつて俺が言った台詞を聞いて、信隆はおやまあ、と茶化してみせた。雪は金貸しを睨みつけた。黙っていろなどという、生易しい意味はその視線に込められていない。殺意だった。


「俺がボディガードを始めてから、お前の命に危険が及んだ状況が三度あった」


「……東都大学と、この前のガレージキットのときのこと?」


「それにアンジュの件だ。馬鹿げた騒動だったが、命の危険があったことに変わりはない」


「それが何? 全部、ハガネが守ってくれたからいいじゃん」


「よくないんだ……」


 俺は絞り出すように言った。


「そのうちの二度は、俺が原因だ。俺の無軌道な生き方と自制心のなさが、お前の危険を招いていた」


 口に出すと、耐えられなかった。


 絶対に守ると言った俺自身が、その舌の根が乾かぬうちから自分の欲を抑えきれずに雪を自分のトラブルに巻き込んだ。もう一度立ち上がろうとしたその足で、危険な底なし沼に雪を連れて突っ込んでいった。


「決定的なのがこの前の……カスタム“アケロン”の奴だ。これ以上、お前を深入りさせることはできない」


「そう、なんだったのあれも。教えてくれるって言ったじゃん!」


「教えられない」


「なにそれ、ひどくない…………じゃあ、私はどうすればいいの。ファントムの予告は過ぎたかもしんないよ。でも、あれは! 東都大学で襲ってきたのはどうするの! 一体誰が私を守るの!?」


「……神部凍星から聞いた。新しいボディガードを雇うと。そいつに頼め」


「はあ? そんな人――」


「もうこのガレージハウスには来るな」


 え……と雪は漏らした。何か大事なものを目の前で叩き壊されたような、愕然とした表情を浮かべていた。


「俺とお前はもう他人だ。お前はもう……俺の護衛対象パッケージじゃない」


 冷え切った沈黙が流れた。


「最低!」


 心中にあふれただろう言葉の洪水から、そのたった一言だけなんとか口から押し出すと、雪は身をひるがえして事務所を飛び出していった。


 ばたん、とドアが閉まった。


 その音は無情で、感傷的なエンドロールからは程遠かった。その一瞬さこそが、俺と雪の別れを永遠のものに思わせた。



 夜更け、俺は一階のガレージにいた。


 明日の朝から信隆の護衛が始まるというのに、目が冴えてしょうがなかった。外を暗く包む夜の闇がガレージの端から侵食してきていた。


 天井の豆電球の明かりの下で、今ガレージにある唯一の“コートアーマー”と俺は向き合っている。


 “ナイトライダー”はほぼ完成に近づいていた。


 ベースはブロブディン社の“アシッド”。人工筋肉はオーバーホールして、最新の浸液式に変えてある。全身に取りつけた装甲はベルギーから密輸入したタングステン合金製の電磁装甲。ヘルメットは戦闘ヘリ用のヘッドアップディスプレイを流用、改造して作った。


 オペレーティングシステムはもちろん、業界シェア八十パーセントを誇る神部凍星の開発した“emeth”。


 俺の決断は正しかったのか、今でも不安に思う。


 雪を別のボディガードに託してよかったのか。


 だがたった一人で守る俺のやり方より、チームを組むふつうのボディガードの方が今の雪の状況に適しているはずだ。殺し屋を雇うこともいとわない、正体不明の敵対者(ファントムは論外)。それに比べて俺の優位性は、第七世代“コートアーマー”である“パーシヴァル”の存在しかない。


 それすらも、葬送小隊フェンレルに比べれば……


 背筋におぞけが走った。


 葬送小隊フェンレル……世界で暗躍する傭兵チーム。俺がかつて所属していた……いや、殺し屋集団。テロリストたち。公共のパブリック・エネミー。好きなように呼べばいい。それが反社会集団の呼び名であれば、だいたいあっている。


 奴らが裏切り者の俺を、“彼女”を連れ出して逃亡した俺を見つけたら、一体どうするか。その結果をすでに俺は知っている。血で血を洗う闘争。死体の山。


 そして特別な人の死。


 奴らはそれをするだけの力を持っている。


 第七世代“コートアーマー”。


 葬送小隊フェンレルの保有しているそいつらが大挙してきたら、もはや逃げるしかない。たとえ化物級の“コート”が俺に一機あっても、相手が大量の化物であれば食い散らかされるだけだ。また奴らの目の届かないところまで行方をくらませるしかない。もうこんな大都市にもいられなくなるだろう。次の行く先は東南アジアか、南米か……


 がん、と音がした。


 俺の拳が“ナイトライダー”を叩いていた。


 それでも、奴らが雪に目をつけることだけは絶対に避けなくてはならない。


 死ぬときは一人。死者数ボディカウントも俺一人。


 命に代えても護衛対象パッケージを守るのが、俺の仕事だ。


 それに、これは結局俺の不始末なのだから、当然だろう。

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