〈3.10〉スケイダ・スケープゴート



 未玖が目を覚ますと、金髪の男の顔がまず視界に飛び込んできた。


 一瞬前まで雨に打たれていたかのように、脂汗でぐっしょりと濡れた顔面。


 血走った目、犬の如くあえぐ口、唇を伝う鼻血。


 だが、もっとも未玖を恐怖させたのはその体躯だった。


 二メートル近い巨体に、まるで切って貼ったようにその顔面がついている。


 悲鳴……上がらなかった。かすれた息が漏れただけだった。身体に力が入らない。


 そしてそれはよく見ると、ヘルメットを外した“コートアーマー”だった。灰色と黒と茶色がてんでバラバラに配置された斑犬ぶちいぬのような塗装で、人工筋肉が剥き出しになった部分と異様に厚い装甲の部分が入り混じった、おぞましい体型をしていた。


 それは巨大な魔犬である。地獄の業火に焼かれ、身体が半分溶けた魔犬が立ち上がり、未玖に覆いかぶさっていた。


「お前はなぜ知っている?」


 男は未玖に問いかける。恨みのこもった声だった。


 なんのことかわからない。未玖は混乱した頭で、思い出そうとした。


 雪に呼ばれて体育館に行こうとした。最後のチャンスのつもりで。まあ何を言われても許すつもりは毛頭なかったけど。でも、その途中で意識が途絶えて……


 さらわれたのだ。


 未玖は慄然とした。


 今、自分の命を握っているのはこの男で、誰も助けにはこない。


「なぜ知っている、“マッツ”?」


 亡霊のように男は繰り返した。


 “マッツ”?


「わ、私じゃない……あれは……」


「お前じゃない!」


 男はそう言うと、一転破顔した。声高らかに笑いだした。


「なら、誰だっていうんだ! 俺はしかと覚えてるぜ! お前があの場所にいたことを!」


「あれは……」


 神部雪だ。自分の姉だ。自分の家族をぶち壊した張本人だ。


 そう言おうとして、だけど口は動かなかった。


 恐怖からではなかった。言えば助かるかもしれないのだ。あんな女を犠牲にして、それで自分の身が助かるのならば、何も気に病むことはない。それに、もしかしたらこの男が雪をどこかにやってくれるのかもしれない。神部家はおろか誰の手も届かない、へ……


 それを想像すると、なおさら言葉が出てこなかった。


「言え、言ってみろ! 一体誰だっていうんだ?」


 男は明らかに楽しんでいる様子だった。未玖の悪あがきを見たがっていた。


「私は……」未玖は絶叫した。「私は! ……誰かを犠牲にしてまで幸せになんかなりたくない」


「なんの話だ? お前が“マッツ”ということでいいんだな? なら、訊きたいことがある」


 この“コート”をどこで知った? ――男は分厚い装甲の指で、自分の“コート”の胸をこつこつと叩いた。


「知らない……そんなの。私オタクじゃありませんから」


「それなら……ああ、こんな陳腐なこと言いたくないんだが……身体に訊くしかないな」


 男は“コート”のガントレットをぬっ、とのばした。その拳銃みたいに太い鋼鉄の指が、未玖の小さな指を器用につまんだ。


「こいつのベースはゼノマトック社の“アケロン”。指先だけで二百キロの力が出る。わかってくれたか? お前の指なんて風船みたいにパチン! だ。まずは親指から……次に人差し指。両手の指を全部つぶしたら、今度は足だ。つまり、お前は合計二十回もしゃべるチャンスがあることになる。心の広い男だよ、俺は」


 そう言って男は“コート”のフィンガーアクチュエーターにわずかずつ力を入れた。万力で締められたような激痛が、未玖の親指に走った。緩められることなく、均等にその強さはましていく。それは戦闘を想定された“コートアーマー”にしては異常に繊細な動きで、“コート”のスペックの高さと、男の腕のよさを示していたが、未玖にはどうでもよかった。


 ただ恐怖だけが頭を支配していた。


「早く話してくれよ。こんな陳腐なことはしたくない。どこで知ったんだ?」


「わ、わかりません……あなたが……何を言ってるのかわかりません……」


「ふざけるな!」


 男は激高し、未玖に二十回のチャンスを与えることをやめた。


 つまり、鋼鉄の手で未玖の首を絞め上げたのだった。


「あっ……ああ、うあああ……」


「言え、言え、言え! ふざけるな!」


 そのときだった。


 突如として差し込んだ光が、二人を照らした。


 扉が開かれた。男は手を離した。


 咳き込みながら、未玖は崩れ落ちる。


 ぼんやりとした視界で、外光を背負ったその人影を見る。


 教会に入ってきたのは、雪だった。

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